1.
カッカッカッ。 パンプスを煩く鳴らしながら、ホームへと続く階段を駆け上がる。そうする間にも頭上のホームでは、電車が到着したらしい気配が伝わってくる。 まだ大丈夫、間に合うはず…!階段の頂上を見据えてラストスパートを掛ける、と。「っ、わっ…!?」もうあと2、3段というところでつまづいて、私は前のめりになった。身体を支えきれず、転んだ勢いでコンクリートの地面に手と膝を突く。 そのとき、発車の合図とそれに続いてドアが閉まる音が聞こえた。 (乗れなかった…) 私はがくりと肩を落として、のろのろと立ち上がった。ホームでは、先程の電車から降りてきた乗客たちが一斉に改札に向かう動きで、少し混雑し始めている。私は俯いて転倒の瞬間を見ていた人々の視線を避けながら、降りてきた乗客たちの流れとは反対にホームの奥へ進み、誰もいないベンチに腰を下ろした。 次の電車は10分ほど後。とすると、家に着くのは…。 電光掲示板で電車の時間を確認し、頭の中で帰宅時間をざっと計算してみたものの、急に無意味に思えてきて、私は小さく息を吐く。乗る電車の時間や帰宅時刻、早く帰れば見ることのできるテレビ番組…そんな些細なことで一喜一憂するなんて、トシマの生活では考えられなかったな、と微かな違和感を覚える。 けれど、あれからひと月経って元の日常生活に戻った今では、トシマでのことの方が非現実的にも感じてもいる。そう何度もタイムスリップなんて奇跡起こるはずはないし、私は自分の時代で生きたいと願った。2007年こそが私の現実で、ここに生きていかなければならない。 それなのに、まだシキやケイジのことが気にかかって、確かめる方法もないのにどうしているのか知りたい、と思う。2007年でごく普通の日常を送っている自分を奇妙に感じる。時々、ふと訪れるそんな違和感が怖くて、私はあまり深くものを考えないように気をつけていた。そうでもしないと、思考が深みに入ったら、ふらふらとどこかへ行ってしまいそうな危うさを自分に感じているのだ――。 「…さん」 ベンチでぼんやりしていると、急に名前を呼ばれて、私はぎくりとした。慌てて顔を上げれば、すぐ傍に知り合いが立っている。同期の入社で、今は営業関係の部署にいる人だった。 「さっきの電車、乗れなかったんだ?ものすごい勢いで走っていくのが見えたけど」 「はい、あと少しだったんですけど、駄目でした」 「そう。俺は最初から諦めて次のに乗るつもりでいたんだけど…やっぱり若者は違うなぁ。もしかして、急ぎの用とか?」 「いえ、帰るだけです。ただ、ちょっと走ったら乗れそうだったから走ってみただけで」 同期とはいっても、彼は大学院へ行っていたので私より3つ程年は上だ。大した差でもないのだが、彼は私の答えを聞くと「やっぱり若いなぁ」と大げさに感嘆してみせる。それからおもむろに、これから飲み会があるので飛び入りで来ないか、と言った。 「これからですか」 「そう。俺たちと同期の奴とか、先輩とか何人か来るんだよ。さんも良かったら」 彼はメンバーとして、何人かの同僚の名前を挙げた。皆年齢は近いものの、私は顔が分かる程度であまり話したことのない他部署の人ばかりだ。親しい人といえば唯一、この間異動で離れた事業所に行ってしまった女の先輩くらいだった。参加すべきとは思いながらも、座に上手く入っていける自信がなくて、結局私は首を横に振った。 「すみません、今日はやめておきます。家族にも、何も言ってきていないので」 家族を断る理由にしたのは、あながち嘘というわけでもなかった。 ひと月前の通り魔の一件以来、両親も祖父母も神経質になっているのだ。結局通り魔が捕まっていないということもあって、少しでも帰宅が遅くなると家族がひどく心配する。帰宅が遅れることを説明するのが面倒で、仕事など止むを得ない場合は兎も角それ以外は、私も寄り道を控えるようにしているほどだった。 「そうか…急に遅くなると家の人も心配するよな」 「すみません」 「謝ることないって。