・死にネタあり→キリヲ(反転でキャラ名)


3.





 カツン。
 落下したロザリオが床にぶつかって、微かな音を立てる。ほぼ同時に、キリヲが踏み出した。真正面からぶつかるつもりで、ためらいなくシキの間合いに入ってくる。
 もとより、シキとキリヲは獲物も戦闘スタイルも全く異なるタイプだ。共に一般的な基準でいえば強い部類に入るのだろうが、双方の実力を比べて優劣をつけることは難しい。どちらの実力が上かをはっきりさせる機会があるとすれば、結局のところ本気で殺し合って最後まで生き残った方がより強いと言うしかない。互いにそれを承知していたからこそ、今まで本気で闘ったことはなかった。
 しかし、今、キリヲは本気だった。対峙した瞬間から、シキもそのことは分かっていた。だからこそ、シキも本気で闘う気になったのだ。
 もともと、シキは挑まれた勝負に乗らずに背を向けられるような、聞き分けのいい性分ではない。だが、それ以上にキリヲの発する気合が、勝負から逃げることを許さないと言っていた。逃げれば、その隙を衝いて、即座にこちらがやられるだろう。
 踏み込んだキリヲは、そのまま勢いに乗せて鉄パイプを振るう。しかし、シキに致命傷を与えるには、いま少し踏み込みが浅い。キリヲは本気で殺し合うつもりではいるが、すぐに終わらせる気はないのだろう。その、闘いを延ばして少しでも長く愉しもうとする気持ちの分だけ、攻撃が浅くなっている。
 ほとんど、その攻撃の浅さに救われる形で、シキはぎりぎりのところで攻撃をかわした。そして、すれ違いざまに抜刀の勢いで反撃する。刀が相手の身体に触れた手ごたえを感じた。けれど、その手ごたえも、致命傷になるには軽すぎる。
 こちらもかわされたのだ、とすぐに悟る。
 行き違いきってしまってから振り返ると、キリヲはやはりまだ地に足をつけて立っていて、同じようにこちらへ向き直った。そして、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべる。闘い甲斐のある相手と少しでも長く殺し合えることが嬉しくて仕方ない、というような表情だった。それはシキにも憶えのある心情で、だからこそ、舌打ちしたい気分になる。
 こちらには、生きてのもとへ行かねばならないという制約がある。実力が伯仲しているキリヲ相手とはいえ、今ここで死ぬわけにはいかない。それに引き換え、キリオは何をも全力で闘うことができる。何も顧みるものがないために、相討ちに持ち込むこともできる。その上、この闘いを心底愉しんでいる。状況は、シキにこそ不利だ。
 不意にじんと脇腹が痛み、シキは自分がキリヲの攻撃を完全には避け切れていないことに気付いた。相手の攻撃をかわすこと、己が反撃することに全神経を傾けていたせいで、痛みさえろくに感じる間もなかったのだ。
 脇腹の痛みは、耐えられないほどのものではなかった。肋骨が折れたか、ヒビが入ったか、そのくらいだろう。シキは、感じる痛みを冷静に分析して、そんな結論を弾き出す。
 そうしながら見れば、キリヲも左腕から血を流していた。傷は先ほどシキが行き違いざまに斬り付けたものだ。身体の中心からは外れているが、キリヲのコートの左腕には、紅い染みが広がってきている。それでも、キリヲは平気な顔をしていた。
 やはり手強い、とシキは思った。
 このまま続けても、シキは同じようにキリヲの攻撃をかわし、同じように反撃することしかできないだろう。そして、互いに少しずつ傷ついていき、やがてどちらかが倒れる。しかし、それでは時間が掛かりすぎるし、こちらの負けになるだろう。――そう、たとえ最後まで生き残ろうとも、時間切れでを救えなくなっては負けたも同然なのだ。
 負けないために、早く決着を着けるとしたら相討ちを覚悟しなければならない。
 たとえ己が倒れても、相手を倒す――その覚悟があるかないかで、実力の伯仲する者同士がぶつかるこういう場面の勝負は決する。そのことはシキも十分承知していたが、今だけはその覚悟に踏み切れなかった。もう長いこと闘いの中に身を置いてきたが、こんなことは初めてだった。
 己の生死はどうでもいい。
 けれど、を守るという約束だけは、果たさなければならない。なぜなら、その約束は、約束の形を取ってはいたが、シキ自身への挑戦でもあるように思えたからだ。
 “あんた以外の誰にのことを頼めって言うんだ”
 あの男――ケイジは、最後にそう言って笑った。何人もの生命を奪った手で、たった一人でも守れるかと、それができなくて何が強さか、とでもいうように。その挑戦に乗って、己にそれだけの強さがあることを、まだ示していない――だから、まだ死ぬわけにはいかないのだ。
 そう考えたとき、ふとシキは自分が怖がっていることに気付いた。自分自身の生死はどうでもよくても、を残して死ぬわけにはいかない――そんな状況が、死への恐怖を掻き立てているのだ。同時に、負けられないという気負いも、次の攻撃に踏み出すことへのためらいも、はっきりと見えた。
 シキが自分の中にある恐怖やためらいを認めて、直視したのはこれが初めてだった。
 これまでは、戦場で恐怖を覚えたこともあったが、恐怖を感じる傍から押し殺していた。nのときもそうだ――ただ、あまりに根深い恐怖であったために、押し殺して忘れることができずに、nにこだわり続けた。
 けれど、今シキは自分の感情を押し殺すことをしなかった。自分の感情をありのままに見据えることで、次にどうすべきなのかもはっきりと見えた。
 (何も捨てないことが本当の強さ、か……)
 の言葉が脳裏に蘇ってくる。彼女が言ったのは、闘いにおいてという意味ではなかったのだろう。けれど、今この瞬間、シキは彼女の言葉が非常に的を得ていたと感じた。ありのままの己の感情を見据え、状況を見据えれば、見えてくる答えは一つしかない。

