心よりも速い1





 かつて、この世は旧き悪しき神々の支配する、悪と死に満ちた世界だった。
 あるときそこへ炎の女神が降り立ち、その炎と剣で旧き悪しき神々を討ち払った。かくてこの世は正しき姿へと導かれ、悪しき神々を恐れて世界の片隅でひっそりと暮らしていた僅かな善良な生き物たちが繁栄し始める。
 炎の女神は繁栄する生き物たちの様子に満足したが、ひとつ、困ったことがあった。常に女神の身を取り巻く炎はあまりに苛烈で、踏みしめた大地の周囲は激しく燃え盛っている。このため、女神の周囲に芽生える植物はなく、慕って近づこうとする動物たちは、皆、焼き尽くされてしまった。
 そこで、炎の女神は一つの決断を下した。
 己を取り巻く炎からこの世界の生き物たちを守るため、天へ戻ることにしたのである。
 天へ戻るにあたって、女神はその炎の息吹から、最初の竜を造りだして命じた。

 “私の代わりに世界を見守りなさい。そして、世界が再び悪と死に満ちたときには、その強い翼で私のもとへ報せにおいでなさい。お前が報せをもたらしたそのときには、私は再び悪を生み出した世界そのものを葬り去ることにしましょう”


 以来、竜の一族は、“女神の御遣い”と呼ばれるようになった。


***


 宿営地は、緊張を孕んだざわめきに満ちている。国境付近にある隣国の砦を落とすための出陣を目前に控えて、朝のまだ暗いうちから起き出した兵士たちが、戦の支度をしているのだ。
 そんなざわめきの中、コノエは忙しなく行き交う兵士たちの間を機敏にすり抜けて歩いていく。しかし、一般の兵士の中にコノエを咎める者はいない。
 この戦に駆り出されている下級の兵士は、ほとんど全員が農村や田舎町から徴兵されてきた者たちだ。彼らは、たいていは同郷の仲間で固まって行動する。だから、流れ者で傭兵として雇われてたまたまこの戦に参加するコノエや、コノエの相棒を異物として見なし、遠巻きに接するのが普通だった。しかし、それはそれで構わなかった。故郷を出て旅をする身の上になってしばらく経つので、そういう扱いにはもう慣れてきている。
 宿営地を歩いていると、あちらこちらで祈りの声が聞こえた。
 支給された剣を検める者、緊張した面持ちで朝食代わりの乾し肉を齧る者、小声で仲間と話す者。その中に混じって、地に膝を突いて頭を垂れる者の姿がちらほらと見える。彼らは小声で、勝利を、無事な帰還を、そして故郷の家族の安寧を、正しき世界を造り出した炎の女神に祈っているのだ。
 その様子に、コノエは少し複雑な気分になった。
 そもそも、コノエの雇い主となった国が隣国へ攻め入るのは、公式には炎の女神信仰の形式が異なるためとされている。敵国の信仰は自分たちとは違う――異端であるから、正しい信仰のあり方を知らしめるために戦う、というのである。
 けれど、余所者のコノエからすれば、両国の信仰にさほどの違いがあるとも思えない。
 コノエと相棒のライは、生まれははるか東の端にある祇沙という島国である。かつて祇沙で信仰されていたのは、炎の女神ではなく翼と尾を持ち歌う女神リビカだった。それがコノエが生まれた頃に祇沙はある大国の属国となり、リビカへの信仰も禁止されて、炎の女神を唯一の神とすることを誓わされた。
 逆らえば、祇沙のような卑小な国など大国に潰されてしまう。そこで、祇沙の人々は炎の女神信仰を受け入れたが、だからといって歌う女神リビカが忘れ去られたわけではない。人々は子どもにリビカの物語を教え、歌を聞かせて、今も炎の女神と共にひっそりとリビカを信仰し続けている。
 そんな環境で育ったので、コノエはライと共に旅をするようになってから、複数の神を信仰している祇沙は少数派に属するのだと知ったときは驚いたものだ。そして、少数派を“異端”として攻撃し、考え方を変えさせようとする風潮にも。
 だって、信じているものは信じているのだ。コノエはあまり敬虔な方ではないが、それでもどうしようもなく辛いことがあれば、とっさに炎の女神とリビカとに祈ることはある――どうか力を貸してほしい、と。それはほとんど条件反射に近い。いきなりそれを“間違っているから正しいやり方にしなさい”と言われても、困る。信仰というのはそういう部分があって、そう簡単に、強制的に変えられるものではない。だったら、“異端”を攻撃する行為はひどく無意味ではないか。
 あるときそう言ったら、傭兵として自分よりはるかに経験の多い相棒は凍った湖面を思わせる碧い眼を細めて、つまらなさそうに断じたものだった。

