2.



 それからしばらくマスターと話してから、私は医務室を後にした。キリヲに案内されて、<城>の廊下を歩いていく。目指す先は玄関ではなく、<城>の一角にある客室である。
 私が寝起きしていた“Meal of Duty”は、あの惨劇の後では当然使えるはずもない。マスターはそのことを見越して私の身を案じ、アルビトロに話を通して<城>の客とする手筈を整えてくれていたのだという(私が探されていたのも、そのためだった)。
 この<城>には嫌な記憶しかない私は、当初<城>に身を寄せることを躊躇った。処刑人にしろアルビトロにしろ、決して信用できるものではない。けれど、その辺の廃墟で眠ることの大変さは私も知っていたし、マスターの厚意を無にしたくなかったので、結局<城>に泊めてもらうことにした。医務室を出るとき、まだ不信感に顔を強張らせる私の目の前で、
 「んな警戒しなくても、前みたいなことはしねぇよ。お嬢ちゃんに手出しして、そこのハゲにヤられたかぁねぇからな」
 「ハゲじゃなくてスキンヘッドよ!アンタ、よく分かってるじゃない。――だから、安心してね。こいつらにもアルビトロにも、アタシが手出しさせないから」
 なんて会話をマスターとキリヲが交わすものだから、私も決心せざるをえなかったのだ。


 元は多目的ホールであったという<城>の内部は、俄かにそうとは思えないくらい混沌としていた。内装自体はクラシックな感じの洋風で、特にどうというところもない。問題は、あちらこちらに少年を象った石像や絵画などが飾られていることだった。おまけに照明も意図的に抑えられているせいで、どうしてもホーンテッドマンションのような不気味な印象を受ける。
 その辺の暗がりから何か出てきそうだ、と先程とは異なる不安を抱きながら歩いていると、不意に腰の辺りにぶつかってくるものがあった。「うわぁ!!」みっともなく声を上げながら、私はその場に尻餅をついた。途端、ぶつかってきた大型犬ほどの体格のものが身体の上に乗り上げてくる。きつく目を閉じて叫ぼうとしても咄嗟に声が出せず、とにかくもがこうとしたとき、上からキリヲの声が降ってきた。
 「おい、お嬢ちゃん、大人しくしてな。そいつぁビトロの飼い犬だ、何かありゃあビトロがヒスる。なに、しばらくじっとしてりゃあ、そいつも直に気が済んで離れるさ」
 「そんなこと、言っても…っ」
 私は目を開けて、自分の上に乗っているものを見た。
 飼い犬とキリヲは言ったが、私の目に映るのは明らかに人間の少年である。露出度の高い黒革の衣装を身に着けて、同じ素材の帯状のもので目隠ししている。そんな風に目元が隠れてもそれと分かるほど顔立ちは整っている。それなのに仕草はどこか犬を思わせるところがあって、一言も話さないまま私の胸元に顔を寄せ、においを嗅ぐみたいにすんと小さく鼻を鳴らした。
 「ちょっと…どいてくれっ」少年に言ってみるが、聞こえないかのように反応がない。
 「あー無駄だぜ。そいつはもう自分が人間だったことを忘れちまってるからな」
 「そんなの、忘れるような、ことじゃない」
 「それでも、忘れたんだよ。いや、人間でいることに嫌気が差したのかもなぁ。いずれにせよ、今のそいつは犬で、アルビトロに飼われてる。それだけの話だ」
 そうやって話している間にも、少年は私の首に掛かる鎖を銜えてタグとロザリオをシャツの中から引っ張りだしてしまった。シャツの内側から零れ出た瞬間、それらはぶつかり合ってチャリンと小さな音を立てる。すると、少年は少し顔を離してまるで不思議なものが見えたみたいに小さく首を傾げてから、再び顔を寄せてきた。すん、とまた小さく鼻を鳴らしてから、口でロザリオを銜えようとする。
 「それは駄目だ…!」
 思わず少し強い声で言うと、少年はびくりと慄いて少し身を引いた。それはまるで叱られた幼児のような仕草で、何となくひどいことをした気がし始める。ごめんね、と声の調子を和らげて、私は少年に謝った。「でも、これは大事なものだから、」

