9.





「リンっ!」
 私は慌てて倒れたリンに駆け寄った。リンは固く目を閉じて動かず、どこから出血しているのか地面に血液がじわじわと染み出している。死んでいるのだろうか――シキは信じろと言ったのに。私は顔を上げ、シキを睨み付けた。
「シキ、あなたはリンを、」
「生きている、冷静になってよく見てみろ」
 言われるままに、再びリンの顔を覗き込む。すると、薄く開いたリン唇から微かに呼吸が漏れているのが分かった。ようやく私はほっと息をついた。
「安心するのはまだ早い」
「……どういう、こと……?」
「俺はリンの脚を斬った。本人を真っ二つにする代わりに。脚の傷はかなり深いはずだ……早く処置をしなければならない。すぐに日興連に入る手続きをする」「分かった」私は頷き、傍へ来たシキから再び刀を受け取った。
 シキは私と入れ替わりにリンの傍へ跪き、リンの左脚の傷に応急措置をする。ペットボトルに残っていた水で軽く傷を洗い、私がシャツの裾を裂いて差し出した布を新たに傷に巻きつけた。そして、彼は再びリンを背負った。
 ディバイドラインの壁に沿って、私たちは日興連のゲート目指して歩く。瓦礫ばかりの地面は歩きにくく、会話はほとんどない。と、そのうちシキがぽつりと言った。
「怒らないのか?」
「え……?」
「リンを傷つけたことを、だ」
「……えぇ。この結果は、あなたにとってもリンにとっても、生きようとして最大限に譲歩した結果なんでしょう? あなたの判断を信じてる。……それに、あなたは私が怒っても怖くないでしょ」
「さて……それはどうだろうな」
 シキはおどけた笑みを含む眼差しを、私に向けた。
 十分ほど歩いたところで、前方に人が長く列を作っているのが見えて来た。日興連へ入るゲートの手続きを待つ避難民の列だ。周囲には避難民に対して物資を売る露店のようなものまである。そうした露店の主もまた、避難民のようだった。
 列に近付くと日興連軍の兵士が列の整理をしており、私たちに最後尾に並ぶように指示する。その最後尾はかなりゲートから遠い上、列の進み方もかなり遅い。
 私はシキに背負われたリンの左脚を見た。リンの脚の傷からはまだ出血しており、血の筋が細く足首まで伝っている。出血がひどいためか、リンの顔は青ざめていた。
 このままでは、手遅れになる。――とっさに私は兵士の前に進み出て、「怪我がいるんです」と言った。
「だから先に通せと言うのか? 駄目だ。貴様らはそうやって先にゲートへ入ろうとしているのだろう」兵士は犯罪者を見る目を私に向けた。
「違います。この子をご覧になっ下さい。この出血……早くしないと死んでしまう。せめてこの子だけでも先に通して下さい」
「駄目だ。順に犯罪歴などの取り調べを行っている。それが済むまでは通せん」「人の生命が掛かってるんですよ」
 訴える私の肩をシキが掴んで制止する。それでも私は食い下がった。が。
「煩い。貴様ら避難民など所詮は犯罪者かその予備軍だろう。そんな人間をよく取り調べもせず、日興連へ入れられるか!」
 その言葉に私は反論するよりも呆然として、何も言うことができなかった。生命の危機にある人間を、しかも悪意を持って見殺しにしようとするなんて。平和ボケと言われればそれまでだが、こんなことが――そう、平和な日本で――起こるとは思えなかった。
、行くぞ」
 シキは、兵士の対応を最初から予想していたのか、静かな声音で私を促す。そして、兵士の存在などないような淡々とした態度で歩き出した。私は呆然としたまま、シキに従った。
 最後尾へと歩くうちに、驚きが醒めて悔しさと怒りが込み上げた。出口は目の前なのにリンを連れ出してやれない悔しさであり、あの兵士のみならず権威を傘にきた日興連関係者たちへの怒りだった。よほど戻って食い下がってやろうかと思ったが、すぐに諦めた。私が騒いでゲートの手続きが遅れてはいけない。

