12.
グンジは私を連れて<城>に戻ると、真っ先にアルビトロの執務室へと向かった。扉の前に立った途端、そこにいた警備の黒服たちが私を見咎めて、警戒も露に銃をライフルを向けてくる。すると、グンジは「これはビトロの客だぜー」と、彼らに銃を下ろすように促した。 銃口が私から外れたのを見届けて、グンジは乱暴に扉を開けた。 「ビトロー、今戻ったぜー」 そう言いながら、グンジはどんどん執務室へと入っていく。入り口で取り残される形になった私は、どうすればいいのかと俄かに戸惑いと焦りを覚えた。 執務室の主であるアルビトロに対しては、これまでいい印象を持ったことは一度もない。また、ほんのつい先ほどまで<ヴィスキオ>への反乱計画に加担していた身なのだ。今の<城>の様子からして計画は漏れていないようだが、あまり堂々と反乱を起こそうとしている相手と対面したいものでもない。 が、こちらの戸惑いを余所にグンジが振り返り、「早く来い」と手招きするものだから、いつまでも突っ立っているわけにもいかない。 アルビトロは部屋に入っていった私を見ると、一瞬眉をひそめて不審そうな様子を見せた。グンジから私が<城>へ来た経緯を聞き、彼がパーカーのポケットから取り出したロザリオを確認すると、アルビトロは驚いた表情になったが、すぐに何か考えているような顔つきをした。 「“関係者”と言うからには、君は<王>の正体を知っているのだね?」 「もちろん知っています。<王>とは、シキのことです」 「……確かに、君が持っていたロザリオはシキのものに似ている。だが、私は別の人間が、これと同じようなロザリオを持っていたことを知っている。君は本当にシキからこれを受け取ったのか?別の人間から譲り受けた……或いは、奪ったのではないかね?」 「疑うのなら、シキに確認して下さい。そうすれば分かるはずです、私のことも……的でないということも」 「もちろん、そうさせてもらう。しかし、<王>はまだ<城>に来ていないのでね、確認が取れるまで、君には見張りをつけて<城>にいてもらう。少し不自由をさせるが、必要な措置なのだよ」 そう言ってアルビトロは私にロザリオを返した。 そして、グンジに私を連れて応接室に行くように命じた。 *** がグンジと共に執務室を出て行くと、アルビトロはすぐにデスクの上にある電話の受話器を取り上げた。内線番号を押し、応接室を呼び出す。受話器を耳に当てて待っていると、数度のコール音の後に低くしわがれた声が聞こえてきた。 応接室にいるキリヲだ。 「――今からグンジが女を一人そちらに連れて行く。シキの知り合いで、会いに来たのだそうだ。証拠としてあの男のロザリオを持参してきたから、まず本物だろう」 『へぇ……昔の女か何かか?わざわざトシマまで追って来るたァ、ご苦労なことで』 「そんなことはどうでもいい。重要なのはその女……シキに対する人質が手に入ったということだ」 『あぁん?ンなもん取って、何か意味あんのかよ?』 「ある」アルビトロは断言した。 今は内戦が近い。いざ開戦ともなれば、当然トシマから逃げなければならなくなる。アルビトロは他人のことはどうでも良かったから、<ヴィスキオ>とイグラ参加者を身代わりにして、日興連とCFCの目を眩ますつもりだった。 だが、身近にいるだけに、同じやり方での目眩ましは、シキには通用しないだろう。 イグラ開催当初から、シキは「ラインのことを知る者をトシマから出すな」と言い続けてきた。自身はラインを使わないくせに、なぜかラインに囚われてしまっているのだ、あの男は。 状況が変化して内戦が始まろうとしている今も、シキは当初の考えを変えていない。もしアルビトロがトシマを出ようとすれば、必ずシキは障害になる。