14.
ケイジが零した呟きに、私は改めて前方のシルエットを見る。悠然としたともいえる足取りで足取りで近づいてくる姿には、私も見覚えがあった。やはり、あの実験室で見届けるかのように最後まで残っていた<難民>だ。 ずっと昔語りと時々垣間見るケイジの記憶だけでしか知ることの出来なかったケイジの兄を目の前にしている。そう思うのだけれど、私は少し困惑していた。心を失ってずっと獣のように生きてきたらしいケイジの兄は面変わりしてしまっていて、弟との血の繋がりはその顔に見出せなくなっていた(先日私がケイジの記憶を夢に見てそれと分かったのは、弟であるケイジの目を通した映像であったからなのだろう)。 ゆったりと近づいてきたケイジの兄は、私から5メートル程の距離を置いたところで立ち止まった。そして、警戒するかのようにこちらの様子を窺っている。相手を下手に刺激することを恐れて、私は息を詰めてその視線を受け入れる。 と、視界の端にちらちらと動くものがある。 視線だけで追いかけると、それは仲間の<難民>たちだった。ケイジの兄の背後で遠巻きに2・3人がこちらの様子を窺っている。物陰に隠れたり、道路に姿を現したりと彼らの動きは定まらないが、決して一定以上こちらに近づいてくることはない。私を獲物と見なして襲う隙を探しているというのではなく、自分たちの仲間を見守っているかのようだ。 その様子を目にして、私は不思議な気分になる。 <難民>とは、理性を失って獣同然に旧祖地区で生きる人々だという。シキはそのように私に説明したし、ケイジもその定義を前提として話をしていた。けれども、それは完全な真実なのだろうか。 ケイジの兄やその仲間は、確かに普通の人間とは違うだろう。それでも、彼らの行動を見ていると、何らかの意思や絆や情のようなものがあるように見える。心が全くないわけではないように思えるのだ。 だとしたら、ケイジの兄が本能的にでも自分の弟に気付き、争いを避けようとすることもあるかもしれない――一瞬、そんな希望を抱く。 けれど、それはやはり甘すぎる考えでしかなかった。 唐突にケイジの兄が僅かに腰を沈める。と、次の瞬間、彼は地をけって一気に5メートルの間合いを詰めて迫ってきた。足場はひび割れ捲れてガタガタになったアスファルトだというのに、そんな状況もものともしない人間離れした瞬発力である。 私は咄嗟に後退しようとしたが――間に合わない。 猛獣のように鋭く伸びた爪が右肩を抉り、その勢いで突き倒されて私は背中から地面に突き倒された。受身を取る余裕もなく、アスファルトに後頭部をぶつけてしまう。ガンッ、と目の眩むような衝撃と共に強烈な痛みが脳天を駆け抜ける。けれど、気絶はしなかった。 右肩には未だにケイジの兄の爪が突き刺さり、じりじりと次第に深く肉に食い込んでいく。そこから伝わる鋭い痛みが、私の意識をつなぎ止めているのだった。 私の上では馬乗りになったケイジの兄が牙のように変化した歯を剥き、今にもこの身体に食いつこうとしている。彼の表情には何の躊躇いも浮かんでいない。人を食らうことなど、日々食事するのと同じくらい自然なことだとでもいうように。ぞっとして私は身を捩ったが、相手を振り落とすことはできなかった。 恐怖が頂点に達して、私はきつく目を閉じる。悲鳴を上げようとするが、声にならない。 食い殺される。 そう思った瞬間、さっと波が引くように全ての感覚が遠ざかった。 身体が勝手に動き、咽喉に噛み付こうとするケイジの兄に頭突きを食らわせる。一瞬ケイジの兄が怯んだ隙を逃さず、思い切り身を捩ってその下から抜け出す。同時に右手が流れるように自然な動きでナイフホルダーへと伸び、何のためらいもなくナイフを引き抜いて構える。 私はといえば、またいつかのように外界から切り離され、意識だけの存在となって“内側”にいた。