12. 次の瞬間、ぱっと視界が晴れ渡った。 まるで2、3歩退いたように遠く狭くなった視界の中、表情を消したシキの白い面がはっきりと見える。常ならば苛烈なまでの意思の光を宿す紅い瞳は、今は何の感情も浮かんでいない。無感情な目をガラス玉と形容することがあるが、今のシキのそれはガラスというよりは氷のようだ。そして、不思議なことに私たちは互いの顔を見ているはずなのに、一向に視線が交わらない。 気付けば、それまでに感じていた苦痛も息苦しさも消えていた。痛み、温度、身体の重さその他の感覚が全く失われていて、自分の身体の各部分がどこにあってどんな姿勢なのかだけが意識を凝らせば何となく分かるといった程度である。 『なに…?』 思わず呟き、聞こえてきた自分の声にぎょっとする。耳に届いた声は男のものとは違う。元の女性の身体であったときの私のものだった。 これは…ここは…。 ふとある仮定が頭の中を過ぎったとき、秩序のない動きで宙を彷徨いシーツをかき乱していた右手が、私の意思とは別の意思を持ったかのように動いた。右手は腰の辺りを探ってナイフホルダーを探し当て、そこから一気にナイフを引き抜く。 その切っ先が向かうのは―― 『駄目…やめて、“ケイジ”!!』 *** 苦痛と酸欠でばらばらに拡散していく意識を繋ぎとめ、ナイフを引き抜いた腕を持ち上げる。『駄目…やめて、ケイジ!!』脳を揺さぶるような女の悲鳴が頭の中だけで木霊する。それを無視して持ち上げた腕でナイフを振るい、自分に覆い被さって首を締める男に切りつけた。が、男はあっさりと咽喉から手を離し、上体を退いてそれをかわした後にナイフを持った右腕を捕らえる。 ぎりっと腕を掴んだ男の手にこめられた痛いほどの力に、シーツの上にナイフを取り落としたところでこちらも限界がきた。男が咽喉から手を離したことで一気に流れ込んできた大量の空気に噎せて激しく咳き込む。その苦しさときたらその辺を転げ回りたいくらいなのだが、腰の上にはいまだに男が乗っているせいで身動きがかなわない。 ――苦しい。最悪だ。 上体を捩って咳き込みながら、ケイジは心の中で毒づいた。 の意識が途切れた一瞬に身体の支配権を取って代わったはいいが、久々に感じる苦痛はいっそ死にたくなるほどに強烈だ。戦闘も戦争も全く経験していないらしいのに、よく耐えたものだとに感心させられる。それと同時に恨みたくなった。前回交替したときには知りたくもない下肢の違和感を経験させられ、今回はこの苦痛なのだから。 とはいえ、今回は本当に生命まで危険だったのだから、見過ごすわけにもいかない。 ようやく息を整えたケイジが薄く目を開けると、目の前に鋭利な切っ先が迫っていた。それは見覚えのある自分のナイフの切っ先で、取り落とした後に奪われてしまったのだと理解する。それでも、焦りはない。 今、目の前にいる男は自分が敵うような相手でないことは、最初から分かっている。ナイフを使ったのは、一旦男が咽喉を締め上げることを中断することを狙ったものでしかない。男がこうして手を離した今、目的は十分に果たされているのだ。 「ようやく己に牙があることを思い出したか。だが、貴様はアレとは違うな」 「あんた、毎回よく分かるな。俺はじゃない。は今、俺の内側にいる」 「当然だ。身にまとう気配が全く違う」 あっさりとした答えに、ケイジは思わずナイフの刃越しに男の顔をまじまじと見つめた。漠然とその強さを理解してはいたが、気配まで読むとはさすがにトシマのレアモンスターなどとあだ名されるだけのことはある。軍事教育で齧った程度の戦闘技術などでは敵うはずもない。 けれど、不思議と恐れはなかった。 かってこの男と対峙したときには、ラインを使って精神力が強化されていたにも関わらず、得体の知れない化け物を前にしたような恐怖を覚えたものだ。今でも恐ろしい人間であるとの認識は変わらないが、あのときのような闇雲な恐怖がないのは、きっと見てきたからだ。 血も涙もないはずのこの男が、気紛れからだとしても他人を助け、執着することを知った。人並みに他人と言葉を交わし、困惑し、時折笑みに近いものさえ浮かべる様を、の視線を通して見てきた。――だから、もう然程恐ろしくない。 「この状況で表に出てきたからには、nのことを話す気にでもなったか?」 冷笑を唇にのせるシキに答えず、ケイジは目を閉じた。