心よりも速い2





 刃を交えていた白銀の髪の男が、不意にぎくりと動きを止める。鍔迫り合う剣の向こう側に見える碧眼に、狂気の色が見え隠れする。男は苦しげに顔をしかめ、狂気に抗おうとしているらしかった。
 (身を任せてしまえば、より強くなれるものを…)
 抗おうとする間が、かえって隙になる。
 シキはその一瞬を逃さず、刀を持つ腕に力を込めて男の剣を弾き飛ばす。すると、剣を失った男はよろめいて後退し、地に膝を突いた。そこへ、立ち上がる暇を与えずシキは男の鼻先へ切っ先を突きつける。
 白銀の髪の男は、追い詰められながらも昂然と顔を挙げ、真正面からシキを睨み返した。こんな風にシキの眼差しや殺気を、真っ向から受け止めることのできるヒトの子は、そう多くは存在しない。その豪胆さといい卓越した剣の腕といい、久々に骨のある相手に行き遭ったといえるだろう。しかし、男の中には戦闘の高揚へ身を委ねきることへの躊躇いがある。
 (迷いがある限り、この男も、俺に匹敵するには至らない)
 遊びも終わりにしよう、とやや興ざめした気分で思いながら、シキは男めがけて刀を振り下ろそうとした。そのとき。

 『――シキ…』

 意識の遠いところで、微かな声が聞こえた気がした。
 次の瞬間、辺りに淡い緑色の光が溢れだす。
 光は、ふわりと漂って白銀の髪の男へ集まり、静かにその狂気を癒していく。

 (――これは、“賛牙”の“歌”か…)

 闘いの高揚から僅かに醒めた意識の片隅で、そう思う。と、そのときはっきりとした声が、意識へ滑り込んできた。
 『――私の声を聞いて…シキ…!』
 己の契約者たる者の声に、一気に闘いの高揚から引きずり下ろされる。今の己は、地上に縫い止められ飛び立つこともできない、非力な化身の身であることを思い知らされる。ここはヒト同士の下らない小競り合いの場なのだと、思い出させられる。
 忌々しさに、シキは小さく舌打ちをした。
 ただの一声で己の意識を引き戻すも、彼女の声で刀を振るう手を止める己自身も、共に忌々しい。けれど、の声を無視することはできなかった。融合した魂から、彼女の気配の中に濃く混じる炎の気を帯びた魔力を感じたからだ。契約のときの中に移った己の魔力が、今、増え始めている。が意識的に使ったせいで消耗した分を、彼女の中にある己の心臓が補おうとして生み出しているのだ。この調子で増えれば魔力が器である彼女を焼き尽くしてしまうだろう。
 シキは刀を下ろし、目の前の男を見下ろした。男を取り巻いていた“歌”の光も収まり、狂気はすっかり癒えたようである。
 「どうやら、ここまでのようだな」シキは男に告げた。
 「逃げる気か」
 男は明らかに不利な形勢にも関わらず、まだ戦意を見せて腰の短剣へと手を伸ばす。
 「ライっ…!」
 不意に、そこへ小柄なシルエットが駆け込んできて、シキと男の間に立ち塞がった。見れば、それはまだ年端もいかない若者だった。よりも、まだ2つ3つは年若いに違いない。若者はなかなか勝気な性格のようで、シキが真っ向から見つめても目を逸らさず、逆に睨み返してくる。まるで子猫が懸命に牙を剥き、毛を逆立てているかのようだ。

 その眼差しの強さに、ふと、出会ったときののことを思い出す。
 彼女もシキの眼差しを恐れず、目を見返してきた。敵意はなかった。
 初め、シキのことを見極めようとしている透明な眼差し。それが魂の融合する瞬間、ふと柔らかな色を宿した。無条件の信頼と親しみと安堵が、その一瞬、確かに浮かんでいた。

