4.
俺も行く。 リンが叫ぶと、通路に向かいかけていたシキが足を止めた。シキは振り返り、何かを言いかける。けれど、その言葉が口に出されることはなかった。不意に厳しい表情になって、シキは再び<城>の本館へ続く通路へ目を向ける。次の瞬間、その身体が、ステップを踏むように軽々と後方へ跳び退いた。 直後、シキがいた場所を数発の銃弾が撃ち抜く。 その様子を、リンは呆然と見ていた。 通路を守っていた黒服たちは、先ほどシキが片付けたところだ。が、すぐに増援が到着したのだろう。これほど混乱した状況でも、すぐに増援を出すことのできるのは、さすがに<ヴィスキオ>がそれなりの規模の組織で、命令系統などもしっかりしているということなのだろう。その意外な手強さに、リンは小さく舌打ちした。所詮は三流悪役らしいアルビトロ中心の組織と思って、甘く見ていたのが不味かったか。 本館へ続く通路からの銃撃は、まだ断続的に続いている。 増援の黒服たちは、通路から出て来ようとはしない。壁に張り付くようにして、<闘技場>内部へ向かってライフルを撃ち続けている。しかも、その銃口はシキばかりを狙っているようだ。そのことに気付き、リンはぎくりとした。今はかわせているからいいが、いつか銃弾がシキに中ってしまうのではないか。そんなことになったら――と、一瞬浮かんだ不安には気付かなかったことにする。 リンは冷静な振りをしながら、源泉たちを振り返った。源泉は傍にいて、嘔吐してうずくまるケイスケを介抱しているところだった。その二人を急かして、リンたちは三人で物陰に身を隠した。たとえシキが狙われているとはいえ、いつ標的がこちらに切り替わらないとも言えないのだ。油断はできない。 「おっさん……通路の奴ら、シキばっかり狙ってない?いちおう、アイツ、ヴィスキオの親玉なのに何でだろ」リンは言った。 「あぁ……この場にいなかった奴らには、シキがアルビトロに逆らったことは分からんはずだが……――そうか!」 「何?」 首を傾げるリンに源泉が説明するには、黒服たちは警備の際連絡を取り合うのに無線を使っているのだそうだ。また、<城>の各所には監視カメラも取り付けられている。増援の者たちは<闘技場>内でのシキとキリヲの闘いに立ち会ったわけではないが、無線連絡や監視カメラの映像から、何が起ったかを知っていてもおかしくはない。もちろん、シキがこちらの味方についたというわけではない。それでも、シキのキリヲとの闘いやアルビトロとのやり取りから、黒服たちはシキが敵に回ったと判断したのだろうというのが、源泉の推測だった。 ともあれ、この状況ではアキラたちのもとへ行くこともできない。 リンは焦る気持ちを抱えながら、シキの様子をうかがった。 増援の黒服たちの銃火は、相変わらずシキへと向けられている。シキこそ最初に取り除くべき、一番の危険だという認識があるのだろう。いくらシキといっても、一人からの銃撃なら易々とかわせる程度でも、数が増えればそういうわけにもいかなくなる。本館への通路に近付こうとしても近づけず、シキは客席の陰へと跳びこんだ。それでも諦めずに隙をついて物陰を出て通路へ近付く素振りを見せるが、銃弾で牽制されて動くことができないようだった。 牽制されて近づけないのに、それでも諦めず出て行こうとする。シキのその行為に、リンはシキの焦りを見た気がした。それも当然だろう。という女のことをリンは知らないが、シキは彼女を「託されたもの」だと言っていた。シキが女のことを――いや、それ以前に他人のことをそんな風に言うのを、リンは初めて聞いた。その女へのシキの執着が並大抵のものではないということは、すぐに分かった。 この状況は、いつまでも続けられるものではない。 いつかシキは焦りに負けて、早まった行動に出るかもしれない。そして、銃弾を受けることだってあり得ないことではない。だってシキは――リンは務めて冷静に考える――あれでも、鬼や悪魔ではなく一応は人間なのだ。 何か。何か状況を変えることはできないか。 辺りを見れば、先ほど源泉たちが入ってきたときに応戦した黒服たちは、<闘技場>の中にはほとんど残っていないようだった。銃撃戦の際に生命を落した者、負傷した者たちが倒れているばかりだ。