2. 前触れもなく、それは始まった。 ガクン。 傷口を凝視していたシキの目の前で、男が一瞬ベッドから跳び上がるほどの勢いで身体を強張らせた。その突然の動きに、シキは反射的に刀を手元に引き寄せる。 「っ…うぅ…」 苦痛に顔を歪ませて呻く男を見ながら、シキはゆっくりと引き寄せた刀を下ろした。男の様子から、ラインの禁断症状が本格的に出始めたらしいと判断したのだ。 四肢を引き裂かれるような痛み。骨の軋む感覚。苦痛から来る意識の混濁。耐え切れず、気が狂うものもある程のその症状を、男はこれから経験しなければならない。果たして、それらの苦痛に耐えるほどの体力と精神力を、この男が持っているかどうか――そんなことを考えていると、男が不意に目を開けた。 「――かぁ、さん…」 掠れた声でそう言って、男は視線を緩く視線をさまよわせる。やがて、その視線はシキの上で留まった。 「、だれ…?お母さん…?」 言われてシキは一瞬わずかに目を見張った。すぐに傍に人の気配があったので母親と間違ったのだろうとは予想できたが、それでもまさかそんな間違い方をされるとは思いもよらなかったので困惑が大きい。 「どうして、こんな…痛い…身体が…っ」 もっとも、男はシキの困惑に気付けるような状態ではないので意に介さず苦痛を訴えていたが、突然言葉を途切れさせた。 「っ、ぁああああああああ!!」 目を見開き、身体を裂かれているかのような悲鳴を発して、男は跳ね起きる。自分の肩をかき抱いて上体を前に倒し、膝を曲げてうずくまる姿勢になる。そうすれば、苦痛が減るとでも思っているのかのようだ。 「う、ぁ…いたい…いやだいやだいやだ…」うずくまった姿勢で、シーツに顔を押し付けて男は意味を成さない言葉を呻いていたが、やがて子どもが泣き疲れるように声と啜り泣きは静かなものへと変わっていって、 「――もう…いやだ…たすけて、――いっそ、死なせて…っ」 そういった声は、弱弱しい癖に低く奇妙な迫力があった。 「――殺せ!」 ふと、激情に駆られて叫んだときのことをシキは思い出す。 戦場であの男――nと対峙したときのことだ。こちらに向けられた瞳に宿る絶望に塗りつぶされた狂気に呑まれて、動くことができなかった。紛れもない恐怖を感じていた。身が竦むなど初めてのことで、はっきりと負けたことを悟った。 闘いの上での事ではない。精神が、負けた。 nの狂気に、自分の精神が圧倒されたのだ。 もちろんシキとて最初から強かったわけではないから、闘った相手全てに勝ってきたわけではない。それでも、負けることがあったとしても、その戦闘においては常に自己を保ち、精神まで相手に呑まれることはなかった。けれども、nと対峙したときは恐怖に捉われて、平静を保つことさえ出来なかった。 そんな自分が許せず、さらにはnがシキを生かしたまま――そのとき戦場でnが暴走していただけで、実のところ二人は同陣営で本来殺しあう立場ではないから当然なのだが――立ち去ろうとしたものだから惨めさはいや増して、競りあがってくる激情のままに叫んだのだ。 命乞いされることは多くても、死を請われることは珍しい。あのときの記憶を呼び起こしたのは、死を請い願う言葉だろうか。シキは遠いけれどもいまだに生々しく色と熱をもった記憶に一瞬顔をしかめたが、すぐに無表情に戻った。右手でうずくまっている男の肩を掴んで引き起こしながら、左手の中の刀の鍔を親指で押し上げて軽く鞘から浮かせる。 「な、に…?」 乱暴に起こされて男が声を上げるが、シキは構わずに男の肩を抱くようにして鞘から少しのぞかせた刀身を男の顎の下、喉の辺りに押し当てた。上半身を拘束する腕から逃れようと男が身動きすると、刃がわずかに皮膚に当たって薄く血が滲んだ。 「死にたいか」 身じろぐ男を制するように耳元で低く問えば、男が焦点のぼやけた目を動かしてシキのほうを見る。言われたことを理解していないのか、その眼差しは恐れも何の感情も含まない。 「殺してやろう」 シキがもう一度言と、男は視線を動かして突き付けられた刃を見つめた。 「――いや、だ…」 俯いて、刃を見つめながら男が言う。先程とは異なり、その眼差しはぼんやりとしてはいるが恐怖や正気の色を交えていた。 (――面白い) 男が「死にたい」と言うのは口先だけで、生きる意志を失ったわけではないらしい。シキは何となくそのことに満足して男の身体を解放し、刀を完全に鞘に戻してから再び椅子の上に置いた。 