 強者は当然としても、半端に力がある者よりも、実は弱者にこそシキの目を恐れない者が多い。のように、この若者のように。その不思議を思いながら、シキは若者に「貴様では相手にならん」と言い捨てた。
 「やってみなきゃ分からないだろ!」案の定若者が反駁する。
 「馬鹿者、勝負は目に見えている」
 むしろライと呼ばれた白銀の髪の男の方が辛辣な口調で止めながら、立ち上がって若者を庇うように隣に立つ。もしシキが若者に手出しすれば、男は手足を失い地に這おうとも生命を失おうとも、シキを殺そうとするだろう。
 それはそれで面白いが、面白がってそんな真似をしようものなら、己の契約者が黙ってないだろう。場合によっては、己を止めるために、自害でもして己を道連れにしようとするかもしれない。死を恐れるわけではないが、そんな死に方は避けたいところではある。目の前の2人に気取られぬようにそっとため息を吐き、シキは刀を鞘へ納めた。
 「見逃してやる。――貴様らの言葉の訛り…出身は祇沙辺りだろう。傭兵だというなら、ひとつ忠告しておいてやる。せいぜい雇い主は選ぶことだ。ライといったな…貴様ほどの傭兵を使いこなせず、囮にして殺すしか能のない雇い主は碌でもない…そんな仕事を請けては、貴様ほどの傭兵の名折れになるぞ」
 「――分かっている」
 男は低い声で呟いた。その碧眼はいまだに警戒心に満ちているが、呟いた声にはシキの言葉に同意する嘆息のような響きがあった。
 それを潮に、張り詰めていた周囲の空気がふっと緩んだ。
 2人の殺気と闘気が消えると、強すぎる殺気のために皆近寄れず敵味方の空白地帯になっていたその場所に、双方の兵がなだれ込んでくる。人の壁に遮られながら、なおもこちらを見つめている傭兵の2人の視線を感じながら、シキは踵を返そうとした。そのとき、異様な気配が意識に触れた。
 はっと空を見上げれば、敵の陣地の方角から、強大な魔力の塊が放たれるのが見えた。複数の魔法で複雑に織り成され、通常の攻撃魔法では打ち消せないほどに強大な威力を持つそれが、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。
 (複合魔法か…まずいな)シキは舌打ちした。
 複合魔法は強大な威力を持つが、腕のいい術者が複数名必要な上に、発動までとにかく時間がかかる。戦局が硬直したここに来て主力を後退させ、前線をほとんど弱兵だけにした敵方の意図は、最初からこれを狙ったものだったのだろう。
 そして、飛来する魔法の高度から目測するに、複合魔法は戦場の中央部――つまり、この辺りで炸裂するようになっているらしい。そして、付近一帯はかなりの広範囲が焼き尽くされることになるだろう。シキの本性である竜の姿ならば複合魔法にも深刻なダメージを受けることはないが、今はヒトに化身している身、到底魔法に耐えうることはできない。もちろん、シキのみならず付近一帯の兵士は敵味方関係なく、跡形もないまでに消し飛ぶだろう。それまでに、この場を離れなければ――。
 シキは人の入り乱れた周囲を見回し、の姿を捜した。
 すぐには見つかった。剣を振るって味方を火矢から守っていたの腕を捉えると、彼女は熱に浮かされて朦朧とした表情でシキを見上げた。同時に、掴んだ腕から異様に高い体温が伝わってくる。シキの魔力が、彼女の身を焼き尽くそうとし始めているのだ。
 『シキ…?』
 「退避するぞ。じきにここへ強力な魔法が落ちる」
 『いや』有無を言わせず引きずっていこうとすると、はシキの腕を振り払った。
 「我が儘を言うな。死ぬつもりか?」シキは苛々とを睨む。
 『私たちが逃げて、この辺りにいる人たちはどうなるの?敵も味方も皆死ぬんでしょう?でも…もしかしたら、私たちなら、魔法を打ち消せるかもしれない』
 魔法を打ち消す?一体何を言っているのか、とシキは目を見開いた。
 複合魔法に匹敵する魔力で以って迎撃するなど、不可能だ。勿論シキもも魔術師ではないから、迎撃の魔法を放つことなどできない。竜の姿ならばともかく、ヒトの身ではシキも手の打ちようがない。
 それなのに、はやはり確信に満ちている。
 『あなたが竜の姿に戻れば、魔法なんて蹴散らすことが出来る。戻れるはずよ…私の中の、あなたの知識がそう言ってる』
 「確かに、本性に戻ることはできる。しかし、それは、魔力があればの話だ。本性に戻るほどの魔力を、今この状況でお前から受け取るのは不可能だ」
 『やってみなければ分からないでしょう?』
 はどこかで聞いたようなことを言った。そういえば、コレも見かけによらず気丈な娘だった、とシキは一瞬呑気な思考に囚われながら彼女を見下ろした。彼女は熱に浮かされながらも、真っ直ぐにシキを見返してくる。その双眸に、いつか見た無条件の信頼と親しみが浮かんでいる。
 『やりましょう。できなければ、皆と一緒にここで焼かれるの』
 そんな事態になるとは露も思っていないような確信に満ちた表情で言って、彼女は手にしていた剣を背負った鞘に戻した。そして、自分からシキに身を寄せてくる。腕を首に回し、背伸びをして、口付けようとする。
 不確かすぎる可能性を信じて、生命を危険に晒すなど、愚か者のすることだ――内心シキはため息を吐いた。けれど、その手の愚かさが意外に気に入っているのも事実だった。ヒトに混じるうちに、己も愚かになっていくらしい。そう思って自嘲と満足の混じった気分を抱きながら、シキは僅かに身を屈めて口付けまでの残りの距離を埋めた。