この前みたいなことがあれば、家の人が心配しても当然だ」 彼は笑ってひらひらと手を振った。 特に私が打ち明けたわけでもないのだが、うちは然程大きくない会社なので通り魔の一件はいつの間にか噂として社内に広まったようだった。それにしても、彼まで知っていたのかと思うと、噂されることを不快に思うよりもむしろ感心してしまう。 そうするうちに電車の到着時刻が近づいて、彼はもう少し前の車両に乗るというのでその場で別れたのだった。 *** 帰って食事と入浴を済ませた私は、翌日が休みなのをいいことに自室でテレビゲームをしていた。すると、唐突に妹が部屋へ入ってきて、私を見てちょっと顔をしかめた。 「姉ちゃんまたゲームなんかして。もういい年した大人なんだから、ゲームは卒業したら」 「別にいいでしょ、違法行為でもないんだし。それに、最近のゲームはむしろ“いい年した大人”向けだと思う」 「そんな胸を張って自分を正当化しないで。全然良くないんだから。だって、このところ姉ちゃん休みの日はゲームか本かビデオじゃない。たまには外に出て友達と遊ぶとかデートするとかしないと、身体にカビが生えるよ。…まぁ、デートは相手がいないだろうけど」 「うるさい。外に出るのは疲れるの。私の青春は終わったから、もう疲れることはしないって決めたの」 話を打ち切ろうとして、私はぱたぱたと手を振った。けれど妹はまだ話を終わらせるつもりがないらしく、憮然とした面持ちで頬を膨らませる。 「何それ。姉ちゃん、そんなことで毎日生きてて楽しい?やりたいこととか夢とかないの?傍から見るとすっごくつまらなさそうな人生に見えるんだけど」 「就職して今更夢も何もないでしょ。生きてたって楽しいことばっかりじゃないんだから、人生っていうのはつまらないのが普通なんじゃない?」 「確かに毎日楽しいことばかりってわけじゃないけど、あたしが言いたいのはそうじゃなくて……とにかく、あたしは大学を卒業しても、姉ちゃんみたいな社会人にはならないから。姉ちゃんと同じように、死んだマグロみたいな目をして毎日生きていくのは絶対嫌」 言いたいことだけ言うと、妹は私に洗ってたたんだ洗濯物を投げつけて部屋を出て行ってしまう。私は顔にぶつかった自分のキャミソールを手に取りながら、小さく息を吐いた。 「つまらなさそう、か…」 そういえば、同じことをシキにも言われたのだった。それから――。 “俺のものになれ” 「っ…」 不意にあのときのシキの声が蘇って、私はキャミソールをたたみ直しかけていた手を止めた。自分から拒否しておいて身勝手な話だが、まだ私の中にシキの言葉に従いたかったと思う部分も残っていて、じわりと後悔が込み上げてくる。それを振り切るように、私は頭を振った。 シキの傍にいたかったと思うのは、行為の後に好きだと告げようとしたのと同じで、肌を合わせたがための気の迷いにすぎない。私がいなければならない場所は2007年であって、トシマではない。シキやトシマのことは非日常的で、だから余計に心惹かれるように感じるのだろう。いつまでも、もう手を触れることのない未来を見るのではなく、私に必要なのは今ここで生きていることを受け入れることなのだ。 「夢とかやりたいことなんか、あったって仕方ないじゃない」 呟いた声はテレビから流れるゲーム音楽に紛れていった。 *** 翌日は土曜日で、会社は休みだった。 特にすることもないからと、私は朝から読書と昨夜のゲームの続きとで時間を浪費してしまう。そうして結局この日も昨夜妹に指摘された通り、外に出ないまま終わるかに見えた。が――。 夕飯時になって、友達の家に出かけた妹が戻らないと言って、祖父母が急に心配をし始めた。両親は今日は仕事でまだ帰っておらず、私は祖父母を宥めながら妹の携帯に電話をかける。すると、呼び出し音の後しばらくして電話に出た妹は、煩わしそうな声を出した。 『姉ちゃん、どうしたの?』 「ごはんの時間」私は非難を込めてぴしゃりと言った。