2.





 ――<闘技場>裏手。
 観客に紛れて<闘技場>を出たユズルは、中庭の庭木の陰に潜んでいた。周囲にはユズルの他、キョウイチや源泉、ケイスケといったリン救出班とも言うべきメンバーもいて、植え込みの陰に身を隠している。
 ユズルは顔を上げ、厚く茂る植え込みの向こうにある<闘技場>の壁をにらんだ。アルビトロは<闘技場>などと洒落た呼び方をしているが、その建物はちょっとしたコンサートホールか何かを改装したものであるらしい。内部や建物の表側は<闘技場>らしい装飾もほどこされているが、こうして裏手に回れば元のホールの姿の名残が感じられる。
 植え込みの向こう側、ユズルたちと<闘技場>との間には、<ヴィスキオ>の黒服が一人ライフルを手に立っていたが、これは気にする必要はなかった。彼は<ヴィスキオ>内部にいるマスターの知り合いで、こちら側の協力者だからだ。黒服が時折肩が凝ったとでもいう風に自分の右肩を叩く、これは「待機」のサインだった。
 時が来れば、ユズルたちリン救出班は、この<闘技場>の裏側の壁を爆破で崩し、内部へ入ることになっている。あえて表の入り口を避けたのは、入り口の警備が殊に厚いからだった。それに比べて、<闘技場>の裏手はこちらに出入り口がないこともあって警備が手薄で、置かれる警備要員はたったの1名。その1名こそが、こちら側の協力者だった。
 協力者は通常通り警備に立ちながら、警備要員の間の無線連絡から<王>戦の始まるタイミングを見計らい、庭に潜んでいるリン救出班に合図を送る。それが、爆破のタイミングだ。爆破のための爆弾は既に内部の観客席と、そして協力者の手で外壁の付近に仕掛けてあった。
 用意は全て終わっている。今はタイミングを逃さないことと、爆破が成功して壁が崩れてくれるかどうかが、何よりの問題だ。
 時が経つにつれて今か今かと不安は増していくのに、目の前の<闘技場>はしんと静まり返っている。今内部はどうなっているのだろうか、とユズルは思った。まだ観客が退場しきれていないのか。或いは、もう<王>戦が始まってしまっているという可能性も、なくはなかった。<王>戦は観客なしで行われるから、試合が始まっても歓声などが上がることはない。
 もしも、協力者の黒服が試合開始の無線連絡を受け取れていないとしたら、どうなるだろう……。そんな不安を抱いたとき、傍にいたキョウイチが「なぁ」と小声で話しかけてきた。
 「合図、遅いな」
 「あぁ」
 「……あのさ、俺、気になってたんだけど、トモユキはこっちに来なくてよかったのかな。昔の仲間……リンを助けたいって言ってたのに、脱出路確保の方に行っちまって。本当は、こっちの救出班に来たかったんじゃ……」
 「トモユキは、行きたくてあっちに行ったんだ。そういう奴なんだ。喧嘩のときは、必ず誰よりも前にいる。今回の脱出路の確保は、トシマを出るなら真っ先にしなければならないことだ。脱出路が確保できてなきゃ、助け出したリンも誰も外に出ることができない。そういう役目だってわかってるから、あいつは喜々として行ったよ」
 そうか、と頷き少し考えるような素振りを見せたキョウイチは、やがてぽつりと呟いた。
 「すごいよな、トモユキもお前も。何ていうか……互いのこと信じて背中を任せ合えてる気がする。俺、今まで任せるってのは他人に丸投げするみたいに思ってたとこがあるけど、そういうのって、本当は相手を信じる度胸なんだろうな。俺は駄目だ。他の奴らも自分の役目を頑張ってるって分かってるけど、今、怖くて仕方ない」
 緊張からだろうか、キョウイチは饒舌だった。
 素直に怖いものを怖いと言える、他人を認められる。その柔軟性をユズルは眩しく思う。
 ペスカ・コシカは結束の強いチームだったが、一方では皆競い合い、互いをライバル視している風潮も強かった。そんな中では、とても素直に弱音を吐くことなどできはしない。ユズルはもともと口数が少なく弱音を吐かない性質だが、そんなチーム内の風潮には少し息苦しさを感じてもいた。
 だから、なのだろう。自分の弱さをも素直に口に出せるキョウイチとともにいると、肩肘を張らずにいられる気がする。共に行動するようになった理由も、今にして思えばキョウイチとならば素の自分でいられるから安らぎを感じていたのだろう。
 「……俺も怖いさ」
 ふと思いついて、ユズルはそう言ってみた。普段は口に出すこともない弱音だが、言葉にすることで少しは緊張が解けるかもしれないと思ったのだ。怖い、と言いながらユズルはキョウイチの言葉――相手のことを信じるのは度胸なのだ、というそれに納得する思いだった。まさに、それこそ今感じている緊張の原因であるだろうから。
 必ず、リンを連れて逃げる――それはユズルの決意であると同時に、トモユキとの約束でもある。ユズルが最後にトモユキと話したのは、各チームのリーダーがホテルのバーに集まったとき――すなわち、が処刑人に連れ去られ、そのことについて話し合ったときのことだった。
 皆が解散した後、トモユキに呼びとめられ、少しだけ話をした。そのとき、トモユキは言ったのだ。脱出路の方は任せろ、と。そして、リンのことは頼む、と。先頭を切って道を切り開くトモユキを信じること、トモユキに信頼され後を託させることは、ペスカ・コシカ以来だった。チームが解散してもうそんな信頼関係は失われたと思い込んでいたが、そうではなかった。
 たとえチームという形がなくなっても、信頼関係までなくなることはない。今更に、そのことに気付かされる。そうだとしたら、リンを助けることができれば、もとのチームには戻れなくとも――まだ、分かり合うことはできるのかもしれない。
 そのために、何があろうとも、必ず、リンを生きて連れ出さなければならない。