あることが確認できたなら、自分の過去に絡む話を2人にしてもいいと思っている。「…」そのために、実際に声に出して、自分の内側にいる存在に呼びかけた。 「もしも、あんたの妹が危険な目に遭っていたとして、あんたなら自分を犠牲にしても妹を助けるか?」 『え…?』強い困惑の気配を含む声が返ってくる。それから、考え込むような沈黙のあとに、迷うような声が続く。『必ずできるとは、言わない。でも、そうしなくちゃいけないし、そうできればいいと思うよ。だって、私はあの子に責任がある…姉なんだから』 「姉だから、か。あんたはそう言うと思ったよ。できればいいなんて曖昧なことを言いながら、あんたはそのときになったら当たり前みたいに自分を投げ出すんだ。――さっき俺を庇ったみたいに」 あまりに予想通りの答えに可笑しさと安堵が湧いてきて、思わず笑ってしまう。込み上げる笑いを抑えもしないままに目を開けると、シキが困惑した面持ちでこちらを見下ろしていた。の答えはシキの耳には届かないのだから、困惑するのも当然だ。 「何を言っている」 「いや、大したことじゃない。それよりも、あの男のことを話すから、そのナイフを下ろしてくれ」 「何故話す気になった」 「何故って、あんたが“加減を誤って”を殺しかけたからだ。この身体が死ねば、だけでなく俺も死ぬ。俺はまだすべきことがあるんだから、黙って自分が死ぬのを見過ごすわけにはいかない」 「俺が加減を誤っただと?」シキが眉をひそめる。 「あぁ、加減を誤った。あんたにを殺す気があったとは思えない。殺す気なら最初から斬り捨てていたはずだし、本気で口を割らせるならあんたはいくらでも効率のいい痛めつけ方を知っているはずだ。――あんたはが意地になって我を通すものだから、脅しの限度を読み誤ったんだ」 「…下らんな。すぐに殺さなかったのはただの気紛れだ」 そう一蹴すると、シキはナイフを下ろしてベッドから降りた。そのまま、ベッドの脇の壁に背を預けて立つ。それは、少しでもこちらが不審な動きを見せればすぐに殺すことの出来る間合いだ。 不審な動きと取られないように、ケイジはゆっくりとベッドの上で上体を起こした。 『――話してしまってもいいの?』の問いかけの声が聞こえる。 (あぁ。俺にはまだすることがある。こんなところで殺されるくらいなら、話した方がましだからな。――あんたもついでに聞いていればいい) *** トシマと外れにある研究施設――ENEDで何が行われていたか、あんたたちには分かるか? 人間から感情や痛覚、自我なんかの“余計なもの”を排除して最高の戦闘兵器を作るための馬鹿げたプロジェクトだ。あの男…nはそのプロジェクトで殆ど唯一の成功例で、同時に思わぬ副産物でもある。あの男はプロジェクトで開発されたものの誰一人適合しなかったあるウィルスに適合したため、徹底的に“完璧な戦闘兵器”として作り上げられた。そのウィルスの効果は、人間の身体能力と精神力の強化――ラインと同じだ。ラインの原料は不明とされているが、実はあの男の血を希釈したものなんじゃないかと俺は思ってる。この街に…ラインを独占する<ヴィスキオ>の近くにあの男がいるんだ、nの血を<ヴィスキオ>が手に入れる可能性はあるはずだ。 確かに、nは成功例だった。だけど、その後は続かなかった。 自我を排除すれば判断能力を失って、戦闘兵器としての完成品は出来上がらない。結局、使える戦闘兵器として判断能力を残したままニコルウィルスに適合したのは、結局、nひとりきりだ。 ただ、プロジェクトは途中で行き詰ったが、使えそうな副産物はそれなりにできた。大戦末期になると切羽詰った軍の上層部は、作戦にその副産物を利用できないかとさえ考えたくらいだ。 俺は…俺と兄貴は、そうやって利用されたプロジェクトの副産物だ。 ENEDの中にある孤児院に連れてこられたのは、戦争が始まった直後のことだ。 あの頃にはもう子どもは一定年齢から寄宿舎生活と軍国教育が義務付けられていたけど、俺も兄貴もきりぎりその年齢に達してなかった。だから、両親を亡くして孤児院に入れられることになって、連れて行かれた先がENEDだった。 収容された子どもは、投薬その他の様々な実験や処置を受けた。その中で早いうちに適正がないと診断された子どもは幸せだ。実験の記憶を消されて、普通の生活に戻ることが許されたんだから。 