1.
アパートの廃墟で一夜を明かし、翌日、トシマへ戻る道を辿った。 昨日は一日中弱い雨が降ったり止んだりしたようだったが、今日はそうでもない。けれど、空はいつも通り厚く曇って、日差しがないために時折肌寒さを感じる。廃墟を吹き抜ける強い風に身を竦めながら、私はトシマの西地区へと入った。 街中に踏み込むと土と埃のにおいに混じって、時折饐えた臭いを感じるようになる。それはゴミや吐しゃ物やアルコールなどの臭いが入り混じったもので、無人の廃墟と化した旧祖の他の場所と違って、トシマに人間がいる証だ。帰ってきた、という気がする。 途端に、私は急に様々なことが気にかかり始めた。混乱したバーを放り出してきてしまったし、マスターにも碌な説明ができなかった。あの後一体どうなっただろう、と案じながら、中央地区にあるバーへ向かう足を速める。と、そのとき、 「待てよ」 細い路地裏から伸びてきた手に腕を掴まれ、引き止められる。 しまった。気が急く余りに周囲への警戒を怠っていた。今更後悔しつつ、動揺を表に出さないように殊更の無表情を装って、私はゆっくりと腕を掴む人物を振り返る。そこに居たのは派手な色のバンダナを頭に巻いた若い男で、もう一人仲間らしい髪を金色に脱色した男が少し離れて壁に背を預けて立っていた。 一瞬、イグラを仕掛けられるのかと身構える。けれど実際にはそうならず、私が視線を向けると、バンダナの男は害意がないというように掴んだ腕を離して一歩後ろに退いた。 「あんた、中央地区のバーのウェイターだろう?何でこんなところにいる?」 「そうだけど…どうして俺のことを知ってるんだ?」“Meal of Duty”から離れることも少なかったから、こんなところで知り合いが出来るはずはないのに。 「中央のバーへ行ったことくらいある。一昨日も店にいた。あんたは店の中で暴れたライン中毒を引き付けて、」 「――おい、いいカモが通りかかったんだ。さっさとイグラを始めようぜ〜」 不意に金髪の男が、背を預けていた壁から身を起こしながら急かした。やはり、彼らはタグ目当てで声をかけてきた“敵”なのか。私は身構えながらじりじりと少し後退する。すると、バンダナの男はこちらを見て一瞬困惑にも似た表情を顔に過ぎらせたかと思うと、次の瞬間、仲間を顧みて嗜めるように睨んだ。 「この人とは闘らない」 「はぁ!?何言ってんだよ。力のない奴はさっさと食っちまえってのが、この街のルールじゃねぇか。お前だって知ってるだろ。情けなんかかけてたらいつかこっちが、」 「この人とは闘らない」きっぱりと繰り返し、バンダナの男は首を横に振る。「お前も一昨日見てただろ。この人が囮になったおかげで、店の中にいた奴が何人助かったと思ってるんだ。もしあのままライン中毒が暴れ続けてたら、俺もお前も危なかったかも知れない」 「やけに庇うじゃねぇか。へぇー、最近中央のバーへよく行ってると思ったら、ふーん、そういうことかぁ。そういうことじゃ、仕方ねぇなぁ」 金髪はバンダナの男と私を交互に見ながら、にやにやと笑っている。バンダナの男が「ちがう」とぼそぼそと反論したが、金髪は笑いを収めなかった。一体なにが“そういうこと”なのだろう。今一つ話が掴めないのだが、少なくともバトルを吹っ掛けられるわけではないらしいと判断して、私は緊張を緩める。とりあえず、バーに来ているお客さんであることは間違い無さそうなので「それは、いつもありがとうございます」と挨拶すると、バンダナの男は少し困った表情でこちらを見た。 「いや。それより、あんたはこれから店に戻るのか?もしそうなら、止めた方がいい」 「何でそんなことを…」 「あんたは知らないだろうが、昨日の夜また“Meal of Duty”が襲われたらしい。それも、一昨日なんか目じゃない。襲ったのは、死体をバラバラにして、壁に血を塗りたくるような狂った奴だ。ただのライン中毒者じゃなく、50度をキメた奴…もしかしたら適合者かもしれないって今はトシマ中がピリピリしてる」 「まさか」2晩連続で同じ場所で惨劇が起こるなんて。 