人質は、そのときのための保険だ。 「とにかく、逃がさないようにアキラと女を監視しろ」 『へーへー』 キリヲは気の無い返事をする。それを聞いてから、アルビトロは受話器を元に戻した。 *** 執務室を後にして、私がグンジに連れられ向かった先は、『応接室』というプレートが掛かった部屋だった。そこは2階廊下の奥にあり、頑丈そうな扉を開けて入ると、思いがけない人物がソファに座っているのが目に飛び込んできた。 アキラだ。狗がホテルの傍まで来ていたのは、彼を捕らえるためのアルビトロの罠だったのだろう。こちらに気付いて顔を上げた彼と、一瞬目が合う。はっとした表情になってアキラがソファから立ち上がりかけたとき、彼の向かいに踏ん反り返っていたキリヲが立ち上がって、こちらへと歩いてきた。 「へぇ……この女か、シキの知り合いってのは」 「あぁ?ジジ、何で知ってんだ?ヨチノウリョクってやつ?」 首を傾げるグンジに、キリヲはフンと鼻で笑ってみせる。 「馬ァ鹿、ビトロから電話があったんだよ。――さて、お嬢さん、飼い主につけられた首輪、見せてみろや」 「首輪、ですか……」私は思わず眉をひそめた。 首輪という単語で思いつくものは、一つしかない。シキのロザリオだ。先程執務室で証拠として見せたことが、アルビトロの口からキリヲに伝わったのかもしれない。ロザリオを“首輪”と呼ばれるのは、まるで私がシキのペットだと言われているかのようで、あまりいい気はしなかった。 それでも、この手のからかいは一々反論しても相手を面白がらせるだけにしかならない。そのことは分かっていたから、私は黙って首から掛けていたロザリオを外して、差し出した。 キリヲは私の掌からロザリオを摘み上げると、しばらくの間それを見ていた。それから、私の顔に視線を落として「似てるな」と呟いた。 「前にもこんなロザリオを持ってる奴がいた。オメェはどことなくそいつに似てるなァ」 「――その人のことは、アルビトロも言っていましたけれど……私は といいますその人とは別人です」 「だろうなぁ。あいつは男だった。オメェは女だ。同じ人間のはずがねぇ。だが、その物怖じしねぇ目がよく似てらぁ……ちっとばかり、泣き叫ばせてみたくなる」 言いながら、キリヲが巨体を屈めるようにして、ぬっと顔を近づけてくる。そのとき。 「やめろっ!」 「ジジっ……!」 2人分の声が同時に響いて、キリヲは不思議そうに顔を上げた。私も奇妙に思って視線を動かせば、傍らにいたグンジとソファから立ち上がったアキラが、互いに鳩が豆鉄砲でも食らったような面持ちで、顔を見合わせている。 キリヲは順にアキラとグンジの顔を見てから、チッと小さく舌打ちをした。それから、ホールドアップのように両手を顔の脇に掲げて見せる。 「馬鹿ヒヨが……何でそこでオメェも反応しやがるんだ。俺だけ悪党かよ。まぁ悪党には違ぇねぇがよ。――オイ、2人してそんな面しなくても、このお嬢さんには何もしねぇよ」 まるでグンジとアキラを宥めるように言って、キリヲは右手で摘まんでいたロザリオを私の目の前へ持ってくる。返す、ということなのだろう。私が手を差し出すと、キリヲはその上にロザリオを落とし、空いた右手で頬に触れてきた。 それは予想外の動作で、私は逃げることもできず身を強張らせて、されるがままになるしかない。 頬に触れるキリヲの指先は少し荒れていて、意外に優しかった。 「淑やかだが、芯は強い。悪くねぇ女だ」 ひとり言のような呟きと共に、その辺の猫でも構うような調子で頬を撫でられる。どういう反応を返したものか、と私は束の間途方に暮れる。が、こちらが何か言う前にキリヲはすぐに私から離れ、またソファへと戻って行く。