眠りに堕ちていく彼の話4
「――去れ」 吐息のように告げられる言葉。 廃墟の中でそれっきり物音は絶えて、あとには外の雨音だけが残る。 沈黙が耐え切れないくらい重いのに、私はとっさに破ることができなかった。声が出なかったせいだ。言いたいことはたくさんあるのに、口を開けば嗚咽になりそうだった。けれど泣いている暇などないから、唇を噛んでやり過ごす。 刺客を退け、いつものように塒になりそうな廃墟に身を落ち着けた。そうしたら、突然「去れ」と言われたのだ。別れを切り出す(というと恋人のようで語弊があるが、便宜上そのように表現する)のに明確な理由が必要かといわれれば、そんなことは無いかもしれない。飽きたとか性格の不一致とかそんな曖昧な理由もあり得るし、シキがそういう理由で言うのなら、私だってストーカーも潮時かと諦めもつく。けれど、こんな“眠り”に着く前――遺言じみた言い方では納得がいかない。 私は目の前にあるシキの顔を睨みつける。勿論、私程度が睨んだところで、この人が恐れるはずもない。けれど、今は視線を受け止めた上で平気なのではなく、私の視線そのものがシキに届いていなかった。暗がりではいっそ黒に見える暗赤色の双眸は空虚に満ちて、シキの上に意識の断絶が起こり始めていることは明白だ。 「去れ。どこへでも、好きな場所へ行け」 「何で、いきなりそんなこと…――私はシキと一緒に行く」 駄々をこねる子どものように言えば、シキはほんの束の間苦笑らしきものを浮かべて目を閉じてしまう。私は、息をすることも忘れてその様子を見ていた。 今までも度々起こってきたシキの意識の断絶は次第に深く、長く、頻繁になって、シキの目覚めている時間をじわじわと食い尽くそうとしている。ほんの二時間ほど前の刺客の襲撃の際にも起こって、今再び意識の断絶が訪れようとしているが、かつてこれほどまでに短い間隔でそれが起こったことはない。いつかシキが完全に外界を見なくなるときが来るのではないかと私は密かに恐れていたが――それは今なのではないか。 「――シキ…?」 名を呼んでみるが、反応がない。 そんな、まさか。 恐怖に駆られながら、私は煩いくらい何度も名を呼び動かない身体を揺さぶった。いくらシキの意識が外界から遮断された状態にあるにせよ、常ならここまですればさすがに煩そうに目を覚ましたものだ。それが、何の反応もない。 「そんな、嘘でしょう…?」 呟きながら、私はその場に座り込んでしまう。 シキが完全に目覚めることがなくなったら、一体どうすればいいのだろう?――ずっと恐れてきたことだった。 たとえ目覚めなくても共に在れるのならばそれに越したことはないが、やはり無理な話だ。意思としては可能でも、女の身で意識の戻らない大人の男を世話することなどとてもではないが出来そうもない。そして、仮に私がそんな状態のシキから離れたとして、意識のないシキの身体はどうなる。私の知らぬ間に刺客に害されるか、静かに朽ちていくか。そんなこと許せるはずもない。 それに、私自身もシキなしで生きていく意味などない。シキと共にいたくて、その希望が叶いもしないうちから私は家族と元の生活を捨てた。そこまでしてシキの隣を手に入れたのに、自分の望む場所にいられないというなら、私は自分の捨ててきたものに顔向けができない。自分を許すことができない。 唇を噛み締めて、私はシキを睨んだ。 別れが訪れる瞬間を想像するとき、覚えたのはいつも悲しみだった。けれど、今そのときが訪れてみると、悲しみよりもむしろ怒りを感じている。この人は、こんな終わり方を自分に許すような人じゃない。どうして這い上がろうとしないのか。自分の内側の闇に囚われることを許すほど、弱い人ではないはずだ。このままこの人が心を失い、他の誰かに呆気なく害されていくくらいなら――。 私は腰から下げたナイフホルダーに手を伸ばし、柄を握って引き抜いた。柄を握った右手は無駄な力がこもり過ぎて小さく震えたが、今から自分がしようとすることからすれば当然だ。 シキを殺して、自分を殺して、全部お終いにしようと思った。 ナイフを両手で握り締め、高く掲げる。 静かな呼吸の通う胸に切っ先を落とするが、震えのせいで一向に狙いが定まらない。 そこを何とか狙い定めて――振り下ろす。 「――っ…、」 できない。ナイフの先端は胸の上数センチを残して止まってしまう。そこから下へ振り下ろすことが、どうしてもできない。まだ生きているのに、血の気のない白く冷たい皮膚の下にまだ赤い血の流れがあるのに、見切りなどどうして付けることができるだろう。 