中立地帯は<ヴィスキオ>がラインを流通させるための装置で、その性質上自然とライン不適合者の暴走の現場ともなりやすい(争い禁止の中立でも死者が出るのは、つまりそのような理由からだ)。そして、ラインの流通を停滞させないために中立で起きた揉め事は<ヴィスキオ>の権限で速やかに処理され、営業を再開できるようになっている。ただ、今回のことはその処理の早さが仇となったかもしれない。 それにしても、マスターは無事だろうか。――私は今更ながらに昨夜店にいなかったことを後悔した。たとえ惨劇の現場に居合わせたとしても、私は何の役にも立たないことは間違いない。けれど、それでも一人安全な場所にいたことを思うと、まるで自分が卑怯にも皆を見捨てて逃げたような気がする。 「――だから、店へ…中央へ戻るのは止めた方がいい。50度の適合者がまだうろついてるかもしれないし、50度が現れたことで皆ピリピリしてるからイグラを吹っ掛けられるかもしれない」 バンダナの男が忠告してくれるのへ、しかし、私は首を横に振った。マスターは私の恩人で、その上私は“Meal of Duty”の従業員なのだ。戻って店とマスターの安否を確かめる義務があるし、そうしたいと望んでもいる。たとえ危険でも、戻らないわけにはいかない。 ただ、バンダナの男が仲間を止めてくれたこと、忠告してくれたことは嬉しかった。このトシマでは、皆、自分以外の他者は敵で踏みつけにすべきモノと見なしている輩ばかりなのだと思っていたから、無関係の他人を心配する彼が少し意外ではあった。もしかしたら、表面には出ていないだけで、イグラ参加者の若者もごく普通の人と同じ情を持っているのかもしれない。そう思いながら、私はバンダナの男へ「ありがとう」と笑って見せた。 「え?」バンダナの男が虚を突かれたような面持ちになる。 「忠告してくれただろ?それに、俺と闘わないと言ってくれた。だから、ありがとう。でも、俺はやっぱり行かないといけないんだ」 背後から襲われないと信じて――というか、襲われても抵抗などできないので――私は無造作にバンダナの男とその仲間の金髪に背を向ける。歩き出すと背後で何やら金髪の男が「すげぇ、…」などと騒ぐ声がしたが、距離が開いてしまって内容までは聞こえなかった。 *** 中央地区へ戻ると、店の周辺は妙にざわざわとした空気に包まれていた。人だかりという程でもないが2、3人くらいの人の集まりが幾つか出来ていて、大通りに面した店の入り口を遠巻きに、何事かを囁きあっている。更に、店の入り口には<ヴィスキオ>の関係者と思しき黒服2人が立って、周囲を警戒していた。 通常、中立の施設で騒動があったとき、<ヴィスキオ>からの警備は、一時的にもぬけの殻になった店内からラインが持ち去られるのを防ぐ目的で派遣されてくる。つまり、彼らがいるということは、店の中が片付いていないということだ。 ライン中毒、50度、適合者…集まった野次馬の話が断片的に耳に届く中、私は警備の黒服たちに状況を聞こうと歩いて行く。そうして黒服たちに声を掛けようとしたものの、入り口の階段を上ってくる荒々しい足音が聞こえて、私は何気なしに視線をそちらへ向け――凍りついた。 階段を上ってきた男が上りきる直前でこちらに気付き、すっと目を細めた。男の目に絶えず宿るのは、ライン中毒者の濁ったものとは質の異なる研ぎ澄まされた狂気だ。私は以前体験した恐怖の記憶と男の目に宿る狂気に呑まれかけたが、 「あぁ〜ネズミ発見っ!」 抑揚の外れたグンジの大声に、はっと我に返って身を翻す。 絶対にここで処刑人に捕らえられるわけにはいかない。処刑人たちの中にある研ぎ澄まされた狂気への恐怖とアルビトロに受けた扱いへの嫌悪がない交ぜになって、私を急かして背中を押す。野次馬たちの間を擦り抜け、大通りを横切って入り組んだ裏通りへ入ろうとする。と、そのときダダダッという激しい足音が背後に迫って、次の瞬間には背中に衝撃があった。為す術もなく前のめりに転倒して「うっ」と息を詰めているうちに、誰かが私の上に乗り上げてくる。同時に、両腕を捕らえて背中で拘束され、完全に動きを封じられてしまう。 「ネズミ一匹捕獲完了ぉ〜」 呑気な調子の宣言に、私は思わず竦みあがる。