身体感覚も全くなくなっている。こんなときに意識が身体の“内側”に閉じ込められるなんて――戸惑っていると、ケイジの声が聞こえた。 (あとは、俺が闘う。あんたはもう十分やってくれた。ここからは、俺と兄貴…ヨシト兄さんの問題だ。痛い思いをするのは、俺たちだけでいい) 『…だけど、ケイジ、あなたは能力を使った反動が、』 (俺は平気だから。――今まで、あんたばかり痛い目や怖い目に遭わせてごめんな) その言葉を最後に、ケイジは意識を外界へと向けてしまった。 いくらこれはケイジとその兄の問題であるとしても、兄弟で闘うのは苦痛であるはず。本当は避けられるなら避けた方がいいし、私に代われることならいっそ代わってやりたいとさえ思う。けれど、これはケイジが辛くとも必要だと決めたことなのだ。見ていられない、可哀想だから代わってやりたいなどという私の甘い考えは、きっとケイジの邪魔になる。 だから、私はケイジを引き止めるために言いかけた言葉を、呑み込む。そうして、ケイジの視界へと意識を集中した。 *** 互いに向き合った格好で、ケイジの兄――ヨシトは獣のように姿勢を低くしたかと思うとこちらへ跳びかかって来た。同時に真っ直ぐに鋭い爪を突き出す。こちらに息を吐く間すら与えない素早い攻撃。ケイジは殆ど倒れそうなほど体勢を崩しはしたが、何とかぎりぎりのところでそれをかわす。 けれど、完全には避け切れない。 ヨシトの鋭い爪がケイジの左脇腹を掠めていく。 「っ…ぐ、っ…」 衣服の一部とその下の肉を僅かながらも抉り取られる。その激痛に、ケイジは堪えきれず低く呻き声を漏らす。が、それでもその場に踏みとどまって、崩れかけた体勢がら身を捩るようにしてナイフを振るった。 その切っ先は、迷いなくヨシトの顔を――目を狙う。 けれど、致命傷さえ狙ったその反撃を、ヨシトはあっさりと後ろに飛び退いて回避した。そのまま、慎重に距離を取ってこちらの様子を窺う。ナイフをかわすときに掠ったのか、その頬をつぅと血が一筋伝い落ちていく。 ケイジはといえば、ふらつきながらも、いまだその場に立っていた。 けれど、“内側”から彼の視界を見ていると、時折焦点が霞むのが分かる。<城>で能力を使ったことから来る疲労や身体に受けた傷のせいで、気を抜くと意識を保ち続けられないのだろう。 限界が近い。 私は“内側”から、霞み、時折揺らぐ視界をじっと見続けている。 誰かが傷つけあい殺しあう様子など、見ていて楽しいものではない。まして、血の繋がりのある兄弟同士なら尚のことだ。けれど、一緒にいると約束した私に出来る唯一のことが見守ることなのだから、目を逸らすわけにはいかない。 けれど、せめて私に涙を流すための涙腺があれば。 泣き叫ぶための声帯があれば。 感情のままに声を上げて泣くことができたら。 そうすれば、何も出来ない苦しさも少しはも紛れたかもしれないのに。 そう思ったとき、唐突に私は“内側”に自分の意識とは異なる何かが存在しているのを感じた。 真っ暗で何もない闇のように感じられる“内側”。その中の、私から少し離れた場所に何か流れのようなものがある。 闘いたくない、傷つけたくない、傷つきたくもない――それは、ケイジがここに来るまでに押し殺してきた思いだった。意識を伸ばしてそれに触れれば、かって彼の感情が“感染”したときのように、私のものではないその感情が湧き上がってくる。 まずい、引きずられる。 悟ったときは既に遅い。この前の身体を支配しているときとは違い、意識のみで経験する感情の“感染”は強烈だった。こちらの意識が全てケイジの感情に染め上げられ、取り込まれかける。一体どこまでが“私”という個人の意識だったのか、分からなくなりかける。もしかして、このまま同化してしまうのだろうか。けれど、そのこと自体は怖くはなかった。恐怖を感じる程にも、私の自我は残っていないのかもしれない。 