1.




 私は、逃げている。

 林立するビルの廃墟の合間を縫って、右へ左へと出鱈目に路地を入った。私の足音だけがタッタッと周囲に響いていたが、やがてそれも乱れがちになる。走りすぎたせいと、恐れのせいか、呼吸が上手くできなくて苦しい。とうとう私は立ち止まり、ひやりと冷たいビルの壁に手をついて縋った。
 荒い呼吸を繰り返しながら空を仰ぐと、廃墟の隙間からのぞく夜空に白い月が架かっているのが見えた。月はたいそう明るく夜空に輝いているけれど、その光は多分ここまで届きはしないだろう。


 ――コノママ、ココデ死ヌシカナイノカ…?


 ふと、誰かが何か言った気がして、私は息を潜めた。
 周囲の音に耳を澄ますが、人の声は聞こえなかった。その代わりに、カツカツとアスファルトに刻み付けるかのような、硬質で規則正しい音が響いている。
 これは――足音?
 そう思った瞬間、理由もなくぞわりと焦燥が込み上げた。とっさに私は縋っていた壁から身体を引き剥がして、走り出そうとする。が、一度立ち止まってしまった足は上手く動かず、2、3歩行ったところで何かにつまずいて、私は派手に障害物の上に転倒した。
 障害物は意外に柔らかく、温い温度を持っていて、これは――
 (にんげん…、ちがう、死体だ…!)
 思考が跳ぶ速さで結論に至った瞬間、恐怖が背筋を這い上がってくる。悲鳴を上げたかったのに、結局喉から漏れたのは空気だけだった。

 カツン、カツン、カツン…そうしている間にも足音は近づいてきて、私のすぐ後ろでぴたりと止んだ。なのに、不気味なくらい人がいるような気配はしない。ただ視線だけを感じて、一対の眼球だけが宙に浮かんでこちらを見下ろしている光景を連想し、すぐに打ち消した。
 見ているのか――私を。
 そう思うだけで居てもたってもいられない感覚に襲われる。このままでは発狂しそうな気さえして、私は駆り立てられるままに勢いよく身体ごと向き直った。



 そうして、囚われた。



 背後に立つ者が誰なのか、私は認識することができなかった。男か女か、幾つくらいか、どんな格好か――そういった情報は、目から入りはしても脳に留まる余裕がなかったのだ。
 向き直った直後、私は背後にいた人物の双眸に見入ってしまって、動けなくなってしまった。その目は、思わずそうしてしまうほどの強さでこちらを射抜いていたのだ。視線の強さが恐ろしく、「殺される」と感じさえするのに、頭の中が真っ白になってどうすることもできない。
 ひたすらその目に見入っていると、カチャリと小さく金属音が聞こえる。


 「――シキ」


 誰かが何かを呟く声を聞いた、気がした。
 そして、白く鋭い軌跡が――閃く。



***



 電車が止まるゆるい振動が身体に伝わって、私は重い瞼を上げた。うたた寝のせいでまだ覚醒しきらない頭のままで窓の外を見れば、見慣れた駅の景色があった。
 寝過ごした!
 慌てて鞄を引っ掴み、ドアへと駆け寄る。私がホームに降り立った瞬間、背後で音を立ててドアが閉じた。――危ない、危ない。焦ったために早くなった鼓動を感じながら、動き出した電車を数秒間だけ見送って、私は改札口へと向かう。
 帰って、電車で寝過ごしかけたなどと家族に知られれば何を言われるか分かったものではない。そのときの様子を想像するのはあまり面白いことではなくて、私はちょっと苦い顔をしながら改札を出た。




 駅を出て、暗い道を独りとぼとぼと歩く。
 街の方とは違って郊外のこの辺りは、遅い時間になると人通りが極端に少なくなる。引ったくりが出たという話もたまに聞くから独りで帰るのは無用心なのだけれど、残業なのだから仕方がない。
 私は歩きながら、ぼんやりと夜空を見上げた。
 季節はちょうど秋。空気が澄んで、夜空がきれいだ。首をめぐらせれば、立ち並ぶ家々の屋根の上に細く尖った三日月が浮かんでいるのが見えた。
 そこで、私はふと立ち止まった。