 ――国の本音は一つ、新たな領土が欲しいだけだ。それも、肥沃な土地がいい。


 (だけど、“異端”を征伐するっていうのが建前にすぎないなら、徴兵されてその嘘の正義を信じて戦う連中は、報われないじゃないか…)
 そんなことを考えているうちに、いつしかコノエは目的の場所へと辿り着いていた。森の木々を切り拓いて作られた宿営地に並ぶ幾つもの天幕、そのうち徴兵されてきた下級の兵士たちが使うものの一つに、知り合いがいるのだ。

 「トキノは?」

 天幕の傍にいた壮年の男に尋ねれば、天幕の裏手にいると教えられた。その言葉に従って裏へと回ると、草の上に跪き、小声で祈りの言葉を唱える若者――トキノの姿があった。
 トキノは、コノエが傭兵としてこの戦場に来て唯一仲良くなった相手だ。徴兵されてきた者の中に同年代が少なかったことと、彼の明るく気さくな性格もあって、自然と言葉を交わすようになった。戦場は馴れ合いの場ではない、とライは苦い顔をしたものだったが。
 祈りの邪魔をしてはいけないと思い、コノエは数歩離れた場所でトキノの祈りが終わるのを待った。トキノは「家族が健やかで皆が無事故郷に帰れますように」と炎の女神にと願って祈りを終えた。
 「――おはよう、コノエ。待たせてごめん」立ち上がってコノエの方を振り返りながら、トキノが微笑んでみせる。「どうしたの?」
 「いや…ちょっと通りかかったから、おはようって言おうと思って」
 思わずコノエはそう言ったが、実は通りすがりなどではなく、トキノの様子を見にここへきたのだった。というのも、トキノはこれが初めての戦だからだ。
 コノエも今は平気になったが、初めて戦場を経験したときには足が竦んだ。人を殺したときには吐き気がしたし、殺されかかったときには震えが止まらなかった。それでも乗り越えて来られたのは、ライがいたからだ。ライはコノエが立ち竦みそうになるとき、いつも2、3歩先を歩いて道を示してくれた。支えてくれたことはないが、甘やかされなかったからこそ、コノエは戦場の最中でも自分を保っていられるようになった。
 戦場に身を置く自分を、哀れだとは思わない。
 だが、トキノのこととなると話は別だった。明るく気さくな性格のトキノが、戦などという過酷な経験をしなければならない。それによって心に傷を負うかもしれないし、更には生命を失くすかもしれない。そう思うと心配で、会いに来ずにはいられなかった。
 そんなコノエの眼差しを受けて、トキノは困ったように微笑んだ。
 「俺、今すごく緊張してるんだ…本当に俺が戦えるのかって。――コノエは、緊張しない?」
 「少しは。前はすごく怖かったけど、今はもう慣れたから」
 「そっか。コノエでも緊張するんだね」微笑んだまま相槌を打ったトキノは、けれど、不意に不安に耐え切れなくなったかのように目を伏せた。迷うように2度3度開閉した唇から、抑えた声が押し出される。「女神さまにお祈りしたけど、やっぱりまだ怖いよ。相手方の砦には、<竜騎士> も来てるって言うし…」
 「<竜騎士>…」
 数百年ぶりに竜と契約した人間がいるという話は、コノエも聞き知っている。その人物がある国に招かれ、<竜騎士>に叙せられて騎士団に入ったということも。そして、どうもその<竜騎士>というのは女性であるらしい。
 傭兵にも正規の軍人にも、女性は数少ないながら存在する。とはいえ戦場は力がものを言う世界、男が圧倒的多数を占めるのにも怯まず戦に出る女性は、並の男よりも余程強く勇敢な者が多い。おそらく、その<竜騎士>も強いのだろう。
 けれど、コノエが興味を惹かれるのは、彼女が「女神さまの御遣い」とも呼ばれる竜と契約したという点だった。竜は皆この上なく誇り高く、他者を必要としない孤高の存在だ。
 強大な力を持ってはいる。契約というのは相手の力を得る代わりに何かを差し出す行為なのだ、彼女が差し出した竜の力を得るほどの代償とはいったい何だったのだろう――。
 「いったい、どんな人なんだろう…」
 思わずコノエが言うと、トキノは驚いたように顔を上げた。そして、コノエをまじまじと見つめていたが、やがて小さく声を上げて笑い出す。その急な変化に面食らって、コノエは目を丸くした。
 「どうしたんだ、トキノ?」
 「コノエって、好奇心旺盛っていうか、結構怖いもの知らずだよね。そう言われたことない?」
 ない、とコノエは勢いよく首を横に振る。そうしながらも、脳裏には自然と相棒の声が蘇る。