そうしてどっかりとソファに腰を下ろすと、私たちに「まぁ座れよ」とソファを勧めた。 応接室からは出られないのだから、特にすることもない。勧められたソファを断る理由もなく、私はソファまで歩いていくと、先程までアキラが座っていた場所の脇にゆっくり腰を下ろした。ソファは上等のものなのか、柔らかなクッションに深々と身体が沈んだ。 収まりのいい位置を探して何度か座りなおしていると、立ち上がっていたアキラが私の隣のスペースに座った。 「ホテルでのこと、ごめん。やっぱり罠だった。でも、あんた……はどいうして<城>に……?俺が勝手に出て行ったせいか?」 小声で心配するアキラに、私は首を横に振った。事情を説明してやりかったが、今の状況ではそれはできそうになかった。 説明するには、反乱やリンの救出計画についても触れなくてはならない。けれど、キリヲやグンジに聞こえてしまうこの環境で、話すわけにもいかない。また、反乱計画などはアキラがいない間に持ちあがって進行したものだから、処刑人たちに気付かれずアキラにだけ伝えられるような言い回しも思いつかなかった。だから、私はただ「アキラのせいじゃない。それ以外のところで、いろいろあったの」とだけ伝えた。 そんなやりとりを交わしていると、脇の一人掛けのソファに座ったグンジが首を傾げた。 「オメェら、さっきから普通に話してるけど、知り合いかー?」 「えっ……!?」 私はグンジの問いにギクリとした。 かってケイジの身体を借りていた頃から、アキラとは面識がある。あまり深く突っ込まれては、私が“”であることのボロが出てしまうかもしれない。一瞬そんな懸念が頭を過ぎったが、慌てては余計に不審なだけだと気付いた私は、気を取り直して何気ない調子で頷いた。 「えぇ、アキラとは知り合いです」 「知り合い……」考え込むように呟いてから、グンジは顔を上げてアキラを見た。「なぁネコ……オメェ、ネズミとも知り合いだったよなぁ?」 「ネズミ?……それは、誰のことだ?」 「ネズミはネズミに決まってんだろ!ほら、前にオメェを庇って俺に蹴られた奴、あいつはどうした?」 「どうって……」 困ったように、アキラがこちらに視線を向けてくる。その視線が「話してもいいのか」と尋ねるかのようで、私は微かに首を横に振って「駄目だ」とサインを送った。そのとき。 「まぁいいじゃねーか」天の祐けかというような間合いで、キリヲが口を挟んだ。「ここはトシマだぜ。行方不明なんざ気にしちゃいられねぇ。それより、そろそろ“時間”だぜ」 「時間って……何のですか?」 「もうすぐ“見せ物”が始まるのさ」 にやりと凶悪な笑い方をして、キリヲは低いテーブルの上にあるリモコンを取り上げた。それを壁際のラックの上に据えられたテレビに向けて操作すると、電源が入って画質の荒い映像が映し出される。 映っているのはホールのような屋内の広い場所で、集まった人々がひしめき合っていた。 「これは……」アキラが掠れた声で呟く。 「<闘技場>。ネコ、イグラ参加者の癖に見たことねーの?」とグンジが応じた。 「……どうして<闘技場>なんか映ってるんです?<ヴィスキオ>は、<王>戦を旧祖の外に中継でもするんですか?」 ふと父親が好んで見ていた格闘技の試合の番組放送を思い出しながら、疑問を口にする。すると、キリヲが頷いた。 「外にまで放送するわけじゃねぇが、まぁ似たようなもんだな。ビトロは外の人間と商売の話をするとき、客をここに通すことがある。<王>戦の日なら、客に前座の試合の様子を見せてラインを売り込むんだ。<王>戦そのものは、まぁシキが強すぎて試合にすらならないから見せないようだが。このテレビに映すために<闘技場>にはカメラまで仕掛けてあるんだ。見ろよ、よぉく映ってるだろ?」 