 ――負けないために、相討つしかない。

 その認識は、即座に決断となった。
 対峙するキリヲは、もっと殺し合いを愉しみたがっているようだった。けれど、シキはそれには取り合わず、最初から相討つつもりで、床を蹴ってキリヲとの間合いを詰める。そのまま、キリヲの横を抜けながら、薙いだ。
 心は風のない湖面のように静かで、これまでの闘いの中での心境とは随分異なっていた。闘いの高揚は、全くなかった。キリヲと行き違ってからふと気付けば、刀を握る手に人を斬った手ごたえの名残のようなものがあり、振り返ると床に崩れ落ちていくキリヲの背中が見えた。
 シキは、半ば呆然としてその様を見守っていた。
 相討つ気でいたのに、どうして自分が全くの無傷で立っているのか、いつ相手を斬ったのかも分からない。
 「ぐっ……」
 倒れたキリヲが漏らした微かな呻き声で、シキははっと我に返った。そして、ゆっくり歩み寄っていけば、キリヲの身体から溢れ出した血が床の上に広がっているのが見えた。傷はおそらく致命傷にちがいない。また、そうでなくとも既に血を失いすぎている。
 キリヲは、俄かに血溜まりと化した床に頬を当てたまま、目だけでシキを見上げた。
 「へへへ……やっぱ強ぇな……すっかり腑抜けちまったかと思ったが、なかなかどうして……強くなりやがったじゃねぇか……」
 「――強くなった……?」シキは不審に眉をひそめた。
 強くなったとキリヲに言われるような闘いをしたつもりは、全くない。ただ状況を見たままに判断して、動くべきと思ったとおりに動いた。そうして、気がつけば斬っていた。ただそれだけのことで、自分がキリヲより優れていたのだとは、到底思えない。
 そう訝しげにしているシキを見て、キリヲはふっと息を吐いた。笑ったらしかった。
 「分かんねぇのか。……まぁ、いいけどよぉ。――オメエの大事な姫さんは……2階の、奥……応接室だぜ……」
 嘘ではないな、とシキが念を押そうとしたとき、「キリヲ!お前!」とアルビトロが金切り声を上げた。ヒステリックに喚き散らすその反応こそ、キリヲの言葉が真実であることを示している。
 髪をかき乱して喚いているアルビトロを一瞥してから、シキは再びキリヲへと目を向けた。キリヲの顔色は悪く、気だるそうだった。戦場で何度となく目にした、いわゆる死相とでも言うべき雰囲気がはっきりとその顔に表れているのが見て取れた。
 「……闘って、死ねる……俺は、それで満足だ……どうせトシマを出たって、……待ってんのは、クソつまんねぇ日常、だからな……。――そうそう……ここは結構愉しかったぜ……“王様”…………」
 笑みを浮かべたまま、キリヲはゆっくりと瞼を下ろす。そして、動かなくなった。
 シキは束の間、キリヲの傍にただ立っていた。祈りを唱えたり、目を閉じて黙祷するわけではない。けれども、それはシキなりの、死んだキリヲへの敬意の表し方だった。
 自ら闘いを求め、その中で死んだキリヲを愚かだとは思わなかった。シキにもキリヲがそうした心情は、十分に理解できた。闘いを愉しみ、強さを求めるという生き方は互いに相通じるものがある。ただ一つ違ったのはこちらに“枷”が――を守るために生き延びなければならないという制約があっただけのことだ。他は、何も違わない。
 ――そう。今この場に倒れているのは、己でもおかしくはなかった。
 そんな思いを抱きながら、シキは踵を返そうとする。そして、途中でふと足を止めた。視界の中でキラリと光るものがあったのだ。見れば、それは銀のロザリオだった。キリヲの流した血に浸りながら、ロザリオは<闘技場>の天井から降り注ぐ照明の光を反射して、輝いていた。
 シキは身を屈め、血溜まりの中からロザリオを拾い上げた。
