13.





 檻が開いても<難民>たちの反応はあくまで慎重だった。ごく少数外へ出る者もあったけれど、大半は檻の中に留まってこちらを窺っている。
 中には、何名か傷つき身体に血をこびり付かせたまま、殊更敵意の目をこちらに向ける者もあった。捕獲される際に傷つけられ、手当てもないまま閉じ込められたのだろう。彼らにとっては<ヴィスキオ>の黒服も私も区別はない、ただ“敵”として認識されているに違いなかった。
 <難民>たちの警戒や敵意の視線を浴びながら、私は頭だけ動かしてケイジの兄を探そうとした。けれど、夢でははっきりそうと分かったのに、今になると記憶があやふやで全く分からない。
 (ケイジ…あなたのお兄さんは…)私が困惑しながらケイジに尋ねと、
 『――いる…見つけた』苦痛に耐えるような声でケイジは返事する。
 いるって、どこに。
 思わず聞き返そうとしたが、そのとき開け放したままの戸口から廊下の物音が聞こえてきて、私はぎくりと身体を揺らした。聞こえてくる。あれは、この実験室へ駆けつけてくる数人の足音だ。
 一瞬隠れるか反撃の準備をするかという選択が頭に浮かぶ。が、実際には実現不可能は話だった。というのも、私はまだ足に力が入らず、机に寄りかかった体勢でいるのだ。
 そうするうちに足音はどんどん近づいて、やがて戸口に銃を持った黒服が3人現れた。黒服たちは私を見るなり、一斉に銃を構える。と、そのとき。

 ウィーン。
 呻るような機械音と共に、<難民>たちとこちらを隔てていたガラスのシャッターが上がり始める。

 これを脱出の好機と理解したのだろう。一斉に<難民>たちがシャッターに向かって殺到する。先を争うかのように上がりきらないシャッターに身体を押し付け、中には床とシャッターとの間にできた細い隙間から手を伸ばす者もいた。
 一方黒服たちは予想外の事態に恐れを為したようだった。ひどく慌てふためいた様子で2人が私に向けた銃口を<難民>たちに向けなおし、残る黒服は操作室の研究員に向かって「おい、止めろ!」と叫んで制止しようとした。
 しかし、ケイジの能力の影響下にある研究員は止まらない。他人の言葉など一切聞こえない様子で、強張った表情のまま一頻り機械を操作すると、操り糸が切れた人形のように崩れ落ちてしまった。
 その間にもシャッターは上がり続けている。少しして床とシャッターの間に身体が通る程の隙間ができると、<難民>たちは先を争うようにしてそこから這い出そうとする。そのうちの一部は私を敵と見なしたようで、隙間を半ば潜り抜けながらこちらへ鋭い歯を剥いてみせる。私はひやりとしたが、入り口を黒服たちに塞がれているし、身体も本調子ではないから逃げ出すこともできない。それでも出来るだけ距離を取ろうと身体を傍の机に押し付けながら息を呑む。
 と、少し離れたところで銃を構えなおす音が聞こえた。<難民>たちの勢いに怯えきった黒服たちが、携帯していた銃を私から<難民>たちへ向け直したのである。そのとき、<難民>の最初の一人がシャッターを完全に潜り抜けた、黒服たちは騒然となった。