 ビルの隙間に見えた白い月。
 最後に見た、白い軌跡。

 三日月に、夢の中で見た映像の断片を思い出す。あの夢は、夢にしては苦しさも恐怖も絶望も妙に生々しかったけれど。なぜか、その夢の中の何かにひどく心惹かれている自分がいる。忘れたくないと思うのに、夢の印象は切れ切れにしか残っていないのが歯痒い。
 (それでも、ただの夢だもの――。)
 心残りを振り切るように息を吐いて、私はまた歩き始める。
 と、そのとき。ぐいっと何かに肩から掛けた鞄を引っ張られるのを感じた。――何かに引っ掛けた?  私がとっさに鞄を抑えて振り返ろうとすると、突然暗がりから伸びてきた手に鼻と口を塞がれた。声も出せないままに見れば、すぐ傍に闇に紛れるような黒っぽい服装をして、ニット帽を目深に被った男がいた。

 通り魔、痴漢、引ったくり。

 一瞬のうちにいくつかの単語が頭の中を駆け抜けていく。
 男は、きっと路地の暗がりに潜んでいて獲物が通りかかるのを待っていたのだろう。そうして待つうちにのこのこやって来た獲物が――私…!?
 どうしたらいいのか、混乱した頭に正しい対処法は浮かばなかった。私はただ恐怖と嫌悪に突き動かされるままに、男から逃れようともがいた。
 必死で暴れて、ようやく男を突き放したかと思ったとき。
 キラリ、と視界の端に金属が映る。それが、通り魔の取り出したナイフと気づきはしたが、足がすくんで逃げ出すことが出来なかった。


 自分に向かって振り下ろされるナイフの軌跡を見る。その輝きは、夢に見た白く鋭い軌跡に似ていると、そう思った。


***


 自分を捉えていた目が急速に意思の光を失って、虚ろになっていく。
 もはや見慣れたとも言える光景を、シキは静かに見下ろしている。ついさっき斬ったばかりの男はまだ微かに動いているが、もう立ち上がることもないだろう。シキは、急速に男に対する興味を失いつつあった。
 有望かと思ったが、とんだ期待はずれだったようだ。


 第三次世界大戦の後しばらくして、廃墟と化した首都トシマで始まった“イグラ”は、シキとアルビトロの利害の一致の産物だ。アルビトロは金儲けをしたがっていたし、シキは強者を斬ることができればそれでよかった。
 “勝者には、麻薬組織ヴィスキオの王の座と、巨万の富を与える”
 アルビトロが考え出したその言葉に惹かれて、己の生命を代価にイグラに参加する者は多い。そうして、そのうちの幾らかは強さを求めてヴィスキオの流す麻薬――ラインを服用するのだ。
 イグラが始まって以来、シキは、そうやってラインに頼って強さを手に入れたと勘違いする輩を斬ってきた。それでも、未だに捜し求める強者――ラインに溺れるのではなく、ラインの力を従えるような人間――には行き当たらないでいる。
 先程斬った男は、ほんの一瞬期待できるような気がした。
 最初に男を斬ろうとしたとき、男はライン服用者特有の濁った目をしていた。だが、一度逃げ出したその男に追いつき斬ろうとしたとき、男は恐怖も何もなく無心にシキを見上げてきたのだ。

 まるで、純粋な狂気を宿したあの男のように。

 その男の無防備な様子が記憶に封じた姿と重なる。その瞬間、シキは左手に携えていた小振りのトランクを手放し、刀を抜いた。記憶の中にある姿を斬り捨てるように、男の身体を刀で貫くと、そのまま傷口を更に抉る。
 途端に辺りに拡がる血臭に愉悦を感じ、シキは意識しないまま唇に笑みを乗せた。

 気がつけば、男はシキの足元に転がっていた。
 あまりの呆気なさに、シキはしばらくその場に立っていたが、やがて男が動かなくなると興味を失った。刀を鞘に戻し、トランクを拾い上げて踵を返す。
 が、数歩歩いたところで、シキは再び足を止めることになった。死んだはずの男が、小さな呻きを発したせいだ。
 「――う…」
 振り向けば、男が身体を起こそうとしているところだった。動作そのものは緩慢だが、仮に生命があったとしても、斬られて深手を負ってできることでないのには変わりない。
 シキは僅かに目を細めながら、男に向き直った。