と、ちょうど騒ぎ立てるグンジの声に被さるように重々しい足音が近付いてくるのが聞こえた。苦しい体勢の中何とか身を捩って顔を向ければ、ゆったりとした足取りで歩くキリヲの姿が見えた。 野次馬たちは今や“Meal of Duty”ではなく私と処刑人に注目していた。キリヲが傍を通りかかると、野次馬は自然と脇に退いて道を広く開ける。キリヲは悠然と歩いてくると、私とグンジの傍で立ち止まり、溜め息を吐いた。 「こら馬鹿ヒヨ、そのお嬢ちゃんを潰したら意味ねぇだろうが」 キリヲはそう言いながらグンジを引きずり下ろした。痛てぇだろうが!とグンジが抗議の声を上げるのを聞きながら、私はそろりと上体を起こす。そうしながら処刑人たちを見ると、ちょうどキリヲと視線が合った。「それにしても、随分と傷だらけだな、お嬢ちゃん。その痕は飼い主に折檻でもされたかァ?」 「えー、痕ぉ?」キリヲの言葉に反応したグンジがぱっと立ち直って、私をまじまじと見つめてくる。「ホント、すっげぇ痕。ネズミ、他の男でも誘ったんじゃねぇのー?」 咄嗟に私は襟元を押さえ、処刑人たちの揶揄の眼差しから首に残る痕を隠しす。そうするうちに、次第に処刑人の言葉と視線への反発が募ってくる。逃げることのかなわない今の状況が恐ろしくもあったが、私は必死に顔を上げて彼らを睨んだ。 『――大丈夫か?』 不意に頭の中でケイジの声がした。それへ、私は大丈夫だと小さくと頷いてみせる。 (ごめんね、逃げ切れなかった…) 『相手が相手だから仕方ない。今度は、俺も意識が表にいられる限りあんたと同じものを見ているから。あんたは俺に逃げないと言ったんだ、俺も逃げない。もっとも、痛みを感じるのはあんただろうけど…』 かつて処刑人に捕まったときには早々に心を閉ざしてしまったケイジが、今は傍についていてくれる。それだけでも心強く嬉しくて、私はありがとうと言った。それから、再び処刑人たちに意識を向ける。 「お嬢ちゃん、見ねぇ間に随分と別嬪になったじゃねぇか。ちょっと喰ってみたくなるような、イイ目ぇしてらぁ。だけと、今回は無傷で連れて来いってぇ言われてっからなぁ〜」いかにも残念だというように頭を振ると、キリヲはグンジを押しのけて私に手を差し伸べる。助け起こしてやろう、とでも言うかのようだ。「さぁ、<城>への招待だ、一緒に来てもらおうか。あーそんな警戒しなくとも、今回はビトロじゃねぇよ。あのハゲのマスターがあんたを探してる」 「マスターが…?マスターは無事なのか!?」 思わず私は身を乗り出すが、キリヲは何か言うでもなく明後日の方向に目を向け、鉄パイプでぽんぽんと肩を叩いて間を持たせる。それから、ゆっくりと鉄パイプを下ろし、再び私に視線を向ける。「まぁ、死んではねぇな」と、ひどく含みのある答え方をした。 「あのハゲなんざ、死神だって嫌がるに決まってんだろー」 隣で軽口を叩くグンジを睨んでから、私は再びキリヲを見る。「なら、怪我でもしてるのか?ここにマスターがいないなんて、おかしい」感じた疑問を口に出すと、余計に不安が増す。確かにマスターはタフだと思うが、だからといって私はグンジのように楽観することはできない。どんなに強かろうと、死なない人間などいやしないのだから。 「気になるんなら<城>へ来いよ。まぁ、来る気がなくても連れてくけどなァ」 「だろうな。なら、自分の足で歩いて行く。行って、マスターに会わせてもらう」 先程キリヲは手出ししないと言ったが、処刑人の言葉など当てにはできない。私は、<ヴィスキオ>の定めたルールに違反したことがあるのだ。行けば前回の制裁の続きが待っているのかもしれないと迷ったものの、マスターの安否を確認したい気持ちが勝った。どのみち私では処刑人から逃げ出すことなどできるはずないのだ。 思い切った私はキリヲの手を取らずにゆっくりと立ち上がる。すると、野次馬たちの間からざわめきが起こった。そのざわめきも、同情と好奇の視線も、意に介さないふりをして顔を上げる。 そぉ来なくっちゃなぁ。キリヲが肉食獣が獲物を前にしたような獰猛な笑みを浮かべながら、呟くのが聞こえた。 *** 数分後、キリヲの後に従って、私は<城>の方へ歩き出した。けれど、背後から喧しい喚き声が聞こえてくるので、そっと振り返ってみる。盛んに喚いているのは、その場に残って店の片付けを続けることになったグンジだ。それは子どもが駄々をこねるみたいな喚きっぷりで、私は何となく小さい子を見知らぬ場所に放置したかのような後味の悪さを少し感じた。 「――あのままでいいのか?」思わずキリヲの背に声を掛けると、 「あぁん?構いやしねぇよ」慣れているのかキリヲは振り向きもせずに言う。 「それにしても、あいつが他人の言うことを聞くなんて驚きだ」 「あー、ヒヨは基本的に他の奴の言うことなんか聞きやしねぇよ。ただ、まぁ、これは仕事だからな。いくらあの阿呆でも、それくらい弁えてるさ。」 仕事!?勝手気ままに人間を嬲って遊んでいるように見える彼らにも、そのような意識があったのか。驚きすぎて言葉が出てこず、私はキリヲの背中をまじまじと見る。すると、唐突にキリヲがこちらを振り返ってにやりと笑った。「そんなにじろじろ見て、お嬢ちゃん、俺に惚れでもしたかァ?」 慌てて、何度も大きく首を横に振って否定した。 <城>へ着くと、キリヲは少年の裸像の立ち並ぶ不気味な廊下を延々と歩いて、奥にある一室へ私を連れて行った。「ここだ」と示された扉は木製の頑丈そうなもので、私はその先があの中世風の拷問部屋に繋がっているのではないかと怯んで、中に入ることをためらう。すると、横から伸びてきたキリヲの手があっけなく扉を開けて、ぐいと強い力で私を室内へ押し込んだ。 「い、やだ…!!」 とっさに目を瞑り、身を捩ってキリヲの手から逃れようとする。けれど、もがけばもがくほどキリヲは私の拘束を強くした。背後から抱きすくめるような格好で私を押さえつけ、「こら、暴れんじゃねぇよ」耳元で囁く口調はその腕に込められた力の強さに反して静かだった。私の抵抗を抑え込むことなど、然程の労力も必要ないのだろう。 「誰…、なの…?」 不意に、聞きなれた声――マスターの声だ――がして同時に、つんとした薬品のにおいが鼻をついた。そこで、私は抵抗を止め、おそるおそる目を開けてみる。すると、白を基調として整えられた清潔な室内が視界に現れた。いかにも医務室といった雰囲気の内装である。 「マスター?」白い布を張った衝立に向かって呼びかけ、身を捩ってキリヲの腕を振り払った。逃げないと分かっていたからなのか、キリヲはあっさり拘束を解く。自由になった私は衝立を避け、その奥のベッドに横たわっているマスターに駆け寄った。「マスター!怪我をして…大丈夫ですか…?大変なときに店にいなくてすみません…」 「ええ、平気よ。ちょっと縫ったけど、大したことないのよ」 だからそんな顔しないで、とマスターは私の左手を取って手の甲をゆっくりと撫でた。私の母親は今でも何かあると頭を撫でるけれど、そのときと同じような安堵が込み上げてくる。 と、突然穏やかな雰囲気を引き裂くようにマスターが「ああぁ!」と大声を上げた。 「なっなっなっ…」 「あ、あの…マスター?」 「どうしたの、この痕はっ!!?」マスターは私のシャツの袖を捲って手首の傷を見、次いで私の顔を見上げて更に声を上げる。「あぁぁ、首にもっ!!ちょっとキリヲ、あんたうちの子に何するのよっ――そんなにあたしとヤりたいのね、上等じゃない!?」 マスターの言葉と視線を追って振り返れば、いつの間にか傍まで来ていたようで、私の背後で肩をすくめるキリヲの姿が見える。「俺じゃねぇ、そいつの飼い主だろ。シキの調教が良かったのかねぇ、ちょっと見ねぇうちにイイ目ぇするようになっちまって」 「!!?」 何てことを言うのかと思うのだが、とっさに言い返す言葉が出ない。“調教”という単語が持つ意味への羞恥と、事実無根の指摘をされたことへの怒りが、言葉を探すうちにどんどん膨らんでいく。そんな私の隣で、マスターがベッドから身を乗り出した。 「この子をキズモノにするなんて、いくら<王>でも許さないわ。今度会ったらタダじゃ済まさないんだからっ」 「マスター、これは別にシキのせいでは…」 手首と首の痕はシキのせい以外の何物でもないが、怪我人が興奮するのは身体に障るだろう。