眠りに堕ちていく彼の話3
全ての感覚が外界から遮断される。 何もない暗闇の只中に一人投げ出されるような状態。それはいつも唐突に訪れる。暗闇の只中ではどんなに足掻こうと自力で抜け出すことができず、時が来れば勝手に感覚が戻ってくる。 当初は思い通りにならない外界からの意識の断絶を許すことができなかったというのに、今ではそれに身を委ねつつある自分がいる。決して受けいれたわけではない。ただ暗闇から浮上する意味を感じられなくなっただけのこと。 この闇は、意識の断絶は、宿敵を失って現に対する興味をも失くした己の弱さに起因するものに他ならない。そうと分かっていても、次第に現に戻ることへの必要性を感じられなくなっていく。 唯一つ気懸かりを残したまま、それでも空虚に侵食される己を止める気にはなれないでいる。 *** 静かに閉じられる扉の音を切欠に、シキの意識は浮上した。 空虚な闇は遠退き、緩やかに感覚が戻ってくる。目を開けながら半ば習慣のように気配を探れば、隣で眠りに就いたはずの存在が感じられない。 感覚が戻ってなお自分のものとは思えないほど重い身体に苛立ちながら、シキは身体を起こした。同時に気配を探る範囲を少し拡げれば、建物の外にの存在があるのが分かった。その気配は、特に移動するでもなく同じ場所にじっと留まっている。 眠れず外へ出て行ったか――そう思いながらシキは小さく息を吐き出した。 の寝つきが悪いことは、トシマ脱出時から行動を共にしているシキもよく知っている。しかも、普段呑気そうにしているだが、気に病むことがあるとその傾向が更に強まるのだということも。刺客を斬った日などは寝難そうにしている。その上、最近ではシキの意識の断絶にも不安を抱いていて、そうと口には出さないが、そのために眠れないこともあるようだ。 いっそのこと自分から離れれば楽に生きられるだろう――そう思うことがある。そう言ったこともある。けれど、は聞き入れなかった。家族も何もかも全て捨てて共に来ることを選んだのだから、当然といえば当然なのかもしれないが。 しばらく時が過ぎても、外にいる気配は動く様子がない。寝付けずに気分転換をしているとしても――遅い。 シキは起きて刀を手にすると、外へつながる扉へと歩いて行った。 *** 外へ出ると、は戸口のすぐ先の草の上に座って、集落の灯りを眺めていた。 どうやら泣いているらしく、声もなくしゃくり上げる呼吸が虫の声に混じって聞こえてくる。 こんな風に、が隠れて泣くことは時折あった。刺客を殺したとき、シキの意識の断絶が起こり始めたとき――そして、おそらくは追われる生活が辛くなったときも。休息の際にこっそり抜け出して、は一人で泣いていた。 行動を共にしているのだからシキはそのことに気付いていたし、当初は鬱陶しくも思った。けれど本人が隠しているのだし、気晴らしになっている様子もあるので、次第に咎める気は薄れていった。今はただ諦めと呆れが残っている。 泣いていることは知っていたが、その場に居合わせたのは1年半ほど共に過ごしたというのに初めてだった。常ならば、の様子から察して好きにさせていたためである。シキは内心困惑しながら、嗚咽に震えるの肩を見つめた。細い肩だ。元々女らしい華奢な体つきであったのが、このところ更に細くなったように感じる。 苦労をさせている――柄にもなく感傷的な考えが浮かんでくる。 特に気配を消しているわけでもないのに、がこちらに気付く様子はない。 何となく決まりが悪く思いながらも、シキは仕方なくの傍へと歩いて行った。隣に腰を下ろしたところでようやく気付いた様子でが顔を上げて何か言いかける。が、シキは言葉を返さなかった。 困惑していた。何を言えばいいのか、そもそも何か言う必要があるのか分からない。 けれど、を一人残して戻ろうという気は、起きなかった。 本来ならば裏の世界でなく陽の当たる場所で生きるべき存在。 それでも、今は己の所有物であることに変わりはない。 ならば、抱く感情も見せる表情も全て己のものであるべきなのだ。 随分と久しぶりに、空虚に霞まない鮮やかな感情を抱く。