 触れ合った唇から、彼女の中で増大していた魔力が一気にシキへと流れ込んでくる。その密度の濃さに、じりじりと咽喉が焼ける。
 本来なら口付けで遣り取りする魔力はごく僅かにすべきだ。なぜなら、魔力は身の内にあってこそ大人しくしているが、体外へ放出されれば一気に炎の熱を帯びる性質がある。その熱は、器であるや主であるシキをも傷つける。安全に、そして多く魔力を受け取るには、口付けより深い接触――つまり、身体をつなげるのが一番いい。
 そこを曲げて、これまでにないほどの密度と量の魔力を、口付けで受け渡ししようとしているのだ。シキ以上に、既に魔力の熱に中てられているの方が辛いだろうに、彼女は苦痛に身を強張らせながらも離れようとはしなかった。
 シキは宥めるようにの背を撫でて、しかし、より多くの魔力を求めて口付けを深くする。彼女の身体も口内も、己自身も燃え上がりそうな熱だ、と意識の隅で感じた瞬間、視界の端がぱっと明るくなった。気がつけば、己も彼女も炎に包まれていた。けれど、熱くはない。契約のときと同じ、物質を焼くのではなく“殻”を燃やす炎だ。
 シキは唇を離した。大量の魔力を失って力の抜けたを抱きながら、炎に包まれてその場に佇む。炎は一気にシキの化身としての形を焼き尽くし、本性を明らかにした。


***


 やがて炎がぱっと大きく膨れ上がり、生じたのと同じように唐突に消える。次の瞬間、そこにいるのはシキではなかった。代わりにその場に現れた黒竜が、天を仰いで咆哮する。
 そして、頭上から降ってくる強大な魔力に向かって、炎の吐息を放った。
 炎の吐息を受けて球体からぐにゃりと形を歪めた魔法は、ぱんと花火のような音を立てて呆気なく四散する。その名残の淡い燐光が雪のように漂う中、黒竜が羽ばたき飛び立っていく。そのまま、火矢や砲弾の飛び交う空を突っ切って、敵方の後方へ。空中のある一点で静止し、地上へ向けて炎を吐き出す。黒竜の吐き出した炎は敵の魔術師の隊列を焼き払い、傍にあった砲台にも延焼して砲撃を沈黙させた。
 唐突に止む魔法と砲台による攻撃。それが黒竜の行いであると知った味方のあちこちで、歓声とも鬨の声ともつかぬ叫びが上がる。それでも、地上のことなど関知しないといった態度で黒竜は悠然と空中を旋回し、砦のある東の空へと飛び去ったのだった。