適正があると診断された子どもは、傍の孤児院で普通の生活に戻った子ども達が遊ぶ様子を横目に見ながら、更に実験や処置を受けさせられた。その中で、殆どはやはり適正なしと診断されて普通の生活に戻るか、病気になるか、死ぬかで脱落していった。偶に、理性や自我を失って獣に成り果てる子どももいた。――旧祖の<難民>は自ら自我を捨ててああなったんじゃなくて、プロジェクトの結果なんだ。 ただ、ごく少数、実験を経て何かの特質を得た子どももいる。 俺と兄貴もそうだった。 感情を除去する実験の果てに、俺たちは他人の感情を受け取り、或いは、自分の感情を他人に感染させる能力を持つようになっていた。この能力は大抵制御できるんだが、強すぎる感情は箍が外れやすい――、あんたは時々“自分のものでない”感情を感じたはずだ。 大戦末期になると、軍は本格的に作戦に俺たちを利用することを考え始めた。 プロジェクトの実験の中で、ある程度ウィルスに適合したものの判断能力を失い獣と化したできそこない共に、俺たちが感情を流し込んでその行動に一定の方向性を与える。敵国兵への憎しみや敵意を植えつけて戦場に送り込めば、白兵戦では十分な戦力になる。俺たちは、プロジェクトの1被検体であると同時に、その作戦の要とされた。だからプロジェクトの内情なんかも多少知ることが許されたんだ。 …結局、その作戦は実行される前に戦争が終わった。 俺と兄貴は終戦の混乱に紛れてENEDを逃げ出したはいいが、結局旧祖から出ないうちに離れ離れになった。トシマへ来たのは兄貴の行方の手がかりを掴むためだ。ここへ来て、nの姿は見かけたが、同じプロジェクトの被検体だったといっても今は何の関係もない。俺が話せるあの男の情報といったらこれくらいのものだ。 ――そろそろ、表に出ていられるのも限界だ…後はに任せる。 *** 唐突に感覚が戻ってくる。ぐんと視界が広く、近くなる。それに平衡感覚がついていかずに眩暈がした。「っ、うわぁ…!?」咄嗟に自分で自分の身体を支えることができず、背中からベッドに倒れこんだ。その動きのせいで手首の手錠が引っ張られて皮膚と擦れ合い、痛みが戻ってきたことを私に実感させる。 「あれ…?」 拘束されていない右手を薄暗い闇の帳越しに見える天井へと伸ばすと、筋肉の伸縮と自分の腕の重みが感じられた。――身体が意図したように動く。私が、動かしている。 「“戻った”か…」 そんな言葉が耳に届いて頭を持ち上げて見ると、壁から背を離したシキがこちらへ近付いてくるところだった。首を絞められたことが頭にある私は、思わず上体を起こしてベッドの上で後ずさりするが、それも手錠の鎖がすぐに伸び切ってしまって殆ど意味を為さない。 ベッドの傍らに立ったシキは、ちらりとこちらを見たものの何も言わず、傍らの木箱の上にケイジから奪い取ったナイフを無造作に置いた。それから私の右手を手に取って、コートのポケットから取り出した鍵で手錠を外す。 「皮膚が擦り切れたか。また随分と派手に暴れたものだな。それ程までに逃げ出したかったか」 指先で2度3度擦り傷をなぞったシキが、不意打ちのようにぐっと腫れた手首全体を掴む。その手は皮手袋を嵌めたままであったから、素手で触られるよりも摩擦が大きくて私は咄嗟の呻き声を噛み殺して首を横に振った。そして、真っ直ぐにシキを見返す。 「…逃げる気もないのに繋がれたのが我慢できなかっただけです。あなたから逃げたりなんかしない。だって、“私”はあなたを脅威だとは思わない」思いたくない。 「恐れないという割に、先程は随分と緊張していたようだが…それとも、あれは恐れではなく期待か」 期待…?? と、唐突にシキが掴んだ手首をぐいと引き寄せた。更に自身も顔を寄せて、私の手首に唇を当てる。そのことに驚いてぎくりと身を強張らせるが、手首はしっかりとシキに拘束されているので動くことも出来ず、ただ与えられる感覚を受け入れるしかない。 柔らかな唇と熱い舌と吐息が腫れ上がった皮膚の上をゆっくりと辿ると、じわりと染みるような感覚の後、傷口が潤うためか僅かに痛みが和らぐ。こうして傷口を舐めるシキの意図は依然として読めないのに、与えられる感覚は不快どころか心地良くて自然と緊張が解けていく。知らぬ間に詰めていた息が小さな吐息になって零れ落ちた。 吐息を聞きつけたのだろうか。シキは擦り傷に舌を這わせながらこちらを一瞥し、やがてゆっくりと顔を離す。