溶ける、零れる、落ちる 1



 冬の近付く11月半ば。
 朝のバスに乗り込んで、他の通勤客と共に30分の道のりを揺られながら、ひとり事務所へと向かう。バスを降りて5分ほど歩けばすぐに見えてくる、商店街の中の3階建ての雑居ビルが私の職場である。
 ビルの1階は喫茶店が入っている。2階はうちの会社の事務所で、残る3階は社長のバルドの自宅として使われている。聞くところによると、ここの土地はバルドの家の持ち物で、バルドはそれを貰い受けたのだという。
 歩きながら腕時計を確認すると、7時45分だった。まだ8時半の就業時間には間があるが、この時間ならもう事務所は開いているはずである。そう思いつつ非常階段へ向かおうとすると、まだ開店前の喫茶店のドアが目に留まって、私は一瞬足を止めた。
 ここの喫茶店のケーキは大抵味に外れがない。最後に買って帰ったのは1ヵ月以上も前のことだったはずだ。そのとき買ったのが秋の新作で、最近品種改良で作られた“クィム”という果物のタルトで――コノエはとても気に入ったようだった。
 思い出すと、ふと湿っぽい感情が込み上げてくる。悲しさか寂しさか、或いは自分に対する苦々しさか。その感情の成分を理解してしまう前に、私は乱暴にそれを打ち消した。
そして、自棄のようにわざとパンプスの踵を高く鳴らしながら、非常階段を上っていく。

 クィムのタルト、秋が終わる前にもう一度食べたいかも。
 努めて呑気に私はそう思った。


***


 「おはようごさいまーす」

 誰かにというよりは部屋そのものに挨拶しながら、事務所へ入る。大抵ここでバルドが挨拶を返してくれるのだが、今日は事務所を開けただけで、まだ自宅にいるようだ。留守番もなく無用心だと呆れながら奥へ進むと、一番奥の事務机に先客がいた。入り口からでは死角になって、その姿が見えなかったのだ。
 その“青年”は自分の席に座り、目を閉じていた。机の上にはポータブルプレイヤーが置かれ、その傍で指先が小さくリズムを取るように机を叩いているから、眠っているのではないらしい。窓から差し込む朝日の中で、彼の表情はいつになく穏やかで大人びていて、私は声を掛けるのを躊躇った。まるで完成した絵のようで、その穏やかな空気を壊したくなかったのだ。
 「あ」気配で気付いたのか、ぱちりと目を開けた青年はイアホンを外す。そしてちょっと戸惑った表情をしてから口を開いた。「…えっと、おはよう」
 「おはよう。声を掛けなくてごめんね。コノエの邪魔になるかと思って」
 「邪魔だなんて、別にそんな…!バルドに言われて留守番してたんだ。バルトは事務所を開けようとしたところで知り合いから電話があって、ちょっと時間が掛かりそうだからって」
 以前は私と同居していたコノエだが、今は事情があってバルドの元に身を寄せているのである。
 そうなんだ、と頷いて、私はコノエの隣――自分の席に鞄を置く。そしてふとコノエの机の上にあるポータブルプレイヤーに視線をやった。以前コノエは特に熱心に音楽を聴きたがる方でもなかったので、少し意外な気がする。
 と、私の視線に気付いたコノエが照れたような笑みを見せた。
 「バルドが、音楽が好きで古い曲なんかも色々データを持ってるんだ。それで、聴かせてもらったら綺麗だったから…アンタも聴いてみないか?」
 「いいの?――うん、聴いてみたい」
 私が頷くと、コノエはプレイヤーのイアホンをこちらへ差し出す。それを受け取ろうとしたところで互いの指先が触れ合い、一瞬コノエはギクリと硬直したようだった。気付かぬ振りでイアホンを受け取り、再生ボタンを押す。流れ出した透明感のある女性の歌声。私は目を閉じて音楽に身を委ねながら、どうしてこんな風になってしまったのだろうかと考える。
 今度は、誤魔化しようもなく寂しさを覚えた。


