宿命めいて落ちて来る 2



 唐突に、身体が軽くなった気がした。
 霞んだ視界と朦朧とした意識が晴れる。身体がふわりと温かくなり、何だろうと視線を向けると座り込んだ床を鮮やかな炎が這っていた。予め燃えるべき場所を指定されているのように、床の上に私と黒竜を取り囲む図形――円陣を描いていく。
 そうするうちに、炎が膝を這い上がってきて私自身も炎上した。
 炎に焼かれているはずなのに、なぜか熱くはなかった。むしろ、母親に抱かれたときのように、生まれた子ヤギを抱き上げたときのように暖かい。私はひどく安らかな気分になって、同じく目の前で炎に包まれている黒竜の頭を抱き、頬を寄せた。
 何となくそれが許される気がしたし、許されなくともそうしたい気分だった。
 そうしたことで、人間など汚らわしいとこの竜に殺されるとしても、それはそれで良かった。

 『女神の定めた<契約>により、我々は共に新たな存在に変化する。この炎は、古い“殻”を焼き払うためのものだ』
 そう言って黒竜は、特に私の行動を咎めるでもなく、淡々と<契約>について説明した。<契約>に関わる事柄の中には私の知っていることもあれば、そうでないこともある。その一つ一つに相槌を打ちながら、ふと思いついた。
 (<契約>することで私は生き延びるけれど、あなたには何の利益があるの?)
 『この場から、解放される。――だが、お前には関わりのない話だ』

 その言葉を最後に、私からも黒竜からもさっと炎が引いていく。炎に包まれていた時間は長かった気もするのだが、部屋の隅でこちらを伺っている兵士たちの様子が変わらないところからして一瞬しか経っていないようだった。炎の中では共有することのできた温かな何かも炎と同時に去っていったようで、最早気安く触れることは許されない気がして、私は腕を解き黒竜から離れた。
 やがて炎が床の上からも消え失せたとき、私は口の中――舌の表面を灼く熱を感じた。その熱さと痛みに声を上げようとしたが、喉からは息しか漏れて来ない。口元を押さえて熱が去るのを待ってから、私は黒竜を見上げた。
 『――お前の代償は声か』
 言われて初めて、私は自分が話せなくなっていることに気付く。混乱しているところを黒竜に立つように命じられて、私は素直に従った。立ち上がって身体を見下ろすと、負っていたはずの無数の傷が完治しているのが分かった。見れば黒竜も同様であった。
 (どうして…)呆然としていると、
 『あの炎は古い“殻”を焼き払うためのものだと言っただろう』黒竜が応じる。
 (?――私の考えていることが分かるの?)
 『魂が融合したのだから、当然だろう。…お喋りはここを出てからだ。ここは窮屈な上に“奴”の魔力が澱んでいて不快だ』
 (“奴”って?)
 問いかけた私を無視して、黒竜は尾を持ち上げ無造作に背後の壁を打ち据えた。呆気なく崩れた壁の背後に、依然として街を焼いて燃え上がる炎とそれに炙られる夜空が見える。だが、街の更に先の森と空の境界線は、僅かに白み始めていた。
 夜明けだった。
 『お前はここに留まるつもりか?』
 不意にばさりと翼を広げた黒竜に問われる。置いて行かないで、と告げて私はその首にしがみついた。一瞬、呆れているとしか思えない間の後に、黒竜は無造作に首を上げることで私を背中に放り出した。


***


 一度は空に舞い上がった黒竜に、私は神殿付近の丘に降りて欲しいと言った。
 私と同じように連れてこられた娘たちを放って、一人逃げることはしたくない。黒竜の協力があれば兵士たちを追い散らせるだろうし、協力がなくとも舞い降りる黒竜の姿を見せて兵士たちを驚かせ、娘たちに逃げる機会をもたらせるかもしれないと思っての頼みだった。
 ひとしきり頼み込んで、最後に背から飛び降りようとしたところで、私はようやく了解を貰うことができた。