途端に、唾液で濡らされた皮膚が冷え始めた空気に晒されて肌寒いような気がして、私は思わず身を竦めた。 不意にシキが密やかに嗤う。 「――もの足りなさそうだな。誘っているのか?」 「…誘う?別にあなたをどこかへ誘ったつもりは、」 「意味が違う。また俺に抱かれたいのかと聞いているんだ」 誘う。抱かれたい。頭がようやく文脈を理解すると同時に、カッと顔が熱くなる。 “シキは去り際にただ言っただけだ――男に抱かれて悦ぶなんて醜悪だ、って” かってケイジから聞いた言葉が蘇り、醜悪だと言うならどうして触れたりするのかと常にない苛立ちが込み上げてくる。自分の中でとても直視したくないどろどろした感情が渦巻いていて、苛立ちを口にすることはその感情を晒すことになる気がしたけれど、思わず言葉が出た。 「誘ったりなんかしません…!あなたは男同士での行為に嫌悪を感じる癖に触れてきたり、そんなことを言ったりする。逆らわないこちらにも非はあるかもしれないけど、そうまでして…嫌なのに触れてまで俺を貶めたいんですか…!?」 「…何の話をしている」理解不能というようにシキが困惑に眉をひそめる。 「何って…この前、アルビトロに媚薬をのまされた晩、あなたが男に抱かれて悦ぶなんて醜悪だって言ったって…ケイジから聞いて、それで…」 勢いで口にしたはいいが、何を不満に思って何に苛立ったのか自分でもはっきりとは分からなくなってきて、声が小さくなっていく。けれど、有難いことにシキはその点を更に追求することはせず、頭が痛いとでもいうような面持ちで目を閉じた。「いいように言い包められたものだな」息を吐くような声音で言って瞼を上げると、こちらへ手を伸ばす。 皮手袋を嵌めたままの手が、今度は一瞬身体を竦めた私の顎を捉え、持ち上げた。 「お前は、いずれ俺が殺すと決めた俺の獲物だ」 間近に顔を覗き込みながら、シキは言い含めるように囁く。 「一度自分が獲物と定めたモノが他人に手を付けられるのは気分が悪い。だからあの夜、他の輩の手に落ちるなと命じた。――それを、お前は覚えていなくとも守ったようだな。先程の反応を見ればよく分かる」 するりと顎から首筋へ滑り降りた手が咽喉もとに達し、まだ締め付けられた感じのするそこを軽く撫でる。そうしながら、シキはほんの一瞬だけ表情を揺らがせた。それは冷笑というよりは苦笑に近い微かな笑みのようなもので、私が自分の目を疑う間に消えてしまった。 そこでシキはベッドから離れると、踵を返した。カツカツカツと靴音をさせて、戸口の方へと歩いていく。――立ち去る気なのか。はっと気付いた私は、慌ててその後を追った。 「待って下さい。あなたに返すものがある」 足を止めてこちらを振り返るシキの前で立ち止まり、首の後ろに手を回す。逸る指先でロザリオの鎖を留める金具を外そうとして苦闘していると、それをシキが止めた。 「要らん。それが俺の手に戻るときは、俺がお前を殺して死体から奪い取るときだ。今はまだそれも生命もお前に預けておく。夜が明けるのを待ってトシマへ戻れ。お前には――お前“達”には、まだすべきこととやらがあるのだろう」 「なんで…」 解放されたのだからそれでいいと納得すべきなのかもしれない。けれど、一日この部屋に繋がれたことからして、そう簡単に解放されるとはどうしても思えなかった。そんな気分が不審の言葉となって飛び出した。 「雑魚が足掻く様を見るのが愉しい、ただそれだけのことだ」 「俺が逃げ出すかもしれないのに」 「お前ごとき弱者がひとりで旧祖を抜けられるものか。第一、お前には俺から“逃げる気もない”のだろう?それともあれは偽りか?」 「あれは本心ですけど…」尤も、微妙に意図とは違う使われ方をしている気がしてならないが。 「ならば問題はないだろう」 精々残りの時間を足掻いて楽しませろ、と言い置いてシキは日本刀を手にすると部屋を出て行ってしまう。呆気に取られて目でその後を目で追った私から隔てるように、玄関の金属製の扉が軋みながら閉じる。 姿が見えなくなった途端ふっと身体から力が抜けたのは、生命あるまま解放されたことへの安堵かもしれない。けれど、その脱力感には奇妙なことに何かが欠けたような空虚さが混じっている。私はしばらくの間ぼんやりと空虚さを抱えたまま、その場で遠ざかる足音に耳を澄ませていた。 1.怯え惑う End. 目次 |