1.





 扉を閉めてしまうと、廊下の物音は一切聞こえなくなってしまった。この部屋についてキリヲは、アルビトロが顧客との商談に使うことがあると言っていたから、機密保持のために防音がしっかり施されているのだろう。それでも、私はアキラと視線を交わしながら、廊下の様子を窺っていた。キリヲを追って行ったグンジの、常ならぬ様子が気になっていたのだ。
 今の状況では、私とアキラの身の安否を直接的に握るのは、グンジとキリヲに他ならない。キリヲは出て行ったが――そんなことはないと信じたいが――もしグンジが急に私たちをどうにかしようと思い立ったら彼を止める力は、私にもアキラにもない。知り合いとしてグンジのことを心配すると同時に、私はそんな懸念も抱いていた。
 しばらくして応接室に戻ってきたグンジは、やはり様子がおかしかった。乱暴に扉を閉め、大股にソファまで歩いてくると、どかっと身を投げ出すように腰を下ろす。その面持ちが、いつになく暗い。俯いて一言も発しない彼を、私もアキラも声を掛ける勇気はなく、ちらりらと覗き見ることしかできない。どうしたのか、と尋ねれば済む話なのだが、以前の“”としてならともかく今の私にとグンジの間には、気軽に声を掛けられるような親しさは存在しなかった。
 そうして何度目かにグンジの方を見たとき、不意に彼は顔を上げ、こちらを睨んだ。
 「……ンだよ。何か言いてーことでもあんのかよ?」
 低く、脅すような声音で逆に尋ねられる。長い前髪の間から覗く双眸の威圧感に、一瞬怯まずにはいられなかった。それは、アキラも同じだっただろう。隣で、一瞬、息を呑んだ気配があった。
 とっさに、私はアキラの腕を掴みながら、顔を上げて真っ向からグンジと目を合わせた。腕を掴んだのは、アキラに「大丈夫だから」と伝えたかったのか、縋ることで勇気を得ようとしたのか、或いは、自分が対応すると示したかったのか。どんな意味を持たせたかったのか、自分でも判然としない。多分、腕を掴んだのは、それらの全ての理由からだったのだろう。手の中にアキラの意外にしっかりした腕を感じながら、私は浅く息を吸って口を開いた。
 「――何か、あったんですか……?」尋ねると、
 「……あぁ?」不機嫌な低い声が返ってくる。
 「キリヲと何かあったのではありませんか?あなたの様子、さっきと違う……」
 「何もねぇよ。つーか、今日が初対面のオメエに何が分かんの?知ったような口利いてねーで、大人しくしてろよ。でねぇと……うっかり切り刻んじまうかもな?」
 そう言って、グンジは狂人のような笑みを浮かべた。
 明らかな拒絶。確かにグンジからすれば、私は今日遭遇したばかりの人間に過ぎない。立ち入ったことを聞かれれば、拒絶するのは当然の反応だ。そう思いながら、私は視線を外して目を伏せ、小さく頷いた。
 「……分かりました、大人しくしています」