***


 異変は秋の初めに訪れた。いや、訪れたというよりは、私が気付いたのがその時点であったというのが正確なのかもしれない。
 9月頃、コノエはふとした拍子に身体が痛むのだと零した。訊けば痛みは少し前から始まったのだという。気になった私はコノエの様子を見ようとして顔をのぞき込み、そこで気付いた。
 身長が、伸びているのである。
 同居を始めた頃、コノエは私の肩の辺りまでの背丈だった。それをいつの間にか越していて、視線を合わせるにも俯かなければならない角度が小さくなっている。普通の人間なら13、4歳の子どもは成長期だが、コノエの身体は普通とは違って…言ってしまえば生体部品の集合なのだ。この成長は異様なことのように思えて、私は不安になった。
 だが、こちらの不安もお構い無しにその後もコノエの成長は続く。単に身長が伸びて体格が変わるだけではなく、外見も次第に大人びていく。10月も半ばに差し掛かると、コノエはどう見ても17、8歳程度の“青年”にしか見えなくなった。
 仕事の立て込んでいる時期ではあったけれど、そこに至って私の我慢は限界を超した。やや強引に仕事の都合をつけ、ついでにコノエの“製作者”である<魔術師>が渋い顔をするところに面会の約束を取り付ける。そうして、私はコノエと共にリークスの自宅兼工房へと押しかけたのだった。


 訪ねて行くと、リークスは面会を申し込む際渋った程も嫌な表情をしなかった。愛想こそないが、根は優しい男なのだろう。
 リークスは私たちを工房に通して、内科医の診察のようにコノエの身体を診る。それから綿棒のようなものでコノエの口内の細胞を採取すると、私だけ残してコノエを別室へやってしまった。その行動が、まるで患者の家族に深刻な病を告知する医師のようで、私は不安になる。胃が痛み出しそうな気分で、私はリークスの言葉を待った。
 「アンドロイドの成長は、有り得ないことではない。完成時に年少であった場合は、特に」
 机の上で採取したコノエの細胞に何かの処置を行いながら、リークスは言った。
 製作の際、リークスは生体部品を組み込んで胎児の形で生じたアンドロイドを、培養液中で刺激を与えて成長させる手法を取る。アンドロイドの製作期間は普通1カ月ほどなので、もちろん胎児は人間の数倍の速度で成長することになる。そして、完成後もアンドロイドは実は緩やかに成長しているもの、なのだそうだ。
 「更に、急激な成長というのも、起こっても不思議はない」
 その原因は、本人の意思にある。
 アンドロイドは、機械化された脳を持つ。そのために、痛覚や感覚を意識的に麻痺させたり――人間よりも数段意思によって身体をコントロールしやすい。つまり、本人が強く望むなら、急激な成長も場合によっては起こりうる、らしい。
 実はもっと専門的な説明を受けたのだが、私に辛うじて理解できたのはその程度だった。兎にも角にも、コノエの変化が悪い兆候ではないということが分かって、ほっと息を吐く。途端、リークスが釘を刺す。早くも採取した細胞から何か分かったのか、私と机の上とを交互に見ながら言った。
 「成長自体は問題ないが、やはり急激すぎるのは問題だ。今はまだいいが、いずれ身体や細胞そのものに掛かる負荷で、最悪の場合、どんな重い疾病や障害が出るとも限らない」
 「っ、そんな…――」
 とっさに私は息を呑んだ。
 リークスの告げた内容の重さに、一瞬泣きたくなる。やはり、これは医師が深刻な病気を宣告するようなものだったと思った。


 話が済んで応接間へ行くと、ちょうどコノエとシュイがお茶を飲んでいるところだった。私は努めて何もなかった振りをして彼らに加わり、勧められるままにお茶菓子のクッキーを口にする。味は、全く分からなかった。


***


 リークスから聞いた話について、私はコノエに話すことができなかった。「このままでは病気になったり、障害が現れたりするかもしれない」ということをどう告げればいいかが分からないのだ。それに、まだ“最悪の場合”が起こると決まったわけではなかった。
 この話に幾らか安心できる点があるとすれば、最近コノエの成長は止まっている(或いは、気付かないほど緩やかになっている)ことだ。けれど、それだっていつ再び急激な成長が始まるかは分かったものではない。――少なくとも、望んだ成長であるなら望んだ本人以外は。