 ――やめろ。

 叫ぼうとした言葉は、耳をつんざくような銃声に掻き消される。ぱっと血飛沫が散り、自由になったばかりの<難民>ががくりと倒れ込んだ。びくりと痙攣した後に動かなくなったその身体の下から、白いリノリウムの床にじわじわと赤い血が広がっていく。
 その血溜まりを他の<難民>たちが踏み越えていく。先程私を睨んだ者も黒服たちこそ脅威だと認識したのだろうか、竦んでいる私には目もくれず、戸口にいる黒服たちへ殺到する。
 黒服たちは<難民>を撃退しようと狂ったように発砲したが、銃弾を受けても仲間が斃れても<難民>たちの勢いは止まらなかった。<難民>の数人が果敢に黒服たちに飛び掛り、噛み付き、引き裂く。
 「うああぁぁぁぁ!!」
 「俺の腕がぁ…!」
 跳びつかれて堪えきれなくなった黒服たちが床に崩れ落ちる傍を、他の<難民>たちが脱出していく。その間私は動けず、ただ銃弾に倒れた<難民>を見ながら、黒服たちの発する絶叫を聞いていた。
 目を閉じることも、耳を塞ぐことも、その気になればできたろう。けれど、敢えてそうしなかった。惨劇を見ず・聞かず自分は無罪で無関係という態度を決め込むのは卑怯だと思ったからだった。
 やがて、<難民>たちはいなくなった。
 後には私がゴミ箱で殴って気絶させた研究員と、そして<ヴィスキオ>の黒服が倒れていた。見れば黒服たちは噛まれ、引っかかれて血塗れになりながらも、生命はあるようだった。時折身動ぎをしながら、呻いていることでそれが分かる。
 そのごく間近に、銃弾を受けた<難民>の遺体があった。黒服たちは加減なしに発砲していたから他にも銃弾を受けた者がいた可能性もあるが、皆逃げて行けたらしい。あとには血が落ちているだけである。
 転々と廊下の方へ続く丸い血の染みを目で追うと、戸口に人の姿があった。新たに駆けつけた<ヴィスキオ>の警備ではない。ボロボロの衣服をまとい、やや前屈みで俯きがちに佇む姿から<難民>の一人と分かる。まるで何かを待つような態度を私が不思議に思ったとき、

 『兄貴…?』

 ぽつりとケイジが零した。
 はっとして傍へ行こうと動きかけるが、2・3歩近づくとその<難民>はぱっと身を翻して駆けていってしまう。私は慌てて、床に転がる遺体や怪我人の合間を縫って追いかけたが、戸口へ辿り着いて見ても廊下には走り去った<難民>の影も形も見えなかった。
 私は戸口に立って実験室を振り返った。
 リノリウムの床には血が流れ、怪我人や遺体がそこここに転がっている。放置して去るのには罪悪感を覚えるが、だからといって留まるわけにはいかない。そこで室内の惨状から視線を引き剥がして、私は廊下の先を見据えた。
 『―― 、大丈夫か…』
 まだ苦しげだが、それでも気遣うようにケイジが尋ねる。体調を気にするというよりは、私が人死に不慣れなのを案じているらしい口ぶりだった。
 (私は平気。それより、ごめんなさい、お兄さんに追いつけなかった。取り合えずここを出るけど、その間ケイジはしばらく休んでいていいよ。能力を使ったせいで辛いんでしょう?ここを出るくらい、一人で何とかするから)
 『…分かった』
 本当に苦しいのだろう、ケイジは驚くほど素直に私の言葉を受け入れた。何かあれば呼ぶように、と念を押して、ひっそりと“内側”に沈んでいく。次第にケイジの気配が消えていくのを感じながら、私は廊下を出口に向かって走り始めた。


***


 ――こんな相手は初めてだ。

 の連れの男と対峙しながら、グンジは内心舌打ちをしていた。どれ程攻撃しても、効いているという手ごたえがない。確実に届いた一撃もあるはずなのに、戦闘の昂揚とも苦痛とも無縁の男の表情は、ぴくりとも動かない。
 強い相手というのならシキやキリヲは非常に闘い甲斐のある相手だろう。けれど、目の前の男はそのような次元の存在ではない。闘っていてもまるで実態が感じられず、3Dの映像でも相手にしている気分になってくる。
 薄気味が悪い。これではまるで、幽霊ではないか。