 確実に、あの男を斬った。手ごたえはあったし、傷口から溢れた血が衣服を染めるのも見た。何より、息が絶えるのを聞いていたのだ。
 ならば、今、死んだはすの男が起き上がるのはなぜか。
 ラインの未知の効果なのか、それとも――。

 ざわり、と歓喜とも悪寒ともつかない感覚が背筋を抜けた。が、シキはそのときに感じた感情を顔には出さずに、男が起き上がろうとする様を静観する。男は時間を掛けてようやく上体を起こし、すぐにシキに気づいて顔を上げた。覚醒したばかりのようにぼんやりとしているが、紛れもなく正気の人間の目だ。
 男は、10代の終わりか20代になったばかりだろうか。平凡な顔立ちをしたごく普通の――それこそ、イグラになど無縁そうな若者に見える。それでも、シキは確かにこの男がラインに濁った目をしているのを見ていた。
 (そう簡単にラインが抜けるはずはない…)
 そう思ったとき、男が突然身体を折り曲げて頭を抱えるような仕草をした。
 「――っつ、た……なに、これ…」
 掠れた声で切れ切れに呟いて、男はとうとうアスファルトの上にうずくまってしまう。
 シキはその傍にかがんで、男の首筋にかかる髪を払う。露わになった首筋には、幾筋もの静脈が青く浮き上がって見えた。その症状は、ライン中毒者特有のものだ。
 やはり、男はラインを使っていたらしい。

 (斬っても平気で起き上がれたのは、ラインの効果か…?)
 だが、それではまるで不死者だ。
 常識から言えば、ラインがそのような効果まで持つことは、ありえない。

 (ならば、なぜこの男は)

 首筋に触れた手もそのままに考えていると、男が身動きした。伏せた顔を上げて、最小限の動きで振り返る。ライン切れの苦痛に涙を溜めた、それでも濁ってはいない瞳がシキに向けられた。
 シキは数秒ほど男の目を見ていたが、やがて携えていたトランクを開き、中に入っているアンプルのうち割れていないものを一本取り出した。そして、男の目の前に突きつける。
 「取れ」
 そう言うと、男はアンプルに視線を移して、ゆっくりと一度瞬きをした。その瞼の動きで、目の端に溜まった涙が滑り落ちていく。アンプルを見たのはそのときだけで、男はすぐにシキに問うような眼差しを向けた。
 「取れ、ラインだ」
 重ねて言うが、それでも男はやや困惑した様子でぼんやりとシキを見ている。
 結局男は、アンプルを受け取らないまま、苦痛が増してきたのか気を失った。

 再び倒れた男を見下ろすことになったシキは、知らず知らずのうちに顔をしかめていた。
 男は、シキが手を下すまでもなく、このまま放っておけばラインの禁断症状で死ぬか、或いは通りすがりの誰かに殺されるだろう。シキにとっては、別にそうなったところで何ら困ることはない。
 困ることはない、が。
 シキは、目を閉じて息を吐き、血溜まりのなかで男が起き上がったとき感じた感覚を思い出す。あのとき、背筋を駆け上がったのは、未知の存在と闘えることへの高揚だけではなかった。無様にも、シキが最も忌み嫌う感情――得体の知れぬものへの恐怖も同時に感じていたのだ。そのために、男をこのまま死なせるという選択には抵抗を覚えた。…それでは、逃げるに等しいではないか、と思う。
 だから。

 アスファルトの上に置いたトランクと日本刀を片手に取りあげると、シキは男を無造作に担ぎ上げてその場を後にした。


***


 本来ならばヴィスキオの本部に立ち寄って、ラインの入ったトランクを渡してくるつもりだった。が、それは特に義務というわけでもないため予定を変更して、シキはトシマの中心部とは逆、旧祖地区の方向へ向かう。
 歩くうちに林立したビルの廃墟の数が次第に減っていき、景色の中に単なる瓦礫の山がちらほらと見え始める。全壊した建物の跡が、片付けられることなく残っているのだ。トシマに近いこの辺りはまだましな方で、トシマを出て旧祖地区に入ってしまえば原型を留める建物よりも瓦礫の方が多いくらいなのだ。足元の舗装も、アスファルトがひび割れたり盛り上がっていたり、瓦礫に隠れている部分すらあるのだが、シキは歩調を変えずに平然と歩いていく。