 黒竜は飛びながら滑らかな身のこなしで方向転換する。神殿の丘に引き返しながら眼下に広がる森を見下ろすと、森の中で何かが動いている様子が見えた。夜明けを迎えたとはいえ周囲はまだ暗く、その何かを発見できたのは偏に<契約>によって身体機能が向上しているからに違いなかった。
 (何かいる…馬と、人…?)
 『少なくとも街にいる奴らの増援ではないな。態々増援まで寄越すほど隣国もあからさまではないはずだ。恐らく救援に来たこの国の国境警備隊か何かだろう。――辺境の村の1つ2つは呉れてやっても、女神の神殿を壊されれば王都の貴族連中も黙ってはいまい』
 (警備隊は女の子たちを保護してくれるかしら?)
 村の1つ2つという言葉に思わず顔をしかめながら、黒竜に尋ねる。
 『さて、隊長にもよるだろうが。だが、いずれにせよ我々は降りるしかない。もう、この姿を保てそうにないからな。――それにしても、厄介なところへ降りることになったものだ』
 (保てないって何?厄介ってどう――うわっ!)
 がくんと荒っぽく黒竜が高度を下げる。私が口を「わ」の形に開いたままとき、着地した衝撃で私は草の上に投げ出された。着地直後で地面との距離が少なかったとはいえ、怪我をしなかったのは、恐らく<契約>で強化された身体と無意識に取った知らないはずの受身のおかげだ。
 起き上がった私が駆け寄ると、黒竜は炎に包まれていた。そればかりか、炎の中の竜の輪郭が急速に縮んでいく。シキと唇を動かした瞬間に炎は消え失せて、黒竜がいた場所に男が一人蹲っていた。男はゆっくりと顔を上げて赤い瞳を私に向けた。
 「お前は<契約>で思いの外多く魔力を奪ってくれたな。本性を維持する力すらなく、このような姿に化身するしかないとは」
 (あなた、黒竜?)
 「化身ではお前との繋がりが細くなる。こちらに伝えようと意識しなければ、お前の“声”は届かん」
 『あなたは、黒竜――シキ…?』
 言われたように意識して言葉を思い浮かべる。すると私の“声”を受け取ったらしい男は、そうだと言って頷いた。


 こうして、私は<契約者>となった。
 だが、偶然と必要性に迫られて結んだそれは、私が思った以上に(というか何も考えなどなかったが)大きな波紋を呼んだ。
 そのときになって、私はようやくシキの言った“厄介なところ”の意味を理解することになる。


***


 シキの隣に立って周囲を見回すと、多くの敵兵は逃げ去り、或いは国境警備隊の兵士と剣を交えているところだった。いずれにせよ、私が案じるまでもなく状況は収束しかけている様子である。街の火がかなり鎮火して薄暗くなったこの丘にも、国境警備兵の姿がちらほら見える。
 と、丘の麓から真っ直ぐにこちらへ向かってくる数頭の馬が見えた。
 『凄い勢いでこっちへ来るけど、どこへ行くのかしら?この先は森なのに…』
 「どこへ行くも何も、“ここ”しかないだろう」
 『…ここって何も無いように見えるけど、実は重要な場所なの?それとも私たちが敵だと思われてる?』
 「目的は場所ではなく、我々だ。敵と間違われるのならまだいいが、そうでないから厄介だな」
 敵と間違われて攻撃される以上に大変なことがあるのだろうか。少し疑問に思いながらも、私はシキを見上げる。
 『ここは国境警備隊に任せて、逃げた方がいい?』
 「騎馬の相手から逃げ切るほど足に自信があるなら止めはしない。だが、どうせそんな真似は不可能だ。大人しく迎えてやれ」
 シキの言葉に私は頷き、その場で国境警備隊の兵士の到着を待った。