 「さぁ、お前さん方、そろそろ行くぞ」不意に源泉が緊張を含んだ声を発する。
 見れば警備に立っていた協力者の黒服が、こちらへ駆けて来ようとしている。協力者が植え込みに跳び込んで来ると、源泉は皆に地に伏せるように指示した。そして、手にしていたリモコンで爆弾のスイッチを入れた。
 直後、辺りをつんざくような轟音が上がる。少し遅れて爆風が来た。
 距離を置き、地に伏せて耳を塞いでいても、爆発音と爆風の威力は想像以上のすさまじさだった。軍事教育を受けて多少の知識はあるものの、ユズルたちは実際の戦場で爆風にさらされたことはない。予想外の威力に不意を衝かれる形になって、爆発からしばらくしてようやくユズルはふらつきながら身を起こす。見れば、仲間の中で既に起き上がって次の行動に入ろうとしているのは、傭兵として実際の戦場の経験がある源泉ひとりだった。
 「お前さん方、大丈夫か?」
 まだうずくまっているケイスケを助け起こしながら、源泉が尋ねる。ユズルはそれに頷き、立ち上がりかけているキョウイチに手を貸した。協力者の黒服は、助け起こすまでもなく何とかひとりで起き上がっている。
 「……上手く行ったようだな」
 協力者が呟くのに促されて目を向ければ、<闘技場>の壁は崩れ落ち、ぽっかりと穴が開いていた。穴の奥に遠く見えているのは、<闘技場>のリングだろうか。
 「皆、準備はいいか」
 銃を手にした源泉が尋ねる。
 ユズルは腰のホルダーから銃を抜いた。もちろん、自前の銃ではない。マスターが<ヴィスキオ>から密かに持ち出してきたと言って、配ったものだ。Bl@sterでもイグラでも銃の使用は禁止されていたから、手にすると違和感があるがそんなことを四の五の言っている場合ではない。
 傍らではユズル同様、キョウイチやケイスケもマスターにもらった銃を手にしていた。軍事教育を受けて一応の扱いは習っているので、2人の表情は硬いながらも銃を持つ手つきは全くの素人のものではない。
 協力者はその場で黒いジャケットの上着を脱ぎ、仮面を外した。彼もリンの救出に同行するため、混乱の中で<ヴィスキオ>側と間違われて味方に攻撃されるのを防ぐためだ。
 源泉は皆を順に見渡すと、身を翻して<闘技場>に向き直りながら言った。