『本当は殺し合いなどしたくない、一緒に生きて行きたいのに』と押し殺されたケイジの感情が叫んでいるのが分かる。同時に私も全く同じことを考える。(本当は殺し合いなどしたくない、一緒に生きて行きたいのに)と。それは彼との同化が進んでいる証拠なのだろう。けれど、その一方で、まだ残っている“ ”としての意識で願いもする。どうかケイジがこれ以上傷つくことのないように、と。 そのとき、不意にヨシトが再びケイジに跳びかかろうとするのが見えた。疲れを知らないようなその動きに、ケイジも反応できない。きっと、避けられない――。 (――やめてっ…!!) 咄嗟にケイジを庇おうとして、私は身体があったときの癖で腕を伸ばす。目の前に迫るヨシトに跳びついて、その動きを阻もうとする。勿論、意識だけの状態でそんなことは不可能、なはずだった。 けれど。 伸ばそうとした腕に、前に踏み出そうとした足に、身を乗り出そうとした全身に、奇妙な感覚が生まれた。実際の身体を動かす感覚よりは軽くて覚束ない気がするけれど、よく似ている。それを不思議に思ったとき、視界の端、それも私の後方に見慣れたケイジの身体の一部が一瞬ちらりと映った。 私は、実体を持たないままケイジの身体から外界に跳び出してしまったのだ。その勢いのまま、ヨシトの動きを押し留めようと身体ごとぶつかって抱きつく格好になる。幽霊のように透き通る腕でヨシトを抱きしめると、触れた合った部分から向こうへ流れ出していくものを感じた。 危うく私を取り込みかける程強かったケイジの感情だ。殺し合いなどしたくない、一緒に生きて行きたいというケイジの本心が、ヨシトへの中へと流れていく。すると私の方は一人分過剰だった感情が減ったせいか、少し冷静になって、本来の自分の感覚が戻ってきたような気がした。 けれど、自分の状態を把握できたのもそこまでだった。 自分の中からケイジの感情が全て出て行ったかと思った瞬間、急速に意識が闇に侵食され始める。このまま、私の意識は消えてなくなるのだろうか。消えることはつまり死ぬのと同じであるはずで、それは嫌だし怖いとも思う。悔いも未練もまだたくさん残っている。 それでも、自分でも意外なくらい落ち着いていた。この時代で出来る限りのことはやった、と納得できたから。ただ、ケイジの闘いを最後まで見届けてやれないことだけが、少し申し訳ないとは思うけれど。 意識が消えかける瞬間、私は後ろを振り返って笑ってみせる。 ケイジに見えるだろうか。届くだろうか。 『――ごめんね…ばいばい…』 辛うじて声を発した直後、意識が完全に闇に塗り潰された。 *** 一瞬ぶれた視界に注意が逸れた。 ケイジははっと我に返って前方を見る。その途端、こちらへ跳びかかろうとするヨシトの姿が見えた。それはまるで忽然とそこに出現したかのような唐突さだ。相手の動きが人間離れして速いことに加えて、こちらの集中が途切れたことが災いしたらしい。 「っ…」 間に合わないと悟りながらも、ナイフを握る右手は自然と迎撃の準備をしている。相討ちを覚悟で、ケイジはナイフを繰り出すタイミングを計った。 これで終わりだ。 そう思った瞬間、胸の辺りから何か熱い塊が一気に込み上げくる。それはあっと言う間に咽喉を駆け上って目元に達し、涙となって溢れ出す。同時に、すぅと胸が軽くなっていく。自分でも予想外の出来事にケイジが混乱しかけたとき、滲んだ視界に一瞬誰かの華奢な背中の幻影が見える。途切れがちに、女の声が聞こえた気がした。 (――…?) 一瞬その名が思い浮かぶ。だが、彼女は“内側”にいるはずだ。 次の瞬間には、ケイジは自分の考えを打ち消し、ヨシトに意識を向け直す。涙を流し、幻影に気を取られた一瞬は明らかに隙であったのだが、ヨシトはその隙を突いては来なかった。