 所在なくテレビに視線を投げると、既に前座の試合が始まっていた。前座の試合は、開始からしばらく時間が経っているらしい。画面の端には、いつの間にか<闘技場>へ辿り着いたらしいキリヲが、時折映ってはまた見えなくなる。
 リングで対戦している2人は、いずれもラインを服用しているように見えた。皮膚に浮いた血管、濁った双眸、そして狂気に支配された顔つき。2人は奇声を発しながら、ためらいもなく急所を狙った攻撃を繰り出す。双方刃渡りの長いナイフを用いていて、相手のナイフが自分の身体を深く傷付けようが怯むことなく、まるで痛みなど感じないかのように反撃している。
 と、そのとき画面の中で、一方の振るったナイフがもう一方の右腕を切断した。まるで茄子や胡瓜でも切ったかのように、ナイフを握った手が肘の少し下から断ち切られ、ぽんと跳ね上がってからリング上へ落ちる。あまりの光景に、私は声もなくただ試合に見入ることしかできない。傍らでアキラが「大丈夫か」というようなことを言った気もしたが、首を横に振って画面を凝視していた。
 目を逸らすことは許されないのだと、それだけを自分に言い聞かせていた。
 私は、この20XX年の人間ではない。この時代のことは、ろくに知らない。たとえ2007年の時代の価値観を持った私が、画面の中の光景を“残酷で、あってはならない事柄”と感じたとしても、その出来事はこの時代の外国ではなく他ならニホンで皆が向き合っている現実の一分なのだ。この時代で生きるなら、そして、この時代の人間に対して一人前にものを言おうとするなら、現実を見ない振りをして自分の意見を言うのは筋が通らないではないか。そう、自分に言い聞かせていた。
 画面の中で、腕を切り落とされた男はなおも果敢に闘ったものの、すぐに劣勢へと追い込まれていった。体勢を崩して倒れた男の上に、優位に立った対戦者が馬乗りになる。そしてナイフを振り上げて、今度は無傷の左腕に突き立てた。
 『ぐっ……あああああぁぁぁぁ――!!』
 途端に上がる絶叫と、一息遅れて沸き上がる歓声と。
 優位にある対戦者は、血塗れのナイフを高く掲げて歓声に応じる。そして、今度は片腕を失い、片腕を刺し貫かれてもがく相手の頭部を押さえつけ――咽喉へ振り下ろそうとした切っ先が、故意にか偶然にか狙いが外れて右目を抉る。最早、画面上で繰り広げられているのは、試合ではなかった。殺し合いとすら呼べない、ただの虐殺だ。ほとんど虫の息の男に跨ったまま、対戦者は相変わらず狂ったような笑みを浮かべている。そして、またナイフを振り上げて――。
 しかし、私はナイフが振り下ろされた先を、目にすることはなかった。
 唐突に視界が暗転したのだ。気がつけば、私は肩を引き寄せられ、視界はしっかりと掌で覆われていた。それでも、びりびりと鼓膜を震わせるような絶叫の声は耳に流れ込んできて、劣勢に立たされた対戦者がどうなったのかは、嫌でも知ることができた。
 「あんたは見ちゃいけない」断末魔の絶叫に被せて打ち消すように強いこえで、アキラはそう告げた。「あれは、あんたが見るもんじゃない」
 私はアキラの腕の中で、首を横に振った。ものを言いかけて、咽喉が張り付いたように声が出てこないことに気付いた。それでも声を押し出して、ようやく掠れた声で「……き、を……」と言うことができた。
 「――気を遣ってくれて、ありがとう……でも、いいから。トシマにいる人は皆、あんな光景を見ている。だったら、私も目を逸らすわけにはいかない。同じものを見なければ、きっと対等の立場では話せないから」
 「…………」
 納得しかねる、という風情の声を出して、アキラは私の肩を抱く手に僅かに力を込めた。それでも、私はそっと目元を覆う彼の手に触れ、静かにそれを外す。そうして、前を見ようとした、そのときだった。
 視界の端で、ぱっとグンジが立ち上がり、テレビに歩み寄ると主電源を落としてしまう。その予想外の驚き呆然としていると、彼は戻ってきてこちらを見下ろした。
 「怖がりの癖に無理して怖ぇモン見てんじゃねーよ」と、グンジはなぜか怒りを含んだ声音で言う。「自分でトラウマ作ってぶっ壊れる気かよ?冗談じゃねー。気の触れた奴はライン中毒と一緒で、切り刻んでもつまんねーんだよ。大体、オメエがどういうつもりだろうが、トシマの奴らにとっちゃ獲物に過ぎねぇ。対等に話したって、聞きやしねーだろ」
 「皆が皆そうだとは言い切れないでしょう?だって、」私は顔を上げ、グンジの目を見返した。「……だって、現にあなたもその一人でしょう?怖いと言ったら、わざわざ鉤爪を外してくれた」