支えを失った男はそのままベッドに倒れこみ、苦しみ疲れたのか目を閉じる。その身体が震えているのを見て取って、シキは男の額に触れた。――発熱している。つい先程身体に触れていたときも体温が高かったと思い、シキは壁際に備え付けられたクローゼットの前へ歩いていった。クローゼットの中は空だったが、その上部に棚が拵えてあって、そこに毛布らしきものが残されていた。引き出してみると使うのに支障は無さそうなので、広げて男の身体に被せた。 *** 男はその後も苦痛にのたうちまわる時間と痛み疲れて眠る時間とを何度か繰り返した。そうするうちに日が暮れて夜が訪れ、深夜になる頃、男は再び苦しみ始めた。 今までの苦しみ様とは少し異なっている。男は何かに怯えるようにうずくまった格好で、震えながら苦痛に呻き、時折何事かを呟く。シキがベッドに近づいてみると、「ごめんなさい、ごめんなさい、――もう、許して…」という謝罪の言葉が聞こえてきた。 幻覚を見ているのだろうか。だとしたら、その謝罪は誰に向けられたものなのか。ふとシキは僅かな興味を覚えた。 たとえ己に原因があるとしても、自分を脅かすものに対して抵抗せず謝罪するだけとは、それで自分を守れると信じているとは、甘いにも程がある。戦わないことが許されるような環境で、この男は生きてきたというのだろうか。今の10代20代といえば徹底的な軍人教育を受けた世代であるから、そのような環境で過ごせた者は一部の政治家や官僚、企業家の子弟くらいのものだった。 そんなことを考えていると、唐突に男が起き上がってベッドから降りようとした。 逃げようとしている。理解するよりも一瞬先に身体が動いて、シキは腕を伸ばして男を引き止める。そのまま両肩を押さえてもがく男をベッドに押し付け、その身体の上に乗った。 「逃げるか」 別に何か言葉を掛けるつもりもなかったのに、気付けばシキはそう口にしていた。それでも、このような状態の人間に返事は期待していなかったのだが、 「――だって、…怖い…」男は思いの外はっきりと返答をした。 「死にたくないのだろう?ならば、抗ってみせろ」 言うと、男は固く目を閉ざして苦痛に身じろぎながらも、素直に頷いて見せる。まるで幼子のように無心に自分の言葉を受け入れるその様子に、シキはわずかに困惑していた。これほど無防備な存在を傍に置くのはずいぶんと久しぶりのことで、どうにも調子が狂う。 それから、男は時折こらえ切れない悲鳴を上げてもがき苦しみながらも、死を願う言葉を口にすることも、逃げ出そうとすることもなかった。 *** 目を覚ましたとき、最初に感じたのは全身のだるさだった。 あぁ、どうしてこんなにだるいのだろう?まだ起きたくないけれど、もう朝なのだろうか?――そんなことを思いながら薄く目を開けると、まだ室内が暗かったので二度寝することにする。毛布を引き付けて潜り込み、シーツに顔をすり寄せたところで、ふと違和感を覚えた。 特に、何がどうおかしいと言うことはできない。ただ漠然と、毛布やシーツの感触や匂いが記憶の中にあるものと異なる気がするのだ。本来、私は大雑把な方なのでそんな些細なことは気にしないのだが、このときは何かが頭の中で引っかかった。 通り魔の振り上げたナイフと、夢に見た白銀の閃き。 月を背にした誰かのシルエット。 こちらに差し出された、何か液体の入ったガラスの管。 唐突に映像の断片が記憶の中から浮上してくる。 (――そうだ、通り魔、) 襲われたのだと思い至ると、居てもたってもいられないような恐怖が込み上げてくる。私はベッドの上で跳ね起きて、上擦った自分の呼吸と心音を聞きながら周囲を見回した。 まだ夜の明けない室内は闇の中に沈んでいて、様子は分からないが、ベッドの右側にある窓にはカーテンが掛かっておらず、月明かりが差し込んで少しだけその辺りを見ることができる。 月の光は窓際の床と私のいるベッドの辺りまでを照らしていた。 床は、もとは建材か何か貼り付けてあったのだろう。今はそれもすっかり剥がれてしまい、ざらざらとしたコンクリートがむき出しになって、上にところどころ埃が綿のように丸まって落ちている。 (…ここは、私の部屋じゃない) 病院でもない。 人が普通に日常生活を送っている場所とは違う。病院や、人が日常生活を送る場所でコンクリート剥き出しのままの床ということは多分ない。なら、ここはきっと普通の場所ではないのだ。 そこで寝ていたということは――。 誘拐、拉致、監禁。 慌てて、私はベッドを降りようとした。 