だらりと脱力するように、ナイフを下ろした。小さく震えながら右手の指を左手で抉じ開け、ナイフを床に放り出す。今となっては先程の怒りも去り、頭の中は真っ白になっていた。 以前、シキに情が深すぎると言われたことを思い出した。 「――本当に、そうなのかもね…」 小さく呟いて、何の反応も示さないシキの頬に触れる。 冷たい。雨に打たれた衣服が冷えて、体温を奪っているのだろう。 そう思いながら、私は濡れそぼった衣服に手を掛けた。冬の雨を吸ってすっかり冷たくなった黒いシャツが、皮膚に張り付いている。これでは本当に寒かろうと思いながら、シャツの下に手を差し込めば、頬よりもさらに冷たい肌の感触が手に触れた。 シキは相変わらず目覚めず、当然ながらこの行為を咎めることも許すことも無い。本人の手伝いが無い以上濡れた衣服を脱がせるのはひどく困難で、仕方なく私はシャツを可能な限りたくし上げて抱きついた。私はもとより上半身は脱いでしまっていたので、露わになったシキの胸から腹部の辺りと直に肌を触れ合わせることになる。どちらも雨に体温を奪われてはいるものの、私の方がまだ身体が温かい。腰に腕を回して緩く背中を撫でながら、自分の体温がシキに移るのを待つ。 自身の闇に囚われていくシキに怒りを覚えた。虚ろに囚われないシキを望んでいた。 そうして、今、ここに残るのは心をなくした抜け殻のような身体。 だが、たとえ心を失くしていたとしても、それがシキだというだけで、やはりどうしようもなく大切で愛おしい。 だから、お終いにできないのならせめて、お終いが来るまで傍にいようと思った。 虚しくて、悲しくて、それでも奇妙に満ち足りたような感情に任せて顔を寄せ、私は冷たいシキの唇に自分の唇を押し当てた。薄く開いていた唇の隙間から舌を差し入れ、口付けに応えることのないシキの舌先を舐める。自分からそんな風に口付けたことは初めてで、かつてのシキとのやり方も思い出せないまま数度舌を触れ合わせて離れた。 途端、短い接触の間にも溜まった唾液が滴り落ちていく。常ならば羞恥を誘う現象だが、今の私にはどうでもいいことだった。見られて羞恥を覚えるような相手は、私を見ていないのだから。 *** しばらく私はそうやって抱きついていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。取り急ぎで肌を合わせて体温を移したものの、それだけではいかにも不十分だ。とにかく毛布か何か持ってこようと思い身体をはなそうとすると――ひんやりした感触が背に触れて動きを阻んだ。 「っ…」 思わず息を呑んで動きを止める。咄嗟のことで驚きはしたものの、そのひんやりとした感触は思い返せば私もよく知るものだった。シキの冷たい指先。抱き合うときに、或いは何気ない接触で、幾度となく触れられたことがある。けれども、その持ち主は今は“眠って”何の反応も示さないはずで、 「――まったくお前は…いつの間に、男を誘うことを覚えた…?」 吐息のように微かな声が頭上から降ってくる。 私は驚いて、何も考えられないままとにかく必死で目の前の身体に抱きついた。どれだけきつく抱き締めたところで、意識が途切れようとするならば引き止めることはできない。そうと分かってはいても、そうせずにはいられなかった。 「も、…起きないかと思った…」 抱きついて胸元に顔を押し付けたままで言った。気を緩めると泣き出して何も言えなくなりそうで、抑えた声は自然と切れ切れになる。顔を上げてシキの目を確かめたいと強く思ったが、失望するのが怖くて上げられなかった。 と、頭に微かな重みが乗せられる。多分それはシキの手だったのだろう。まるで子どもを宥めるように頭を撫でられた。それだけでも、安堵してじわりと涙が滲んでくる。 「去れと言ったはずだ」 「…私は、シキと一緒にいると、言ったでしょう?」 「俺はじきに目覚めなくなる。本当なら先程の眠りでそうしているところだった。お前も既に分かっているはずだ。お前は去って、平穏な生活を始めればいい」 それでは駄目なのだ。シキが共にいるならば何でもいいし、いないのならば他のどんな生活も私には意味が無い。それは以前に何度か出た話でもあり、どうして分かってくれないのかと涙も引いて怒りさえ沸いてくる。が、ここで私が怒ったとしてもシキは更に頑なになるだけだ。 せっかく再び目覚めてくれたのに、喧嘩に終始するなんて無意味すぎる。そう思ったから、私は怒りよりも更に奥にある本心を伝えることにした。 