 なるべく普段通りに振舞っていた私だが、晩に家に辿り着くとどっと疲労感が押し寄せてきた。それでもいつも通りコノエと夕食をとり、片付けようとするとコノエが「俺がやる」と言う。知らず知らずのうちに顔に疲れが出ていたのかもしれない。コノエの申し出は有り難かったが、このまま休んでも嫌なことばかり考えそうで、私は自分がするからと断った。
 そうしたら、結局2人で片付けることになった。
 流し台の前に並んで立ち、コノエが洗った皿を私が受け取り、拭いていく。今でこそ家事の大半は交代制にしてあるが、当初コノエがまだ家事に慣れないうちは、コノエの当番の日は私が傍について補助していたものだった。そう、こんな風に。そのときのことを思い出して懐かしくなった。
 「…何か楽しいことでもあるのか?アンタ、笑ってる」
 皿を渡しながら言われて、私は我に返った。微笑ましいと思っていたら、本当に笑っていたらしい。
 「コノエが来たばかりの頃も、こんな風に一緒に洗い物したなと思って。あのときはよくお皿割ってたよね」
 「う、…そんなの思い出さなくていいから」 
 コノエはひどく決まりの悪そうな表情になった。
 誰だって自分の昔話はあまりされたくないものだ。私だって偶に実家に帰れば子どもの頃の話が出て、気まずく思うことがある。「思い出さなくていいから」とコノエが言いたい気持ちはよく分かるので、それ以上は言わず、ちょっと笑うだけにする。
 その後、私たちは自然と黙り込んだ。ただ水音と皿の触れ合うカチャカチャという音だけが台所に響く。笑ったせいか少し不安が和らいだ気がして、また、この穏やかな雰囲気なら訊いてもいい気がして、私は口を開いた。

 「コノエは、大人になりたいと思ったの?」
 「…あぁ」やや間があったものの、コノエはあっさりと答える。
 「前の姿は気に入らなかったの?」
 「そういうわけじゃない。リークスは元々、俺の人格プログラムの発達度合いに見合った身体を用意してくれてた。“頭の中と身体の不一致は、色々と負担になるから”って。あのときは俺もそれでいいと思った。でも、今は事情が変わったから」
 「事情…――でもね、リークスは急激な成長は身体の負担になって、病気になるかも知れないと言ってた。どんな事情でも、やっぱり無理に成長するっていうのは良くないことだと思う。それは、今すぐでないと駄目な事情だったの?」
 「今すぐでないと駄目、かどうかは分からない…でも、ただ待つだけじゃ、間に合わなくなるかもしれない…」
 俯いて、コノエは迷うような声音で言う。一体何がこの子をここまで不安にさせるのだろう。思い惑うコノエを痛ましく思うのと、何だか落ち着かない気がするのとで皿を拭く気分でもなくなり、私は手を止めてコノエの方に向き直る。
 「その事情を訊いてもいい?」
 「アンタがそれを訊くんだな」謎のようなことを言ってコノエは困ったように笑った。「大人の姿になれば、も少しは意識してくれるんじゃないかと思ったんだ。俺は、男として見てほしかった」
 「え?」思わず目を丸くする。

 その言葉の意味することは、実は分かった。
 ただ、そうすると今までの穏やかな関係は続けられない気がして、それが嫌で――私は分からない振りをした。それで誤魔化せるはずもないが、誤魔化して今まで通りの関係を続けられれば、それが一番良かった。