他は爆破でできた壁の穴や<闘技場>の出口へ続く通路から、逃げ出したらしい。出口への通路の前にだけ、逃げなかったのか遅れたのか、黒服が数人残っている。 その黒服たちとイグラ参加者らしい3人が、銃を撃ち合っている。源泉と共に<闘技場>へ入ってきた3人の中に、よく見ればリンの見知った顔があった。 「ユズルがいる……」リンは呟いた。 「あぁ……皆がお前さんのことを心配して、救出の段取りを手伝ってくれたんだ。特に、お前さんのペスカ・コシカ時代の仲間、ユズルやトモユキはよく働いてくれた」 「嘘でしょ……?」 「嘘なもんか。その証拠にユズルがここにいるだろうが。トモユキも、ここじゃないが、<城>に来てる。あの通路の向こうに、旧祖への抜け道があるんだ。トモユキは、それを確保するグループにいる」 信じられないと絶句したリンは、次の瞬間はっとして顔を上げた。 「ってことは、おっさん、出口の通路の前にいる黒服を倒せば、その先の通路にいるのは味方ってこと?」 「いや……現時点では何とも言えんな。トモユキたちはまだ、黒服たちから通路を奪えていないかもしれない。<闘技場>から通路へ出ることができたとしても、いるのは敵なのかもしれん」 源泉の言葉に、リンは考え込んだ。 <城>への通路は守りが堅い。壁の穴から外へ出れば、<城>の本館へは遠回りになる。だが、もし、<闘技場>を本来の出口から出たなら。<闘技場>の出口は、中庭を挟んで<城>の本館の向かいにある。<闘技場>の出口から出て、中庭を突っ切っていくならばどうか。<闘技場>から本館への直通の通路を通るよりは遠いが、それでも黒服たちの弾切れを待って突破するよりは、早いかもしれない。 もちろん、出口への通路の前にいる黒服たちも、銃を持っている。けれど、こちらは黒服たちも身を隠す物陰がほとんどなく、人数もさほど多くはない。ユズルたちの支援があれば、自分とシキが接近して黒服を倒し、道を作ることもできるはずだ。その考えを口に出すと、源泉は「とんでもない!」と眉をひそめた。 「ダメだ、そんなのは危険すぎる」 「そうだよ……皆リンを心配して助けに来たんだって、聞いただろ?そのリンが生命を危険にさらすなんて、皆、悲しむよ……もちろん、俺やアキラだって」とケイスケも横から口を挟む。 「だけど、他に方法がないんだ」 ケイスケや源泉の言うことは、リンにも理解できた。けれど、それを聞き入れるわけにはいかなかった。 失えない、と思ったものがあるとする。それを守れなかったら、人はどこか歪んでしまうのだ。生命があればいい、自分が傷つかなければ平穏に生きていけるというわけではない。リンは仲間やカズイを失って初めて、そのことを思い知った。 だから失った仲間の代わりというわけではないが、今度こそアキラを救いたいと思う。もしまたアキラを救えなければ、今度こそ自分は前を見て歩いていけなくなる。だから。 「危険でも、俺はやるよ」 リンはそう言って、顔を上げた。 問題は、シキが手を貸すかどうかということだ。おそらく貸すだろう、とリンは考えた。他のことはともかく、戦闘に関してシキが最も効率のいい方法を選ばないはずがない。その確信から、リンは源泉が止めるのも聞かず、シキの名を呼んだ。そのときだった。 にわかに<闘技場>の扉付近が騒がしくなる。その前に集まっていた黒服たちを蹴散らして、数人がなだれこんで来る。その先頭に立つのは、リンも顔見知りの相手だ。没個性的な黒いスーツを身に着けているが、特徴的な橙の髪は見間違えようがない。 ――トモユキ。 その姿を見た途端、ぎしりと胸が軋むような音を立てた。 息を呑むリンの目の前で、トモユキは持っていたライフルの銃身で黒服を殴りながら、声を張り上げる。その内容に、リンは心臓が止まりそうになった。 「リン!無事か……!?」 「これは嘘じゃないのか……トモユキまで俺の心配を」リンは呆然と呟く。 「だから言っただろうが。……ペスカ・コシカのことは、ユズルから聞いてるよ。お前さんが一人で辛い思いをしてきたってこともな」 「辛くはなかったよ。カズイや仲間たちは、もっと苦しかったはずだ。それに比べたら、俺はまだ生きてる」 「……そういう風に言っちゃダメだよ、リン」 源泉に介抱されていたケイスケが起き上がっている。