 革の手袋をはめたままの指先で表面を拭えば、そこに刻まれた文字が明らかになる。“With every good wish”――“心よりの好意を込めて”。まさしく己の母親であった女の持ち物だ。
 ロザリヲを確認すると、一度ロザリオを手の中で握り締めてから、コートのポケットへしまう。そして、シキは今度こそキリヲに背を向けて歩き出した。その途端、最初に打たれた脇腹が鈍く疼いた。肋骨が折れたか、ヒビが入っているのかもしれない。けれど、シキは自身の負傷で一々取り乱すつもりはなかった。
 痛みを感じるのは、悪いことではないと知っている。
 それは、まだ生きているという証なのだから。


***


 ――一体何が起きたのか。
 私は応接室で呆然とテレビの画面に見入っていた。
 画面には<闘技場>の様子が映し出されていて、リングの中央にはキリヲが倒れている。その身体の下から広がっていくのは――血。血溜まりの中に倒れたキリヲは、身動ぎひとつしない。
 倒れたキリヲの傍には、シキが立っていた。その手には、まだキリヲの血が滴る刀が握られている。黒ずくめの彼の姿は、影のようにも死神のようにも見えた。
 ――今、何が起きたのか。
 目の前の出来事に頭が追いつかない。
 シキとリンの対戦の最中に客席が爆破され、源泉たちが<闘技場>内に乱入してきた。ここまではいい。当初マスターや源泉たちと立てた、計画通りだった。心配していたシキとリンの対戦が取り返しのつかないことになる前に中断されて、私はむしろほっとしていた。
 しかし、そこからの展開は、私の予想を完全に裏切るものだった。
 源泉たちの乱入によってシキとリンの対戦が中断された後、突如キリヲが進み出て、どうやらシキを挑発したらしい。なぜキリヲがそうしたのか、何と言って挑発したのか、応接室にいる身では状況が分からなかった。<闘技場>の映像を映し出すテレビのスピーカーから流れてくる音声は、客席から拾っているらしい雑音ばかりだったからだ。
 そして、応接室で私やアキラ、それにグンジも、誰一人として状況が理解できないでいるうちに、<闘技場>ではシキとキリヲの闘いが始まってしまった。私たちは、ただそれを見ていることしかできなかった。
 シキもキリヲも本気で相手を殺す気でいるのだということは、素人の私にも見て取れた。画面に映し出される2人の雰囲気が、それを物語っていた。それに、何よりも傍らにいたグンジが一言も発せずに呆然と画面に見入っていることからも、これが尋常の事態ではないのだということは伝わってきていた。
 私は画面を見つめながら、一心に念じていた。どうか取り返しのつかないことになる前に闘いを止めて、と。シキとキリヲ、どちらにも死んだり傷ついたりしてほしくなかった。
 今なら分かるが、私はきっとシキに惹かれている。けれど、キリヲのことも嫌いではなかった。キリヲは真っ当な人間とはいえないけれど、どこかユーモアがあって、そのせいだろうか全くの悪人として嫌悪する気にはなれないのだ。死んでもいい悪人なんて、到底思うことはできない。
 それに、キリヲの身に何かあったら、置いていかれたグンジも可哀想だ。
 ――どうか闘わないで。
 もう一度頭の中で強く念じる。
 叫べるものなら叫びたかったが、結局私はそうしなかった。この場で叫んでも<闘技場>まで届くはずもないし、何かの奇跡で届いたとしても、シキとキリヲは一度始めた本気の闘いを中断できるような性分ではない。闘わないで、と願いながらも、私は自分の願いが綺麗ごとに過ぎないことはよく理解していた。
 シキとキリヲの決着は、すぐに着いた。
 一度刃を交えてすれ違い、短い対峙の後にもう一度。再びシキとキリヲがすれ違ったとき、私は息をするのも忘れていた。ぎゅっと心臓を掴んで、締め上げられるような一瞬。そのとき私が祈ったのは、たった一つのことだった。