***


 夜になると、まだあちこちで行われていた小競り合いも、粗方収束したようだった。兵士の大半は根拠地である砦に帰還し、砦の敷地内に設営した天幕で夜営の準備を始めている。その物音を窓越しに聞きながら、私は砦の内部に用意された部屋で、軍医と向き合っていた。
 普通なら私も一般の兵と共に野外で夜営するところである。が、熱と疲労のために砦まで辿り着いた直後に倒れてしまって、運び込まれたのがこの部屋だった。

 「――熱っ…!」

 診察しようと私の頬に触れた軍医が、はっと手を引く。しかし、診察しないわけにはいかないと思ったのだろう、再び手を触れようとする。私は首を横に振って、軍医を制止した。
 ≪診察は結構です≫
 唇の動きだけで伝えれば、軍医は困った面持ちになる。
 「そんなわけには参りません。今のあなたの体温は異常です…到底ヒトの耐えうる熱ではありません」
 ≪…けれど、私は契約者です。ただのヒトよりは、少しばかり丈夫な身体です。それにこの熱も契約の影響のようなもの、放っておけば治まります≫
 「あなたがそう言われるからには、そうなのでしょう。信じます。あなたの症状は、情けないことだが、私の知識の範囲外なのですから。――しかし、どうかこれだけだけはお忘れなきように。あなたの御身はあなただけのものではありません。<竜騎士>に万が一のことがあれば、わが国の民は女神の恩寵を失ったのだと絶望するでしょう」
 軍医の言葉に、ずんと気が重くなる。
 分かってはいることだったが、<竜騎士>だの女神の恩寵だのと、一介の小娘に過大な期待を寄せられても困る。けれど<竜騎士>に叙せられた時点で私は、そういう役目を持つ歯車として世の中に組み込まれてしまったのだ。歯車ひとつ抜けても代わりはあるだろうが、束の間だけでも機械仕掛けは故障する。気が重かろうが、私は容易にはこの役目を降りられない。
 ひとつの歯車として、<竜騎士>を演じ続けなければならない。それを受け入れた。
 憂鬱さを押し隠して、私は軍医に微笑してみせた。
 ≪分かっています。どうか心配しないで下さい。私は、本当に平気ですから≫
 民衆の絶望のことなど知りません、と駄々を捏ねたいところを抑えて、鷹揚な口調を心がける。すると、ようやく軍医は納得して、椅子から腰を上げた。その様子に、私はほっとした。戦場から引き上げてきたばかりで、砦の建物や敷地内に設けられた天幕には多くの傷病兵がいて、軍医の処置を待っているのだ。いつまでも、ここに引き止めておくわけにはいかない。