 ふとした思いつきと同時に、の言葉が蘇ってくる。
 微かな笑いを含んだ、あやすような優しい響きが。

 “もし、グンジが幽霊に化けて出られてたら…”
 「…嘘つきは、舌抜かれるんだぜ」

 グンジは呟きながら、鉤爪を振り上げる。
 ちょうど男はキリヲが振り下ろした鉄パイプを受け止めている最中であったが、鉤爪に気付くとキリヲを突き放しに掛かった。グンジが振るった鉤爪を身を捩って避けながら、無造作にも両手で掴んだ鉄パイプを振り回すような動きをする。
 無理だ、とグンジは思った。
 キリヲは、その巨体に相応しく力に重点を置いた闘い方をする。付き合いが長いのでグンジはその腕力がどれ程のものかは理解しているが、ちょっとやそっとの力で競り勝てるようなものではない――はずが、次の瞬間、グンジはあまりの光景に自分の目を疑った。
 ぐにゃり。
 2人の間で鉄パイプが曲がった。男はキリヲごと鉄パイプを振り回すようにぐるりと動かして、最後の最後で突き放す。突き放されたキリヲは研究棟の入り口にある3段程の低い階段に投げ出され、動かなくなった。頭をぶつけて脳震盪を起こしたらしい。
 手に残っていた鉄パイプを投げ捨て、息も切らさないまま男はグンジを顧みる。
 「マジかよ…」
 男の無感情な双眸に、グンジはぞくりと寒気を感じた。けれど、驚愕した口調とは裏腹に、顔は勝手に笑みを作り始めている。幽霊のようなこの男に、恐れを感じないわけではない。ただ、それ以上に自分より強いかもしれない相手と闘えることへの喜びを感じている。
 このまま、ずっと戦闘の昂揚に身を任せていられたら、どれほど愉しいだろう。
 そんなことを思いながら、グンジは男へ跳びかかっていく。5メートル程の距離を一気に詰め、動く様子もない男へ自分から仕掛ける。男はすぐさま反応して、身体をずらして鉤爪を避けながらグンジの右手首を掴む。そして、片手だけでごく無造作にグンジの右腕を後ろへと捻り上げた。
 「っ…くっ…イテー…じゃねー、かっ…!」
 グンジは残された左の鉤爪で背後へ斬りつけるが、男は空いているもう片方の手であっさりとそれを受け止めてしまう。そうして、ぎりぎりと加減なしに腕を捻り上げられ、グンジが呻くことしかできなくなる頃、ふと男は腕を捻り上げる手を止めた。
 不審に思ったグンジが肩越しに振り返ると、男は研究棟の入り口をじっと見ていた。ひどく真剣に、何かを待っている様子である。注意が逸れた今が好機とばかりにグンジはもがいたが、男はその渾身の抵抗も何でもないように押さえ込みながら、なおも研究棟を注視している。
 一体、何があるというのだ。
 それが気になって、グンジはもがくのを止め、男と同じように研究棟の入り口へ目を向ける。と、そのとき足音が微かに聞こえ始めた。それも、1人や2人ではない。足音はみるみるうちに近くなって、やがて、研究棟の入り口から次々と今朝方捕らえたはずの<難民>たちが跳びだしてくる。彼らは地面に転がるキリヲや警備たちに構わず、流れの真ん中に立つグンジと男に目もくれず、真っ直ぐに<城>を囲う壁の方へと走り去っていく。
 「なんだ…?」
 あまりのことに、グンジは呆然とその光景を見守る。そうしながら、ふと先程対峙したときのの決然とした眼差しが脳裏を過ぎった。<難民>を解放したのは、おそらくなのだろう。何故なのか、とはもう考えてみる気はない。全ては結局互いの住む世界が違う、の一言で片が付いてしまうのだから――。


 <難民>たちの一群が去ってしまうと、男は唐突にグンジを突き放した。が、拘束を解かれたといっても、満身創痍の身体ではすぐに逃げることはできない。支えを失ったグンジはがくりと地面に膝を突き、肩越しに背後に立つ男を見上げた。何故ここで解放するのか、その真意が掴めなかったのだ。
 男は無表情にグンジを見下ろしていたが、やがてゆっくりと右手を振り上げる。男は素手であったけれど、その素手が凶器と変わらない威力を持つことは、闘ってみても明らかだった。
 殺す気なのだ、とグンジは自分でも驚くほど冷静に理解する。幽霊みたいな男に殺されるなんて、まるでホラーだ。奇妙な昂揚感とやけに醒めた意識を同時に抱えながら、グンジは男の手が振り下ろされる瞬間を待った。が。