 列の最後尾に辿り着くと、そこに並んでいた男が声を掛けてきた。
「度胸があるね。さっきの軍人相手の物言いは、聞いていてこちらもすっとしたよ。大の男でも軍人に楯突くのはためらうもんだ」
「あ、あの……?」
「君もそう思うだろう?」男は戸惑う私を通り越して、シキに話を振った。「最近の女の子はしっかりしてるっていうけど、本当だねぇ。君も案外尻に敷かれてるんじゃないかい?」
「さてな」シキは優雅に肩を竦めてから、改めて男を見据えた。「――それよりも貴様は何だ」
 初対面とはいっても、さすがにその態度は失礼ではないだろうか。私は冷や冷やしたが、男はそれもそうだと納得した様子で上着のポケットから運転免許書に似たカードを取り出した。カードには、男の顔写真と氏名・本籍地・国民番号などが表示されている。この時代の身分証明書のようだ。
 シキがそれを受け取り、つぶさに見てすぐに男に返した。
「ヤマモト・ヨシハル、三十五歳――医者か」シキが呟く。
「お医者さんが、どうしてこんなところに?」私は思わず首を傾げた。
「旧祖に暮らすのは何も犯罪者だけじゃない。貧しくて日興連やCFCでは生きられず、仕方なく旧祖にいる人々もいる……そうした人々を救援するボランティアでね。特別通行証で入ったのはいいが、失くしてしまってこの通りだ。ここに居合わせたのも何かの縁だろう、主な道具や薬はボランティア仲間たちに預けてしまったが――怪我人を診させてくれないか?」
 地面にリンを下ろすと、ヤマモト医師は早速診察を始めた。シキはしばらくその様子を見ていたが、やがてその場から少し離れて私を呼んだ。
、刀を。俺は少し出掛ける。リンを頼む」
「えぇ。でも、どこへ……?」
「露店商のところだ。先程お前は軍人にリンだけでも先に通せと食い下がって拒否されただろう。奴らを頷かせるには金が要る」
「賄賂?」
「そうだ。だが、今俺には手持ちがない。露天で物資と引き換えてくる」
 でも何を? 尋ねかけて私ははっと気づいた。シキが手にしているものといえば、刀くらいのものだ。彼は刀を換金しようとしている。
 刀は、シキにとって大切なものだ。シキが自分から捨てる気ならともかく、リンのためとはいえ、こんな形で手放させてはいけない気がした。だから。
「待って、シキ」
 私は体当たりする勢いでシキに抱き付いた。そして、身体の陰になるようにして、こっそりのポケットから携帯電話を取り出し、シキのコートのポケットへ滑り込ませる。
「ポケットに私の携帯を入れた。もう不要のものだから、データを消して換金して役立てて。この時代なら価値があるはず」
 この時代では携帯電話は希少品だ。周囲に知られれば、奪いに来る者が出るかもしれない。そこで私はシキの胸に顔を寄せて恋人同士を装いながら、声を抑えてシキに告げた。
 すると、シキは一瞬の間の後に、私をぎゅっと抱きしめた。恋人同士の会話だと周囲に見せかけるためか、『分かった』という合図だったのか。すぐに彼は私から離れ、背を向けて歩き去った。
 列の最後尾に戻ると、リンを診てくれていたヤマモト医師が顔を上げた。その表情は暗い。
「……その子はどうですか」
「あまり良くないな。状態が悪化すれば、足を切らなければならなくなる。早く病院に収容できればいいが……」
「そう、ですか……」
 私は暗い気持ちでリンの傍に座った。どうかシキが間に合いますようにとひたすらに祈った。


***


 やがてシキが戻ってきた。シキは刀を持っていなかった。売ってしまったのかと私はぎくりとしたが、後で聞いた話では入境審査の妨げになるため、隠してきたのだということだった。そのシキのすぐ後ろに、先ほどの兵士がついて来ている。兵士は私たちの前に来ると、怪我人を先に通すと言った。
 付き添いは一人許されるということだったので、結局リンを診てくれていた医師に行ってもらった。彼ならリンを診ているから、搬入される病院にリンの状態を適切に伝えられるだろう。
 できればシキか私が付き添うのがいいのだが、入境審査のことを考えると、私はシキと離れるべきではない。私はこの時代の戸籍を持っていないので、審査の際に問題が起こるに違いないからだ。
 夜になる頃、ようやく私たちの番が来た。案の定審査では私の戸籍がないことと、シキが戸籍上死んだ人間だということで問題になった。とはいえ、大戦後五年を経てまだ復興の途上にあるこの時代では、そうしたケースはさして珍しくもないらしい。審査をしている兵士たちは驚きもせず、私とシキを更に調査が必要な者として一般の避難民とは別の避難施設に振り分けた。
 私たちは夜遅く、避難施設に割り当てられた個室に入った。私とシキは同室だった。別々にされると不都合なため、シキは私を彼の妹だと申告したからだ。こちらとしては安心といえば安心なのだが、男女で同室というのには戸惑いもある。
 けれど、この非常時にそんな寝惚けたことを言うわけにもいかなかった。そもそも、シキが私にその手の興味を持つとは考えにくい。
 一人で意識するのも、馬鹿みたいだ。
 私は気にすることをやめた。