 「よし、行こう」



***


 ――<闘技場>前、広場。
 そこでは集まったイグラ参加者たちが、長蛇の列を作っていた。あらかじめ<ヴィスキオ>が宣伝していた、物資の配給を受けるためだ。<闘技場>から出てくる者は既になく出入り口は警備員が厳重に固めており、最早観客の退場は完了している様子だった。
 けれど、<ヴィスキオ>の担当者は列の整理はしても、一向に配給を開始しようとはしない。列に並ぶイグラ参加者の間からは、不満の声が上がり始めている。
 (――まずいな……)
 配給の列の半ばに並びながら、トウヤはそんな状況に気を揉んでいた。
 トウヤをはじめとして、反乱に協力したチームのメンバーの大半は、この配給の列に紛れ込んでいる。そうして、<闘技場>が爆破されると同時に広場にいる警備の黒服たちを振り切って、<闘技場>の内部――ユキヒトたち脱出路確保班が確保する外への地下通路目がけて、皆で雪崩れ込むのだ。
 チームのメンバーでない多くのイグラ参加者はもちろんこの計画を知らないが、この場にいる者には行動を開始すると同時に事情を説明し、脱出を促すことになっている。また、いざとなれば事情を知らない者も人の流れに乗って、地下通路へ流れてくるだろうという公算もある。また、<王>戦を観戦に来ていない者については、南区のチームが引き受けてくれていた。南区のチームのメンバーは最初から<城>へは来ず、前座の試合が行われていた間もトシマ内を回っていた。そこで、街に残るイグラ参加者を見つけ出し、<城>へ行くようにそれとなく促すのだ。彼らは、<闘技場>の爆破を合図として、合流しに来ることになっている。
 しかし、このまま配給の開始が遅れれば、計画を知らないイグラ参加者たちが先に暴れ出すかもしれない。そうなって、広場にいる皆が<城>から追い払われたり、すっかり殺されてしまえば――<ヴィスキオ>への反乱計画は頓挫することになる。現在各自の持ち場に潜んでいる仲間たちや、囚われの身のは、敵の只中に取り残されることになる。皆を、そして何より親友のユキヒトを、何としてもそんな目に遭わせるわけにはいかないのだ。
 (――早く……早く始めてくれ……!)
 祈るように強くトウヤが念じた、そのときだった。
 不意に不満の声や野次を掻き消して、轟音が響き渡る。その音に思わず身を竦めたトウヤは、顔を上げて<闘技場>の建物を見た。この場からは陰になってしまっているが、建物の裏手――源泉たちが潜んでいるはずのまさにその方向から、煙が立ち上っている。
 束の間呆気に取られて静まり返った後、何かが起きたことを理解して、事情を知らないイグラ参加者たちが騒ぎ始める。場が騒然とする中、ざわめきを圧するように一声、毅然とした声が上がった。
 「行動開始だ!取り合えず“障害物”を蹴散らせ。<闘技場>への道を作るんだ!!」
 見れば、列の前方に並んでいた北区のチームが、行動を始めていた。リーダーのトモユキはおらず、指示を出しているのは副リーダーのタカハシだった。もともと大所帯のチームで集団行動に慣れているのだろう、動き出したチームのメンバーの息が合っている。
 しかし、その場にいる多くの人間は計画のことなど何も知らない一般のイグラ参加者であるから、まだ混乱は続いていた。
 この状況を利用して、皆が戸惑っているうちに流れをこちらに引き寄せられるかもしれない――ふとそう思いついたトウヤは、チームのメンバーに指示を出す傍ら、周囲へ向けて叫んだ。
 「<ヴィスキオ>は<闘技場>の中に外への地下通路を隠してるんだ!内戦が始まればトシマは焼かれる。トシマを出るなら、旧祖を通るより地下通路の方が安全だ。皆、地下通路を目指せ!!」
 途端、戸惑っていたイグラ参加者たちが、半信半疑といった様子ながらも意思を持って行動を始める。計画を知るチームのメンバーの動きに倣って、<闘技場>の前に立ち塞がる黒服たちに組み付き、“道”を作ろうとする。
 辺りはたちまち混戦状態になった。事情を知らない者の中には、何かを勘違いをして傍にいる他のイグラ参加者に殴りかかる者もあったほどだ。トウヤは黒服を殴り倒しては、仲間たちに指示を出し、その合間に「地下通路を目指せ」と声を上げ続ける。いつしかチームの仲間や他のチームも同じように声を上ていて、混乱状態は収束しつつあった――黒服対イグラ参加者という方向に。
 と、しばらくすると<城>の建物から黒服たちがライフルを手に、駆けつけようとしているのが見えた。増援だ、と頭では理解したが、対処しようにも身動きが取れない。数ではこちらが勝っているものの、黒服たちは皆銃を持っており、ナイフなどしか持たないイグラ参加者たちは一人また一人と銃弾に倒れている。形勢は依然として<ヴィスキオ>側にあり、あくまで<闘技場>の前に立ちはだかる警備員たちから意識を逸らすわけにはいかないのだ。それに、各チームは今やイグラ参加者の集団の中にあり、その中から離脱することもできない。
 しかし――このままでは、挟み撃ちにされる。
 歯噛みする思いでトウヤが増援を睨んだときだった。<城>の表門の方から庭を抜け、こちらへ向かってくるイグラ参加者の一団が見えた。その先頭は、トシマを回って居残ったイグラ参加者に<城>へ行くよう促していた、南区のチームだ。南区のリーダは状況を一瞥すると、すぐにチームのメンバーに指示を出して増援の黒服たちと対峙する。
 これで背中は任せられる。ほっと息を吐く思いで、トウヤは<闘技場>の方へ向き直った。南区のチームが増援に対応してくれているとはいえ、黒服たちは銃を持っているから安心はできない。こちらの被害を抑えるために――『出来るだけ多く、出来れば誰一人残らず逃げ延びる』ために――一刻も早く出入り口を守る黒服たちを突破しなければならない。
 (そうだぜ……早くユキヒトの奴と合流してぇもんな)
 出入り口を睨み、トウヤは黒服たちを突破することだけを考えることにした。


