眠りに堕ちていく彼の話1





   「――…!」

 唐突に間近に人の気配を感じて、シキはソファの上ではっと身を退いた。同時に、殆ど条件反射で差し伸べられた手を払いのける。ぱしりと小気味よく響いた後に、ばらばらと何かが落ちる音が続く。そこでようやく、シキは右手を庇いながら立ち尽くすとその足元に散らばるソリドに気づいた。
 追っ手を斬り捨て、今日の塒とすべくこの廃墟に忍び込んだのが、15分ほど前。途切れる前の記憶では、コレは台所を調べに行ったはずだ。が、ソリドを持ってこちらへ来たということは、目ぼしい非常食もなければ、煮炊きもできなさそうだったのだろう。――目の前の光景を、シキはそのように理解した。
 は驚いた表情で立ち尽くしていたが、やがて視線を外して床に落ちたソリドをゆっくりと拾い始める。シキはただ無言でその姿を見守った。

 トシマを出て以来、全ての感覚が失われることがある。
 勿論、己は目覚めていて、周囲には人やものが存在する――はずだ。
 けれど、どうしてもそれらに意識を向けることができなくなる。

 何が原因なのか、心当たりはない。宿敵と定めてきた相手を呆気なく失ったからか、別のことなのか。どういう理由であるにしろ、結局は心の在り様の問題でしかない。そう思ったから、特に原因を突き詰めることはなかった。そうするうちに、意識の消失は次第に回数を増していった。移動しているとき、今のような束の間の休息のとき、時折追っ手との戦闘の最中ですら、それは起きるようになっている。
 気付けるはずのことに気付けない。回避できるはずのことを見落とす。読めるはずの気配を読み損なう。今までひとりで裏の世界を渡ってきたシキにとって、できないことが増えていくのは苛立たしいことだった。けれど、どうすることもできない。
 ぼんやりするうちに、ソリドを拾い終えたが、ゆっくりと立ち上がった。
 まずはこちらを見て、次にソリドへ視線を落としてから、また戻す。先程手を振り払われた気まずさをどう誤魔化すか、と少し悩んでいるようでもあった。

 「――浅はかだったな」

 思わずシキは呟く。すると、はどういうことかと言いたげに目を丸くした。
 「俺も、お前も、どちらも。トシマを出たときに別れていれば、もっと楽だった」
 「私が邪魔だから、もうついて来るなと言いたいの?――あなたの足手まといになってることは知ってるけど、それでも、」
 は、きつく唇を引き結んでこちらを見据える。正面から視線を合わせてくる黒い瞳は、薄く涙の膜が張っているようにも見える。威圧感はない。けれど、ひたすら真っ直ぐであるが故に、強烈な印象を残す眼差しだった。
 大人しげな外見に似ず、コレは気の強いところがある。普段は決して表に出さないので、多くの者はただ従順なだけと見なすのだが。けれど、そんな女であれば早々にこの追っ手からの逃亡生活に鳴を上げていただろう。
 「…そういう意味とは、違う。ただ俺についてくることを選んだお前は浅はかだったし、それを許した俺も浅はかだったと言っている。――一度足を踏み入れたら、裏の世界はどこまでもついて回る。戻りたいと思っても、元の生活には戻れない」
 「分かってる。分かった上で、選んだもの」
 「そこでひとりで生きることになっても、か?」
 「っ……」は何か言いかけたものの、結局、唇を引き結んで言葉を殺してしまう。
 「お前は、自分のために裏の世界で生きるようになったわけではない。俺についてなし崩しに足を踏み入れただけだ。そのお前が、本当にひとりで裏の世界を生きることができるのか?この世界のことだ、いつ俺と死に別れるかもしれん」
 言いながら、シキは内心自嘲していた。