一度嘔吐したものの、休んで少し回復したようだ。ケイスケは以前とは別人のように真っ直ぐな目で、アキラを見つめた。 「皆、いろいろあったけど、それでもリンに生きて欲しくて助けに来たんだ。それはきっと、リンがアキラを助けたいと思ったのと同じ気持ちだと思う。だから、考えてみて。自分が守りたいと思った人が、生命なんかどうでもいいんだって言った……リンはどう感じる?リンの生命と引き換えに助けたって、アキラはきっと喜ばないよ」 そんな風に仲間面しながら、皆離れていくんだ。そう皮肉をこめて言おうとしたリンだが、結局できなかった。ケイスケの言葉を聞いた途端、熱い塊が胸に込み上げてきて、のどが締め付けられたようになる。カズイたちを失って、生き残った仲間たちからも冷たい目で見られて、それからは一人で生きてきたつもりだった。けれど、それでもやはり自分は一人では生きていたわけではないのだ、という感覚がすとんと胸に落ちてきた。 他人の行動一つ、言葉一つで他人を信じたくなるのは、きっと自分の甘さであり弱さだ。その反面、自分の中に傷つきたくなくて、他人を疑ってばかりいる小心な部分があることも分かっている。今一時一人ではないと感じたとしても、いつかまたその思いを裏切られるのではないかと、怯え続けている。 それでも、源泉やトモユキたちが助けに来てくれて、素直に嬉しいと感じた。 かつてシキにも指摘された自分の甘さ。一人でいることができなくて、仲間を求めて。その甘さや弱さを含めて自分なのだと分かったら、少し楽になった気がした。受け入れたというよりは、諦めがついた。 リンは少し苦笑してケイスケに頷くと、身を隠していた物陰から立ち上がった。「トモユキ!ユズル!」と叫んで手を振れば、途端に銃弾が数発飛んで来る。<城>の本館へ続く通路に潜む黒服の一人がリンの動きに気付き、銃で狙い撃ったのだ。が、距離が遠すぎるのか、銃弾はことごとく外れ、リンには掠りもしなかった。 狙い撃たれても、リンは怯みもせずにその場に立っていた。 そのうち銃声の中、トモユキがこちらを振り返った。トモユキはリンを目にして軽く目を見張ったが、その表情はすぐに笑みに取って変わった。作り笑いとは違う、心からの笑顔。かって仲間として過ごしたリンには、それがトモユキの本心からの表情だということは、すぐに分かった。 トモユキは手にしたライフルを高く掲げてリンに応えると、闘技場の中へ視線を戻した。そして、抵抗を続ける黒服たちに向かって叫ぶ。 「おい、<ヴィスキオ>の奴ら!アルビトロはこの<城>を爆破して、自分だけ旧祖の外へ逃げるつもりだ。その外への脱出路は、俺たちが占拠した。これ以上死傷者を出すのは、こっちの本意じゃない。投降するなら生命は獲らない、一緒に脱出路を使わせてやる。銃を捨てて、抵抗を止めろ!」 <闘技場>内に、朗々とトモユキの声が響く。マイクも何も使わない肉声であるにも関わらず、トモユキの声は銃声にも負けずに<闘技場>内の人間に届いたようだった。トモユキの申し出に迷うように、少しずつ重なり合う銃声が減っていく。 「まさか、<ヴィスキオ>の奴らもトシマから逃がしてやるの?」 トモユキの言葉に驚いて、リンは思わず口に出してそう言った。 敵に情けをかけるなど、これまでのトシマの状況からでは考えられない類のことだ。<ヴィスキオ>とイグラ参加者、イグラ参加者とイグラ参加者――それらの関係は、これまで対立こそあれ、決して相手を受け入れ協力できるようなものではなかったはず。 そんなリンの疑問に答えたのは、源泉だった。 「今は勝者だ敗者だ、誰が強いだ何だって、言ってられるような状況じゃないんだ。皆と一緒にトシマから出たいって奴は、脱出路を使ってもいいことになってる。――出来ることなら誰一人欠けることなく、それが駄目なら一人でも多く生きてトシマを出られるように。この計画に関わった人間は、まぁ、そういうつもりで動いてるんでな」 「出来ることなら誰一人欠けることなく、それが駄目なら一人でも多く……そんなの甘いよ」 「計画を思いついた、の考えさ」 また出てきた、という名。シキの恋人であり、トシマ脱出計画を考えたともいう彼女の人物像が、話に聞けば聞くほど分からなくなる。