 途端、グンジは虚を衝かれたかのように目を見開いた。そして、自身の両手へと視線を落とす。路上で私の言葉に応じて鉤爪を外してくれたのは片手だけだったが、今は<城>の中とあって両手とも鉤爪が外され、ソファの側面に立て掛けられていた。廊下から戻って来たときグンジはごく自然にそうしていたのだが、ここに至って彼は自分の素手の両手を何か不思議なものでも見るような顔つきで見ていた。
 「あなたは、ちゃんと私の話を聞いてくれた。このトシマでは、それはとても有難いことだということは分かっています。私は、あなたに感謝してる。だから、そのあなたの様子がおかしいことが気に掛かる。――聞いても何もできないかもしれないし、無理に聞き出す気もありませんけど……廊下で何かあったのでは?」
 グンジが自身の内側に閉じこもろうとすることを止め、こちらに意識を向けた今なら話を聞いてくれるかもしれない。そんな微かな予感を持って、言い募る。すると、しばらく無言で佇んでいたグンジは、自分の席へ戻ってそこに崩れるように腰を下ろした。その行動に、私の傍で密かに身構えていたアキラも、ほっと肩の力を抜く。
 「――ジジが妙だった」ぽつりとグンジが呟いた。「内戦になったら逃げろだの、俺だけでも生き延びろだの……まるで最後の別れみてーに言いやがって……一体何なんだ?ワケ分かんねー」
 「キリヲが……?」
 言われて、ふと私も思う。
 確かにキリヲがロザリオを持って行ったことも、どこか妙な気がした。彼は「シキに確認するため」と言っていたが、アルビトロの命令があったならともかく、自発的にそんなことをするタイプではないように思える。……それとも、こちらに聞こえなかっただけで、電話でアルビトロの命令を受けていたのだろうか。
 考えてみても、答えは出ない。そこでふと思いつき、私は席を立ってテレビの主電源を入れた。テレビをつければ、<闘技場>にいるキリヲの姿も映り、普段と違うなら見てそうと分かるかもしれないと考えたのだ。
 再び画面に映った<闘技場>では、あの陰惨な殺人は既に終わったようだった。リング上に対戦者2人の姿はなく、係りの黒服がリング上を片付けている。落ちていたナイフや切断された腕を回収し、床を汚す血をモップで拭いていく。軽く拭いただけでは血の汚れは落ちず、リング上に赤黒い染みが残っていたが、誰も気にしている様子はなかった。血を拭いたのは単に足元が血で滑り、後に続く<王>戦の妨げになることを防ぐ意図しかないのだろう。
 前座は公開されるが、<王>戦そのものは非公開と定められている。観客たちは前座が終わった今、黒服たちの誘導に従ってぞろぞろと<闘技場>を出て行こうとしていた。その観客たちを追い立てるかのように、キリヲが彼らの最後尾の更に後ろで退場の様子を気だるげに監視している。
 「――キリヲに特に変わった様子はありませんが……次に戻ったとき、本人に尋ねてみては?キリヲは強いもの、必ずまた無事にここへ戻って来るから……」
 その言葉が終わらないうちに、私は暗い予感を覚えた。
 次は<王>戦だ。
 源泉たちが<闘技場>に入るときが近づいている。このままでは、キリヲがその場にいることになるのだ。キリヲはあくまで<ヴィスキオ>側の人間だ。源泉たちの行動の障害となるに違いない。或いは、キリヲが運悪く爆破に巻き込まれる可能性もある。どちらの立場で考えてみてもリン救出の際に危険があるには違いなく、けれど、気を揉んでみても私には何の手を打つこともできない。
 もう一つ、どうすることもできないのが、自分自身のことだった。
 トシマ脱出のときが来ても今の囚われの身の上では、皆と一緒に逃がることはできない。反乱計画が成功して脱出路が確保できたとしても、仲間が私やアキラを捜す時間も余裕もないだろう。
 源泉やマスターには最初から、何かあれば私のことは捨てて置いて欲しいと言ってある。たとえ私が逃げられなくても、計画が成功するなら――イグラ参加者が一人でも多く脱出してくれるなら、それでいい。自己犠牲のつもりはない。ただ、ケイジの身体の中にいてその絶望に触れたことのある私には、トシマの若者は皆どこかケイジに似て感じられた。ケイジと共にトシマを脱出しることはできなかったが、その分、彼に似た境遇の若者たちには自由になってほしいと思う――たとえ、旧祖の外が生きにくい世界であろうとも。
 私は、自分よりもむしろアキラが心配だった。アキラも私同様、囚われの身だ。計画が成功したとしても、彼は他の皆のように脱出することができない。
 ただ一つ、私とアキラにここを出られる可能性があるとすれば――。