キリヲに言われて、私は改めて画面に見入った。 今の映像には、主に観客席の様子が映されている。集まった観客の中には、ちらほらと見知った顔もあった。トモユキやトウヤ、ユキヒト、それにケイスケなどの姿も見える。彼らが観客席に紛れているということは、計画は滞りなく進んでいるのだろう。そう思ってほっと息を吐いたときだった。 「――……!」 ふと一瞬画面の端に、見覚えのある背格好の男が映る。 長身で、金に近い髪に白い肌――nではないか。驚いた私は、身を乗り出して食い入るように画面を見つめる。が、nらしき男が映ったのはほんの一瞬で、次の瞬間には人に紛れたのか姿が見えなくなってしまった。 「……どうかしたのか?」 こちらの様子に気付いたアキラが、少し心配そうな顔をする。 それに、私は半ば上の空で「何でもない」と答えた。 *** <闘技場>の観客席で、ケイスケは感嘆の思いで辺りを見回していた。 かっての多目的ホールを改装したという<闘技場>は、思いの外広さがある。床はすり鉢上に緩やかな傾斜がついていて、傾斜の部分に観客席が作られている。鉢の中央部分には平坦な場所があって、そこが試合の行われるリングのようだ。観客席と中央のリングの間はフェンスで仕切られた上、立ち入る者がないようにライフルを持った黒副たちが見張っていた。 だが、それでも前座の試合を待つ観客たちの中には興奮してフェンスに取り付き、野次を飛ばしている者もあった。 人の波に揉まれながら、ケイスケはトシマにこれほど多くの人間がいたのか、と改めて驚く思いだったのだ。というのも、街の通りは皆イグラを仕掛けられることを警戒して息を潜めてひっそりとしており、中立地帯も混んでいる時間帯でもこれほどまでに人は多くない。 「……<王>戦の前座って、人が多いんだなぁ」 思わずそう呟くと、傍にいたユズルがこちらに目を向けた。 「いや、普段は多くても今日ほどじゃない。今日は<王>戦が久々なのと、<ヴィスキオ>がこの後外で食糧を配給すると宣伝したからだろう。……今まで<ヴィスキオ>が配給なんてしたことがない。おそらく、客を集めたいんだろう」 その言葉に、ケイスケは視線を伏せた。 客集め。<ヴィスキオ>、というよりアルビトロは、この場に人を集めたがっている。その目的の予想がつくだけに、自分たちの計画が失敗すればどれだけの人間が死ぬのか、と考えてしまい気分が沈んでいく。 と、そのとき人を掻き分けるようにして、源泉がこちらへ近づいてくるのが見えた。マスターと2人で話があると言ってバーに残った源泉だったが、上手く用事を済ませて前座の開始前に<闘技場>に入れたらしい。 人ごみの中を苦労して傍まで来た源泉は、はぁと大げさなため息を吐いてみせた。 「……しかし、ものすごい人数の観客だな。まさか、ここまでとは。ケイスケ、準備の方は?」 源泉の言う準備とは、<王>戦直前に<闘技場>を爆破するための爆弾のことだ。ケイスケは「できてます」と頷いた。「人が多くて苦労したけど、何とか上手く行きました」そう言いながら、観客席の爆弾を仕掛けたあたりに目を向ける。 そのとき、ふとその場所の傍にある扉から<闘技場>を出て行こうとする男の背中が、やけに目に付いた。男は茶色い髪に白い肌で、雰囲気もどことなくイグラ参加者らしくない。だからだろうか、妙に気になって――。 「……イ……ス……ケイ……ケイスケっ!」 「あっ、はい!」 呼ばれて我に返ると、源泉が不審そうな面持ちでこちらを見ていた。 「どうかしたのか、ケイスケ」 「あっ……いえ、何でも……」 大丈夫だと言いながら、ケイスケは首を横に振った。 何の面識もないはずなのに、やけに気になった先程の男。気にかかったのは、計画の実行を目前に控えて、神経が過敏になっているせいだろう。