シキと親しいならば、イグラ参加者など見下していてもよさそうなものだ。それなのに、彼女はシキが切り捨てるような甘い考えで、主にイグラ参加者を救うであろう計画に手を貸した。 一体、どんな女なのか。 頭の片隅に浮かんだ疑問を振り払って、リンは思い切って物陰から跳び出した。背に源泉の制止の声が聞こえるが、構わずにトモユキたちの元へと駆ける。傷ついた左足のせいで進む速度は普段より遅いが、黒服たちの銃撃が多少減っていたため、弾に中ることはなかった。 トモユキは、既に物陰から出てきていたユズルや他の2人と、話しているところだった。そこへ近付いていくと、トモユキはリンが来たことに気付き、ふと表情を和らげた。 「リン……無事でよかったぜ」 「うん……――トモユキ、ユズル……俺を助けに来てくれたって、おっさんから聞いたけど……」 すると、トモユキがぎこちなく頷いた。お互いに、顔を見た瞬間は感情が先立って、素直に再会の喜びを表すことができた。けれども、冷静になるとこれまでのことがわだかまりになって、気まずさを感じてしまうのだ。 「ところで、<王>は?」 空気のぎこちなさを振り切るように、唐突にトモユキが言った。 「ユズルに聞いたけど、<王>ってあのシキのことだったんだろ?お前、よく今も生きてるな。シキは……死んだのか?」 どうやらユズルは、その辺りの事情をまだ説明していないらしい。リンがユズルに目を向けると、ユズルは自分も知らないのだと首を横に振った。 「俺たちは、途中から黒服を牽制するので手一杯だったんだ。お前たちの方を見ている余裕はなかった。だから……」 と、そこでユズルは言葉を切り、ある方向に目を向けた。そのユズルの表情には、はっきりと驚きが表れている。ユズルの横にいたトモユキやキョウイチも、呆然とユズルと同じ方向――リンの背後を見つめている。不思議に思ったリンが振り返ると、銃弾を避けて物陰にいたシキが、そこから歩み出る姿が見えた。 シキはこちらに一瞥を寄越しただけで、出し抜けに床を蹴って疾走した。減ったとはいえまだ飛び交う銃弾をかいくぐって、リング上を走り抜ける。シキはそのまま<城>の本館への通路に跳び込むと、抵抗を続ける黒服たちを鞘に入ったままの刀で次々に打ち倒してしまう。その鮮やかな動きに、リンは束の間目を奪われていた。 あっという間に、シキが黒服数人を打ち倒す。すると、残りの黒服たちは、諦めたように抵抗を止めた。<闘技場>内は銃声が消え、妙に緊張感を孕んだ静けさが訪れた。そんな中、シキが<城>の本館への通路の入り口に立ち、振り返る。 紅い双眸が、真っ直ぐにリンを見つめる。 シキは、何も言わない。 それでも、リンには分かった。シキはついて来るのか来ないのか、改めてこちらの意思を確認しているのだ。それなら、自分の答えは一つしかない。 「――今行く!」 叫ぶリンにトモユキが慌てる。 「おい、あれはシキだろ!?行くって、どこへ?」 「アキラが……友達がアルビトロに捕まってるんだ。だから、助けに行く。アキラを置いて逃げられないよ。シキは自分の女を人質に取られてるらしいから、あいつについていけばアキラのところへ行ける」 「シキの女……のことか」考え込むように俯いたトモユキは、やがて首を横に振った。「やめとけよ。確かにやお前の仲間には助かって欲しい。けど、シキがお前を殺さない保証はないだろ。それに何より、シキは仲間の仇だ。お前を殺さないっていう保証もない。お前にもしものことがあったら……」 「悪いけど、行かせてほしい。俺はカズイや皆を守れなかった。今またアキラを守れないまま逃げたら、きっと、俺は二度と自分のことを許せなくなる」 真っ直ぐにトモユキを見つめて、リンはそう言った。その視線を受けて、トモユキはなおも納得いかないという表情で口を開く。けれど、そのとき傍にいたユズルがトモユキの肩を掴んでそれを止めた。 「行って来いよ」ユズルは言った。 「ユズル!?何言ってやがる!?」トモユキが慌てる。 「いいじゃないか。――リン、お前が行きたいなら、行くべきだと俺は思う。お前は死んだ仲間のために、ずっと闘ってきた。だけど、もう解放されたっていい頃だ。