 「狗」

 不意に声がしたかと思うと、少年はぱっと身を起こして声のする方へと駆け出していく。ようやく身動きできるようになって幸いとばかりに起き上がると、少年の駆けていく前方に見知った男の姿が見えた。実質的に<ヴィスキオ>を取り仕切っているアルビトロである。
 「私の狗が失礼したようだね、申し訳ない」
 立ち止まって、駆け寄ってきた少年(狗というらしい)の頭を撫でながら、アルビトロは苦笑してみせる。それはどこか芝居がかった表情で、私は密かに抱いた警戒心を隠しながら、ゆっくりと床から立ち上がった。たとえマスターが保障してくれようとも、<城>で一番権力があるのはアルビトロだ。その気になれば、マスターとの約束など破ってもおかしくない…。
 「あぁ、そんな風に怯えなくとも何もしないよ。君のことは既に聞いている。君はこの<城>の客人だからね、私も礼儀をもって遇すつもりだ」
 「それは、ありがとうございます。お世話になります」
 取りあえず私は、頭を下げた。
 いくら信用できない相手でも、礼儀は守るべきである。少なくとも、無礼こそ相手に対する適切な態度だと分かるまでは。そう思うからこその態度であって、決してアルビトロを信用したわけではない。しかし、私の態度をどう思ったのかアルビトロは上機嫌に笑みを深めた。
 「礼儀正しいな。前にも言ったように君は私の好みより年がいきすぎているが、本当に残念だよ。私は、躾のいい子が好きなのでね…あぁ、もっとも躾がいのある子も大好きだが」
 含みのある視線が足下から這い上がってくるのに、私は敢えて無視した。不快であっても、実害がないならば取り立てて騒ぐほどのものではない。そう思いながら黙っているうちに、アルビトロは狗を連れて去っていく。


 また、キリヲと2人になったところで思わず肩の力を抜くと、キリヲが低く嗤った。
 「怖がりだな。前みたいなことはねぇって言っただろ。ビトロだってオメエに手出しはしねぇよ。アイツぁ、そんなことでオメエの飼い主とコトを構えたくはねぇだろうからな――今はまだ、な」
 「俺は飼われてるわけじゃない。…“今はまだ”って、この先は違うのか?」
 「そりゃぁオメエ、“祭”はいつか終わる。そういうもんだろぉ?」
 「祭が…イグラが、終わる――内戦か?内戦が始まったら、状況が変わる…?」
 先程のキリヲの言い方は将来的にアルビトロがシキと対立することを仄めかすようだっった。
 内戦が迫っていること、開戦になれば<ヴィスキオ>がトシマを捨てるだろうということは、既に源泉が情報としてもたらすところである。<ヴィスキオ>の意思決定権は実質の管理者であるアルビトロにある。決して、<王>であるシキにはない。アルビトロに対立の意思があるならば、<ヴィスキオ>の組織がそのまま丸ごとシキの敵となるだろう。
 それはいくらシキといえども、多勢に無勢が過ぎるのではないか。ふと懸念に打たれて、私はキリヲを見上げた。
 「さぁて、な。先のことは先のお楽しみってことにしとこーぜ。あんまり先読みが過ぎると、ビトロが顔色変えるかもなぁ?」
 私の視線を受け止めて、しかし、キリヲははっきりと答えることはせずに嗤った。そうして、眼差しだけで更に私が尋ねようとするのを抑える。その態度こそが、何よりも私の疑念を肯定するかのようだった。


***


 廊下を歩いた末に案内された客室は、思ったよりも普通だった。
 部屋はこじんまりとして、ベッドの他には小さなテーブルと椅子程度の調度があるだけ。内装は全体的に<城>の他の場所に合わせて洋風であるものの、嬉しいことにあの地下の拷問部屋のようなおどろおどろしい小道具や装飾は一切なかった。
 キリヲが去りって一人きりになってから、私は取りあえず綺麗に整えられたベッドの上にすとんと腰を下ろした。身体の下に感じるベッドのスプリングは十分にきいていて、掛かっているシーツは清潔であることが感じられる。このトシマでは、それだけでも大変な贅沢だった。たとえ一夜限りであろうと暖かく清潔な寝床を得られる人間が一体どれだけトシマに存在するだろうか。
 誘惑に負けて、私はずるずると身体を横倒しにした。頭を空っぽにしてただ柔らかなシーツの感触を感じるうち、ここが<城>であることも忘れて安らいだ気分になってくる。このまま目を閉じれば、すぐにでも眠ることができそうだと思ったそのとき、
 
 『あんた、本当に緊張感のない奴だな。あっさり寝るなよ、一応敵地だぞ』

 そんな皮肉混じりの呆れ声が頭の中に伝わってくる。そうだねと私はぼんやり頷いたが、だからといってもう一度起き上がる気力はなかった。
 『鍵は掛けたな?ナイフは傍にあるな?…もっとも、シキの手前、奴らもあんたに危害は加えないだろうけど』
 (…どうして皆そう思うのかな。シキは知人が危害を加えられたからって仇討ちするようなひとじゃなし、そもそも私たちそこまで親しい知り合いじゃないのに)
 『それ本気で言ってるのか?まぁ別にいいけど…――取りあえず、そう思ってても他の奴に言うなよ。奴らはシキの“女”だと思うからこそ手出ししないんだからな』
 (“女”か…――分かってる。たとえ事実でなかろうと、安全でいられるなら誤解は解かない)
 男性の身体であるのに、比喩として“女”と見なされるというのは、なかなか皮肉な状況だった。きちんと男として振舞っているつもりでも、あくまで女と見なされる自分が滑稽な気がした。可笑しくて笑おうとするが、失敗して気の抜けたような吐息だけが唇から漏れる。笑うことを諦めて目を閉じた。

 (ねぇ、明日からどうしようか?)