 「――そこまで…!」

 聞き覚えのある声が、いつになく凛として辺りに響く。グンジははっとして、引き寄せられるように研究棟へと視線を向けた。見れば研究棟入り口の階段の上に、硬い表情のが立っていた。
 はちらりと低い階段の下に転がっているキリヲや警備たちを見てから、すぐに前に向き直って階段を下りた。
 「もうこれ以上はいいよ。退こう」
 「敵を放置することになるが、いいのか」
 「目的はもう果たした。もう十分だ、ありがとう」
 「お前がそれでいいと言うのなら従おう」
 あっさりと男は振り上げた腕を下ろし、「行こう」との腕を掴んで引く。腕を引かれながらはちらりと振り返ったが、またすぐに前を向く。グンジはそんな男との後姿を見ていたが、やがて糸が切れたようにばたりと地面に前のめりに倒れた。

 “もし、グンジが幽霊に化けて出られてたら…そのときは――”
 あのとき、は決して「助ける」とは言わなかったけれど。

 「結局…助けてんじゃねーか、嘘つきネズミ。ホント、いつか舌抜かれるぞ、オメェ…」
 くしゃりと顔を歪めて、グンジは呟いた。


***


 「っててて…こりゃ、アバラ3本くらいイッてるかぁ…?」
 意識を取り戻したキリヲは顔をしかめながら起き上がり、身体を引き摺るようにしてグンジの傍へ行った。どさり、と倒れているグンジの真横に腰を下ろし、身を屈めて耳元に顔を寄せる。
 「おーい、ヒヨォ、生きてっかぁ〜?」
 耳に吹き込むようにして尋ねたが、返事はない。それでも、死んだわけではないことは分かった。グンジが目を開け、煩わしそうにちらりと冷たい視線を返したからだ。反応はそれだけで、グンジはすぐに目を閉じてしまう。
 やれやれ、とキリヲは盛大なため息を吐いた。
 俄かに騒がしくなってきたな、と<城>の本館の方に目を向ければ、顔色を変えた黒服たちがこちらへ駆けつけるのが見える。今来たところでもう手遅れなのだが。侵入者を取り逃がしてヒステリーを起こすアルビトロが、今から目に浮かんでくる。辟易してもう一度ため息を吐くと、それに反応したかのように「ジジィ」とグンジが声を発した。
 「あのさー…」
 「何だァ」
 「俺、ネズミが欲しかったんだ。で、手に入らないなら壊しちまえばいいって思った。けどよ、実際カオ見たら、俺、ネズミがあくまで自分らしく行動するとこが気に入ったんだなって気がついてさぁ…何か、壊せなかった」
 「へぇ…」
 甘すぎる言葉だとキリヲは思ったが、指摘することは思い留まった。キリヲよりもなお純粋に、子どものような無邪気さで血と悲鳴と苦痛だけを求めてきたグンジがそれ以外のことに興味を抱いたのは、出会ってからでは初めてではないだろうか。
 戦場や裏社会では、甘さは即命取りとなる。
 先日雇い主であるアルビトロの命令すら無視したときは、さすがにキリヲも危機感を覚えてグンジを殴りもした(そして喧嘩に発展した)。だが、もうという青年のことは終わったことのようだ。だとしたら、胸に溜まっているものを封じ込めるより、吐き出させる方が手っ取り早い。
 そう思いながら、キリヲは左手を少し伸ばしてグンジの染めすぎて傷んだの金髪の中に差し入れる。手の重みは掛けないようにしてゆっくりと頭を撫でると、珍しくグンジはそれを受け入れて猫のように目を細めた。