 と、そのときだった。カツカツカツとコンクリートを刻むように規則正しい足音が、スピーカーから聞こえ始める。懐かしさすら感じるそのリズムに、私はテレビの画面へ意識を向けた。
 観客が退場してがらんとした<闘技場>の中央。リング上に立った黒ずくめの姿。
 「――シキ……」
 気がつけば、思わず呟いていた。
 ――そうだ。

 “シキの野郎に確かめといてやるよ”

 この部屋を出て行くとき、キリヲがした申し出。
 もし、私とアキラに望みがあるとすれば、あの申し出が実行されて、しかもシキが私に会う気になってくれたときだけだ。何て虫のいい話だろう、と思わないこともない。バーで抱かれたときと、アパートの廃墟でと、もう2度もシキが差し出した手を取ることを拒んだ。そして、トシマに戻ってきてからは、シキに真っ向からぶつかるつもりで、全てを切り捨てるというシキとは間逆の行動を取った。ずっと逆らうような真似をばかりしてきて、今更、彼が会う気になってくれるのを願うなんて、身勝手にも程がある。
 それでも、せめてアキラを逃すために、シキにこの応接室に来て欲しいと私は願った。不思議と、自分のことは考えなかった。たとえば、ここへ来たシキが私に腹を立てていて斬り殺すというのなら、死にたくはないが、それはそれで仕方のないことだという気がする。
 怖いのは、彼に会えないまま終わることだった。
 不意に自分の主義や主張や意思を超えたところで、私はシキに惹かれているのだと気付く。画面に映る凛とした背中に、せめてもう一度でも会いたいと切実に感じる。けれど、再会したらしたで、結局また自分が我を張るのだということは目に見えていた――そうしていなければ、顔を上げて真っ向から彼の目を見ることはできないだろうから。
 私は目を閉じ、一旦視界からシキの姿を追い出した。そうでもしなければ、ずっと彼の背を目で追ってしまいそうだった。静かに息を吐いて、私はグンジを振り返った。
 「グンジ……ごめんなさい。何があったのか聞き出したくせに、ろくなことを言えなくて」
 「別に、ンなことどーでもいいし……」
 こちらの言葉に驚いたのか、グンジは一瞬目を丸くしてからぶっきらぼうな調子で答えた。そのとき。

 「――リン……!」

 不意にアキラが声を上げた。その視線は、真っ直ぐに画面に向けられている。そこには、黒服に先導されて控え室から通じている通路を歩いてくる、小柄なシルエットが映し出されていた。あれは、リンだ。ふらつき、足を引きずるリンは、ひどく調子が悪そうに見えた。歩くだけでも既に息が上がっていて、とてもシキと闘える状態ではない。
 それなのに、リンの青い双眸は激情を含んだ強い光を湛え、戦意が失われていないことを物語っている。まるで手負いの獣のような有様だ。それに対峙してシキの紅い瞳は静かなまま、リンの視線を冷ややかなほど冷静に受け止める。
 今や2人の間には、余人の立ち入ることの出来ない、触れれば切れるような一種独特の空気が生まれていた。大掛かりな<闘技場>の施設も、2人の間の緊張感のせいで、まるで子どもの玩具のように見えてくる。素人の私でさえそう感じたのだから、腕に覚えのあるアキラはもっとはっきりとその空気を悟ったのだろう。この場で見守ることしかできないのが歯痒い様子で唇を噛み、何も言わずに膝の上に置いた拳を握り締めている。
 元はといえば、私がシキを説得するはずだった――聞き入れられるかは分からないが、何に代えてもそうするつもりだったのに。けれど、ここにいては見守ることしかできないのは、私も同じだった。どうすることもできなくて、ただ心の中で念じる。