ヨシトはこちらへ跳びかかろうとする姿勢のまま、互いの間に2メートルも置かない間合いで一瞬動きを止めたのだ。 それまでの兄の動きからすると、妙に不自然な間だった。まるで何か別のものに気を取られたみたいに。その不自然な瞬間、ケイジは一瞬だけヨシトと真正面から目が合った。 その視線に違和感を覚えた次の瞬間、ヨシトが地を蹴って襲いかかってくる。 反射的に、ケイジは真っ直ぐにナイフを繰り出す。これはフェイント。かわされることは予想済みで、繰り出しながら次の動きに入ろうと柄を握る右手に力を込める。 が、次の動きに入るまでもなく予想外の手ごたえがあった。 ヨシトは、ナイフをかわさなかったのだ。むしろ、刃に身を差し出すように身体を開いて跳び込んで来る。突き出したナイフの切っ先が、まるで手品のようにヨシトの腹部に入っていく。 身体ごとぶつかってきたヨシトを受け止めきれず、ケイジは体勢を崩した。2人でもつれ合うような格好で倒れこむ。咄嗟に受身を取ることができず、ケイジはアスファルトにぶつかったときの痛みを予想して身を竦める。けれど、背中が地面についても予想したような痛みはなかった。いつの間にかヨシトがその両腕をそれぞれケイジの頭と背中へ回して抱きしめていて、結果的にケイジは庇われることになったのだ。 目を開けてそのことに気付き、ケイジは呆然とする。と、右手に湿った感触があった。水よりは粘度のある温かな液体がナイフをの柄を伝って指を濡らし、手首へと流れていく。ケイジははっと気付いてヨシトの下敷きになった右手を引き抜き、目の前にかざした。 掌は、べったりと赤く染まっていた。 「なっ…」 言葉を失ったまま、今度は目の前にあるヨシトの肩口へと目を向けた。ヨシトはといえばぐったりと脱力し、肩を震わせながらひどく苦しそうに呼吸を繰り返している。その様子を目にして、ケイジは猛烈な焦燥に駆られながらヨシトの腕の中から這い出し、傍らに膝を突いた。 「兄さん…ヨシト兄さん…!」 肩に手をかけて、揺さぶる。 兄を獣のような生き方から解放すると決めたときから、こうなることは覚悟していたはずだ。けれど、実際に直面するともう駄目だった。狂ったままでの生を兄が望まないだろうことは知っている。それでも、心が無くてもいいから生きていて欲しいと思ってしまう――。 「ねぇ……起きてよ…ヨシト兄さん…」 執拗に呼び続けていると、何度目かの呼びかけでヨシトの瞼がぴくりと動いた。ケイジが息を呑んで動きを止めていると、ヨシトはゆっくりと目を開ける。一瞬視線が彷徨って、やがてケイジの上で止まる。 <難民>のものとは思えない、確かな意思を感じさせる強い眼差しだった。 「まさか、俺のこと…」分かっているのか。正気に戻ったのか。 問いかけようとしたケイジを制するように、ヨシトは僅かに唇を動かした。何か伝えようとしたのかもしれない。けれど、結局声は発されないまま、それでも満足したようにヨシトは口を閉ざして微笑むように優しく目を細める。そして、ゆっくりと瞼を下ろした。 それで最後だった。 どれだけ呼んでも揺さぶっても、もうヨシトは目を開けようとはしなかった。壊れた玩具のようにしばらく兄の名前を呼び続けていたケイジは、それでも、やがて諦めてヨシトの首筋に触れる。脈はなかった。 「こんなの嘘だろ、なぁ…?またかよ…これで2度目だぞ…また、俺を置いていくのかよ…」 新たな涙が溢れ出し、景色が滲む。ぼんやりと霞んだ視界のままヨシトの顔を見ながら、ケイジは呟いた。兄と闘えば、良くて相討ちだと思っていた。まさか、自分だけが生き残るなんて事態は、予想だにしなかったのだ。それが、自分が兄の死を看取ることになるなんて。 このまま兄の後を追っていこう。それがが、きっと自分にとって一番いい。 そう思ってから、ケイジははっと我に返った。 この身体の“内側”には、自分だけでなくの意識も存在するのだ。