 ぱたんと扉が閉まり、ゆっくりとした軍医の足音も遠ざかっていく。その音に耳を澄ませながら、私は小さなテーブルの上に置かれたランプの灯りを消して寝台に横になった。
 眠らなければ。
 この身を苛む熱も、いずれ自然に治まるとシキは言っていた。それならば、目覚めているよりは眠っていた方が、時は早く過ぎていくだろう。
 けれど、頭は熱でぼんやりして、身体も疲れているのに、なかなか眠りは訪れなかった。意識が冴えてしまっているからだ。戦場に出て人を殺した日は、ときどき、こんな風になる。私が殺した者にも帰りを待つ者がいただろう、とか。彼らも契約したときの私と同じく、死にたくないと願ったに違いない、とか。契約していなければ、私が彼らに殺される側だったのかもしれない、とか。普段は意識から締め出している思考が、ぐるぐると頭の中を巡り続ける。
 そういうとき、シキは私を腕に抱いて「考えるな」と言ったものだった。下らない罪悪感など捨ててしまえ、お前は最早ヒトの営みの中には戻れぬ者、ならばヒトとしての情にも囚われて苦しむ必要などない、と。
 けれど、私はその言葉を受け入れられない。どうせ私は<竜騎士>として、契約者として、普通の人々からは距離を置かれてしまう。だったら、もう人としての常識や倫理観にこだわる必要なんてない。――私の頭の片隅で、冷酷で残虐な化け物がシキの言葉に賛同する。それを押さえつけて、違うのだと自分に言い聞かせる。
 私はあくまでただのヒトだ。片田舎の村で薬師の両親と弟妹と共に暮らしてきた。両親からは薬師としての仕事を仕込まれ、弟妹と声を合わせて朝な夕なに女神への祈りを口ずさんだ。ヒトの間で育ち、今もヒトの間で生かされている。そのことを忘れ、ヒトを殺す罪悪感を捨ててしまったら、きっと私は私でないものになるだろう。契約者として得た力の大きさに呑まれ、耽溺して――きっと、力を使って辺り構わず手の届く限り破壊したくなるだろう。最も安全で心穏やかなのは、自分の他誰も存在しない世界なのだから。
 そう思うから、自分に触れるシキの腕が次第に怖くなった。
 私とシキは契約を交わしている。心臓を交換し、魂を融合させた、個別の存在であっても完全な他人とはいえない。傍にいて、触れられれば、意識しなくとも相手の存在に安堵を覚えてしまう。このままでは、いつか、私は自分の中の冷酷で残虐な化け物に支配されて、シキの傍にいるために他の全てを切り捨てても構わないと思うときが来るかもしれない。そんな選択をするのは、最早私ではない。
 だから、シキとの不必要な接触を避けるようにした。理由は、シキには「夫でもない相手と気安く触れ合うのは、ふしだらなことだから嫌だ」と説明してあるけれど、本当はそんなものではない。
 確かに、魔力の受け渡しをするためにシキと交わった当初は、本気でふしだらな行為だからと怯えていた。今は、あまりそんな風には思わない。どうせ私は普通の結婚など出来る立場ではないのだから、今更夫がどうこうと気にしても意味がないと分かってきたから。
 そう思いながら、私は舌で自分の上顎をなぞった。炎の性質を帯びた魔力を口移ししたために、口の中は熱いスープでも飲んだように火傷になっている。舌はまだじんじんしたし、上顎の薄皮は剥がれかけている。それが、自分がしたことが現実だったと証明しているかのようだった。
 そう、もうずっと前から、気付いている。
 今までしたことはなかったけれど、本当は今日のように自分から彼に触れることだってもう何でもないのだ。ただ、私が私のまま、彼の傍にいつづけるための距離感が分からないでいるだけで。