 どうか源泉たちが間に合いますように。
 そして、シキが黙ってリンを見逃してくれますように。

 そのときだった。私の焦燥、アキラの不安、リンを知る仲間たちが救出計画に賭けた思い。全てを断ち切るように、宣言をするアルビトロの声が響いた。
 「――これより、<王>戦を取り行う」


***


 <闘技場>の観客が、会場から吐き出されていく。
 その列とも呼べないようなグダグダの列の最後尾近くに並びながら、軽い吐き気を堪えていた。気分が悪いのは、前座の試合があまりにも凄惨なものだったからだ。
 対戦者は、双方共にライン中毒者。勝者は敗者の腕を切り、目を抉り、腹を裂き、最後には咽喉を喰い千切った。ユキヒトもしばらくトシマにいて、何度か前座の試合を見に来たこともある。回を重ねる毎に内容が過激になりつつあることは感じていたが、ここまで酷いものは初めてだ。今更凄惨な殺人の場面を目にして卒倒するほどお上品でもないが、かといって見ていて気持ちのいいものでもなかった。
 敗者が息絶えると、勝利を宣言された男は、控え室へ戻って行った。聞くところによれば、前座の試合で勝利しても幾許かの賞金とラインがアルビトロから与えられるのだという。今回の対戦者の目的は、そのラインにあったに違いない。けれど、あれ以上ラインを服用すれば勝者の男も長くは生きられないだろう、とユキヒトは狂気に支配された勝者の顔を思い浮かべた。――あれはヒトではない、獣だ。
 観客の中には、今回の試合(というか殺人)に興奮して、勝者に歓声を送る者もいた。現にユキヒトの傍を歩いている二人組みも、先程の殺人の話題で盛り上がっている。そんな彼らが、まるで別の世界の人間のように思えた。
 もっとも、そこまでの嫌悪を感じるのは、ユキヒトがnicolプロジェクトのモルモットとして扱われ、その記憶が残っているせいかもしれない。モルモットにされた子どもたちの中には心を病み、生きて日常生活に戻れなかった子どももあった。いつか自分もそうなるのではないか、と子どもの頃は絶えず怯え続けていた。今だって、そういう子どもが実験の中で上げた苦痛の悲鳴が、狂いながらも最後まで死ぬのは嫌だと繰り返した声が、脳裏に蘇ることがある。だから、自らラインを服用して正気を手放す輩に対して、過剰な拒否反応が出るのかもしれなかった。
 ふと、トウヤの顔が見たい、とユキヒトは思う。
 いつものようにトウヤとチームの仲間と溜まり場に戻って、酒でも飲んで、騒いで。そうして、今日の試合の不快な記憶も、うっかり思い出してしまった過去も忘れて、眠ってしまえたらいい。けれど、そういうわけにはいかなかった。トシマにおけるそういった日常は、今日で終わるのだ。こんな最低な街にも日常などというものがあったのか、とユキヒトは今更発見して意外に思った。
 “恋しい”仲間たちは、皆、先に<闘技場>を出ていた。今頃は<城>の中庭で、<ヴィスキオ>が食糧を配給するという列にでも、並んでいる頃だろうか。スキンヘッドのマスターが立てた反乱計画の中で、ユキヒトのチームにも役割が与えられていた。そして、ユキヒトにはまた仲間たちとは別の役がある。チームから離れて一人でいるのは、そのためだった。
 <闘技場>を出て通路を進み、外の出入り口付近まできたところで、ユキヒトは隣を歩く二人組みに声を掛けた。
 「あのさ、ここってトイレあったっけ?」
 すると、前座の試合の話に熱中していた彼らは、少し不審そうな顔でユキヒトを見る。それでも、親切にも片方が天井からぶら下がるプレートを指差し、「あっちみたいだぜ」と呆れ声で言った。
 「おっと、表示があったんだな。サンキュ」
 片手を上げて礼を言うと、ユキヒトは天井の“TOILET”のプレートが示す通路へ入りかける。と、そこで二人組みは更に言った。
 「おいおい、こんなとこでトイレ借りんのか?あの変態の縄張りみたいなもんだぜ、ここは」
 「やめといた方がいいんじゃね?俺なら漏らしたってここでは行かねー。二度と<城>から出られなくなるなんて、嫌だからな」
 そこでユキヒトは片眉を上げ、自分は漏らすのが御免だ、と返した。
 そもそも、トイレは使用されるために作られているのであって、使った人間が取って食われるなんて理不尽があったらたまらない。それに、トイレを監視しているとすれば、それは他人が用を足している場面を見ているわけで、いくらあの変態でも用を足している最中の人間の姿かたちで食指が働くものかは疑問だ、と。
 けれど、二人組みはなおもゲンナリとした表情で首を横に振り、「変態の考えは分からない」と言いながら去って行った。
 残されたユキヒトは、脇の通路へ踏み込みながら肩を竦めた。本心を言えば彼も二人組みの言い分に賛成ではあったが、今はその考えを曲げなければならない事情があるのだから仕方ない。