取りあえず私はマスターを宥めようと嘘をつく。すると、マスターはがしっと私の両手を掴んだ。 「…互いに合意の上でならあたしは何も言わない。でも、嫌なら嫌とはっきり相手に言うのよ。あんなドS男相手じゃ難しいだろうけど、無理に相手の趣味に付き合うことはないんだから。それにせっかく綺麗な肌なんだもの、傷が残ったら勿体ないでしょう?」 …今、私とシキはどういう関係だと勘違いされているのだろう。聞いてみるのが怖くて、結局、私は曖昧な相槌で早々に話題をやりすごすことに決めた。 *** 「マスター、あのときシキと行かせてくれたこと、ありがとうございます。店が大変なことになっていたのに、勝手してすみませんでした」 互いの安否を確認する(?)会話が一段落した後で、改めて私はマスターに言った。すると、ベッドの傍の小さな丸椅子に窮屈そうに座っていたキリヲがヒュウと口笛を吹いて笑う。「へぇ、トシマの中立にしては随分とマトモな店員じゃねぇか」 「こういう子だからこそ、あんたに探して来てって言ったのよ」キリヲに応えてから、マスターは私に目を向けた。「本当に、が気にすることじゃないわ。うちの店でライン中毒が暴れるなんて珍しいことでもないけど、まさか2晩続けてだなんて誰も予想できないわよ」 「昨夜、リンや源泉さんは店に――」聞きかけてから、思い留まる。「いえ、すみません。何でもないです」 このトシマで私の知り合いといったら、マスターとシキの他は数人しかいない。然程長い付き合いでなくとも、彼らの安否は気にかかる。けれど、こんな風に聞くのは、駄目だと思った。 一昨日、そして昨日“Meal of Duty”の店内で生命を落とした客たちの中に、誰かの――たとえば他のイグラ参加者の――大切な仲間がいたかもしれない。そして、仲間の死を確認するも術もないまま心配し続けている参加者がいるかもしれない。私だけ従業員の立場を利用して自分の知り合いの安否だけを確認するのは、利己的で不公平なことではないのか。 そういう気持ちを口に出しはしなかったのだけれど、マスターはお見通しだったようで「いいのよ」と私の頭を撫でた。 「はもっと自分のことを考えてもいいのよ。こんな街なんですもの、大切なものがあるならそれだけを必死に掴んでおかないと、すぐに失くしてしまう。――2人とも昨日は見かけていないわ。でも、いなかったとは言い切れない。タグ交換に来なければ、店にいたとしても分かるかどうか」 「――少なくとも、回収した中に金髪の猫やくたびれたオッサンの死体はなかったなァ」 前触れも無くキリヲが声を発したので、私はびっくりして彼の方を見る。数秒後にようやく彼の言葉への理解が追いついてきた。リンと源泉の安否を教えてくれたのだ。驚きながらも礼を言うと、キリヲは凶悪な笑みを過ぎらせて「どーいたしまして」と軽い口調で応じる。何とも反応に困って再び視線を戻すと、「良かったわね」とマスターが片目を瞑って見せてから、表情を改めた。 「でも、良くない報せもあるの」 「良くない報せですか…」 「そう、この前リンが店に連れてきた青いツナギの新人…あの子には気をつけて」 「え?でもケイスケは、」この街では珍しいような好青年なのに。 「以前がどうあれ、もう変わってしまったわ。多分、ラインをやったのね、目が濁ってたから――昨日店を襲ったの、あの子だったの」 「猛ではなくて?ケイスケが?…そんな」 店に来たときに見せたはにかんだ顔を思い出す。 それから、夜更けに会ったときの泣き出しそうに強張った笑顔も。 “ちょっと、色々あって” 夜更けに会ったときケイスケは一人歩きの理由をそう説明していた。あのときの彼はラインを使っている様子はなかったから、あの後のことなのだろう。常識のありそうな青年が一体どうして麻薬なんか。ちょっと色々あった“ちょっと”に心が負けてしまったのだろうか。 もしもあのとき、強引に店に連れて行っていたら、こんなことにならなかったのかもしれない。――ケイスケの苦しげな笑顔を思い出しながら、今更のようにそう思った。 目次 |