***


 ――<城>裏手。
 グエンとエマはビルの陰に立ち、通りをはさんで向かいにある<城>の裏門の様子をうかがっていた。
 間に横たわる道路は道幅が広く、戦前はさぞ往来が盛んであったことを思わせる。けれど、今はあちこち舗装が剥がれて見る影もなく、閑散としている。そんな中、向かいの高い塀の向こう側、<城>の敷地内から風に乗って聞こえてくるざわめきが、静けさの中でやけに悪目立ちしていた。
 「……やけに騒がしいな」エマが不審そうに眉をひそめる。
 そこでグエンは、今日が<王>戦の日なのだろうと告げた。グエンはプルミエについての情報を得るため、これまで何度となくトシマに潜入したことがある。トシマの内情についての知識も、多少は持っている。
 <王>戦は、トシマにおいては娯楽のようなものだ。普段は息を潜めているイグラ参加者たちも、このときばかりは<闘技場>へ集まり、非公開の<王>戦の代わりに前座の試合を観戦して楽しむ。そう説明すると、エマは厳しい表情で「下らない」と吐き捨てた。
 「本当に下らない馬鹿騒ぎだな……<城>へ潜入するぞ、グエン。餌につけた発信機は、<城>の中にある」
 エマの言葉に、グエンは思わず目を見張った。
 <城>に多くの人間が集まっていれば、潜入したときそれだけ発見される可能性が高くなる。そう説得しても、エマは彼の意見を聞き入れようとはしない。<王>戦の前座を公開しているならば、そちらの観客への対処で<城>の内部は警備が手薄になっているはずだ、裏門へ近づこうとする。
 慌ててグエンはエマの腕を掴んで引き止めた。すると、彼女はぱっと振り向き、グエンを睨み据える。常日頃の冷静さからは想像できないような、激情に染まった瞳だった。その眼差しに一瞬怯みそうになるのを踏みとどまって、グエンは意見するというよりは宥めるような調子でエマに語りかけた。
 「待つんだ、エマ。冷静になれ。我々は奪われた餌を深追いしすぎている。発信機は<城>の中にあり、それを所持していた餌の安否も知れない。プルミエが確実に現れるとも限らない。こんな不確かな状況で、動くわけにはいかない。ここは退いて、代替プランに移るべきだ。――普段の冷静な君ならば、そう判断するはずだ。こんなやり方は、君らしくない」
 「私らしくない、だと?お前に私の何が分かる!?プルミエは必ず現れる。餌が危機に陥れば、そうせずにはいられないんだ。私には分かる!なぜなら、非nicolはプルミエにとって――、」