「帰ってくるのが遅いって、おじいちゃんとおばあちゃんが心配してる」 『遅いって、まだ6時半でしょ。あたしももう大学生なんだから、このくらいで騒がないでよ』 「最初に言っていくか電話するかしなかったあんたが悪い。遅くなるのはかまわないけど、大学生だろうが社会人だろうが、遅くなるならなるって家に連絡するのが最低限のマナーなの。で、何時に帰ってくる?」 『今帰る』 煩わしそうに返事して、妹はこちらの言葉を待たずに電話を切ってしまう。その態度に腹を立てながら、私は祖父母に妹との電話の内容を伝えた。すると、2人は少しほっとした表情になった。 「――でも、迎えに行かないと危ないわねぇ。もう外もかなり暗いし」 「私が行くからおばあちゃん達は家にいて。大丈夫、自転車で行くからこの前みたいなことにはならないだろうし、もう暗いからおじいちゃんやおばあちゃんが行って転んでも困るし」 心配する祖父母を強引に押し切って、私は家を出た。私は本当なら外出するつもりはなかったのでTシャツとジーンズという適当な格好であったのを、上から薄手のコートを羽織って取り繕った。この頃は温暖化のせいか10月でも比較的暖かいが、さすがに月の終わり頃、それも日没後となるとぐっと気温が下がって、外へ出るとコートを着ていても肌寒く感じる。 妹が遊びに行ったのは幼い頃からの友達の家で、私もその場所は知っている。自転車で15分ほどのところだ。上手くすれば、途中で帰ってくる妹とばったり出会うことができるかもしれないと思いながら、私は自転車をこいで行った。 友達の家へ向かう途中には、車道と歩道が地下道のような形で線路の下を潜っている場所がある。そこは車の往来は激しいものの歩行者はほとんどおらず、いかにも変質者の出没しそうな雰囲気が漂っている。私がそこに差しかかったとき、横の車道を走る車の音に紛れて悲鳴のような声が耳に届いた。 それは、妹の声に似ていた。 「まさか…」 私は強くペダルを踏み込んで、地下道へつながる坂道を一気に下りていく。と、次第に地下道の入り口で揉み合う人影が見えてきた。すっかり古くなって薄暗い電灯に照らされているのは、妹と全身黒ずくめの不審な男だった。 咄嗟に私は「退いて!」と叫びながら、自転車のスピードを緩めないまま男に向かって突っ込んでいく。すると、こちらに気付いた男は妹を突き放し、自身も後ろに跳び退いた。そうして出来た2人の間に割り込んで停まり、私は男へ乗っていた自転車をつき遣った。 「今のうちに早く!」 男が倒れてきた自転車を受け止めて戸惑う間に、私は妹を急かしてその場を離れようとする。そのとき、自転車を投げ出して追ってきた男が、私の腕を掴んだ。振り返った私と男の視線がかち合い、一瞬男がはっと息を呑む。その反応に、私も思い当たった。 この男、目だし帽を被って顔を隠しているものの、背格好に見覚えがある。 ひと月前の通り魔と同じ男だ。 「またお前か」男は低く呻るような声を発した。「今度は殺してやる…」 「姉ちゃん!!」妹が半泣きの声で、私の自由な右腕を引っ張る。 私は男を振り払おうとしたが、相手は異様なまでの力で私の左腕を掴んでいて、逃れることはできなかった。内心恐慌状態になりながらも、私は理性を振り絞って、今度は右腕を掴む妹を振り払う。こちらはあっさりと振り払うことができた。 「先に行って!誰かを…助けを呼んできて、早く!」 通り魔の男と2人でこの場に残るのは、本当は恐ろしい。けれど、このままでは私だけでなく妹にまで危害が及ぶかもしれない。それならば、妹に誰かを呼び行かせる方が被害が少なくて済むし、私も助かる可能性が高くなる。そう判断して、立ち竦んでいる妹を更に叱咤する。 「行って、早く!!」 すると妹はようやく我に返った様子で、ぱっと身を翻した。「すぐ帰ってくるからっ!!」 そう叫んで走り出す。運動神経の切れた私とは違って、さすが元陸上部、あっという間に距離が開いていく。 