そう自分に言い聞かせることにした。 *** アルビトロは執務室の窓際に立ち、<城>の中庭の様子を眺めていた。 ほんの30分ほど前までは、<王>戦の前座を見に来た観客の列が中庭にまで続いていた。もう<闘技場>は開放してあるので列の大半は屋内に入ってしまったが、それでも遅れてきた者たちが歩いている姿がちらほら見える。 スーツのポケットから懐中時計を取り出すと、彼は文字盤を覆う蓋を開けた。時計の針は、午前十一時四十五分を示している。 「――そろそろだな……」 時刻を確認してから懐中時計をポケットにしまい、アルビトロは窓際を離れた。そして、デスク上の電話の受話器を取り上げると、内線で応接室を呼び出す。電話はすぐに通じた。 「キリヲか。私だ」 『ビトロか?じきに前座の時間だってのに、オメェが油売ってていいのかよ。今テレビで見てるが、今日はやけにギャラリーが多いじゃねぇか。開始が遅れたら、お客が暴れだすぜ』 「そのことだよ。お前たち2人ともを人質に付けておくのは、もったいない。グンジを<闘技場>に寄越したまえ。内戦間近の噂が流れて、イグラ参加者は気が立っている。何かの拍子に暴動になりかねない。だが、処刑人が睨みを利かせていれば、愚かな奴らでも暴れる気にはならないだろう」 前座とその後の<王>戦を取り止めるという選択肢は、最初からない。アルビトロが我が身の安泰を図るためには、イグラ参加者も<王>であるシキをも欺いて、出し抜かなければならないのだから。 アルビトロはキリヲの答えを待った。 短い沈黙の後、キリヲはようやく声を発した。 『……だったら、俺が行くぜ。いい加減、生意気なガキと乳臭い小娘の相手には飽き飽きだ。血と悲鳴が見てぇんだよ、生でな』 「駄目だ。グンジはアキラを見逃したことがあるではないか。また同じことになったら……」 『ならねぇよ。あンときは上手いこと誑かされちまったが、誑かした“アイツ”はもうここにはいねぇからな。それに、いくら馬鹿でも同じ間違いは繰り返さねぇだろうよ』はっきりと言い切ってから、急にキリヲは声のトーンを落とした。いっそ恫喝に近い調子で、一方的に宣言する。『……とにかく、俺が行くぜ』 こうなっては、アルビトロも折れないわけにはいかない。 今は雇い主と従業員の関係にあるので処刑人たちはアルビトロの命令を聞くが、本当は彼らが本気になればアルビトロを殺すことは容易なのだ。キリヲが断固拒否するならば、雇い主のアルビトロといえども自分の生命のために命令を変えざるを得ない。それに何より、言い争っている暇はなかった。 ため息と共にキリヲの要求を承諾して受話器を置いたとき、ノックの音がして扉が開いた。外に控えていた黒服が、扉の隙間から顔を覗かせる。 「――アルビトロ様、そろそろお時間です」 「あぁ……分かっている」 ゆったりとアルビトロは頷いた。つい今し方キリヲの要求に屈したことなど感じさせない態度を繕いながら、部屋を出る。廊下に立てば、<闘技場>から集まった観客が立てるざわめきが、微かに聞こえてきた。 *** 部屋の隅にある電話が鳴ったのは、ほんの数分前のことだ。 巨体からは想像し難い素早さで立って受話器を取ったのはキリヲで、ちょうど彼への電話だったのかしばらく話し込んでいた。相手はアルビトロらしかった。電話の内容は、軍で特殊な訓練を受けさせられて鋭くなったグンジの聴覚なら、聞き耳を立てれば十分に聞き取ることができただろう。けれど、敢えてそうしなかった。他のことに気を取られていたからだ。 グンジは、アキラの傍でテレビ画面に見入っている女の横顔に注意を向けていた。 確かにキリヲの言う通り、この女はよく似ていると思う――グンジがふざけて“ネズミ”と呼んでいた青年に。