その衝動のままに、シキは隣にある身体を抱き寄せた。 「いつまで泣いている」気がつけば、口にしていた。「家が恋しくなったか。俺と共に来ることを選んだのを、後悔しているのか」 問えばは首を横に振って、身体の力を抜く。 どうする気かとシキが思っていると、は腕の中で体勢を変えてシキの肩口に顔を埋めた。まるで人に馴れることのない小動物が僅かに馴れ始めたような有様だが、あまり自ら触れてくることのないにしてはなかなかの譲歩と言えるかもしれない。 ふ、と耳元を掠めたの吐息に安堵が混じっていることに気付いて、シキは何とも言えない気分になる。自分の傍にいて泣くほどの思いをしている癖に、一体どこに安堵する要素があるのか本当に分からない。思わず、確かめるような言葉も出る。 「後悔していないか」 「してない」 嘘だ。普段の従順さからは推し量れないが、これは案外気が強い。後悔していたとして、そうであると弱音を吐くことができるなら――独り隠れて泣く必要などあるはずもない。 そう思い溜め息を吐く一方で、不可解な安堵がじわりと拡がる。その安堵を内心訝しく思いながら、シキは腕の中で泣き続けるの気が済むのを待った。 *** 暗い室内に白い背中が浮かび上がっている。 雨の中刺客を退けて、廃屋に忍び込んだ。身を落ち着けるなり、濡れた衣服では風邪を引くからとはさっさと身体を拭い始めた。さすがに下衣を脱ぎはしないが、上半身は恥ずかしげもなく晒して、濡れた肌を拭いていく。薄い壁に背を預けて激しい雨音を聞きながら、シキは何をするでもなくその様を見守った。 身体が重い。 まるで泥の中に沈んでいるかのようだ。 何もない空虚の闇がじわじわと意識に覆い被さろうとしている。 いつものように緩やかに外界から遠ざかっていく感覚。闇に侵食され始める意識の中で、の後姿だけが唯一鮮やかだ。美しくなった、と華奢な背中を見ながらシキはとりとめもなく思う。 外見がどうということではない。表面の美醜など心動かされるのはほんの一瞬でしかなく、最早その程度では零れ落ちるこの意識を引き止める材料にはなり得ない。そうではなくて、いつからかその身に帯び始めた必死さや覚悟や自負のようなものが、を美しく見せるようになった。少なくとも、手放すのに躊躇いを覚える程には。 けれども、自分の意識が闇から戻りにくくなっていることも、シキは既に気付いている。このままいけば、確実にあの闇の中に囚われるときが来るだろう。それを招くのは結局己の弱さであり、だからこそ、付き合わせるわけにはいかないと思うのだ。 は、日向で生きることの出来る娘だ。今手放せば、まだ間に合う。既にはシキを追ってくる刺客をある程度一人で捌くことができる。家族の元には戻れなくともこの内戦に混乱した状況でも我が身を護り、平穏な生活を掴む力はある。そうして一旦平穏な生活に戻ってしまえば――じきに他の男のものとなり、いずれは子を産み母となるだろう。 「」 名を呼べば、怯えたような仕草でが振り返った。上半身の肌を晒したまま、泣きそうな表情で傍へと来る。すると微かに柔らかな匂いがふわりと届いた。 「どう、したの…」 「去れ。どこへでも、好きな場所へ行け」 「何で、いきなりそんなこと…――私はシキと一緒に行く」 泣き出すかと思えたは、しかし、意外にもしっかりした眼差しを向けてきた。いっそこちらを睨むかのような視線に日頃は窺い知ることもできないような強い意志が宿っている。 これは本当に美しくなった――シキは訪れる闇に逆らわず、瞼を閉じながら思う。 初めはいっそ精神的に幼いように思えた存在。今も屈託が無いには変わりは無いが、時折こうして凛とした艶やかさのようなものを漂わせるようになった。傍に置いて変化していく様を見るのが楽しくなかったといえば、嘘になる。 それが他人のものになると思うと不快で仕方がない。 本当は手放すのが惜しい。 けれども、その存在が掌から零れ落ちていくのは、全て己の咎なのだ。 End. お題配布元:『is』 「僕のいない世界をはじめて」 目次 |