 ――好奇心は猫を殺すと何度言わせる気だ、この馬鹿者。

 よくライに叱られていることは、トキノには黙っていようと思った。


***


 乾いた風が、血と硝煙の臭いを運んでくる。砲弾や魔法の炸裂によって焦土と化した野のあちらこちらから、砲声や怒号や悲鳴が上がる。国境を侵す敵方と、砦を拠点に迎撃に打って出たこちら側。日が高くなる頃に始まった戦闘は、今や敵味方が入り乱れ、戦線が混乱しきっている。
 血の臭い。肉が焦げる臭い。
 魔法で抉られた土の上に転がる、無数の死体。うっかり足を取られぬように気をつけながら踏み込んで、向かってくる敵兵へと剣を振るう。私が扱うのは、普通の剣ではない。身の丈ほどもある長大な剣、その横薙ぎの一閃を受けた敵兵が、胴の辺りで真っ二つになって、地に崩れ落ちた。
 また一つ、自分が造り出した惨状。けれど、始めの頃のようにその光景に恐怖を覚えることはない。ただ、心が冷えて沈んでいく。まだ戦は終わりそうもないというのに、私は動くのが億劫になるほどの疲労を覚え始めている。

 気を抜くな。立ち止まるな。

 動きを止めかける足を叱咤して、私は敵を求めて駆けだした。目の前の光景を拒んで閉じかける心を、こじ開けながら。全てを放棄しかける思考を、強引に引き戻しながら。なぜなら、戦場に立ち続ける覚悟をしたとき、決めたからだ。私は、どこまでも正気のまま、戦わねばならない。そうすることだけが、この手で斬ってきたものたちに対する最低限の礼儀だと思うのだ。
 歯を食いしばりながら自分に言い聞かせたとき、不意に腕を掴まれた。『――っ…!!』急に引き止められたせいで勢いあまって転倒しそうになるが、別に驚きはしない。こんなことをしてまで私を引き止める相手など、一人しかいないことは分かっている。 