後を追おうと身体を傷つければ、彼女を道連れにすることになる。さすがにそれは出来ず、ケイジは後を追おうという考えを思いとどまって“内側”へと声を掛けた。きっと見ているだろうけれど、終わったことを告げるためだった。が、 (――………?)いくら呼んでも、彼女は答えない。“内側”に意識を向けてみても、彼女の気配はどこにもない。「嘘だろ…までいなくなるなんて…」一瞬見えた女の背中、途切れがちに聞こえた声、あのとき彼女は“出て”行ったのだろうか。 「――兄さん…俺はまだ一緒に行けないみたいだ。しなきゃいけないことが出来たんだ。はもうここにはいないけど…俺は最後にあいつのところへ行かなきゃ」 束の間呆然としていたケイジは、やがて顔を上げるとぐいと袖で濡れた目元を拭った。スラックスのポケットに手を差し入れ、指先に触れる感覚を確かめる。がシキから預かったロザリオは、まだ確かにそこにあった。 あのとき、シキがロザリオを突き返したことを思い出す。 があのときのシキの誘いに頷かなかったことが、全く嬉しくなかったと言ったら嘘になる。本当は、ほんの少しだけシキに対して優越感のようなものを覚えもした。けれど、それは決して恋や愛の類ではない。あの2人の間で交わされるものが恋愛感情と呼ばれるのならば、自分の彼女への感情がそれではないことは分かる。どちらかといえば、兄に対して抱く親愛の情に近い。 だから、が幸せになるのならば、シキと共にいてもいいとも思ったことがある。 けれど、彼女はいなくなってしまった。それならば、せめてそのことをシキに伝えることが、自分の都合で引き裂いてしまった2人に対して最低限の義務だろうと思ったのだ。 全身に傷を負い、血を流してふらつきながらもケイジは立ち上がった。 「必ず追いかけていくから…待っててくれよ」 眠るように安らかな表情のヨシトに向かって呟き、ケイジは顔を上げた。当初遠巻きにこちらを窺っていた<難民>たちは立ち去ったようで、もう姿は見えない。ケイジも踵を返して歩き始めた。 *** 気がついたら、私は真っ暗な場所に立っていた。 死ねば意識は消えてなくなるだろうと思っていたけれど、そうではなくてあの世に来たのだろうか。そう思ううちにも目が暗さに慣れてきて、闇の帳越しにぼんやりとごく当たり前の家並みが見えてくる。 その景色に何だか見覚えがある気がする。 あれ?と思ったとき、視界の端でキラリと光るものがあった。つられてそちらを向けば、黒っぽい服装の男がナイフを手に襲いかかって来ようとしている。多分、もう背中を向けて逃げられる間合いじゃない。 見覚えのある景色と見覚えのある状況。 まさか、あのときに――トシマへ行く直前に戻って来られたのだろうか。 咄嗟に、私は肩から掛けた鞄を目の前に迫る男に叩き付けた。弾みで携帯やポーチなど細々したものが飛び出して宙を舞うが、鞄そのものはバシッと鈍い音を立てて見事男に命中する。少しばかり中身が出てもまだ買ったばかりのハードカバーの本が入っているから、多少のダメージはあったはず。それとも抵抗自体が予想外だったのだろうか、男は怯んだように動きを止めた。 今だ。 次の瞬間、私は逃げるでもなく助けを呼ぶでもなく、反射的に男に向かって蹴りを繰り出していた。幸運なことに蹴りが上手く相手の腹部に入って、男がぐらりとよろめき後退する。 更に私は一歩踏み出しながら、拳を作った右手を振り上げた。見様見真似の右ストレートのようなものだが、こちらも上手く男の顎の辺りに命中する手ごたえがある。相手を殴った勢いで少しよろめきながらも、私は反撃を警戒して顔を上げて男を見る。男は転倒こそしなかったが大きくよろめいて後退し、分が悪いと思ったのかそのまま私に背を向けて逃げ出した。 痴漢だか物取りだか知らないが、このまま逃がしてやるものか。 