 瓦礫を踏んでガチャリと音をさせたとき、不意に遠くで叫び声がした。

 人の叫び声というよりは獣の遠吠えに近いが、確かに人のものだった。常人が聞けば震え上がるような声だが、シキは震え上がるどころか足を止めることさえしない。トシマの住人は深夜に徘徊する輩を恐れるが、シキは深夜に属する者だからだ。
 遠吠えのような叫び声は、長く尾を引いてやがて消えていく。
 消えていく声に促されるように、シキは視線を上げて空を見た。辺りはまだ暗いが、少しずつ闇が薄まってきている。東の方を見れば、ビルの間から切れ切れにのぞく空の端が白み始めている。

 夜が、明けようとしていた。

 程なくして、シキはある廃墟の前で足を止めた。
 トシマの郊外にあるこのアパートの廃墟は、シキのねぐらのうちの一つだ。シキは裏の世界での暮らしもそう短くないので、もはやどんな場所でも必要があればある程度の休息を取ることはできるようになっている。それでも、このアパートは水が使える分余所よりも使い勝手がいいので、時折利用していた。
 先の大戦で壊滅的な被害を受けたトシマにも、いまだに水や電気の通う場所はある。戦争を始めるにあたって、首都が孤立したときに備えて政府が準備した非常用のライフライン設備をヴィスキオが利用しているためだ。ヴィスキオは、その設備を使ってトシマ中心部に位置する本部や中立地帯の施設に水や電気を供給している。その他には、奇跡的に設備が破壊されずに残っていた場所でなら水や電気を使うことが出来る。このアパートは、トシマに点在するそんな場所のうちのひとつだった。



 ダンボール箱や家具が障害物のように点在する廊下を、シキは躊躇のない足取りで歩いく。そして、廊下の一番奥まったところにある部屋へと入った。部屋の中は、正式な住人が居ないから当然生活感などなく、殺風景だ。家財道具は半ば持ち去られ、半ば残されていた。
 シキは、部屋にもともと残されていたベッドの上に、担いでいた男の身体を投げ出した。
 「…ぅ、ん……」
 投げ出された衝撃を感じたのか、男が小さく呻いて身体を丸める。それでも、その表情は苦しげながらも少し安らいだものになっている。
 その様子を一瞥して、シキは再びドアへ戻った。ドアに鍵を掛け、部屋の奥へと向かう。奥には、浴室と一体になった形で洗面所がある。そこへ向かう途中、トランクと刀を壁際に置いた。洗面所でかつての住人の忘れ物らしき洗面器に水を汲んで、壁際から刀だけを取り上げてベッドの傍へと戻った。

 男の様子を見れば、胎児のように身体を丸くして目を閉じている。眠っている、というよりは苦痛に疲弊しているといったところだろうか。

 シキは手近にあった木箱の上に刀と洗面器を置いた。そうしておいて、空いた手でぐったりと丸くなっている男を仰向かせ、切り裂かれて血に染まったシャツを取り払う。窓から入り込む朝の光の下で見れば、男は確かに傷を負っていた。傷は胸の真ん中にあり、そこから溢れた血が肌の上に筋を作って彩っている。あのとき、シキは男の身体を斬るというよりは貫いたのだから、背も同じような状態だろう。
 シキは革の手袋を外し、確かめるように男の傷に触れた。
 「ぅ…」
 触れられたのを感じたのか男が身じろぐのと、シキが眉をひそめるのはほぼ同時だった。シキは一瞬手を引いて怪訝な面持ちで男を見たが、すぐに取り去った男のシャツの一部を裂いて洗面器の水に浸すと、それを使って男の傷を拭った。
 肌にこびり付いた血がおちて傷口が露わになった瞬間、シキはさらに眉をひそめた。


 露わになった男の傷口はすでに塞がり、古傷の様相を呈していた。







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