今、仲間を助けに行くことで、お前が過去から解放されるなら、行けばいい。俺たちは、仲間殺しの罪をお前に着せて、自分たちだけ楽になってたんだ。だから、今お前の選択を否定する権利なんかない。……ただ、必ず生きて帰ってくれ。それだけは、約束だ」 「……約束する」 リンは頷くと、身を翻して走り出す。銃声の止んだ静けさの中を駆け、<城>の本館へ続く通路の前へ辿り着く。 意外なことに、シキはまだその場にいて、リンを待っていた。また、先ほど物陰にいた源泉とケイスケも、通路の前にいた。二人は、リンがトモユキたちと話している間に、移動してきたらしかった。 源泉は、床に転がる負傷者を、やけに慣れた手つきで介抱しているところだった。ケイスケもまだ顔色が悪いが、それでも気丈に源泉の手伝いをしている。リンが行くと、二人は顔を上げ、それぞれの面持ちでリンを見た。 「やっぱり行くか。オイチャンもついて行きたいところだが、行っても足手まといになるし、ここに気絶してる奴らも放っておくわけにいかんのでな。気をつけて行け」 そう言う源泉は、心配そうな顔をしていた。 「俺も、行きたいけど、やっぱり邪魔になるから。……アキラやさんを助けてあげて。だけど、無理はしちゃ駄目だよ」 ケイスケは明るく笑っていたが、少し悲しげでもあった。幼馴染として、殊にアキラのことは心配でならないはず。出来れば一緒に行きたいという気持ちを、必死に抑えているのだろう。 二人の表情を見て、リンは何も言わずただ頷いた。そのときだった。 「行くぞ」 短くシキが促し、返事を待たずに走り出す。リンは表情を改め、その背中を追った。 *** ケイスケは、リンとシキの姿が通路の奥に消えるまで、二人を見送っていた。そこで、ふと視線に気付き振り向けば、源泉がこちらを見ている。 「何ですか、源泉さん」 「いや、てっきりお前さんはアキラを助けに行きたがると思ったが」 その言葉に、ケイスケは苦笑した。 「確かに、行きたいです。でも、リンやあのシキって人の闘いを見てたら、分かりました。俺は言っても足手まといになるだけだって。だから、俺はここで自分にできることをします」 リンにはリンの、自分には自分のできることがある。 そう思ったところで、ケイスケはふと以前の自分について考えた。以前はそんな風に、そのとき自分にできることをしようと考えることは、できなかった。たとえばアキラと同じくらい闘えないのは、自分が駄目な人間だからだとしか思えなくて、辛くて。そうして勝手に暴走して、アキラを傷付けた。 今もまだ少し、自分がろくに闘えないことを不甲斐なく思う。 それでも、自分もリンもアキラも他の誰かも、皆、別の人間なのだ。できることとできないことが違うのは、仕方のないこと。だから、自分に出来ることをするしかない。もう二度と暴走して誰かを傷付けないように、自分に言い聞かせて、ケイスケは目の前の作業に集中する。 (リン、アキラ…俺は、何があっても待ってるから) *** グンジは鉤爪をはめた手を振り上げたまま、動けないでいた。本来その鉤爪を振り下ろしているはずの場所には、女がいる。鉤爪を受ける危険に気がついていないことはないだろうに、女は逃げる素振りを見せない。怯えた様子さえなく、ただじっとグンジを見ている。 ――殺せ!女を殺せ! 頭の中では、先ほど電話で伝えられたアルビトロの命令が、ぐるぐると回っている。まるで呪詛のようなその声音に、呑み込まれて従いそうになる。けれど、一方でグンジの中に微かなためらいも生まれている。人を殺すことへのためらい。そんなものは長い間知らなかった。それを知ったのは、つい最近のことだ。 ずっと血と悲鳴だけが、グンジの愉しみで糧だった。自分が楽しみたくて、生きていることを実感したくて、好きで暴力を振るった。時には他人の生命を奪った。そうして戦争が終わる頃には、グンジは血と悲鳴なしには生きていけないような有様になっていた。平和になり、血と悲鳴が日常から遠ざかり、それを求めてグンジは処刑人の仕事に就いたのだった。 けれど、最近になって、血や悲鳴よりもグンジの興味を引く人間が現れた。 トシマの路地裏を這う、ちっぽけなネズミ――という名の青年。他人を庇って傷ついて、敵対したくせにこちらを助けて。