似ているのは顔立ちというより仕草や表情の出し方だが、時折はっとするほど面影が重なる。そんな瞬間を見つけるたび、じくりと胸のどこかが痛む。 なぜそんな風になるのかは、見当もつかない。 けれど、胸の痛みと共に、もう戻らないだろうとは知りながらも、“ネズミ”がここにいればいいのにと思ってしまう。もともとアレはシキのペットで、ここにいたからといって所有権がグンジに移るわけではない。無理に奪うことはできるだろうが、そうすれば“ネズミ”は泣くだろう。それだけは、嫌だった。 他の人間の血や悲鳴には心が躍るのに、“ネズミ”のそれだけは愉しいとは思えない。泣かでもした日には、どうしていいか分からなくなる。だから、“ネズミ”が悲しむよりは、自分のものにならなくても彼が笑ってくれるだけでも良かった。 それなのに――なぜ、ここにいるのはあの“ネズミ”ではなくて、この女なのだろう。これほど似ているのなら、この女ではなくあいつがソファでテレビを見ていてもよかったはずなのに、どうして。 と、そのとき電話を切る音がして、グンジははっと顔を上げた。 こちらへ戻ってきたキリヲは、唐突に「<闘技場>へ行く」と言った。 「……<闘技場>って……じゃぁ、ここはどーすんだよ!?」 慌てるグンジに向かってキリヲは眉を上げ、小馬鹿にしたような表情を作った。 「もちろん、オメェが残るに決まってんだろ」 「俺が?」思わずグンジは目を丸くした。 グンジは一度アキラを見逃してから、アルビトロの信用を失っている。そのアルビトロが、グンジに人質を任せるとは考えられない。けれど、キリヲの様子を見るに、グンジが監視に残るというのは、既に決定されたことのようだった。 「いくらオメェの脳細胞が全部死んでたって、留守番くらいできンだろ。大人しくここで息してりゃぁいーんだからよ」 「なっ……!」 あまりの言いように、グンジはとっさに食って掛かろうとする。 けれど、そのグンジの勢いをかわすかのように、キリヲはアキラの傍に座る女の前に立った。そして、女に向かってぬっと手を伸ばす。 思わずグンジは、「やめろ」と言いそうになって、口をつぐんだ。今日の自分はどうもおかしい。女のことが疎ましい癖に、やけに気になってしまうのだ。そのとこで戸惑うグンジには構わず、キリヲは口を開いた。 「さて、お嬢さん……首輪を出してもらうぜ」 「……どうしてですか」 「前座の後は<王>戦だ。そんときにシキの野郎に確かめといてやるよ、本当にオメェが奴の知り合いなのかをなぁ。さっさと出しな。でねぇと、オメェはいつまでもシキに会えねぇぜ。……それとも、知り合いってのは嘘かぁ?」 すると女は目を閉じ、思い切るように息を吐きだす。「……分かりました。でも、絶対に失くさないで下さい」そう言って、慎重な手つきで首に掛けていたロザリオを外し、キリヲの掌に置いた。 キリヲは受け取ったロザリオを目の前に持ってくると、にやりといつもの凶悪な笑みを浮かべてそれをポケットにしまった。そして、踵を返して応接室を出て行こうとする。 その背を見送りながら、グンジは微かな違和感を覚えた。 どうもおかしい。キリヲはグンジと同様、基本的には自身の愉しみのためにしか動かない男だ。女のためにシキに取り次いでやるなんて親切、キリヲらしくない。それにグンジを見張りに置いておくといったときの態度も、そこか妙だった。 何かあるのではないか――。 ふとそう感じて、グンジはソファから立ち上がり、大股にキリヲを追いかけた。 「待てよ、ジジっ!」 呼び止めればキリヲは戸口で振り返り、すっと目を細めた。まるでグンジに呼び止められることを、ある程度予期していたかのような面持ちをしている。