 そうと知りながら、ついて来ることを許したのは誰だ。
 その手を離せなかったのは誰だ。
 傍に置くことを望んだのは誰だ。――すべて、己ではないのか。

 は自身の意思で選んだし、己はそれを許した。いや、許したというのは単なる見栄で、本当は望んでいたのだ。互いの望みは今でも一致しているのだから、このような会話には全く意味がない。ただ徒にを悲しませるだけだ。
 トシマを出た直後も現在も、刺客の類に狙われるのは同じで、死に別れる可能性も変わらない。今になって過ぎ去ったことを蒸し返してしまうのは、意識の喪失が頻繁になって“別れ”を予感させるせいだった。タイムリミットは、確実に迫っている。だから。
 「…或いは、他の理由で別れたりすることになるかもしれん。そのとき、お前は」
 「もう聞きたくない。縁起でもないこと言わないで」
 「言おうが言うまいが、いずれは確実に訪れることだ。縁起云々で、有耶無耶にするのは馬鹿らしい」
 そう挑発すると、は何も言わずにソリドを左腕に抱え直して右手を少し振り上げる。一瞬、伺うような間があってから、振り下ろされる。遅い上に対して力も込められていない平手は、その気になれば造作なくかわせただろう。しかし、敢えて避けずに受けた。威力がないことは明らかであったし、先程の手を払い除けたお返し程度の気持ちだった。
 が、の方はひどく驚いたようだった。
 初めは呆然とした表情であったのが、次第に泣き出しそうに顔を歪める。平手を受けたのはこちらだというのに、どうしてが痛そうな表情を見せるのか。シキは理解できないと思った。


 しばらくは、互いに一言も発さなかった。
 は立ち尽くしていたが、少し経つと俯きがちに「ごめんなさい」と呟く。それから、シキが座っているソファの隣に、1人分の半分くらいの間を空けて腰を下ろした。
 肌を合わせる関係になってもうしばらく経つが、はいつもそのような関係にしてはよそよそしい程の距離を置こうとする。シキも他人との過剰な接触は好まない性質なので、馴れ馴れしくされるよりはその方が余程いいと思った――最初は。けれど、最近ではその微妙な距離に少し苛立ちを感じるようになっている。
 は膝の上に持ってきたソリドを置いたが、食べる気もないのか、ただそれらに視線を落とすだけで包装を開けようとはしない。互いに黙ったまま時が過ぎていく。いい加減もどかしくなってきて、シキはの手を取り上げると、自分の方へ引っ張った。「うわっ」間抜け声を発しながら、は半人分の間を詰めた位置に座り直す格好になる。は呆然とシキの顔を見ていたが、やがて俯いたかと思うと今度は自身で距離を詰めてシキに寄り添った。そのまま、肩の辺りに顔を押し当ててくる。
 「叩いたこと、ごめんなさい…」
 「敢えて叩かれてやったんだ」
 そう謝罪に応じてから、シキは左手での背をあやす様に撫でた。すると、は触れ合っているシキの右手を握り返し、何やら小さな声で呟いた。

 あなたは、どうしたら分かってくれるのかな。いつになったら、信じてくれるのかな。
 何を差し出したら、安心してくれるのかな。私は“ここ”にしか居たくないのに。


 「何だ?」
 「ううん、何でもない」
 はぱっと身を離すと、いつもの調子に戻って「さぁ、ご飯にしないと」と言った。それから膝の上のソリドを取り上げ、半数を手渡してくる。シキは差し出されるままにそれを受け取った。
 このところ刺客の襲撃が多く、まともな宿も取れないまま移動を重ねているので、食事は当然ソリドばかりになってくる。もう数日続けてのソリドを、それでも嬉しそうに開封するの横顔を眺めて呆れる。味は違えど同じものを、毎回よくもこれほど嬉しそうに口にできるものだ。けれど、連日のソリドも、が嬉々として口にするから己も我慢できるのだろう、ということはシキも既に理解していた。


 決心を先延ばしにしても、今ままの己の状態では必ず、この存在を手放すときが来るだろう。
 そのとき、世界はどれ程つまらないものになるだろうか。尤も、それを感じる感覚もないかもしれないが。





End.
お題配布元:is
「延長は出来ますが、永遠は望めません」

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