 どうか生きていて――シキ。

 すれ違って、互いに背を向けて佇んだキリヲとシキが、画面に映し出される。そのうち画面の中でぐらりとキリヲの身体が揺らいだ。まるで崩れ落ちるように、キリヲはその場に倒れていく。まるでスローモーションのような光景。そのキリヲから少し離れたところに立っていたシキは、ゆっくりと背後を振り返る。
 (――シキ……生きてる……)
 どっと押し寄せた安堵に息を吐こうとして、けれど、私はできなかった。一瞬にして画面の中、倒れたキリヲの身体から流れ出して床に広がる血に、目を奪われてしまったのだ。

 ほんの数秒前、目の前で何が起きたのか。
 シキとキリヲが本気で闘い、シキが生きている――そして、キリヲは。 

 キリヲが死んだ。頭がそのことを理解すると同時に、脳裏に断片的な記憶が浮かんでくる。娯楽室で映画のDVDを観ている広い背中――凶悪な笑顔――ネコにでも構うように私の頬に触れた大きな手。もう、彼がちゃらちゃらと取り付けたタグが鳴る鉄パイプを肩に、その辺りを歩くことはない。キリヲは、いなくなってしまうのだ。
 と、ふいに咽喉の辺りに熱い塊が込み上げてきた。口を開けば嗚咽が零れそうで、しっかりと唇を噛み締める。私などよりも余程、グンジの方が寂しくて泣きたいような気持ちでいるだろうという気がしたのだ。
 そっと傍らへ視線を向ければ、グンジはまだ呆然自失の態で画面を見つめていた。その唇が、微かに動いている。
 「――グンジ……?」どうしたの、と尋ねたいが、異様な雰囲気に呑まれて声が出ない。
 「……ジジ、なんで……りで……逝っちまう……よ……一人で……んで」
 グンジは泣き方を知らない幼い子どものように、ぼんやりした表情のままぼそぼそと呟いている。その様子が痛々しくて、私は言葉も掛けられずに俯いた。そうでもしなければ、私が泣いてしまいそうだった。キリヲの死と、グンジの様子と、立て続けに目にしたのは、悲しいものばかりで。
 と、唐突に部屋の隅の小さなテーブルの上にあった電話が、鳴った。
 グンジは呆然としていて電話に反応できる状態ではなく、電話のベルはテレビから流れる雑音を圧してリリリリリと鳴り続ける。私は困惑して、隣にいたアキラと顔を見合わせた。<ヴィスキオ>は明らかに混乱した状況にあるというのに、誰が応接室のことを気にして電話を掛けて来るのだろう。少しの間私たちは迷っていたが、やがてアキラが意を決した表情になって電話に近づこうと動きかける。
 けれど、そのときぼんやりしていたグンジが、アキラよりも先に動いた。どうやら電話に出ようという気らしく、ふらふらと電話を載せてあるテーブルの方へ歩いていく。そして、テーブルの傍に立ち受話器を取った。グンジがしたのはそれだけだった。「もしもし」とも何とも言わないまま、彼はただ受話器を耳に当てている。それは、何だか奇妙な光景だった。
 電話に出たグンジが黙っているので、通話の内容の見当もつかない。いや、それ以前に、電話がきちんと通じているのかどうかも分からない。ベルが鳴り止み、テレビの音声だけが流れる室内の静けさに、やけに不安が掻き立てられる。私は思わずアキラへ目を向けたが、同じようにこちらを見たアキラの表情も不安そうだった。
 そうするうちに、グンジが受話器を戻した。彼は先ほどの奇妙な通話で何かを指示されたのか、唐突にテーブルに立てかけてあった鉤爪を両手に嵌め始める。そして、その装着が終わると、再びふらふらと私たちのいるテレビの前へと戻ってきた。
 そこで急にはっとした表情になったアキラが、私の腕を掴んで引き寄せた。