 二人とも疲れていたので、私たちは言葉少なに寝る準備をして、ベッドへ潜り込んだ。部屋には二台ベッドがあり、私は窓際の方を使った。
 ベッドに入って一度はうとうとしかけたが、寝返りを打った途端にシーツの感触でここが自分の家の馴染んだ寝床ではないことを思い出してしまう。こうなると、もう駄目だった。様々なことが泡のように浮かんできて、私の心を占め始める。
 元の時代で、私はどんな風にいなくなったことになっているのだろう。両親は心配していないだろうか。妹は、祖父母は心を痛めていないだろうか。
 失踪したケイジは無事だろうか――けれど、彼はもうこの世にいない気がする。トシマで死んだグンジやキリヲたち。本当に彼らが生きる道はなかったのだろうか。
 一度は心の整理を付けたはずの事柄だが、思い出すとまた悲しみが込み上げてくる。この悲しみはいつか薄れることはあっても、消えはしないのだろうと私は感じた。きっと生きている限り抱いていかなければならないものなのだ。
 私は闇の中で目を開けた。
 隣のベッドのシキは、眠っているようだった。時折微かに聞こえる寝息は、静かで安らかだ。さすがに彼も疲れているのだろう。
 シキを起こさないように気をつけて、ベッドの上で起き上がった。部屋の中は真っ暗闇で、しんとしている。私は膝を抱え、窓に降りたブラインドの隙間から外を――旧祖を見つめた。感情がまだ胸の中で渦巻いていて息苦しかった。
 どれくらいそうしていただろうか。不意に隣のベッドで衣擦れの音がして、シキが寝返りを打ってこちらへ顔を向けた。と。
「――眠れないのか」シキの声がした。
「ごめんなさい、起こした? 疲れたせいか、逆に目が冴えちゃって」
「俺を欺くつもりか? そう長くない付き合いといっても、お前の空元気くらいは見抜ける」
「……そう、なの?」
「あぁ。……以前、お前のことを俺の母親に似ていると感じたことがある。だが、今は……むしろお前は俺に似ているという気がする」
「なら、きっとあなたはお母さんと似ているんだわ。私があなたにも、あなたのお母さんにも似ていると言うなら」
「……そんなはずはない」不本意そうに呟いて、シキは身体を起こした。ベッドを降りてこちらへ近づいて来る。彼はベッドの端――私が膝を抱えて座るすぐ傍に腰を下ろした。
」シキは私の名前を呼び、私の頬に手を添えて自分の方へ顔を向けさせた。「辛そうな顔を、俺には隠すな」
「私は平気」
「そんなはずはない」
 そして、シキは心持ち私に身を寄せて静かな声で話し始めた。といって、誰かに聞かれるのを恐れて声を潜めたという風ではなかった。ただ私だけに聞かせるようとする、それ以外の誰にも聞かせまいとする密やかな声だった。

「……今日、お前の携帯を売るためにデータを消した。そのとき、データの中身が少し見えた。画像があった。お前の家族の画像、友人と笑っている画像……お前は今まで、満ち足りて生きてきたのだな。
俺はお前がトシマから消えたと去ったとき、お前を取り戻したいと思った。そうしてお前は戻ってきた――そのために、お前は家族も友人も満ち足りた暮らしも失った。そして戻ってきたトシマには、過酷な争いしかなかった。お前が心を痛めるのも、無理はない。分かっている。
もう一度言うが、俺の前で強がる必要はない。俺は、お前がどれほど辛かろうが、お前が戻ってきてここにいることを『良かった』と思う……だから、遠慮をする必要はない」

 私は息を潜めて、シキの言葉を聞いた。
 こんな風にシキが自分の心情を素直に明かすことは、本当はあり得ないことだろう。それを、シキは私のために明かしてくれたのだ。
 それに応えて私も素直になりたいと思ったが、いざとなると唇は凍り付いたように動かなかった。何と言っていいのかも分からなかった。
 シキは私を急かさなかった。
 顔を強ばらせている私の頬を、指先でなぞる。更にシキの指先は私の顎、額などを存在を確かめるようにゆっくりと辿った。指先は最後に唇にたどり着き、言葉を紡げずにいるのを促すように撫でて離れていく。
 それでも、まだ私は自分の気持ちを言葉にすることができず、唇は開きかけて止まった。すると、シキは顔を近づけ、中途半端に開きかけた私の唇に自分のそれを重ねた。
 触れるだけの口づけの後に、シキは顔を離して言った。
「お前は本当にここにいるのだな……まだときどき信じられなくなる」
 途端、咽喉の奥からこみ上げて来るものがあった。咽喉から溢れたのはシキへの言葉ではなく嗚咽で、私はシキの肩に顔を押しつけて声を殺して泣いた。
 家族や友人を失った悲しさ、ケイジやグンジなど親しい人ともう会えない辛さ、未来への不安。どの感情も言葉に表すには大きすぎて、涙でしかシキに伝えることはできなかった。

 シキは、泣き続ける私を腕に抱いて、じっと啜り泣きを受け止めていた。








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