思い切って顔を上げ、今は開いているシキの双眸を見据える。 「…さっきあなたが眠ってしまったとき、私、あなたを殺そうとした。刺客や他の誰かが無抵抗のあなたを傷つけるのかと思うと許せなくて、ならいっそ私がと思って。あなたを殺したら、私も死ぬつもりだった」 言えばシキはちらりと床に投げ出されているナイフに視線を走らせる。 「それで、仕損じたか」 「そう、できなかった。たとえ意識がなくてもシキのことが大切だから、傷つけるなんてできなかった」 言葉を切って息を吸い込む。これから口にするのは、臆病で思い切りの悪い私の精一杯の覚悟だ。 「一つだけ、お願いがあるの。私にはもう他に無いから、一緒に朽ちるだけになってもいいから傍にいさせて」 「…逆らう気か」威圧的な言葉とは裏腹に、吐息のようにシキは言う。 勿論、逆らう気に決まっている。 去れと言うのはシキの勝手だ。けれど、私を遠ざけようとするるのなら、以前のあの鮮烈なほどの意思を持つ眼差しを取り戻してからにしてもらいたい。今の空虚の色が残る眼差しには私の意思を変える力なんてないのだ。そう思いながら、闘う術を教わったときのように挑む眼差しをシキの双眸に向けた。 シキは値踏みするような視線をこちらへ向けたが、やがて呆れた様子で目を閉じる。 「――24時間だ」ぽつりと零れた言葉。 「え?」一体何が24時間なのか。私は思わず間の抜けた声を上げる。 「今後、俺が“眠って”から24時間以上この意識が戻らないことがあれば殺せ。そしてお前も――朽ちるのを待つくらいならば、俺を殺した後に生命を絶て。今後も共に来るつもりならばそれが条件だ」 言われたことを理解した瞬間感じたのは、嬉しさだった。過酷な条件を出されているはずなのだ。共にあることを許されたからといって喜ぶような内容ではない。それでもやはり嬉しくて、私は知らず笑みを浮かべていた。 「…ありがとう」 どうしようもなく“愛おしい”と思うけれど、恋人ではないからその言葉は重くて言えない。代わりに、伸び上がるようにして冷たい唇に触れるだけの口付けをする。こんなことも今まで私からはしたことがないが、言葉にはできなくとも表したかった。ただ、その感情は伝わらないでほしいとも思う。シキの傍にいるには、恋人なんて生温いものではきっと無理だから。 *** 1、2、3…ざっと8人といったところか。 廃墟の窓際、外からは見えぬ場所に身を潜めながら、私は殺気を帯びた気配の数を数えた。まだシキのように完全に読み切れるわけではないが――これでも随分上達したので大体の数くらいなら分かる。 次いで私は窓の外から室内へと視線を向けた。 部屋の奥のソファでは、シキが“眠って”いる。あの別れを告げられた一件以来、シキの意識の断絶は外から見るとぼんやりしているという風ではなく、眠っているように見えるようになった。つまり、意識が失われている時間が長くなり、活動の殆どを停止してしまうのだ。 ちらりと腕時計に視線を落とせば、シキがこの廃墟で“眠って”から11時間が過ぎようとしていた。あと1時間――短ければ12時間以内、長くとも24時間経てばシキは目を覚ます。それがあの日シキが自分に課した条件だった。 あの日、シキは私に条件を出すと同時に自分にも24時間という義務を課した。それはきっと並大抵のことではなかったのだろう。あのときは“眠り”に抗おうとしないシキに怒りを覚えた私だが、今なら理解できる。なぜなら、“眠り”から目覚めるときシキはいつも疲れたように目覚めるからだ。 シキが“眠る”というのは、私にとっても大変なことだった。まず移動できる時間が限られてくる。刺客に襲われても逃げられない。私が一人で刺客の相手をしなければならない。そんな風でしばらくは体力的に厳しく、シキはもう目覚めないのではという不安も付きまとって精神的にも辛い時期が続いた。それでもシキは約束どおり目覚め続けてくれたし、私も一人で闘うことにも慣れていった。 私は小さく息を吐いて窓際を離れ、部屋の奥へと歩いて行く。長い間使われなかったらしいソファに身を預けて眠るシキの上に屈んで、閉じられた瞼の上に軽く唇を触れさせる。シキが実際に眠っている際にこんなことをしようものなら気付かれるだろうが、この状態の場合ならばその心配はなかった。 「行ってきます」 囁いてから外へ向かう扉へ向かって歩く。 あと1時間の眠りを守るために、外へ出てこちらを伺う刺客たちに先に仕掛けようと思った。 End. お題配布元:『is』 「ただたしかに愛にはかわりなく 」 目次 |