 「――あいつと一緒なら正気になってみるのも面白いかも知れねー、って思ったこともあったんだ…」

 ぽつりと零された呟きはキリヲ以外に届くことはなく、俄かにざわつき始めた<城>の空気に紛れていった。


***


 「っ…うわっ…ちょっと…これ危ないっ…!」

 研究棟を出て十数分後、私はガタガタと揺れるジープの車上にいた。<城>を脱出する際、nは来た道を戻ろうとはせず、偶然なのか無防備にも鍵付きで停めてあったジープを見つけてそれで敷地を突っ切ったのである。
 これには侵入者に気付いて集まってきた黒服たちも手の出しようがなかった。後方からしきりに銃撃してくる者があって、車体に穴が開いたりミラーが吹っ飛んだりしたけれど、車を停めるには至らない。nは平然とジープを走らせ、ついには金属製の柵の扉でぴたりと閉ざされた<城>の門を突き破ってトシマの大通りへと走り出たのだった。
 門を強行突破したせいで、ジープは前方がへこみ、フロントガラスは蜘蛛の巣状のヒビが入っている。その上地面のアスファルトの所々がひび割れているので、車体はいつも不安定に揺れて生きた心地がしない。
 危ない、停まれ、と叫んだせいだろうか。nは少し<城>から離れたところで右折して比較的細い通りに入り、そこでジープを停めた。そして、シートにしがみ付いていた私が恐る恐る顔を上げると「降りろ」と告げた。
 「これ以上は車では目立ちすぎる」
 「あぁ…俺ももう車は十分だよ…」


 ジープはその場に乗り捨てて、nは更に細い路地へ入っていく。その背を追いかけながら大通りの方を振り返ると、ちらりと私たちを捜しているらしい黒服の姿が見えた。こちらに気付いた様子はないが、彼らが乗り捨てられた車を発見するのも時間の問題だろう。とにかく早くこの場から離れるべきだと思い、私は歩調を早めてほとんど小走りになる。
 トシマは、かっての首都らしく碁盤の目状に道路が整備されているようにも見える。けれど、それは主要道路だけの話であって、無数に存在するビルとビルの合間の小道などは複雑に入り組んでいる。ある道は唐突に行き止まり、ある道は途中で折れ曲がって思いもかけない通りへ繋がって、継ぎ接ぎしながら細々と続いているのだ。
 しかし、nは勝手知ったる様子でどんどん進み、とある路地の出口で唐突に足を止め、私を振り返った。
 「あれが<城>へ行くときに通った“道”だ。分かるか?」
 すっと手を伸ばし、nはビルとビルの合間の道ともいえないような細い隙間を指し示す。すぐには分からなかったものの、落ち着いてみればどこか見覚えのある景色で、私は一拍遅れて頷いた。
 「何となく分かる」
 「<難民>の習性は野生動物に似ている。簡単には自らの領域を捨てたりしない。<城>から解放された者たちは、おそらく、元いた場所へ戻ろうとするだろう。…あの道を逆戻りすれば目立たず研究所跡へ行くことができる」
 分かった、と相槌を打とうと口を開くと、今まで休んでいたケイジが先に声を発した。
 「『分かった。ここからは一人で行く。今まで手を貸してくれて、ありがとう。俺だけでは<城>への侵入は成功させられなかった』」
 「…礼を言われることはしていない。お前の兄が羨ましいと前に言っただろう。俺には、お前ように生命を断ち切ってNicolウィルスから解放してくれる者は現れなかった。唯一俺の対となりこの呪われた血を抑え得る存在となら、或いは、変われたのかもしれないが…あれは別の色を選んだようだ。だが、それでいい――」