そして、結局どこかへ消えてしまった。 が消えてからというもの、グンジを拳を振るう瞬間に考えるようになった。はこの暴力を許すだろうか、と。おそらく彼はグンジの行った暴力を許すことはないだろう。けれど、グンジの本能のある部分は、いまだに暴力を求めている。また、処刑人の仕事に就いている以上、仕事として暴力を振るわなければならない。半ば愉しみ、半ば罪悪感を覚えながら、グンジは処刑人として働いた。そうしながら、心の片隅では常に考えていた――に嫌われたくない、と。 それが、微かな心の揺らぎとなった。 きつく唇を噛み締めながら、グンジは目の前の女を見つめた。 姿を消したは、おそらくもう戻らない。戻らない人間に嫌われたところで、痛くも痒くもない。雇い主のアルビトロは女を殺せと言っている。それに従って、鉤爪を持ち上げて振り下ろすだけでいい。 それなのに、できない。 どうすればいい――アルビトロの命令と自身のためらいに板挟みになりながら、グンジは考える。けれど、答えは出ない。結局、かんしゃくを起こしたグンジは、最も簡単な方法を選ぼうとした。つまり、これまで同様に、女を殺そうとした。が。 『グンジ……やめろっ……!』 脳裏に響くの声。なぜか、一瞬女の顔にの面影が重なる。 グンジははっとして、振り下ろしかけた鉤爪を止めた。高く掲げていた腕を、ゆっくりと下ろす。そこで唐突にグンジは、自分が目の前の女を殺すことが出来るはずはないのだと気付いた。非力な女など殺せば、間違いなくは激怒するだろうから。 たとえこの場にいなくとも、もう会えなくとも、の存在はグンジの中にあった。そして、そのこそが、知らず知らずの内にグンジの善悪の判断基準となっていたのだった。 グンジが鉤爪を下ろすと、女を庇うように抱いていたアキラは、ほっと緊張を和らげた。一方女自身は自分の危機も分かっていなかったのか、普段の表情でグンジを見ている。彼女は口を開き何か言おうとしたが、そこで不意に銃声が部屋に響いた。 銃声は、テレビからの音声だった。 見れば、テレビの画面の中では、中断されていた<ヴィスキオ>側の銃撃が、再開していた。キリヲとシキの闘いが終わり、シキが味方ではなくなったことがはっきりしたからだろう。黒服たちは、リングの中央に集中砲火を浴びせ、そこにいたシキや他のイグラ参加者が物陰に身を隠す様が映っている。 ふとグンジが振り向くと、女もテレビの画面に見入っていた。不安そうな表情をしているのは、シキを案じているからか。彼女の表情を見ながら、グンジはふと別れ際のキリヲの言葉を思い出していた。 『――そンときが来たら、オメェの大事なモン、諦めたくないモンだけ引っ掴んで、一人でも逃げろ。オメェは生き延びるんだ。分かるな?』 グンジは、画面の中のリング上を見た。そこにはキリヲの遺体だけが、取り残されている。その死に顔までははっきりとは見えないが、苦悶や後悔に歪んでいるわけではなさそうだ。 あのとき、なぜキリヲはしつこく生き延びろと言ったのか、ようやくグンジは理解した。キリヲは応接室を出るときから既に、こうなることを覚悟していたのかもしれない。生命を賭けても、キリヲはシキと――いや、シキというよりは、自身と互角の相手と闘いながら、死んで行きたかったのだろう。 そのキリヲの気持ちは、グンジにもよく分かった。グンジ自身が、闘いを生き甲斐としているのだから。それを捨ててまで手に入れたい大事なものなど、他にあるだろうか――。 グンジは、何となく女の方を見た。すると、その視線を感じたのか、彼女も顔を上げる。 女の顔に、また一瞬の面影が重なり、すぐに消える。やはり違うのだと、グンジは思った。この女には、どこかしらに似たところがある。けれど、本人ではない。共に生きたいと思った、はもういない。何だかんだで長く付き合ってきた、キリヲも死んでしまった。 だとしたら、大切なものなんか。 (もう、ここにはねぇ) *** 脱力したように振り上げた鉤爪を下ろしたグンジは、しばらくテレビを見つめていた。その視線の先には、倒れて動かなくなったキリヲの姿がある。グンジはやがて顔を上げ、私の方を見て口を開いた。 「――オメら、ここから逃がしてやるよ」 目次 |