そして、キリヲは廊下に出ろと顎先で示した。 廊下に出て応接室の扉を閉めると、真っ先にグンジは「ジジ、何企んでやがる?」と問い質した。 「企む?俺ァ何も企んじゃいねぇよ」 「嘘吐け!あの女のことをわざわざシキに報せてやるなんて、ジジらしくねー。おかしいんだよ」 「おかしいのはオメェの方だろうが。ネズミ一匹に情けを掛けたかと思えば、次は女一人に心揺らされやがって。オメェこそ、らしくねぇんだよ」 キリヲの指摘に反論することもできず、グンジは押し黙った。確かに、言われた通りだ。だが、どうすればもとの血と悲鳴だけを糧に生きていた昔の自分に戻れるのかが分からない――。 と、不意にキリヲがため息をつき、子どもにするようにグンジの頭の上に手を置いた。 「うっ……何すんだよ……!」 「暴れんなよ。いいか、よく聞け、ヒヨ」低い声をいっそう低めてキリヲは囁いた。「俺たちの乗っかってる“船”はもうじき沈む。そンときが来たら、オメェの大事なモン、諦めたくないモンだけ引っ掴んで、一人でも逃げろ。オメェは生き延びるんだ。分かるな?」 「分かんねーよ……そんなの、意味分かんねー!!」 グンジが手を振り払って怒鳴ると、一歩後退したキリヲは肩を竦めた。「そンときになりゃ、嫌でも分かるだろうよ」そう言って、踵を返す。そのまま遠ざかっていく広い背中に、グンジはなぜか取り残されるような不安を覚えた。 この感覚は、そう、ネズミが牙をむいたあのときの感覚に似ている。 また、失うかもしれない――。 「待てよ、ジジ……本当に何する気だよ……!?」 取り残されることを恐れる子どものように、グンジは半ば必死で叫んだ。 しかし、キリヲは振り返らずに、片手を上げて見せただけだった。それが、なぜか別れの挨拶のようにも見えた。 *** ひっそりと静まり返った<城>の廊下を、nはふらふらと雲を踏むような足取りで歩いていた。 今<ヴィスキオ>の人間はほとんどが<闘技場>とその周辺でも警備や雑用に駆り出されていて、<城>の建物の中はがらんとしている。普段なら警備がいるであろう廊下も今は人影がなく、戦闘兵器として訓練されたnの技術を以ってすれば、簡単に<城>の奥深くに入り込むことができた。 ふらふらと、甘い匂いに誘われながら、nは歩いていく。 これは、自分の対となる者が発する匂いだ。<城>の奥深くのどこかに、その人物はいる。nはその人物を探していた。一度は関わらずに見守ろうと決めたものの、悪夢が始まったこのトシマの地が終わりを迎える前に、せめて一目逢いたいという望みを捨てることはできなかったのだ。 廊下を進んで角を曲がり、nは初めて警備員と出くわした。彼らはある一室を警備しているようで、壁の陰にいるnにはまだ気付いていないようだ。そして、彼らが警備する部屋の中から、対になる者の甘い匂いが漏れてきていた。そこに本人がいるわけではない、何かへの移り香のような微かな匂いが。 nは壁の陰から跳びだすと、一気に警備員たちへ肉薄した。一人目の腹を素手の手刀だけで容赦なく抉る。振り向きざま、慌てて体勢を整えようとするもう一人の手からライフルを叩き落し、右手で相手の咽喉を掴んだ。強い力で気道を圧迫されて、ほんの束の間黒服はもがいて抵抗していたが、すぐにぐったりと身体を弛緩させて絶命した。 腹を抉られた男はまだ虫の息で呻いていたが、nは見向きもせずに扉を開け、部屋の中へ入っていった。途端、甘い匂いが少し強くなる。 部屋の奥には大きく高級そうなデスクが据えられていたが、nはそれには構わず、壁際に置かれた棚へと歩み寄った。甘い匂いはそこから漂ってくる。棚にはめ込まれたガラス戸を開けると、ほとんど何も入っていないがらんとした棚の中、ぽつんとナイフや携帯電話などが疎らに並べられていた。 