 「あの男にとって、最後に残された唯一の希望なんだ

 そのとき、不意に爆発音が響き渡り、血を吐くように切実なエマの言葉を掻き消した。
 予想外の事態に束の間呆然とした後、グエンははっと我に返って顔を上げる。見れば爆発があったのは、<城>の敷地内にある<闘技場>のようだ。
 と、そちらに気を取られていたグエンの手を振り払い、エマが銃を抜いた。グエンが止める間もなく、彼女はビルの壁に身を隠しながら、裏門の警備員に向けて立て続けに発砲した。エマの銃弾は警備員の一人に中ったらしく、倒れる仲間の姿に爆発で混乱していた警備員たちは更に騒然となる。
 グエンは唇を噛みながら、自分の銃を抜く。壁に身を隠しながら発砲を始めれば、エマがちらりと彼の顔を見て、けれど何を言うでもなく前方に視線を戻した。
 そうして、しばらく銃撃戦を続けるうちに、裏門にいた警備員のほとんどは死亡して、或いは負傷して、アスファルトの上に転がっている状態になった。一部の警備員は既にどこかへ逃げてしまっている。爆発の混乱に乗じた形で、裏門の制圧はあっけないほどの速さだった。
 裏門にまともに動ける警備員がいなくなると、エマはビルの陰から裏門へ向かって走り出す。グエンがついてくると確信しているというより、一人でも行かねばならないのだと言っているような、毅然として孤独な背中だった。
 それを見捨てることは、できなかった。
 グエンはエマの背を追って、裏門へと走った。


***


 ――<闘技場>内部。
 シキはリンと対峙していた。観客のいない<闘技場>は閑散として、数名の黒服とアルビトロ、そして処刑人のキリヲがいるだけだ。いざ闘いが始まれば、その存在もどこか遠く、意識の外になった。
 アルビトロが<王>戦の開始を告げると共に、早くもリンはスティレットを手に斬りかかってきた。体調が悪く自らの体力がもたないことを予感しているのだろう、無言でたたみかけるように性急に攻撃を仕掛けてくる。シキはそれを刃で受け、或いはかわしながら、リンの腕が先日の雨の日よりも格段に劣っているのを感じた。
 動くにつれて、リンの左腿に巻かれた包帯に血の色が滲んでいくのが見える。先日シキがつけた傷が、まだ塞がっていないのだ。
 (傷ひとつで身の程を弁えていればよかったものを――)子どもの遊びのように遅く軽いリンの一撃を刃に受け止めながら、シキは思う。(だが……そこで諦められるような性質ではないな)
 敵わぬ相手にも退くことをしない。斃すまで何度でも挑みかかる。その愚かさに、不意に激しい苛立ちを覚えた。あぁ、そうだ。あの家を捨て、己につながる過去を捨てても、結局のところアレは血のつながった兄弟だ。互いに生きている以上、そのことから逃れることはできないのだろう。nを追い続ける己、己を追い続ける弟――やはり血は争えない、よく似ている――嫌気がさすほどに。
 不意に腹の底でかっと怒りが閃いた。
 いまだnを斃せない己への。己によく似た醜態を晒す弟への。屈辱を与えたまま逃げ続けるnへの。様々なものへの怒りと共に、シキは受け止めたリンのスティレットを激しく弾き返す。それだけでもリンは体勢を崩し、シキの剣撃だけは辛うじてスティレットで受けつつ、その重さに吹きとばされてリングの床に身を投げ出した。
 けれど、シキはそこで容赦はしない。倒れたリンに止めを刺すべく、刀を握る手に力を込める。そのとき。