漠然と、『ここにい続けてはならない』と感じた。冷静になってみれば、監禁されて周囲の状況も犯人の動向も考慮せずに動くのは危険だが、監禁されて冷静でいられる人間そう何人もがいるものだろうか?大多数は落ち着いてなどいられないだろう。私もその大多数に含まれて、恐怖に駆り立てられているのだった。 ベッドからそろりと足を下ろすと、裸足の足裏にコンクリートのざらざらとした感触を感じた。冷たい上に埃っぽいのが不快だが、無視して両足で立つ。そこで私はふと違和感を覚えた。 (あれ、視界がいつもより高い、気がする…?) とはいえ見知らぬ部屋のことであるし、周囲も暗い。ただの思い違いだろう、と大して気にも留めずに窓に歩み寄ろうとした途端、身体がぐらりと揺れた。 「っ…」 倒れそうになるのを慌てて踏み止まろうとするのに、膝に力が入らない。自分の身体を支えきれずに、ベッドの横にへたり込んだ。マラソンをして体力を消耗した後のように、身体に力が入らない。私は呆然と自分の膝の辺りを見下ろして、気付いた。 ――服装が違う。 仕事帰りに通り魔に襲われた際、私はスカートとブラウスを身に着けていた。それが今はジーンズと――あちこち裂けたシャツに変わっている。自分で着替えた記憶は無い。 ということは、第三者が私を着替えさせたということではないのか。 結論に至った瞬間、ひどい嫌悪感に襲われて、身体や衣服に触れあらためた。何者かがこの身体を好き勝手にしたのではないかと疑わしくて、その痕跡を見つけようと…否、その痕跡が無いことを確認したいと思った。 ほとんど用途を果たしていないシャツのボタンを二つ外し、胸元を寛げる。恐る恐る露わになった皮膚に視線を落として、 (…ちがう) ひとり、呆然とする。 露わにした胸元の素肌にあったのは、陵辱の痕跡ではない。それよりも、なお悪い。 私は先程まで感じていた嫌悪感も恐怖も忘れて、女の身体と異なる平らな胸とそこに残る古傷を凝視する。そのどちらも、記憶の中にある自分の身体とは異なっていた。 これは一体どういうことなのだろう?この身体は自分のものではないのに、私の意志で動くし感覚もある。これが本当に私の身体だとするなら、今まで自分のものだと思っていた身体は一体誰のものだというのだ。 (目覚めたら別人の身体だったなんて、) それって、どこのファンタジー小説? そう思ってしまうと今の自分が無性に滑稽に思えて、ふつふつと笑いが込み上げてくるので、私は声を立てずに口元だけで笑う。このような状況で笑うのは異常だと分かっているのだが、笑わなければ代わりに、泣き喚きそうだ。目覚めてからの異常な状況に耐えられずに、そろそろ狂い始めているのかもしれない。そんな気がするくらい、いっぺんに感情がこみ上げてくる。 (常識を捨てれば楽なのかも、) この場合“狂う”のと同義であるそんな思考に沈んで行きかけたとき、 「何をしている」 低く響きのよい声が私の思考を破った。 *** 一人きりだと思っていたのに突然声を掛けられて、私は反射的にぎくりと身体を強張らせた。ぎこちない動きで声のした方を振り返れば、闇の中にぼんやりと人の立ち姿の輪郭が見える。 多分男、なのだろう、声から察するに。そう見当をつけるが、私の方がいくらか明るい場所にいるためか、はっきりと相手の姿を見ることは出来ない。それに、男のいる場所は、少ししか離れていないというのに一際闇が濃いようだった。 「――っ…!」 とっさに、私はへたり込んだまま後退する。が、すぐに背中が壁にぶつかって、それ以上男から距離を取ることはできなくなった。あとはただ、怯えながら闇に佇む姿を見ていることしかできない。 それは、誘拐犯というよりは魔物と対峙しているのにも近い恐怖感だった。 ふと闇の中の輪郭が動きを見せ、闇を割るようにして男が姿を現した。私が必死で開けた距離を簡単に詰めて、少し手前で立ち止まる。そこはちょうど月の光の差す場所で、薄明かりの中に浮かび上がったその姿に、気付けば私は恐れを忘れて見入っていた。 ――あぁ、秀麗というのはこういう顔立ちを言うのだ。 見上げながら、私はぼんやりと考えた。月明かりの下に現れた男は、それほどの容貌をしていた。 男はまるでさっき闇から生じたように全身黒尽くめの服装で、ごくわずかに衣服に覆われていない肌は薄暗いためか血の気が無いように白い。どこもかしこも計算して造られたように整っているのに、魂の無い人形のように感じさせないのは、男の目が強い意志の光を宿しているからだろうか。