 丘の麓から駆けて来たのは、国境警備隊の隊長とその部下だった。彼らは、シキが降り立ち人の姿に変わるところを目撃していたのだ。隊長は、私たちを王都へ招いて宮廷魔導士に引き合わせたいと告げる。隊長の言葉を聞いたシキは、ほら攻撃されるよりも厄介だとばかりに溜め息を吐いて見せた。
 『――あなたはこれからどうするの?』
 少し相談したいことがあるから、と隊長と距離を置いてから、私はシキに尋ねた。
 「どうするも何も、お前に付き合うだけだ。<契約>によって俺の心臓を持つお前は、いわば外部にある俺の弱点そのものだからな。自分の弱点を知りながら無防備に放置する者などいはしない。――お前こそ、どうするつもりだ?」
 『私は王都へ行ってもいいと思ってる。村もなくなってしまったし、王都には弟と妹がいるから。それに、何か仕事も見つかるかもしれないし…』
 「生活よりも先に自分の身を案じろ。人間どもにとっては伝説の<竜騎士>しか先例のない貴重な竜との<契約者>だ…王都へ行けばお前は間違いなく利用されるだろう」
 私は俯いて足下を見た。
 王都へ行ってどう利用されるか、私には予想もつかない。だが、王都へ行かなかったとして、どこでどのように生きていくべきか分からないのだ。どこへ行くべきかと途方に暮れるよりは、今示されている場所へ行ってそこで起こる困難を迎え撃つ方がいい。――そうでもしなけば、どこで生きればいいのか迷い続けたまま生を終えることになりそうな気がした。
 そう伝えると、シキは溜め息を吐いた。
 「無謀だな」
 『そうかもしれない。私は声が出ないから、代わりに隊長に伝えて欲しいの…この場にいる連れて来られた娘さんたちを、きちんと保護してくれるなら王都へ行きますって。善人ぶるわけじゃないけれど、どうせ王都で利用されるのなら利用料を払ってもらってもいいと思うの』
 「…俺はお前の伝令ではないのだがな」
 溜め息をついて、シキは私の言葉を隊長に伝えた。


***


 そのまま私たちは王都へ連れて行かれ、あっと言う間に<竜騎士>に任じられた。シキは竜でなく人の姿であったけれども、宮廷魔導士により私の舌の表面に刻まれた紋章が竜との<契約>の証明として判断されたのである。
 こうして、剣の持ち方も知らぬままに私は、隣国との戦争や国内の魔物討伐に駆り出される日々を送るようになった。シキとの記憶の共有によって、素人とはいえ全く戦えないわけではない私だが、兵士としては未熟である。それでも、誰も気にせず私、というよりは<竜騎士>が戦場にいるというだけでも士気が上がる。戦場でその様子を目の当たりにするうちに、私はシキの言った“利用”という言葉の意味を知った気がした。


 半ば自ら選び、半ば偶然に運ばれた道ではあるが、戦いの中に身を置くことは、実は苦痛だった。
 薬師として癒してきたのと同じ手で、騎士として傷つける。そのあまりの変わり様に心が追いつかず、頻繁に“ここにいていいのだろうか”と考えた。
 <契約>のときは死にたくない一心だったけれど、生きていくためには生命の他に居場所が必要なのだ。王都を逃れても行き場もなく、今更死ぬ気にもなれず、私はひたすら命じられるまま戦場に出続けた。
 苦痛を感じるのは、自分の心の弱さのせいだと決めて。
 自分の弱さに負けていいのかと歯を食いしばって。
 そうするうちに、あるときふと戦場へ出ることの苦痛が減っていた。それは“ここにいてもいいのだろうか”という問いに対して思い続けてきた“他に行き場がない”という答えが自分の中で飲み込めた瞬間で――戦場に慣れたのだと言われれば、まさにその通りかもしれなかった。
 シキは“付き合う”という言葉通り、常に私と共に在ったから、私の気分を察したかもしれないが、非難も励ましも何も口に出さなかった。ただ共に戦場に出る傍ら、淡々と私に剣術などの稽古をつけてくれた。というのも、彼との記憶の共有によって私は戦い方の知識を得たが、実戦経験は極端に不足して実際の戦闘が危うかったためである。
 それでもあまりに親切な気がして、どうして教えてくれるのかと尋ねたら、

 「自分の弱点を補い守ろうとするのは当然のことだろう」

 と、返されたことがある。つまり、シキにとっては私に剣の稽古をつけることは自分のためなのだろう。
 いかにも彼らしいと言える返答で、私は思わず笑ってから――安堵した。
 お前のためだと言われるよりは、ずっといいような気がした。