 通路をしばらく進んでいくと、じきにトイレが見えた。
 しかしユキヒトはトイレには入らず、その向かい側にある扉の前に立った。“STAFF ONLY”と扉にプレートが掲げられている。
 素早く周囲を見回すと、天井の一角に監視カメラが見えた。一瞬ひやりとするが、じきに頭の中に事前の打ち合わせでの情報が蘇る。<城>の奥にあるモニター室では、<城>やトシマの各所に設置された監視カメラの映像をモニターしている。今回の計画に当たって、この通路の映像は内部協力者の手で、前日の同じ時刻のものがモニターに映し出される細工がされる段取りになっていた。
 ユキヒトは浅く息を吸うと、予め取り決められたリズムでドアをノックした。すると、ドアが内側から細く開かれる。その隙間に身を滑り込ませるようにして入ると、ユキヒトの背後でまた誰かがドアを閉めた。
 「いらっしゃい」
 まるでバーか何かに入ったような言葉が、背後から掛けられる。目を向ければ、閉じたドアのノブに手を掛けているのは、スキンヘッドのマスターだった。更にユキヒトが部屋の中をぐるりと見渡せば、他にも数人が集まっていた。名を知っている者もあれば、知らない者もある。今回の反乱計画を実行するにあたって、旧祖の外への脱出路を確保するグループの面々だ。
 打ち合わせで、この脱出路確保班とも言うべきメンバーは、前座の試合の後外には出ず、この部屋に集合することになっていた。班は密かに行動しなければならないため、全員合わせてもさほどの人数にもならないが、それでもまとまって動くとなると目立ってしまう。そこで、<闘技場>からの退場に時間差をつけ、各自集まることに決まっていた。その、最後の一人になったのが、ユキヒトだった。
 1、2、3……とマスターが人数を数え、全員が揃ったことを告げる。一人も欠けなかったという事実を知り、ユキヒトは内心密かに意外に思った。
 計画全体を通じて言えることだが、殊に脱出路確保班は<ヴィスキオ>の内通者や各チームからの推薦者を寄せ集めた烏合の衆である。というのも、外への通路を警備している黒服たちは武装が他よりも念入りであるし、アルビトロの信用も篤い者ばかり。それを相手に脱出路を確保したとしても、その後来る増援と激戦になる可能性が高い。そういった役廻りであるため、各チームからは実力のある者が選ばれ送り込まれている。そこに、<ヴィスキオ>の内通者が加わるのだ。これまで利害もバラバラであった者たちが、昨日の今日で協力し合っているのは、未だに信じがたい光景だった。