 私は目を閉じたまま言った。
 2度惨劇が起きたことから、“Meal of Duty”は閉店が決まったのである。私は先程マスターからそのことを教えられたばかりだった。ただ、閉店とはいっても私はすぐ解雇というわけでもなく、できれば閉店のための片付けを手伝って欲しいと頼まれている。
 だが、それでいいのか。
 最初私はこの街で独力で生きられないから、“Meal of Duty”に身を寄せた。ケイジのしたいことも後回しにして。そうして過ごして少し自分に余裕の出てきた今、自らの意思で行動できないケイジの意向を聞くべきだと思ったのだ。
 『どうって、今まで通りマスターの手伝いをすればいいじゃないか』
 (だけど、それじゃケイジはいつまでもお兄さん探しができないよ。内戦も近いし、トシマに手がかりがあるなら早く見つけないと。私も協力する。言ってくれれば、ケイジの言うところを探すから、)
 『断る』ぴしりとケイジは私の言葉を断ち切った。『これは俺の問題だ。あんたの手は借りない』
 (確かに余計なお節介だけど、時間もないみたいだし、少しくらい任せてくれてもいいでしょ?私はずっとあなたの身体を借りて申し訳ないと思ってるし、あなたを心配もしてる。少しくらいあなたへの借りを返させてくれても、)
 『俺の問題だと言ってるだろ。あんたに関係ない』あんはにはこんなことに関わってほしくないんだ。
 (え?)
 切り捨てるようなきっぱりした言葉の後に、何か微かな呟きが聞こえたような気がする。私は慌てて聞き返したが、ケイジはもうこの話は終わりとばかりに沈黙してしまい、確認することはできなかった。

 “俺は――俺は見たくない”
 先日、研究所の廃墟で叫んだケイジの必死な声音を思い出す。あのときも今回も同じだ。彼の兄について触れようとすると、拒絶が返ってくる。だが、本当に兄を探したいと思うなら、内戦がいつ始まってもおかしくない今の状況ではもう形振りなどかまっていられないのではないか。疑念という程でもないが、私は微かに違和感を覚えた。
 もしかして、ケイジは兄を探す気はないのではないか。
 或いは、既に手がかりを掴んでいるのに動けないでいるのか。

 ふとそんなことを思いついたものの、私は深く追求せずに頭から締め出した。可能性がないと判断したのではない。ただ私の疑心暗鬼がケイジに伝わることを避けたかった。何か負の感情を抱けば、隠しても自ずと相手に伝わってしまうこともある。身体一つであるだけに、ケイジに対しては尚更伝わり易いだろう。
 私が疑心を抱いたと知ればケイジは再び心を閉ざすに違いない。自分のせいでようやく築いた信頼を失うのは嫌だった。今疑心に負けて悪戯に事実を暴かなくとも、ケイジ自らが何事かを語ってくれるときが来るかもしれない――昨夜シキの前でそうしたように。
 努めて頭を空っぽにして、私は無心にシーツに頬を擦り寄せた。
 今日は曇天なので窓からの光だけでは判断しにくいが、まだ夜にはならないはずである。それでも、暖かな寝床に身を預けていると自然と目蓋は重くなり、私は自分でも知らない間に眠りに引き込まれていった。


***


 その夜。<城>の主のために設えられた執務室に、<ヴィスキオ>の<王>と管理者の姿があった。
 <ヴィスキオ>の頂点は<王>たるシキであっても、<城>の所有者は管理者のアルビトロである。<城>の一角には執務室よりも広い<王>の謁見の間もあるのだが、それはアルビトロのシキへの慇懃さ同様に形式的なものであって、未だに使われたことがない。会見は大抵この執務室で行われる。この日もいつもと同様で、両者は高価なマホガニー製のデスクを挟んで向き合っていた。
 アルビトロはひどく不機嫌な面持ちだった。というのも、既に眠っていたところを叩き起こされたためである。対するシキは常と変わらぬ無表情で、アルビトロの恨めしげな視線も平然と受け流していた。