男は走り去る妹を見て追いかけようとしたので、私は咄嗟に体当たりして邪魔をした。思わぬ反撃を受けて男はよろめき、背後にあった壁にぶつかる。その隙を逃さず、私も妹と同じ方向へ走る。走りながら振り返ると、ナイフを手に追ってくる男の姿が見えた。 駄目だ、追いつかれる。 そう思った途端、再び男に腕を掴まれる。 「ぃ、やだ…誰か…!!」 視界の端できらめくナイフが恐ろしくて、私は無我夢中でもがく。と、左の脇腹に衝撃を感じた。同時にそこから痛みと熱が込み上げてくる。見ればその部分の衣服が裂け、周囲の布地に血が染み始めていた。それを目にして、私は恐ろしく思うよりも先に、むしろ呆然としてしまう。まさか、トシマではなく自分の時代でこんな目に遭うなんて予想外で、頭が状況についていかないのだ。 顔を上げると、男は血の着いたナイフを手にしたまま、動きを止めていた。目だし帽からのぞく目に、怯えの色が浮かんでいる。しかし、すぐにそれも掻き消えて、やがて狂気の光が取って代わった。 ライン中毒者のように濁った目だ、と私はふと思った。 「――お前が悪いんだ…あのときも、今も、お前が邪魔さえしなければ…」 うわごとのように呟きながら、男は私に向かって突進してくる。私は男をかわそうとしたが、脇腹の痛みを堪えながらでは大して動くこともできない。あっけなく男に捕まえられ、壁とは反対側の車道との間にある手すりに押し付けられた。 この地下道は、車道が歩道より2メートルほど低いところを通っている。私は手すりに押し付けられたまま、自分の背中の真下を走る車の音と男の低い呻き声を聞いた。 「殺してやる…お前なんか消してやる…」 何かに憑かれたように呟きながら、男は私を押さえつけた腕に更に力を込める。すると、私の足は僅かに地面から浮き上がり、背中はもうほとんど手すりから出た状態になった。このまま車道へ突き落とされる――そんな恐怖を感じて、私は身を硬くする。と。 「こっちです!早く!!――姉ちゃん!!」 聞きなれた妹の声と共に、数人の足音が地下道にこだまする。 あぁ、助かったんだ。 そう思った瞬間気が緩み、力の均衡が崩れた。男が私を車道へ押し遣ろうとする力が、私の抵抗を上回る。気がついたときには足が完全に宙に浮き、私は手すりの向こう側へと投げ出されていた。 「姉ちゃん!!!」 妹の絶叫を聞きながら、私は車道へ落下して走ってきた車のルーフに背中を打ちつけた。 その衝撃で、一瞬息が詰まる。しかもルーフにぶつかった私の身体はそこでは止まらず、玩具の人形のように跳ね飛ばされた。 これで私は死んでしまうのだろうか。 せっかく戻ったのにこんな死に方をするなんて、間抜けすぎる。 消えかける意識の中で、私は苦笑を浮かべようとした。 そのとき、どこか遠くで名前を呼ばれた気がした。 、とただ一言。 誰に呼ばれたのか、何のために呼ばれたのかは分からない。それなのに、ずっと自分がそれを待っていたような気もして――私はそれに応えようとした。 *** 2007年10月29日午後6時45分頃、若い女性が刃物を持った男に襲われる事件が発生した。 事件があったのは線路の高架下の地下道。被害者の女性は帰宅の遅くなった妹を迎えに行くために自宅を出て、妹の友人宅へ自転車で向かった。女性は現場になった地下道で不審な男に襲われている妹を発見し、妹を逃がすために自ら囮になって残った。 妹が逃げて通行人に助けを求め、通行人と共に現場に戻ったとき、被害者は男と争っうている最中だった。被害者は力尽きて男に車道に突き落とされ、走ってきた車のルーフに激突。そこから跳ね飛ばされた後、行方が分からなくなっている。 現場には被害者の女性のものとみられる血痕があり、女性が激突した車は天井がへこんでいた。また、逮捕された男から警察が押収したナイフにも、被害者女性の血液が付着している。 妹の他、助けに来た通行人、車の運転者など目撃者は多いが、皆、被害者女性は突然消えたと証言している。 目次 |