 ユキヒトより先に集まったメンバーは、皆黒いスーツに着替えていた。
 当初、戦闘について素人のが出した構想は、準備段階で修正が加えられたのだ。最初の計画の構想は、<闘技場>の爆破を陽動とし、その混乱に乗じて脱出路を奪おうというものだった。けれど、その後<ヴィスキオ>内通者の努力により、もっと穏便に脱出路に近づける方法が可能になった。<ヴィスキオ>の制服である黒のスーツを用意できたため、脱出路確保班がそれを着て黒服のふりをして近づき、脱出路を警備する者を欺こうということになったのだ。
 とはいえ、いざ事が始まれば脱出口を奪ったことはじきにアルビトロに伝わるだろう。そのとき差し向けられる黒服を、しばらくの間少人数で相手にしなければならない脱出路確保班の危険は変わらない。
 「おい、そこのキツネ目、お前の分」
 と、そんな声と共に黒いスーツ一式が投げて寄越される。ユキヒトがスーツを受け取って顔を上げると、橙色の長髪の青年がにやっと性悪そうな笑みを浮かべていた。お前こそキツネ目じゃないか、と内心ツッコミながら、それを口に出す代わりにユキヒトはため息をついてみせる。
 「……トモユキ、何でここにいるんだ。あんた、リーダーなんだから、チームを統率する役目があるだろ。仲間のところにいなくていいのか」
 「うちのNo.2は優秀だからな、俺がいなくたって上手くやるさ。それに、リーダーにはリーダーシップってヤツがあるから皆ついて来るんだろ。俺にとってリーダーシップっていうのは、ここにいることだ。チームの誰よりも前にいることなんだよ。他のやり方は知らねぇな」
 性格の悪そうな笑みを浮かべたまま、トモユキは言った。口調は冗談めかしていたが、言葉には本心からの響きがある。トウヤとは全く異なるタイプだが、これもチームのメンバーを背負う者のあり方なのだろう、とユキヒトは納得した。けれど、トウヤには同じことをして欲しくはなかった。
 実を言えば、トウヤも脱出路確保班に加わるのだと言い張っていた。チームのメンバーから最低でも一人は出さなければならないこの役目が、危険の多い役廻りと知っての言葉だったにちがいない。けれど、ユキヒトはそれを止め、「リーダーなんだから、チームのメンバーを指揮しろ」と宥めすかして、代わりに自分が班に加わったのだった。
 というのも、リーダーであるトウヤが生命を落とせば、チームはバラバラになってしまう。また、それよりも何よりも、ユキヒトはトウヤに死んで欲しくないし、誰かを殺して欲しくもなかった。だから、殺したり殺されたりする可能性の高いこの役目から、トウヤを遠ざけたのだ。
 今更手を血に汚す汚さないに拘るのも、妙な話といえばそいかもしれない。
 けれど、これまでユキヒトもトウヤも、殺人にだけは手を染めたことがなかった。弱肉強食のこの街に来てからも、イグラで相手を半死半生に痛めつけることはあっても、生命は決して奪わなかった。それだけは、してはならないことだという意識が強くあった。もしここでその自らの戒めを破ったら、たとえ生き残ることができたとしても、誰かを殺したという事実は心に影を落とすことになるだろう。
 それは嫌だった。
 ユキヒトにとって、大げさな言い方をすれば、トウヤは太陽のようなものだ。自分とは正反対の、明るく面倒見のいい誰からも好かれるトウヤの性格を眩しく感じることがある。トウヤが熱心に誘わなければユキヒトはチームに入らなかっただろうし、同年代の仲間といることの楽しさも知ることはなかっただろう。何の因果か一人だけ過酷な人体実験の記憶を残したまま孤児院で育ったユキヒトは、ごく自然に周囲と距離を置くようになっていたから。仲間たちは、当然ながら人体実験など経験したことのない、ごく普通の若者だった。それでも、共に過ごす時間は楽しかった。過去の記憶は未だに不意に蘇ることがあるが、仲間たちの顔を見ればすっと苦しさも軽くなった。だから、トウヤや仲間の心に影を落とすようなことをさせるくらいなら、いっそ自分が危険な目にあって手を汚すほうがましだと思ったのだ。
 甘い考えだとは分かっていた。今の状況では、どの道誰もが反乱の騒動の中で誰かを殺したり、殺されたりする可能性を持っている。そのときは、トウヤや仲間たちには迷わず自身が生き残れる方法を取ってほしいとは思う。けれど、そういう願いとは別に、誰にも殺されたり殺したりしてほしくないという気持ちが勝って、ユキヒトは自分が脱出路班に出ずにはいられなかったのだ。ただの自己満足といえば、その通りでしかなかった。
 この男も似たような思いを持ったのだろうか、とユキヒトは着替えながら、傍にいるトモユキに目を向ける。すると、視線を受け止めたトモユキが「何だ」と目で尋ねたので、思っていたのとは別のことを口にしてみた。
 「……あんたのところのNo.2、こんなリーダーで苦労してるだろうな。実はうちのトウヤも、自分がこっちに来るって言い張ってたけど、止めて来たんだ。あんたがこっちにいたって後で知ったら、拗ねるかもしれない。どうしてくれる」
 「そのときは、お前のとこのリーダーを宥めてやるよ。こっちは面白かったぞ、ってな」
 「それは宥めるんじゃなくて、煽るの間違いだろ。あんたも性質が悪いな」
 渋い顔をしてユキヒトが言うが、トモユキは取り澄ました態度で笑っただけだった。