男の容貌が現実離れしているせいか、対面しているというよりは鑑賞しているような気分にさえなってくる。 そうして鑑賞しながら、私はこの男は誘拐犯や痴漢や通り魔の類とは違うと感じた。男の外見から察するに、痴漢するほど女に不自由はしなさそうだ。私程度の身代金目的の誘拐などというセコイ犯罪をするタイプにも見えない。 もっとも、犯罪が趣味であれば、容貌や経済状況その他一切は意味が無いのだけれども。 「何をしているのかと聞いている」 「、私は、」 返事しようと声を発した瞬間、あれ?と思った。私が声を発したのに、変声機でも使ったように若い男の声がするのだ。 そこで、私は自分の身体が男のものに変わってしまったことを思い出した。咽喉も男のものに変化したのなら、普段どおりの声が出るわけが無いのだ。 「――私に何をしたんですか?私が眠っている間に何をしたんです!?私のもとの身体はどこに?こんなことをして、一体何が目的なんですか?…私の身体を返してください!」 感情が昂ぶって自制が振り切れ、男に食って掛る。直後、自分の態度が情けないものであることを悟り、私は密かに自己嫌悪に襲われてうつむいた。 「気がふれたか…やはり精神の方が禁断症状に負けたと見える」 「え?禁断症状って、何のことです?」 言われた言葉の意味が分からずに問いかけると、男は眉をひそめた。 「ラインを使ったことも忘れたのか」 「…ライン?」 聞き慣れない単語を舌の上で転がしながら様子を伺うと、男は冷然とした目で私を見下ろしていた。最初から男の眼差しは好意的とはいえなかったが、今は明らかに壊れた玩具を見るような冷めた視線を向けている。 きっと、私は男の中で“用済み”と決定されているところなのだろう。その眼差しの冷たさに一瞬背筋をひやりとした感覚が走るのを感じる。その瞬間、意識のどこかが“このままではいけない”と警告を発した。 “用済み”と決めれば、男は確実に私を見捨てるだろう。そうなったとき、ここがどこか、この身体は誰のものか知らないまま、他人の身体で知らぬ土地で独り生きていくことなど、私にできるわけがない。 ならば、見捨てられないために、私は男に“用済み”でないことを――先程の会話の流れからすると狂っていないことを?――男に証明して見せなければならない。 冷静に。 論理的に。 唇を噛んで自分に言い聞かせて、男と視線を合わせる。今度は単に顔を見るのとは違って、きちんと男の目を見るようにした。 他人の目を見るのは、実は子供の頃から苦手だった。居たたまれない気分になって、すぐに視線を逸らしたくなる。 今このときも、さっさと俯いてしまいたかったけれど――それではきっと男は何も聞かないだろうという気がしたから、私はなんとかそれを堪えた。 「私は正気です」 こちらを見てはいるが私を人間ではなく無機物のように捉えている男の目に、語りかけるように言う。 すると、男は私が生物であることを思い出したように私を見た。(生物であるとは認めたが、まだ人間であると認識しないような視線だった。)そうして、唇の端を上げて口元だけ僅かな笑みを形作った。 「自分が正気だというか。その根拠はどこから来る?」 「私がそう思うからです。あなたにそれを証明することは出来ませんが…私は正気です。ただ、状況が私の理解を超えて変化しているんです。――私は、 といいます。もとは20代の女だったのに、目を醒ましたら、この、男の身体になっていたんです。ここはどこなのか、この男性の身体は誰のものなのか、私はどうして違う身体になってしまったのか、あなたはご存知ではありませんか?」 「知らんな」 即答されて、私は唖然とした。そんな身も蓋もない言い方をしないで、せめて少し考えるとか婉曲に言うとか誠意ある対応をしてくれても罰は当たらないだろうに。 けれど、そういった不満を表に出して男の機嫌を損ねたくはなかったので、気にしていないふりをする。 「少しでも、どんなことでもいいんです。何か思いつくことがあれば」 「俺はお前を拾ったにすぎない。お前が何者であったのかなど知りはしない」 「もしかして、まったく知らない人間なのに、気絶しているところを助けてくださったんですか?――ありがとうございます」 恐縮して姿勢を正し、私は男に向かって軽く頭を下げた。 顔を上げると、男は不可解なものを見るような表情をしていた。 「勘違いするな。助けたわけではない。俺はお前を殺すために拾ったのだからな」 「――殺すため…?」 