 『――それでも、あなたたちが殺し合うのは嫌なんです』

 ふとの言葉が蘇る。弟を殺せば、あの女はまた泣くのだろう――アパートの一室でこちらの手を拒んだときのように、背を向けてひとりきりで。その映像がまざまざと脳裏に過ぎり、シキは一瞬だけ動きを止めた。
 次の瞬間。
 爆風と轟音と共に、ちょうどリンの背後に見えていた壁が崩れ落ちる。何者かが爆弾を使ったのだろう。<闘技場>内にいた黒服たちは俄かに騒然となり、シキはリンとの闘いに没頭していた意識を浮上させた。
 「何だこれは……!まさか、内戦が始まったのか!?お前たち、何がどうなっているのか状況を確認しろ……!」
 アルビトロがヒステリックに叫ぶ声が、黒服たちの間に広がるざわめきを引き裂いて響き渡る。そんな中、シキとリンは騒ぎに動じることなく、いまだ対峙していた。リンはリングの床に座り込んだまま、シキを見据えている。息も整わないというのに、それでも震える腕で再びスティレットを構えようとする。シキはその様子を冷然と見下ろしていたが、やがて手にした刀を振り上げようとした。
 そのときだった。
 崩れた壁の穴から5つのシルエットが駆け込んでくる。銃を手にした彼らは、見ればイグラ参加者のようだった。先頭にいるのはトシマの街中で何度か見かけたことのある、源泉という中年の情報屋だ。イグラ参加者の暴動か、アルビトロはトシマの管理を誤ったらしい――シキがそう思う間にも、源泉ともう一人青いつなぎの男がリングに駆け上ってくる。他の3人は観客席の辺りに留まり、混乱から我に返って侵入者に対応し始めた黒服を相手に、銃で応戦していた。
 「リン……!」と青いつなぎの男が叫ぶ。
 そこでリンは初めて駆け寄ってくる2人に気付き、はっとした表情になった。
 「ケイスケ、おっさん……なんでここに……!?」
 「お前さんを助けるために決まってるだろうが!」
 「嫌だ!俺は今度こそコイツとケリを着けるんだ!カズイと仲間たちの仇を……!!」
 青いつなぎの男――ケイスケと源泉が助け起こそうとすると、リンは暴れて2人の腕を振り払う。そんなリンの態度に、「状況を見ろ!」と不意に源泉が一喝した。
 「いいか、リン。それにシキ、お前さんもよく聞け。……とアキラがアルビトロに囚われた。アルビトロは<城>の地下にある通路からトンズラするつもりで、<城>を爆破する計画を立ててたんだ。俺たちはそれを知って、計画に先回りして通路を奪おうとしてる。表や地下通路の辺りではトシマの連中と<ヴィスキオ>が交戦中だ。早くとアキラを取り戻さないと、混乱の中で2人がどうなるか分からん。争ってる場合じゃない」
 「なぜ俺に言う」明らかに己まで味方に含める口振りに、シキは眉をひそめる。
 「なぜも何も、はお前さんの恋人だろうに。そんな言い方するなよ。地下通路を奪うこととを思いついて、イグラ参加者に協力を呼びかけて回ったのは、あの子だ。芯の強いいい子じゃないか、大事にしろ」
 「――……あんな女のことは、俺は知らん」
 吐き捨てるように言って、シキはアルビトロへ向き直った。「下衆が。大した能もない癖に、下手な小細工だけは一人前だな」そう言いながら一歩近づく。すると、リングの端で喚き散らしていたアルビトロは震え上がった。
 「違う!……誤解だ……っ!君ともあろう者が、その薄汚い情報屋の嘘に惑わされるのか!?」
 「さて……俺には貴様の態度こそ、真実を裏付けているように思えるがな」
 「ひっ……!!」