一瞬そんなことを思ったけれど、相手が逃げるのを見た途端気が緩んで、私はその場にへたり込んでしまう。恐怖のためか興奮のためか、知らないうちに息が上がっていて、私は肩で息をしながら傍に落ちていた自分の携帯を手に取った。蓋を開いて、時間を確認する。 2007/9/27 23:37 ――帰って来られたのだ。 ぼんやりと実感しながら、自宅へ電話をかける。電話はすぐにつながり、スピーカーから聞きなれた母親の声が流れてきた。 「あ、お母さん?…そう、私。遅くなってごめん。駅から歩いてたら、さっき変質者が出て…蹴ったら逃げていったよ。…ううん、私は大丈夫…それで、どうしよう?この場で警察とか呼んだ方がいいのかな…」 電話をしながら私は空を仰いだ。 夜空では、いつかトシマで見たのと同じような形の月が明るく輝いている。それでも、やはり今いるこの場所とトシマとの間に――私とシキやケイジとの間に数十年もの時間が横たわっていることに変わりはない。 ちゃんと自分の本来の場所に帰ってこられたのだ。帰って来ることができてしまったのだ。 けれど、その実感は何故か着慣れない服のように僅かな違和感を伴っていた。 *** 夕方頃降った雨はほんの一時で降り止み、夜はすっきりと明るい月夜になった。 その月明かりで普段より明るい路地を、シキは一人歩いていた。辺りに人の気配は無い。今日のように明るい夜は比較的遅くまでイグラ参加者も外に出ているものだが、このところ“50%”適合者と噂の何者かが手当たり次第に人を襲うというので、皆隠れて息を潜めているのだ。ひっそりと静まり返った路地に、シキの靴音だけが一定のリズムで響く。 と、不意に前方の、ちょうどビルの影が落ちて暗い場所で動くシルエットがあった。まるで先程闇から生じたかのように忽然と現れたシルエットに、シキは目を細めて立ち止まった。 「――貴様、nか」 シルエットは答えなかったが、代わりのようにビルの影の外へ歩み出てみせる。月明かりが彼の上にも落ち、淡い色の髪と血の気のない白い肌を照らし出した。 「“50%”を追っているのか…仮初めの強さを超えたところで、全てが無意味だ。どうせお前は俺を斃せない…感情を、お前自身の弱さを切り捨てない限り、永遠に」 「意味のある無しは自分で決める。貴様に決められる筋合いは無い」 低く吐き捨てて、シキは刀に手を掛けた。 互いの間にある距離を一気に詰め、刀を鞘から抜き放つ勢いのままにnに斬りつける。並大抵の相手であれば、それは反応できるような速さではなかっただろう。けれど、このとき斬りつけた刀に手ごたえはなく、刃は空を切る。「ちっ…」シキは舌打ちしながら、一瞬のうちに再びビル影の中へ戻ったnを見据えた。 「お前はその程度か…感情があるから心が揺らぐ、弱くなる。お前は以前より弱くなった…そう、あの弱き者に執着し始めてから」 影の中から、感情のない声が届く。 “切り捨てずに持っていられることこそ、強いってことだと思うんです” 形の定まらない思考を、言葉にしようと必死になっていた声が脳裏で蘇る。 「俺を斃したければ、全てを捨てることだ」 “あなたにはそれが出来る力がある。だから、何も捨てる必要はないと思う” 頭の中に2人分の声が木霊する。意識を絡めとろうとするかのようなそれらの響きに抗いながら、シキは言葉を発する。 「煩い!…俺は誰の指示も受けない。貴様やアレがどう言おうと、俺の意思が揺らぐことなどない」 「そうか…ならば、いい…俺はこのまま立ち去ろう。お前に指図するものはいなくなる…俺も、そしてお前が執着していたあの男も消える」 nの言葉に妙に引っかかるものを感じて、シキは眉をひそめた。何故nはこの場に関わりのないあの男のことを、話しに出すのか。気になって追求しようとするが、既に遅い。そのときにはnはもう一度闇に溶けるように暗がりへと消えていくところだった。 