なぜ殺されなければならないのか。なぜ殺す人間を救ったのか。 話の行き先が見えずに、困惑する。“冗談でしょう?”とは聞けない雰囲気だ。殺すと予告されたのだから私は今すぐにこの場を逃げ出すべきなのだが、“お前を殺す”などという台詞が現実世界で実行されるという実感がいまひとつ湧かず、どういう反応が最善か分からなかった。 「この身体の持ち主は…いえ、もしかしたら私かも知れないけれど…あなたに酷いことをしましたか?」 「面識はないと言ったはずだ。」 「なら、どうして、」 私は男に言い募ろうとしたが、それは外からの物音に遮られる形になった。 ふと犬の遠吠えらしきものが聞こえてくる。場所は外だが、ここからそう遠くはないようだ。何となくその声に意識を持っていかれたため、私は言いかけた言葉を切って耳を澄ませた。 そして気付く。 犬の遠吠えではない。人間の断末魔に近いような絶叫。動物のものに似ているが少し異なったその声は、長く尾を引いて小さくなっていく。 見てはいけない、確かめてはいけないと頭のどこかが警告していたのに。 人としての箍が外れたようなその声を恐ろしいと感じたはずなのに。 それでも、私はとっさに立ち上がり、窓から身を乗り出して、声の正体を突き止めようとした。 *** 外は真っ暗だった。 先程の声の正体を見つけようと辺りを見回した私は、しばらくしてから奇妙なことに気付いた。 あまりにも、“暗すぎる”。 少し離れたところに幾つもビルの輪郭が浮かび上がっているのは見える。異様なのは、そこにほとんど灯りが見えないことだ。たとえ、ビルが無人になる時間帯だとしても付近に街灯くらいあるもので、街中が全く真っ暗になることなどあり得ない。それどころか、今時、郊外でもここまで灯りがない場所は珍しいのではないだろうか。 私は一通りぐるりと周囲を見渡してから、闇の中に見える建物の影のような輪郭に歪なものが多いことに気付いた。月の弱い光でははっきりと見えないが、どうやら建物の中に多く瓦礫が混じっているらしい。――ここは多分、廃墟なのだ。 「どうして…」 何が言いたいのか分からないまま思わず呟いたとき、ぐいと右腕を引かれて私は室内に戻された。その勢いを支えきれず、背中から倒れそうになる。 「っわ…!」 情けない声を上げながら、転倒することを予想してきつく目を閉じる。が、そうなる前に今度は腕を逆方向に引っぱられるのを感じた。身体が無事に床に着地したことに気付いて私が目を開けると、男が掴んでいた腕を投げ捨てるように離したところだった。その様子を見ているうちに、強く引かれた右腕に痛みを覚えて、自分の身体でないのに痛みを感じることに、妙に感心した気分になる。 「奴等に気付かれたいのか?」 「奴等…誰のことですか?それに、外はどうしてあんな風に、」 「騒ぐな。<難民>どもは雑魚に過ぎんが、性質が悪くて面倒だ。適当に避けておくに限る。それとも、」男は一度言葉を切り、唇の端を持ち上げて嗤って見せる。「――今からあの獣どもを相手にするか?」 ふるふると、急いで首を横に振った。言葉から察するに、男は私が<難民>に見つかるのを防いでくれたのかもしれなかった。 でも、<難民>とは何だろう?それに、外の廃墟は何があったのだろう?思い出してみようとするが、最近見たニュースでそれに該当するようなものはない気がする。 「あの、<難民>だなんて…一体何があったんですか?」 尋ねると、男はわずかに目を細めて何かを見定めるような表情をしたが、すぐに目を閉じてひとつ息を吐いた。私のあまりの無知ぶりに呆れたらしい様子だ。 「<難民>は、戦後復興の遅れた旧祖地区に取り残された人間だ。戦争が終わって5年になるが、未だこの旧祖地区には数多くいる。旧祖地区から出られない事情のある者もいるが、望んで留まっている者も多い」 「――え、でも戦争って…」 日本の一番最近の戦争は、60年以上も前の話だ。“5年前の戦争”とは、一体何の話なのか。 俄かに男に対する不信感が沸いてきて、私は問おうとした言葉を飲み込んで沈黙した。どうしても男が狂っているようにも冗談を言っているようにも見えなかったが、問いかけて返される答えも、信じていいのか分からなくなってしまったのだ。 しかし、男は私の困惑を余所に、まるで常識とでも言うように、信じがたい言葉を投げた。 「the 3rd Division…第三次世界大戦すら知らないとでも言うつもりか?」 目次 |