 もう一歩シキが近づくと、アルビトロは後退しようとして体勢を崩し、その場で尻餅をつく。と、そのとき観客席からすっと歩み出て、アルビトロの隣に立った者があった。これまでずっと気配を殺し、沈黙を守っていたキリヲだった。愛用の鉄パイプを肩に担ぐようにして持ち、それで小刻みに肩を叩いている。その度に鉄パイプに取り付けられたタグの束が擦れ合って、リズムに合わせてチャリチャリと鳴った。
 「そうだ、キリヲ!私を守るんだ!」
 味方を得たとばかりに、アルビトロがいつもの勢いを取り戻す。
 しかし、当のキリヲはアルビトロの命令に軽く肩を竦めただけだった。
 「だってよォ。正直、俺ァんなことはどうでもいいが、シキ、遊ぶんなら俺と遊ぼうぜ。弱ぇ奴をやっても、つまらねぇだけだろ」
 「狂犬に用はない。そこをどけ」
 「用はない?そりゃぁどうだろうな?じきに、俺に用がある気分になるかもしれねぇぜ……たとえば、これを見たりしたらなぁ」
 そう言いながら、キリヲは上着のポケットから何かを取り出した。銀色のロザリオだった。「お嬢さんからの預かりもんだ」と、キリヲはロザリオの鎖の端を摘まんで持ち、見せ付けるようにゆっくりと揺らす。
 かって、己があのアパートの一室で投げ捨てたロザリオ。まさか、はわざわざそれを拾い、持っていたというのか――。
 軽く目を見張るシキに、キリヲはにやりと笑ってみせた。
 「トシマを出る前に、オメエとは一遍本気で殺り合いたかったんだ。本当なら、血に狂ったオメエと遊びたかったが、まぁ、この際贅沢は言えねぇよな。あのお嬢さんの居所が知りたきゃぁ、俺と闘えよ。……あぁ、早く行かねぇと、ヒヨの奴が浚って行っちまうかもしれねぇ」
 「こら、キリヲ!!人質の居所を教えるつもりか……!?」
 アルビトロがはっとして声を上げる。
 それを黙殺してキリヲがリング上に踏み出す。<王>と処刑人が対立するという異様な事態に、その場にいた者は皆戸惑い、動きを止めて成り行きを見守っている。シキは静かに佇んだまま、リング上を進み出てきたキリヲに相対した。
 キリヲは、シキが構えこそ取らないが臨戦態勢に入ったことを悟ったのだろう。嬉しそうに凶悪な顔つきで笑みを深くする。
 「俺と遊ぶ気になったかよ?よっぽど大事なペットらしいな、あの女は」
 「ペット?違うな。あれは――」

 『のことを頼む…守ってやってほしい』あのアパートの一室で、告げられた言葉が蘇る。
 託すと言ったのは、最初は己にもにも敵意を示していた男だった。けれど、いつの間にか男の態度は変化していた。無理にnの話を聞きだそうとしたときには己からを庇ったり、彼女に情を感じているようだった。その男が最後にのことを己に頼んだ、その言葉の重さを今更ながらに思う。
 無関係でもなく、支配でも、所有でもなく。
 己との関係を言い表すものは、結局、“それ”なのだろう。

 「――あの女は、俺に託されたものだ」

 答えを聞くと、キリヲは理解できないというように肩を竦めた。「オメェも、まぁ、すっかり牙を抜かれちまったもんだな。まぁいいけどよ……そろそろ始めようぜ」キリヲはロザリオを摘まんだ右手を顔の高さに掲げると、見せ付けるようにゆっくりと鎖から指を離した。
 ロザリオは重力に従って落下していき――やがて、リングの床にぶつかって小さな音を立てる。

 それが、合図になった。








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