 「コノエは男よ。少なくとも、女の子には見えない」
 「そうじゃなくて、」
 顔を上げたコノエが、こちらに向かって手を伸ばす。私がそれを見守っていると、コノエは私の肩を掴んで引き寄せ、顔を近づけてくる。唇と唇が触れ合って、すぐに離れた。
 まだ肩を掴まれたまま、抱き合うような近い距離で、私はぼんやりとコノエを見上げた。やや大人びても、少年の姿の面影が残っている。確かに同一人物のはずなのだが、同時に知らない相手のようにも見えて困惑する。
 「俺は今ではとこうしたいって思ってる。そういう相手だと思って見てほしいんだ」
 そう言ってするりと離れると、少し距離を置いてコノエは伺うようにこちらを見る。
 何か言う必要があるのに、私は何も言えなかった。ここで、何も無かったようにいつも通り振舞うという選択肢も、有るには有った。私にとってはそれが一番楽だ。けれど、それではコノエの真剣さを裏切ることになる。だからといって“そういう相手”として見るならどういう反応をしたらいいのか、分からなかった。
 「心配させて、その上急にこんなことして、ごめん。は前、誰のものにもならないって言ったけど、でも、やっぱり誰かに獲られるかもしれない気がして、焦ってた。の意思も聞かずに、最悪だよな」
 自嘲するように淡く笑ってから、コノエはするりと私の横を抜けて廊下へ歩いていく。

 「コノエ、」
 「ちょっと外で頭冷やしてくる。心配ないから」

 やんわりと一人になりたいのだ、と告げてコノエは廊下へと消える。すぐに、玄関の金属製の扉が開閉する音が聞こえてきて、部屋には私一人になった。一人きりになると、去り際のコノエの泣きそうな笑顔ばかり思い出して、罪悪感が募った。


***


 コノエは帰ってこなかった。出て行ってから1時間後――10時半になって、探しに行こうとしたところで電話が掛かってきた。相手はバルドである。
 『道端で迷子のコノエを拾ったんだ。あんた心配しそうだからと思って電話してみたんだが』
 「ええ。今、外へ探しに行こうとしてたところ」
 頷くと、バルドは電話の向こうで『間に合って良かった』と安堵の息を吐いた。
 『最近は何かと物騒だ。年頃の娘に夜歩きはさせられんからな――ところで、コノエはアンタと何かあったんだろ?』
 普段バルドは他人をからかって楽しむ傾向がある(要はオヤジなのだ)が、このときの声音にからかう調子は含まれていなかった。ただ穏やかで温かい。だから、私は素直に頷く。
 「ちょっと、色々あって――あの、コノエはどうしてる?」
 『どうって…』電話の向こうでバルドは笑った。『落ち込んでるな。――実は、しばらくコノエをうちで預かろうと思うんだが、どうだ?』
 「え?」
 『そんな声出さなくても、アンタからコノエを奪おうってわけじゃない。お互いに距離を置いて冷静になる時間を作った方が良さそうに見えるからな。また落ち着いたら一緒に暮らせばいいだろ?』
 「…コノエから何か聞いたの?」
 思わず尋ねると、バルドは『いいや』と笑いながら否定する。
 『最近のアンタらを見てれば、まぁ、何となく分かる。一緒に暮らしてて子ども扱いじゃコノエも辛いだろ、男として』
 ――絶対、何か聞いている。
 無意識に受話器を持つ手に力を込めながら、私はバルトを問い質したい衝動を堪える。これが電話でなく実際に面と向かってなら、恥ずかしさに堪え切れずどこまで事情を聞いたのかと問い詰めているところだ。
 仕方なく、私は恨めしげな声を受話器に吹き込んだ。
 「――それでは、コノエのことよろしくお願いします」


 こうして、コノエはバルドの家に身を寄せることになった。
 当初私は、このような形になってコノエは普段通りに接してくれるかと心配したのだが、時折ぎこちないことがあるもののコノエの態度は変わらなかった。ただ、一緒に住まなくなったというだけで。
 バルドの言う“しばらく預かる”の“しばらく”がいつまで続くのか、私には分からない。もうずっとこのままなのか、いつか“しばらく”が終わるのか、終わるとしたらどのように終了と決めるのか。期限の分からないまま、中途半端な気分で日々ばかり過ぎていく。

***


 流れる音楽が途切れる。1曲が終わったのだ。
 深い部分に沈んだ意識を掬い上げるようにして瞼を上げると、こちらを見ている琥珀色の瞳と目が合った。
 「とても綺麗な曲だった。ありがとう」
 一瞬何故か目を丸くしたコノエは、だがすぐに「だろ」と綺麗に笑って見せて私の差し出すイアホンを受け取った。







次項
目次