***


 月が出ていた。それも、十五夜の明るい月が。
 こんな日こそ新月であればいいものを、丸く満ちた月は残酷なまでの明るさで地上を照らし出す。戦火で焼かれた野を、そこに横たわる死者や見るも無残な負傷者を、そして、戦に敗れて肩を落とす敗者を。
 森を切り拓いて造られた宿営地は、さながら葬儀のような悲嘆としめやかなざわめきみ満ちている。兵士たちは今日のこの日を生き永らえたことに息を吐きながら、騒ぐ気力もないといった様子で夜営の準備をしている。
 コノエは、宿営地の外れに佇んで、その様子を眺めていた。
 戦は、結局、コノエたちの雇い主の側が敗けた。徴収兵たちをエサに敵方を引きつけたものの、敵方の陣形の突出部を遠距離から叩くはずの魔術師と砲台が、黒竜に焼き払われてしまったのだ。結果、コノエたちの属する側は、敵方に押し切られて撤退することになった。だが、逆に言えば、黒竜のおかげで前線で囮にされた徴収兵たちもコノエたちも、味方の魔法や砲撃で吹き飛ばされずに済んだことになる。どうも、皆複雑な心境のようで、それが宿営地の妙な雰囲気の一因でもあった。
 と、不意に暗い雰囲気とは裏腹な、軽快な足音が聞こえてきて、コノエははっと顔を上げた。「コノエ」と、名を呼ばれて振り返れば、天幕の方から息を切らせてトキノが小走りに駆けて来る。彼もまた、幸いなことに戦場を大した負傷もせずに生き延びられたのだ。駆けて来たトキノはコノエの前で急停止すると、肩で息をしながら言葉を吐き出した。
 「…コノエ、もう行っちゃうんだって?さっき偉いヒトたちが話してるのを聞いて」
 「あぁ…予定より、少し早いけど。今ライが司令官と話に行ってる。ライが戻ってきたら、俺たちは出発しなきゃいけないんだ」
 傭兵としての雇用期間が最初より短くなったのは、雇い主の契約違反のためだ。事前に説明もなく、コノエたちを囮として使い捨てようとした。これは、傭兵と雇い主の信用関係を損なうものだ。こういうとき、傭兵の側から契約を破棄できるというのが傭兵の世界での一般常識で、ライは契約を切ることを決めたのだった。
 「やっぱり行っちゃうんだ…寂しくなるよ」
 「俺もだ」
 頷くコノエだが、ふと視線を感じて立ち並ぶ天幕の群れへと目を向ける。すると、通りがかりの者や天幕の傍で佇む者などが、ちらちらとこちらを窺い見ているのが感じられた。だが、それも無理はないだろう。コノエやライは、同じ戦場に出たとはいえ、所詮は余所者なのだ。異物の存在を受け入れるには、心の余裕が要る。このような敗戦の後、しかも去り行くコノエたちへの態度が余所余所しくなるのも、ヒトの心情としては当然なことだ。
 そして、自分たちと仲良くしていては、トキノまでも爪弾きにされるかもしれない。「トキノ、もう戻った方が――」コノエが思わず言いかけたときだった。

 「おい、そろそろ出発するぞ」

 一際立派な司令官用の天幕から出てきたライが、足早に森の入り口へと向かいながら声を掛けてくる。コノエははっとして、「それじゃぁ、俺も行くから」と早口にトキノに別れを告げ、ライの背中を追いかける。すると、背後でトキノが少し声を大きくして、言うのが聞こえてきた。

 「コノエ、ライさん、2人ともどうか元気で!」

 その言葉に、コノエは振り返って微笑み「トキノも」と言い返す。ライは何も言わず振り向きもしなかったが、代わりに右手を上げて見せた。愛想のなさすぎるライの反応だが、これでもこの相棒としては愛想よくしているつもりなのだ、ということはコノエにはよく分かっている。
 「恥ずかしがらずに振り返れよ、子どもじゃないんだから」と小声で注意すると、
 「子どもはお前の方だろう」とライも素直ではない反応を返す。
 コノエは小さくため息を吐きながら、自分もライもどこかしら“子ども”なのだろう、と思った。


***


 夜をぬって森を進み、明け方近くになる頃、2人は見つけた小さな泉の畔で小休止を取ることにした。戦場を駆け、撤退し、息も吐かぬ間に宿営地を後にしなければならなかったので、コノエなどは歩きながら目蓋が降り始めるほど。常に端然としているライの面にも、どことなく疲労の色が滲んでいる。
 けれど、この場で野宿することはできない。契約を途中で打ち切ったため、元雇い主から闇討ちにされることがあるからだ。そういう卑怯な雇い主の話は、傭兵の世界でも往々にして存在する。闇討ちされて防げないことはないが、いくら腕に覚えがあってもこちらは2人、数で押されればどうしようもなくなる。可能な限り早く、この国を抜けてしまうのが最良の道だった。
 そんなわけで、コノエは半ば舟を漕ぎながら夜食代わりの乾し肉を齧っていた。そのうちうっかり意識が飛びかけて、がくっと前のめりになたところではっと気付く。