 『シキ…』

 私は腕を掴む手の主を振り返った。契約の代償として私は声を失っているので、唇の動きと思念だけで彼の名を呼ぶ。
 シキは、私が契約を結び、心臓を交換した相手だ。今彼はヒトの姿をしているが、その本性は紛れもない竜の一族で、契約によりできた魂の繋がりを通して私の声なき声を聞くことが出来る唯一の存在だった。
 また、これも魂の繋がりと関係しているのだろうが、シキは私の状態の変化を驚くほど正確に察することがある。たとえば、先程のように戦の最中に心が萎えそうなとき、決まって彼は私に声をかけてくる。かといって、励ますわけではない。告げられるのは簡単な戦闘に関する指示であったり、敵への注意喚起であったり、実際的なことばかりだ。それでも、シキとほんの一刻言葉を交わすだけで、蹲りそうになる心が軽くなる。
 このときもそうだった。シキを振り返りながら、私は無意識のうちに息を詰めていたことに気付き、そっと吐き出した。
 そんなこちらの様子には触れず、シキは私から敵方の陣地がある方角へと目を向ける。
 「どうも敵の動きがおかしい。何か仕掛けてくるかも知れん。気を抜くな」
 『でも、仕掛けるといっても、もう時間が…』
 私はちらりと天を仰いだ。
 太陽は、既に傾いている。まだ周囲は明るいが、今の季節は冬が近いので、傾いた陽は一気に沈んでいくだろう。敵方の兵士の大半は訓練も不十分なにわか徴兵の兵士のようであるから、兵の練度が成否を分ける夜戦をしたがるとは思えない。日が暮れる前に兵を退くのが定石だ――と、繋がった魂を通して私に流れ込むシキの知識がふと浮かび上がってきて囁いている。
 敵が日没と共に兵を退くなら、もう時間がない。それなのに、いったい何を仕掛けてくるつもりなのか。
 疑問を抱きながら、私は空から前方を見るシキの横顔へと視線を移した。
 と、その瞬間、静かだったシキの顔に好戦的な喜悦の色が浮かぶ。
 どんな激戦の中でも、シキが取り乱すことは決してない。大抵のヒトは、彼が本気を出すにも値しない存在だからだ。戦場において、彼の動かぬ無表情を動かせるものは、ただひとつしかない。

 それは、竜に挑むことができるほどの強者の存在。

 いけない、と思った瞬間には手遅れだった。
 魂の繋がりから、シキの強烈な感情が私にまで流れ込んでくる。闘いへの圧倒的な歓喜――いっそ、それに身を任せて世界を破壊しつくすまで戦いたいと思ってしまうほどに強烈な歓喜は、竜という種属が本質的に持っている衝動だ。そのあまりの強さに、私の意識まで押し流されそうになる。
 流れ込むシキの感情に抗いながら、苦痛に耐え切れず、地に膝を突いた。そして、やっとのことで自分を保ちながら顔を上げると、そこにシキの姿はない。行ってしまったのだ。シキと闘うに値する者を、この戦場に見出したから。
 『シキ…戻って来て。敵の出方に備えなければ――…私の声を聞いて…シキ…』
 しかし、どれほど強く念じても、シキの返事はない。いつも感じている彼の意識そのものが、今はひどく遠くにあるように思える。私は唇を噛んで立ち上がった。行かなければ――もしシキが闘いに我を忘れれば、衝動のままに辺り構わず破壊を始めるかもしれない。
 それは、嫌だ。
 殺すほどの価値もないとつまらなさそうな面持ちで、敵味方の血が無駄に流れるのを避けるような方法を選んでくれている。そんなシキが好きだ。ヒトが多く死ねば私の魂が無駄に傷つき、それは魂の繋がりを通して彼にまで伝わるからだ、と言っていたけれど。どんな理由であれ、竜から見れば取るに足らない存在であるはずのヒトを、生かそうとしてくれるのが嬉しかった。
 だから、シキが衝動のままに全てを破壊する光景など、見たくはない。シキのもとへ行かなければ、そして我を忘れているのなら呼び戻さなければ。周囲で炸裂する魔法に構わず、私はシキの気配を追って走り出した。