 「っ……アキラ?」
 「あいつ、何か様子がおかしい。あんたは下がってろ」
 目の前まで来たグンジを見据えながら、アキラは私を自分の背に庇おうとする。とっさに私はそれに抗って、踏み留まろうとした。できることなら、グンジは私たちに危害を加えないと信じたい。けれど、彼だって仕事なのだ。どんな危険があるとしても、誰かに庇ってもらって自分だけ安全圏で生き延びるのは嫌だ、と反射的に思っていた。
 「!」
 短くアキラが私を咎める声が耳に届く。同時に、視界の中で鋭く光るものが動くのが分かった。私とアキラは半ば抱き合っているような中途半端な状態で動きを止め、そちらを見る。
 目を向けた先では、グンジが鉤爪を嵌めた手を持ち上げているところだった。
 ――私たちを、殺すのだろうか。
 あまりの事態にとっさに反応することができない。私は呆然として、ただ目の前に立つグンジの顔を仰いだ。彼の長い前髪の間からのぞく双眸を見て、その虚ろさに呑まれそうになる。

 暗い――なんて、虚ろで暗い目。


***


 リンはリングの床に座り込んだまま、呆然としていた。
 唐突に始まったシキとキリヲの闘い――それに決着をつけたシキの剣技――そして、倒れて動かなくなったキリヲ。今し方自分の目にした光景が信じられないでいる。
 悔しいことだが、シキは自分よりも強い。けれど、処刑人だって決して弱いわけではない。いくらシキであっても、キリヲは容易には下せない相手であったはずだ。それなのに、シキはほとんど負傷することなく、闘いを長引かせることもなく、決着を着けてしまった。
 決着の瞬間のシキの剣技――それを思い出した途端、ぞくりとしたものが背筋を駆け上がってくるのをリンは感じた。あの瞬間、シキの剣は単純に強いという言葉で表現できるものではなかったような気がする。
 その瞬間の直前まで、リンはシキとキリヲの実力を拮抗している、と見ていた。対峙していた本人たちもそのことは分かっていたのだろう。傍目には派手にぶつかり合っている風に見えたが、その実、互いに出方を探り合っている慎重な立ち合いだった。けれど、二度目に斬りこむ一瞬、シキは闘いそのものから脱け出してしまっていた。少なくともリンにはそのように見えていた。
 あのとき、闘いを愉しむキリヲに対して、シキは勝ち負けや強さや順序に拘ってはいなかった。といって闘いを諦めているのではなく、もっとキリヲやリンとは別の視点から捉えているようだった。そのせいだろうか、シキの剣にはこれまでのような気迫や威圧は感じられず、ただ軽やかで――けれど、すれ違いざまに鋭くキリヲを斬っていた。
 強い。単純に強いと表現できる闘いぶりとは違うが、それでも他の表現の仕様がない。
 シキは、強くなった。自分の記憶の中にあるときよりも、更に。
 今、屈んでキリヲの傍から何かを拾い上げているシキの姿を見ながら、リンは素直にそう思った。束の間、仲間を殺された恨みも何もかも忘れて、賞賛の気持ちで一杯になる。次いで、自分もシキに負けたくないという反抗心が込み上げ、その後に再び仲間を殺されたことへのわだかまりが戻ってくる。
 そんな自分の心の動きに、リンは苦い笑みを唇に乗せた。
 強い者を見れば、仲間の仇よりも何よりも、自分も追いつきたいというライバル心を先に感じる。どうにかして、強くなろうとする。――なるほど、どれだけ否定しても拒んでも、自分とシキには同じ血が流れているのだろう。それはどうしようもない事実なのだと今更に思い知らされる。