 束の間、夢を見ていた。
 生きものの気配の絶えた、赤茶けた岩と土だけの大地。
 そこへ黒い肢体の竜が舞い降りて、その背から小柄なシルエットが降りてくる。
 (あぁ、世界を終わらせるために、炎の女神が降り立った)コノエの意識はぼんやりとそう思った。
 と、そこへ強い風が吹いて、竜から降り立った人物が強い日差しを遮るために頭から被っていたコートのフードが外れる。露になったその面に、コノエはあっと声を上げそうになった。
 そこで黒竜を見上げて愛しげに微笑んでいるのは――確かに、今日戦場で目にした<竜騎士>の女性だった。

 (――夢、か…)内容を思い出しながら再確認していると、急に肩に鈍い痛みが走った。
 「食べながら眠るな、馬鹿者」
 呆れた声と共に、肩を掴んでいたライの手が離れていく。そこでようやく、倒れそうになった自分をライが支えてくれたのだと気付いた。素直に感謝の言葉を言いかけて口の中の干し肉が邪魔なことに気付き、コノエは乾し肉を噛んで飲み込んでしまってから、口を開く。
 「ありがとう。――さっき、ちょっとだけ夢を見た。あの<竜騎士>がいた」
 思わず普段なら触れないような夢のことまで口に出してしまったのは、夢の中の光景にどこか引っかかりを覚えたからだ。しかし、詳しく夢を説明するよりも先に、ライの小馬鹿にしたような笑いが耳に届く。
 「フン、あの女が気になるか。子どもが一人前に色気づいて」
 「そんなんじゃない!」
 「お前もあのとき見ていただろう?あの女が、俺と闘っていた男と――」
 「っ!だから違うって言ってるだろ!」
 ライの言葉を遮って、コノエは叫ぶように言った。ライの執拗さへの怒りと、思い出した光景への羞恥で勝手に顔に血が上る。複合魔法が降ってくるというまさにそのとき、コノエが偶然目にした彼女と黒竜が化身していた男の姿は、コノエにとって少々刺激が強かったのだ。
 「いずれにせよ、あの女には関わるな。契約者は最早ヒトとは異質の存在、想ったところで叶いはせん。叶ったところで、その関係は悲劇に終わる。…なぜだか分かるか?契約者には、誰よりも深く心を通わす相手――契約を取り交わした人外の存在がいるからだ。その人外の存在は、契約者が己以上に心許す相手を作ることを許しはしない。古来より、人より力があるはずの契約者の多くが、そのためにわが身を滅ぼすことになった」不意にライは意地の悪い言葉遣いを止めて淡々と言った。
 「あの2人は…その、すごく仲良さそうだったし、上手くいくんじゃないか?」
 「人外の存在は契約者を繋ぎ止めるため、契約者が己に強い感情を抱かせるように仕向ける。憎悪にしろ愛情にしろ、執着につながる強い感情に他ならない。――結局ヒトは奴らにとって、玩具でしかない」
 言葉の最後は、どこか独り言のようだった。
 ライがこんなに契約者について詳しいのは、彼自身が契約者になりかけたことがあるからだ。コノエが出会うより以前、ライは結ばれかけた契約を断ち切るために、片目を失った。そして、完全に断ち切った今でも契約を結びかけた人外の存在の闇がライの中に残っており、血への衝動を呼び覚まそうと蠢いている。
 おそらくライの容赦ない口調は、<竜騎士>を見て自身の過去を思い出して、苦い感情を蘇らせたからなのだろう。