 「白を彩るなら、鮮やかな色の方が寂しくないだろう?」

 微かに笑みを浮かべ、nは淡々と言った。自分に言い聞かせているようでもあり、こちらに同意を求めているようでもあったが、私は何も言えなかった。そんなことないと否定するのはnの決意を無碍にする恐れがあるし、頷くのは彼の永遠の孤独を決定付けてしまうような気がしたのだ。
 そんな気配が伝わったのか、nは「行け」と促すことで私からの言葉をやんわりと拒んだ。
 「あまり時が経てば、<ヴィスキオ>はもう一度研究所跡へ<難民>の捕獲に来るかもしれない。<難民>たちも別の塒を捜すかもしれない。時間がない」
 『行こう』今度は頭の中だけでケイジの声がした。『この男は、たった一人で戦時中から今まで狂ったプロジェクトの結果を見続けてきたんだ。そいつが決めたことに、俺やあんたが口出しできる筋合いじゃないと思う』
 (分かった…)
 私はぎくしゃくと頷き、改めてnに礼を言ってから教えられた道へと入った。


***


 「ありがとう、か…本当に、礼を言われることではないのだが」

 細い路地に消えていく青年の背中を見送ってnはぽつりと呟いた。
 あの青年とその兄に望み通りの結末を迎えさせてやりたいと手を貸したのは、もしかしたら、とっくの昔に消されたはずの自分の良心からだったのかもしれない。けれども、理由はそれだけではない。
 「お前がいなくなれば、きっとあの男は狂気に堕ちるだろう。あの男は無意識のうちにお前を最後の歯止めにしていたのだから」
 この呪われた血を生み出し、或いは、求めようとする者たちに復讐する。
 狂気に堕ちたあの男に新たな狂気と悲嘆を振りまかせるために、呪われた血の運び手に仕立て上げる。そうして死んでいくことが自分の最後の望みであり、最良の終わり方だと思った。

 「俺はどこまでいってもNicolウィルスから逃れられない。呪縛されたまま闇に消えこそすれ、解放などあるはずがない」

 ぽつりと呟いたとき、バタバタと騒がしい足音が聞こえた。<ヴィスキオ>の黒服たちがこの近辺で捜索しているのだろう。nは踵を返し、青年とは逆方向――黒服たちのいる通りへと跳び出していく。突然飛び出してきた人物に騒然となる黒服たちのど真ん中を突っ切って、nは研究所跡とは正反対の方向へ走り去った。


***


 nから教わった裏道を辿ってトシマの街の外へ出る。ここまで来れば、もう研究所は目と鼻の先といえる。
 果たして<難民>たちは戻ってきているのだろうか。戻っていたとして、行った途端に襲い掛かられたらどうしよう。考えても仕方のない心配をしながら歩いていると、ちょうど孤児院の前に差し掛かったところでケイジが話しかけてきた。妙に深刻そうな声音だった。
 『――あんた、何も言わないのな』
 (あれ?私、何かケイジに言い忘れてることあったっけ?)
 『いや、そうじゃなくて。俺が他人に能力を使うとこ見て何も思わなかったのかってことだよ。怖いとか、気持ち悪いとか』
 (あぁ、そっちか)
 言われて気付いたが、私は自分でも不思議な程嫌悪も恐怖も感じていなかった。元々予備知識があった上、あの実験室でのことから少し落ち着いたせいかもしれない。どちらかといえば、射殺された<難民>や負傷した黒服たちのことの方がショックだということは、今も同じである。
 (知ってたからかな、あまりどうとも思わないよ。ケイジはその能力を濫用するような人間じゃないもの。…だって、濫用するような人間なら真っ先に私を操るでしょ、最初は仲悪かったんだし)
 『…信頼してくれるのは有り難いんだけど、何か逆にあんたが不安になってくるな。人が好すぎるというか、頼りないというか』ケイジは先程の真剣な調子とはうって変わって、少しほっとしたような声音で茶化すように言う。『そもそも、あんたは――』
 不意にケイジが口を噤む。
 不審に思って呼びかけようとした私は、そこで前方から近づいてくるシルエットに気付いた。どうやら<難民>であるらしい。彼らの領域である研究所跡はまだもう少し先のはずだが――。
 戸惑う私の脳内で、ケイジが呆然と呟いた。

 『――兄貴…』








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