 「“シキ”はあんな闘い方をするのか……何というか、想像してたのとは違うな」
 こちらと同じ印象を受けたのだろう。傍らでやはり呆然とした面持ちで、源泉が呟いている。その言葉を、リンは前方を見たまま首を横に振って否定した。
 「違う」
 「――リン、どうした?」
 「違う、そうじゃない。シキは前からあぁだったんじゃない。……強くなったんだ、あいつは」
 「リン……お前さんは……」
 まるでシキを認めるような発言。リンは自分の言葉をそう感じたが。源泉も同じように意外に思ったらしい。驚いたような視線をこちらへ向けてくる。その視線を感じながら、リンはじっとシキの姿を見つめていた。
 床から何かを拾い上げたシキは、キリヲに背を向けて歩き出そうとしているところだった。処刑人の片割れの死という異常な事態に呑まれ、<闘技場>内の人間は口を噤んでいて、辺りには奇妙な沈黙がただよっている。その中に、シキの刻むように正確な足音が響き渡る。
 と、そのときヒステリックな声が沈黙を引き裂いた。
 「――グンジ、私だ!予定が狂った、そこにいる女を殺せ!」
 その声にはっとして、リンは辺りを見回す。見ればいつの間にかアルビトロが会場内の壁際に移動していて、壁に取り付けられた電話へ喚きたてているのだった。ヒステリーで半ば正気を失ってもいるのか、アルビトロは人目につくというのに、声を抑えようともしない。
 「ちっ……あの変態、キレやがった。まずいな」源泉が呟く。
 「そんな……さんやアキラは」ケイスケが不安げな面持ちで、源泉を振り返る。
 そのとき、リンの視界の中で影のようなものが動いた。
 「――いいか、グンジ」アルビトロは、なおも話しつづけている。「殺すのは女の方だけだ。シキが裏切った。もうその女に用はない。必ず殺っ、」
 ガシャン。
 激しい音と同時に、アルビトロの喚き声が止む。必死に喚いていたアルビトロは、今や呆然として目の前に立つ人物を見上げていた。そこにはリング中央にいたはずのシキが立っており、鞘に収まった刀が壁の電話に突きたてられていた。刀の先端は電話のカバーを突き破り、内側の機械にまで達していた。
 それを凝視すること数秒、アルビトロはようやく自分の置かれた状況を理解したらしかった。唐突にガタガタと震えだし、手にした受話器を取り落とす。コードで本体とつながっていた受話器は、落ちて壁にぶつかって耳障りな音を立てた。
 「ひぃっ……!!」
 アルビトロはほとんど腰が抜けたような格好で、それでも必死に逃げ出そうとする。そこへ、白銀の光が一度閃いた。シキが刃を鞘走らせ、アルビトロに斬りつけたのだ。けれど、間の悪いことにシキが斬りつけた瞬間に、アルビトロは腰を抜かして床にへたり込んでしまう。結果、シキの刃を危ういところで逃れることになった。
 へたり込んでしまったアルビトロを、シキはそれ以上斬りつけようとはしなかった。シキは束の間床の上で震えるアルビトロを見下ろしていたが、やがて興味を失ったかのように刃を鞘に戻して背を向けた。そして、再び刻むように正確な足音を立てて歩き出す。
 「シキ!」とっさにリンは立ち去りかけているシキに向かって、叫んでいた。しばらく動かずにいられたせいか、多少体力は回復しているらしい。おかげで、思いの外しっかりとした声が出た。「何でその変態を見逃すんだよ!?殺せよ!お前はずっとそうしてきたんだろ!?何を今更、よりによってそんな奴に情けを掛けるんだ!――答えろ!……何とかいえよ……――兄貴!!」