***


 いつも通り剣の稽古を終えた私とシキが夜営地に戻ろうとしたとき、私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
 『私、呼ばれてる。ここにいると伝えて』
 「俺はお前の伝令ではない」シキは冷たく言い放ってから、さらに言葉を接ぐ。「どうせ緊急の用ではないのだから、放っておけ。この周辺には敵の気配も魔物の気配もない」
 『伝えてくれたって減るものでもないのに』
 私はふくれてみせた。まるで子どもみたいだが、声が出ない分を仕草で補おうとするので、どうしても少し大げさになってしまうのだ。

 「殿!」

 出て行く前に相手の方がこちらを見つけたようで、がさりと茂みが揺れて若い兵士が姿を見せた。
 「殿、黒竜殿も…こちらにおられましたか。あの、お取り込み中でしたか?」
 いいえ、と唇を動かしながら、私は首を横に振る。すると、若い兵士はぱっと顔を上げて笑顔になった。
 「よかった…実は殿にお願いがあって。同じ隊の仲間が足を捻ってしまったようなんです。軍医殿に診て頂く程でもないので、膏薬か何かお持ちなら分けて頂けないかと…」
 私は薬師の頃の癖で常に数種類の薬を持ち歩くので、行軍中にこうした頼み事をされることはよくある。それに、今は魔物討伐の帰りで軍医は複数の怪我人の世話に忙しくしているようだった。
 いいですよ、と唇を動かしてから頷くと、兵士は再び笑顔になって「ありがとうございます!」と言う。その笑顔の明るさにつられて、私も思わず笑みを浮かべながら、いいえと唇を動かした。
 「あの、お邪魔してすみませんでした。俺、先に戻ってますから、夜営地に戻ってこられたときにでも声を掛けて下さい」
 再び茂みを揺らして兵士が去っていく背を見送っていると、不意にシキが呟いた。

 「お前はあまり愛敬を振り撒くな」

 『…愛敬を振り撒く?』
 「分からないならいい。俺たちも戻るぞ」
 シキはさっさと夜営地に向かって歩きだしている。
 後を追って私は首を傾げたが、どう考えても先程の若い兵士への応対で、シキの言葉に当てはまるものは思い当たらなかった。それに、振り撒くほどの愛嬌など私は普段から持ち合わせていない(もし持っていたなら、必ず有効利用しているところだ)。
 隣に並んで盗み見れば、シキはいつもの無表情だが、どこか憮然とした空気を漂わせていた。
 何だか嫉妬しているみたいだ。――ふとそう思ってから、私はその思考を胸に湧きかけた何か温かな感情と一緒に散らす。
 人の姿をしていてもシキの本性は竜なのだ。女神の創世神話によれば、竜は完全なる存在なのだという。完全であるが故に他者を必要とせず、単独で想像もつかない永い時を生きる。不完全な人間と違って、その竜が他者、しかも同属でなく人間に執着を覚えるはずもない。
 たとえば共にいたとしても、情や親しみやその他諸々の感情を抱くようになったのは、きっと不完全な人間である私だけなのだ。それは何だか悔しい気もするのだが。

 もしシキが私に執着を覚えることがあるとしたら、それは私が彼の心臓を持つからだ。
 きっと、そう――自己愛なのだ。

 この場合少し違うような気もしたが、私はその考えで納得することに決める。と、シキが足を止めて私を見た。
 「どうした?やけに大人しいな」
 『そんなこともないけれど…そう、あなたに進呈する恨み言の推敲中だから』
 「それで、その推敲とやらはできたのか」
 私はひとつ頷いてから、ぽんと投げつけるように一つの言葉を思考にのせた。

 『ナルシスト』

 あまりに唐突すぎる言葉に、シキは無表情を崩して目を丸くする。その様子に少しばかり胸の空く気分になりながら、私はシキを追い抜いて夜営地へと歩いた。






End.
配布元:『模倣坂心中』“造りかけの似姿”より
「宿命めいて落ちて来る」


前項
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