***


 ぐるりと見渡せば、人、人、人。もう日も暮れようとしている。辺りが暗くなれば、同士討ちも免れえないだろう。その前に、退却の指示が出るか――。
 焦る気持ちでそんなことを考えながら、コノエは再び周囲を見渡した。いつも背を預けて闘う相棒の姿が、見えない。混戦の最中ではぐれてしまったのだ。ライは、コノエなどより余程傭兵としての経験が豊富で、単独でも決して弱くはない。けれど、コノエは一つの不安を抱いていた。
 ライは、血に酔うという性質を持っている。
 それは幼い頃魂深くに根付いた彼の業のようなもの、箍が外れればどこまでも血の温もりを求めて殺戮しようとする。けれど、その性質はコノエと組んでからは随分薄らいでいるようだし、たまに血への欲求が暴走することがあってもコノエの声で正気に戻ってくれる。それでも、強者と闘うときには、いつもより血の衝動への箍が外れやすく戻りにくい。たとえば、ライと噂の<竜騎士>がコノエの目の届かないところで出会ってしまったら――と思うと、気が気ではない。
 早く見つけなければ、と思ったときだった。
 (――っ…!)
 ぞくりと肌が粟立つような殺気を、感じる。それも2つ。
 2種類の激しい闘気と殺気が混じりあい、辺りを突風のように吹き抜けていく。その現象を理解できるのはある程度実力のある者だけだが、他の一般の兵士たちも「何か」は感じ取って、一瞬怯えたように身を竦めている。
 コノエは、闘気と殺気の中心を目指して走った。中心にいるのはライと誰かなのだという確信を持って。けれど、敵と味方の兵士が彼らには正体を感じ取ることの出来ない「何か」の圧迫感から逃れようと、出鱈目な方向に逃げ惑うのが邪魔をして容易には進めない。見たところ、辺りには味方の兵の進退を指揮する指揮官もいないようだ。そのことが違和感としてちらりと頭を掠めるが、今はそれどころではなく、コノエはひたすら走る。
 と、唐突に人の波が途切れて視界が開けた。
 双方の砲撃と魔法とで焦土と化した野の一角で対峙する、2人のシルエット。
 そのうち片方は白銀の髪をなびかせたコノエの相棒・ライだった。一分の隙もなく長剣を構え、凍りついた湖面を思わせる碧眼で真っ直ぐに相手を見据えている。
 対する相手はライとは真逆で、黒髪に赤い双眸といった容貌。片刃で細身の珍しい格好の剣を手にしてはいるが、構えはせずに下ろしている。顔には余裕を――或いは、高揚を?――示す笑みが浮かんでいた。
 その笑みを見た瞬間、ぞくりとコノエの背を何かが走り抜けた。

 駄目だ。ライは勝てない。

 反射的に思う。決して相棒の実力を信じないわけではない。ライは強い。それでも、あの男には勝てない。だって、あの男は闘うことに歓喜している。己の業に苦しむライとは、精神面からして全く異なっている。けれど、ライがあの男のようでなくて良かったと、コノエはむしろ安堵した。殺すことに躊躇いがあるからこそ、ライは正気でいられるのだから。
 とはいえ、このままではライは強者と闘う喜びに我を忘れ、血を求め始めるだろう。
 その前に、あの男はまともに闘って敵う相手ではないと気付かせなければ。

 「――ライ!!闘うな!…そいつと闘っちゃだめだ…ライっ!」

 必死に叫ぶが、砲声や怒号に紛れて声が届かない。
 そうするうちに、とうとう対峙する2人が動いた。相手の男が舞っているのかと思うほど優雅な動きで、ライに斬りかかる。ライが長剣でそれを受け止める。刃を合わせ始めた2人の周囲に、時折、火矢や砲弾、魔法などか落ちるが、双方構う素振りもみせない。
 これでは、近づけない。
 (仕方ない…!)
 唇を噛みつつコノエは、“歌う”姿勢に入った。
 コノエはもともと魔術師としての素質を持っている。ただ、取り扱うのが味方への支援に特化した魔法のみの<賛牙>というタイプの魔術師であり、そうと知れれば悪用される可能性が高いために普段は剣士で通していた。
 コノエが支援魔法を使うのは、ライにだけだ。一般にあまり知られていない事実だが、<賛牙>は普通の魔術師のように生来備わった魔力だけで、支援魔法を使うことはできない。魔力と、己の心で魔法を使う。そのため、心から支援したいと願う相手でなければ、魔法を発動する――“歌う”ことはできない。そして、“歌う”ためには、戦場の最中で精神集中を行わなければならない。
 想う心と生命を預けるに足る相手がいてこそ、初めて<賛牙>の魔法を発動させることができるのだ。
 “歌え”ば、ライはコノエの“歌”で正気に戻るだろう。
 ただ、“歌”を発動する瞬間コノエは全くの無防備になってしまう――それも、敵の最中、砲弾や魔法の炸裂する戦場の真ん中で。