 その過去を、なかったことにはできないけれど。
 もしあんたが闇の中で迷うなら、今度は俺が先を示すから。

 コノエは黙ってライに身を寄せて寄り添うと、小さな小さな声で旋律を口ずさんだ。支援魔法の“歌”ではないただの音の連なりに、ライへの想いを込めて。























***


 活気づく砦の敷地を見下ろしていたシキは、やがてバルコニーから砦の内部へと入った。階下の喧騒を背に、石造りの階段を上っていく。砦の3階部分に至ると辺りは静かになった。
 暗い廊下を進んで、一番奥の部屋へと入る。部屋はランプが消されて闇に沈み、窓から差し込む月明かりが、ぼんやりと室内の様子を浮き上がらせている。見れば、部屋の奥に置かれた簡素な寝台の上に、人一人分の毛布の丸まりがあった。シキはそこへ、足音もなく歩いていった。
 寝台の傍まで来ると、目の前の壁にの長剣が立てかけられている。
 シキは手を伸ばし、その鞘越しに刃に触れる。剣に息づく魔力の、静かな波動がしんと掌に伝わってきた。が炎の気を刃に伝わせても乱れることのない波動、そして、折れることのない鋼――さすがに名剣と呼ばれるだけのことはある、とシキは納得する。
 シキが剣の扱いを教え、シキの動きをなぞるように上達した娘は、あるときを境にシキの真似をやめた。
 きっかけは、時が経つにつれてシキとの魂の結びつきが深まった彼女の気が、シキの本性と同じく炎の性を帯び始めたことだった。彼女の振るう剣がその気の苛烈さに耐え切れず、ことごとく朽ちてしまうのだ。ならば朽ちない剣をと探し求めて得たのが、彼女の身の丈ほどもあるこの長剣だった。以来、彼女の剣の扱いは、この長剣に沿うように形成されてきたといってもいい。
 そして、今、彼女の剣技を見る者は言う。

 まるで、剣と踊っているかのようだ、と。

 (踊っているというのは、結局、剣にいいように扱われているのと変わらんが…振り回されていたころよりは、余程、マシになったとは言えるだろうな)
 シキがため息と共にそんなことを考えていると、剣から笑いのような細波のような波動が伝わってくる。この剣は造られてヒトの手を渡り歩く間に、人格とはいかないまでも意思に近いものを持つようになっている。だからこそ、かなり剣の上達したでも、容易に扱いきれるものではないのだ。
 剣から手を離すと、シキは静かに寝台の端に腰を下ろした。そうしての顔を覗き込めば、彼女は固く目を閉じて眠っているようだった。まだ熱が下がらないようで、呼吸は早く苦しげである。それに、汗をかいている。このままでは、脱水症状を起こすかもしれない。
 シキはベッドの脇の小さなテーブルの上から水差しを取ると、そこから水を口に含んで水差しを戻す。そして、身を屈めて彼女の唇に己のそれをあてがって、水を流し込んだ。余程渇いていたのだろう、は眠りながら与えられるままに水を飲み干し、もっととねだる幼子のような素直さでシキの唇を舌で舐める。普段「本来ならふしだらな行為だから」と一定以上のシキとの接触を頑なに避けようとするの態度との差に、シキは思わず苦笑する。
 同じ行為を繰り返してひとしきり水分を与えると、の呼吸はやや落ち着いたようだった。彼女の身を苛む熱も、もう収束し始めているようだ。それでも、今日はの傍についていなければならない。魂の融合した彼女は己の弱味そのもの。弱っている彼女に何かあっては、共倒れしかねない。ただ、それだけのこと。は、ただそれだけの存在に過ぎない――はずなのに。

 “やりましょう。できなければ、皆と一緒にここで焼かれるの”
 真っ直ぐに信頼と決意を浮かべて見上げてきた眼差し。
 頑なな態度の普段とは裏腹に、彼女から差し伸べてきた腕。

 ふと思い浮かんだそれらに呼び覚まされて、ある衝動が湧き起こる。
 時折意味もなく起こる、彼女に触れたくなる衝動。それに名をつけるつもりはない。全てを言葉で括ろうとするのは、他者と共に生きるヒトの子の習性といってもいいだろう。単独で永いときを生きる竜は、感覚や現象をそれとして受け止め、敢えて言葉に押し込めることはしないものだ。なぜなら、言葉という枠に押し込めようとすれば、ものごとの真理の一面は必ず見えなくなってしまうのだから。
 思わずシキは誘われるように身を屈め、閉ざされた目蓋に触れるだけの口付けを落とした。






End.
2008/10/20「ふたりきりの孤独」修正加筆改題版

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