 叫ぶうちに感情が昂ぶってくる。こちらを無視するシキに憤りを感じ、勢い余ってつい昔の呼び方が口をついて出た。自分とシキの関係を表すその呼び方に、ケイスケと源泉がぎょっとして振り返る。そこでようやく自分の失言に気がついて、リンは口をつぐんだ。
 けれど、意外にもその失言には効果があった。これまで無視していたシキが足を止め、リンの方へと視線を向けたのだ。
 「――時間がない。雑魚に構っている暇はない」
 「あのとき、俺の仲間を殺す時間はあって、そこの変態を殺す暇はないのかよ!ハッ!カズイたちは、暇だったから殺されたってわけか。――……何で……殺すなら俺にしなかったんだよっ……!!」
 血に染まった高速道路のデッドエンドが、一瞬脳裏に浮かび上がる。時の経った今でも、思い出すと熱く咽喉を競り上がってくる嗚咽を叫びに換えて、気付けばリンは叩きつけるような調子でシキに尋ねていた。時間がない、アキラやが危険にさらされている、そのことは十分に承知しているのに、自分を抑えることができなかった。
 すると、シキは足を止めたその場で、リンへと向き直った。その行動が意外で、リンは思わず目を見張る。そんな視線を意に介すわけでもなく、シキは淡々と話し始めた。
 「あれは、お前だけが死んでそうにかなることではなかった。ペスカ・コシカは、裏の世界の踏み込んではならない部分にまで、踏み込んでいた。粛清されることは必然だった」
 「……だから自分のせいじゃないって言うつもりかよ」
 「いや。粛清は必然で、俺でなくともいずれ他の者が、ペスカ・コシカを潰しただろう。――それでも、あれは俺が自分の意思で請け負った仕事には違いない。そして、そのためにお前を利用したことも事実だ。俺がお前の仲間を殺した、その事実は何も動かない」
 それだけを言うと、シキは再び歩き出そうとする。静かになった<闘技場>内に、シキの足音に混じって遠く銃声や爆発音が聞こえてきた。
 「待てっ!逃げるのかよ!?」
 「逃げる?この後に及んで何を下らないことを」シキは眉をひそめてリンへと目を向けた。「俺はのことを託された。そのことを思い出した。だから取り返しに行くだけだ。――逃げているというなら、俺ではなくお前の方だろう」
 「俺が逃げてる……?いい加減なこと言うんじゃねぇよ!」
 「この状況で、今もなお過去にしか目を向けようとしない。それが逃げていると言わずに何と言う?お前を助けるために、ここに来た仲間がいる。お前を一度救った男……アキラとかいう奴は囚われている。この状況で、お前は死んだ者にしか目を向けないつもりか?――ならば、いつまでもそうしていろ」
 切り捨てるような調子で言って、シキは床を蹴った。
 <闘技場>の入場口とは反対側にある、<城>の本館への通路。その前には黒服が2、3人いて、戸惑った様子ながらもシキが敵対したと判断したのか、手にしたライフルを発砲し始める。その銃弾をものともせず、シキは一気に距離を詰め、刀を振るった。途端、黒服たちの絶叫と共に、まるで人形の一部のように首や手足がばらばらと落ちて、床に転がる。
 「――ぐっ……げぇっ……」
 その凄惨な光景に、リンの傍にいたケイスケは身を折って嘔吐している。
 リンも一瞬血の気が引いたが、それを越えて腹の底から込み上げてくるものがあった。闘志、とでもいうのだろうか。このまま立ち竦んでいるものか、と強く思う。そうして、気がつけば思いがけない叫びが口を衝いていた。

 「兄貴っ……俺も行く!!」








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