 (それでも、“歌う”しかない。――ライと生き残るためには、それしかない)
 コノエは一つ息を吸い、目の前の戦場から意識を自分の内側へと向ける。

 ライと共に生き延びたい――その願いから、幾つかの“音”が生まれる。
 “音”を拾い上げ、“旋律”を見出す。
 複数の“旋律”を紡ぎ合わせて、声なき“歌”へ育て上げる。

 そして、あと少しで、ライに届く“歌”を解き放てるというところまできたとき。
 意識の大半を内側へ向けたコノエの視界の端に、飛来する無数の火矢が映った。飛んでくる方向からして、コノエの味方である者たちの放った火矢だ。指揮官だけ退却して前線が混乱したのは、味方の一部を囮に敵の頭を叩くためであったらしい。
 このままでは、火矢がコノエのいる場所を直撃するだろう。頭の片隅で理解するが、とっさに動くことができない。
 「――ラ…イ……」
 思わず相棒の名を呟いた瞬間、視界に跳び込んで来たシルエットがあった。
 小柄な少年のような、敵とも味方とも知れない誰か。その身体がしなやかにしなり、携えていた身の丈ほどもありそうな長剣を振るう。それは、まるで少年が剣に操られながら舞っているような、奇妙な光景だった。しかし、彼は決して剣に振り回されているわけではない。その証拠に、コノエに向かって飛来した火矢がことごとく斬り伏せられて、ばらばらと地に落ちる。
 火矢の雨が止むと、少年は剣を振るうのを止めて佇んだ。そして、不意にこちらを振り返る。その瞬間、コノエは外界に向けたままの意識の欠片で、思わず息を呑んだ。
 少年かと思ったその人物は、若い女だった。
 甲冑を身に着けてはいるが、よく見れば丸みを帯びた体つきをしている。彼女はコノエを見てちょっと驚いた顔をしたが、次の瞬間、はっと剣を交えるライと黒ずくめの男に視線を向けた。コノエもつられて視線を向ければ、拮抗していたはずの2人の闘いは、黒ずくめの男が押し始めている。

 男は闘いながら、まだ笑みを浮かべていた。
 それも、殺し合いを心から喜ぶ、ぞっとするような凄艶な笑みを。

 女はその光景に怯えるでもなく、憂いの表情を浮かべて口を開く。「――――!」唇を動かして何ごとかを叫んでいるようなのだが、何も聞こえては来ない。ちがう。聞こえないのではなく、声自体が発されていないのだ。
 (――話せない、のか…)
 コノエがそう思ったとき、彼女がはっと振り返った。その双眸が、再び飛来する火矢と砲弾を見つけて、さっと怒りに燃え上がる。『自分の味方を見殺しにする気なの?』唇の動きだけでそう呟き、彼女は再び身体をしならせ、舞うように剣を振るった。
 しかも、今度はただの剣撃ではない。振るわれる剣の一閃に、炎の気が混じっている。炎の気は剣圧に乗ってコノエを飛び越え、飛んできた砲弾や火矢を一瞬にして焼き尽してしまった。そして、その証拠とでもいうかのように、燃えカスがコノエの周囲に降ってくる。
 (――そんな…嘘だろ…)
 火や風や水には気というものが存在する。魔術師はそれを利用することもあるのだが、もちろん、利用するには魔法という形式に変えなければならない。火の気や水の気を魔法にせずそのまま利用するなど、到底できることではない――彼女自身がその気を帯びているというのでもなければ――しかし、そういう存在は伝説に語られる竜くらいのものだ。
 (竜って…まさか…)
 あることに思い至ったとき、コノエに顔を向けた彼女が何ごとかを言った。

 『――今のうちに、早く』

 唇の動きが、そう告げる。彼女は敵方のはずだが、自分を助けてくれるつもりらしい。そう理解したコノエは、攻撃されても彼女が守ってくれるという、根拠のない確信に身を委ねて、意識を完全に外界から切り離す。ひたすら自分の内に生まれた“歌”へ意識を向け、一気にそれを育て上げた。
 “旋律”が、声なき“歌”が内側で大きく膨れ上がる。
 極限までそれが育ったとき、コノエはそれをライへ向けて解放した。








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