一人になったシキは息を吐き、刀を鞘へ戻す。そうして、しばらくnが消えていった暗がりを見つめていたが、やがて興味を失って踵を返した。 最早“50%”を探す気も失せて、シキはトシマの外れにある廃アパートへと足を向けた。そこはいくつかある塒のうちの一つで、現在位置から一番近くにあった。トシマの街中を過ぎて瓦礫だらけの原を慣れた足取りで歩き、やがて風化したようにボロボロのまま佇んでいるアパートの前に辿り着く。いつものようにアパートの玄関を入ろうとして、ぴたりと足を止める。気になる気配が一つ、意識に引っかかったのだ。 誰かがアパート内にいる。 待ち伏せにしては気配を隠す素振りもないが、これは――。 気配の主には、心当たりがある。シキは特に身構えるでもなく、アパートの奥へ進んでいった。 *** カツカツカツと廊下に響く足音で、ケイジは目を覚ました。 窓の外はいつの間にか夜になっている。少し休むつもりが眠り込んでしまったらしい。全身に負った傷の状態では、下手をすれば居眠りがいつ永眠に変わっても不思議はない。目的を果たす前にそれでは情けないところだった、と思いながらケイジはベッドの上で起き上がった。 そのとき、ガチャリと玄関のドアが開く音が聞こえた。 「遅い。あんたのこと、待ちくたびれたよ」 相手が部屋に入ってくるタイミングを待って声を掛ければ、シキは戸口で足を止めて「何故貴様がここに居る」とひどく嫌そうな口調で言った。初めから気配でこちらの存在に気付いていたらしく、驚いた様子はない。 「がいなくなった。もうどこにも…俺の“内側”にも存在を感じられない」 「…つまり、死んだと言いたいのか」 「分からない。消えたのか、他へ行ったのか、それとも、自分の居場所に帰ったのか…全く分からないんだ。だけど、もうここにいないことは確かだから…そのことをあんたに伝えに来た」 「何故俺に言う。俺には関わりの無いことだ」 「そうかもしれない。でも、俺はあんたに伝える必要があると思ったんだ。それに、」ケイジはポケットからロザリオを取り出し、掌に乗せてシキへと差し出した。「がいないなら、これはあんたが持つべきものだろうから」 シキはケイジの差し出した掌をじっと見ていた。が、ロザリオを受け取るどころか、こちらへ近づいて来ようともしない。その様子が、まるで彼女が消えたことを受け入れるのを拒んでいるかのようにケイジには見えた。 たとえそうだからといって、シキを嗤う気などない。自分と同様に彼女が消えたことを嘆く者がいるということが純粋に嬉しく、当初血も涙も無いと思っていたこの男に親近感さえ感じる。 「あんたから預かってから、はこれをずっと大事に持ってたんだ。俺が粗末に扱ったらきっとも悲しむから、どうかあんたに受け取って欲しい」 駄目押しのように言葉を重ねると、シキは静かに歩み寄ってきてどこか慎重な手つきでロザリオを受け取った。そして、自分の掌に収まったそれを眺めて呟く。 「こんなもの、ずっと持っているほどの価値も無いというのに」 「値打ちがあるとかないとか、そういうことじゃないだろ。は、」 言いかけて、ケイジは口を噤んだ。それ以上の言葉を拒むように、シキが目を閉じるのが見えたからだった。 「――……」 手の中のロザリオを軽く握り締めて、シキはただ一言呟く。呼びかけるような、祈るような、希うような仕草であり、声音だった。 ケイジは知らず止めていた息を静かに吐き出した。 たとえばこの声をあのとき別れ際に聞いていたら、はどうしただろう。それでも自分と共に行くことを選んだか、それともシキの傍にいたいと言っただろうか。いずれにせよ、先程のシキの声音を彼女に聞かせてやりたかったと思った。もちろん、彼女がどんな選択をするかなんて仮定の話をしてみても、もう意味がないけれど――。 2.抗い、牙をむく End. 目次 |