そのうちの一振りのナイフには、見覚えがあった。かつてn自身がある少年に渡したものだ。対となる者の甘い匂いは、そのナイフに染み付いているようだった。 nはナイフを手に取ろうとして、ふとその傍に置かれている携帯電話に気付いた。無骨なそのデザインは、昔nも軍で連絡用に持たされたことがあるものと、よく似ている。軍で使われる携帯電話の類はGPSが内蔵され、いつでも居所が分かるようになっているのが常だ。軍も過去のnicolウィルス研究のサンプルを手に入れるため、トシマに網を張っているのだろう――だが、今邪魔されるわけにはいかない。 無骨なデザインの携帯電話を手に取ると、nは力をこめて握りつぶしてしまった。それを床に投げ捨てて、ナイフだけを手に取る。 そして、再びふらふらとした足取りで、nはアルビトロの執務室を後にした。 *** 「駄目だ……餌を見失った」 ノートパソコンの画面を見つめていたエマは、そう呟いて顔を上げた。トシマの薄汚れた廃墟に不似合いなほど端然とした白い面は、言葉とは裏腹に落ち着き払っていて落胆の色は見えない。彼女の様子に、グエンは感嘆の思いだった。 エマはCFCの軍に属しているとはいえ、軍人というより研究者としての役割の方がはるかに大きい。研究者であることを買われて、今回のnicolウィルスの保菌者を手に入れるための作戦を指揮する立場になったのだ。どちらかといえばデスクワーク中心であるはずの彼女が、自らトシマで動き回るのは、表には出さなくとも非常な困難であるはずだ。 「餌を見失ったなら、もうそろそろ本国に応援を要請して別のプランに移らなければ、時間が」 「分かっている。だが、応援はまだ要請しない。大掛かりな捕り物になっては、プルミエに感づかれて逃げられる可能性が高いからな、最後まで代替プランは取っておく」そう言って彼女はグエンの方を向き、ふとその顔に微かな笑みを浮かべた。「不安そうだな。だが、心配はない。この程度のことは予想済みだ」 「……貴方は我慢強いな。餌を見失ったことで、我々は進むべき道を見失ったかもしれないというのに」 「予想済みだと言っただろう。研究では、無数の条件を組み合わせて実験をしていって、初めて結果の出る場合もある。この程度のことは、我慢というほどのものでもない」 それから、彼女は笑みを納めて立ち上がった。 「とはいえ、そろそろ間合いを詰めなければならないだろう。行くぞ」 「だが、どこへ……?」 「餌は見失ったが、餌に渡した発信機が最後にあった地点は判明している。――<ヴィスキオ>の<城>だ」 *** 午後0時5分。 <城>の裏門を警備していた2人の黒服は、静まり返った通りにアスファルトを刻むような正確な靴音が響いてくるのを耳にした。カツカツカツと、足音は次第に近づいてくる。黒服たちは、やがて細い路地から、闇をまとったような黒ずくめの男が現れるのを目にした。 黒服たちも<ヴィスキオ>に勤めてしばらく経つので、その男の存在は知っていた。 だから、直立不動の姿勢で黒ずくめの男を迎えた。 「門を開けろ」 裏門の前に立った男が、誰と名乗ることもせず、当然のように命じる。それでも黒服たちは逆らうことはせず、命令に従って門を開いた。 その門を潜りながら、男はふと足を止めて黒服たちを振り返った。「下らん前座は、もう始まっているのか」と尋ねる。黒服の一人が答えようと口を開いたとき、わっという歓声が風に乗って聞こえてきた。 男は歓声の上がった<闘技場>へ視線を向け、すっと目を細める。 「今日はやけに、愚か者の用意した茶番に喜ぶ愚か者が多いようだな……」 低く呟くと、男――シキはそのまま<城>の敷地へと入って行った。 3.目を瞑り、祈る End. 目次 |