***


 ユキヒトが手早くスーツへ着替えを済ますと、マスターは腕時計を確認して時間だと告げる。その言葉で皆は、顔の半ばまでを覆う白い仮面を着けた。<ヴィスキオ>の制服の一部だというそれは悪趣味ではあるが、顔を隠すのには格好の小道具だ。もともと幹部の地位にあり制服着用の義務のないマスターは普段の格好で、他の皆は黒服の姿を装って、脱出路確保班は揃って部屋を出た。
 先頭に立ったマスターは、ユキヒトが辿ってきた通路を逆行し、<闘技場>近くまで戻ると今度はその付近にあった別の細い通路へと入る。途中、見回りの黒服と行き遭ったが、皆の黒いスーツ姿とマスターの上手い受け応えで、無事やり過ごすことができた。
 そうしてしばらく進んでいくと、廊下の突き当たりに地下へと続くらしい階段があり、その手前に数人の黒服たちが立って警備をしていた。黒服たちは油断なくいつでもライフルを撃てるような態勢にあったが、マスターは平然とした様子で彼らの前へ進み出た。
 「ご苦労様。あたしたちは応援よ。ここの警備を増員することになったの」
 「……しかし、そのような連絡は受けていませんが」
 「えぇ、まだでしょうね。ちょっとゴタゴタしてて、アルビトロも立て込んでるから。……実は、<城>の中にイグラ参加者が紛れ込んだの。前座の試合の観客の振りをして、入り込んだらしいわ。狙いはラインでしょうね。アルビトロや他の黒服は、<城>の内部を捜索してる。で、ここは大事な脱出路だけど手が回らないから、あたしに警備の指揮をして欲しいと言って来たの。……まったく、人遣いが荒くて嫌になるわ」
 黒服たちはマスターの言い分を聞き、戸惑い顔になった。彼らは<ヴィスキオ>内でも特にアルビトロに忠実だそうだが、かといって幹部クラスのマスターの指示を聞かないわけにもいかないのだろう。
 アルビトロは脱出の際、<ヴィスキオ>でもごく一部の人間しか連れて行かないつもりのようだ。が、そのことを表立って言えば、当然取り残される者を敵に回すことになる。だから、脱出の供をする人間のことも、本人以外には言わないだろう――そんなマスターの読みは当たったらしい。警備の黒服たちは、マスターが警備の応援に来たと言ったとき、敵かと身構える様子はなかった。
 指揮権を譲らせると、マスターはてきぱきと指示を出し始めた。一見警備上のフォーメーションについての指示だったが、実はこれは脱出路確保班のメンバーを都合のいい配置に持っていくためのものだった。ユキヒトも指示を受け、ある黒服の後ろに立った。
 そうして配置を決めてしまうと、マスターは満足そうに微笑んで高らかに宣言した。

 「さぁ、お仕事よ」

 合図の言葉だ。
 ユキヒトは迷わず、手にした銃を目の前の黒服の背中に押し当てる。他のメンバーもそれぞれに定められた行動を取った。視界の端で、ユキヒトはトモユキが黒服の一人を背中から羽交い絞めにして、咽喉にナイフを押し当てている様を見た。
 裏切りだと気付いた黒服たちは、騒ぐ間すら与えられなかった。誰かが声を発するよりも先に、マスターがぴしりと言った。
 「騒がないで。騒いだらどうなるか、分かるわね?死にたくなければ大人しく従いなさい。ここの通路、明け渡してもらうわ」








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