 「高濃度ラインが出回っているようだな。昨夜の中立での騒ぎは、単なる中毒者でなく高濃度の適合者によるものだろう」

 静かに断定するシキの声に、アルビトロははっと顔を上げた。同時に咽喉もとまで込み上げていた深夜の突然の訪問に対する抗議の言葉が、行き場を失って消えていく。
 「違う…私ではない…。高濃度のラインなど、この私が流通を許すものか。不適合とそれによる死の確立が跳ね上がるだけで、何の儲けにもならん。第一、君から受け取る原液の量では、通常の生産量を保ちながら更に高濃度を量産することはできない。君も分かっているだろう?」
 「さて、な。貴様は己の利にだけは呆れるほど敏い。内戦を見越して外部…ENED辺りにラインの情報を与えて精製させたというのも十分にありえる話だが」
 「馬鹿なっ!」目の前の男への畏怖も忘れて、アルビトロは噛み付いた。顔の半ばまでを覆う仮面の下、蘇る過去の怒りと屈辱で皮膚が赤く染まっている。「ENEDはこの私を追放したのだぞ!?誰が奴らになど…たとえ土下座して謝ってきたとしても協力などするものかっ!!」
 激昂するアルビトロを、シキは冷ややかな眼差しで眺めていた。アルビトロのような手合いはいくら誇りを踏みにじられようと、いざとなれば己の保身のために相手に擦り寄っていくものだ。今はともかく、この先は分からない。最初からシキは信用していなかったので、今更アルビトロが何を言おうとも特に感銘は受けず、軽く鼻を鳴らして嘲笑うことで激昂に応じた。
 「貴様でなければ、勝手に情報が漏れたか。いずれにせよイグラを取り仕切るお前の不手際には違いないな。――ラインに関する情報を街の外に出すなと、俺は最初に命じたはずだが?」
 シキが視線にはっきりと殺気を込めると、アルビトロはびくりと肩を震わせて口を噤んだ。そのおどおどした態度をまだ嘲笑って、シキは踵を返す。最早用はないとばかりに迷いのない足取りで、真っ直ぐに扉へと向かった。そうして部屋を出る間際で振り返り、まだ立ち竦んでいるアルビトロを振り返る。
 「貴様は本当に使えん男だな。EDNEが追放したのもよく分かる。…この件に関して、貴様は手を出すな。今まで通り己の役目だけ果たしていればいい」


 背後で扉が閉まった途端、怒りが爆発した。
 アルビトロは目の前にあるデスクに力任せに拳を叩きつける。1度、2度、3度。鈍い痛みが走るのにも構わず拳を叩きつけながら、低く呪詛の言葉を吐き出した。
 「くそっ…あの男…今に見ていろ…」
 出し抜いてやる。そうは思うものの、手持ちの札は使えそうになかった。
 あのシキが唯一心に掛ける存在。だが、今“彼”に危害を加えてシキと事を構えるのは早すぎる。内戦が近いとはいえまだラインで稼ぐ見込みがあるのだ、原液の供給を絶たれるわけにはいかない。また<ヴィスキオ>内部にも“彼”を庇護しようとする者がいるのだ。“彼”に手出しするのは上手いやり方ではない、ということをアルビトロは今更ながらに痛感した。
 とすれば、盲点を突く必要がある。
 まだシキの目に映っていないもの。今すぐの報復は無理でもいずれシキが用済みになって決別する際に、あの男の足下を掬うカードになればいい。そういう要素には、一つ心当たりがあった。
 今日の昼間、惨劇のあったバーを視察した際に見かけた青年。非常に整った顔立ちであったから、この<城>に新規参加者の付き添いとして来たこともアルビトロは覚えている。その青年と争ううちに、ラインを服用したらしい男が前触れもなく苦しみだしたのである。
 その様子に、アルビトロはあることを思い出していた。

 ――非Nicol。
 ラインの成分であるNicolウィルスを中和する作用を持つというウィルス。

 ENED時代にアルビトロも聞き知ってはいたが、当時非Nicolはあくまで仮説上の存在でしかなかった。孤児を使っての実験で、結局人為的に非Nicolを作り出すことはできなかったのだ。あの青年にしても、今はまだ可能性にすぎない。しかし、確かめる価値は十分にある可能性だ。
 非NicolはNicolへの反作用を持つが、もとはNicolウィルスの研究過程で生まれた副産物である。その成分を解析することで未だ謎の多いNicolウィルスについて更に解明できるかもしれないし、非NicolからNicolウィルスを精製できるかもしれない。そうすれば、シキの顔色を窺って原液を受け取り続ける必要はなくなるのだ。
 「そうだ…いずれ、出し抜いてやる」
 低く呟いて、アルビトロは嗤った。








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