8.
下水道の中は真っ暗で、淀んだ空気に息が詰まるようだった。地上では相変わらず砲撃が続いているらしく、その轟音が下水道の中まで響いてくる。その度ぐらぐらと足下が揺れる。 地下に降りてしばらくの間、私は動くことができなかった。こうして地下の多少なりとも安全な場所にたどり着いた今、張り詰めていた気が抜けてしまったのだ。中途半端にものを考える余裕が戻ったせいで、足下から強烈な恐怖が駆け上がってくる。もう少しで死ぬところだった……いや、今だって天井が崩れて来て死ぬかもしれない。 しかし。 「立ち止まるな」低くシキが叱咤した。「ここはまだ安全ではない。いつ天井が崩れて生き埋めになるとも限らん。……お前は、まだ、生き延びるつもりなのだろう?」 「そ、そうよ……そう。私もあなたもリンも――私たちは生き延びる」 「ならば、行くぞ」 そうはいっても辺りは真っ暗で、どこにシキがいるのか、前はどちらかも分からない。私はシキの声のする方へ向かって手を伸ばしてみた。 「シキ?」 「ここだ。リンを背負っているから手を取ってやることはできんが……その手をもう少し伸ばせば届く」 「あなたは見えてるの?」 「あぁ、俺は夜目が利く。そういう訓練を受けている」 伸ばした手が闇の中、人の身体と思しきものに触れる。手探りすれば、シキはちゃんと元通りリンを背負っているようだった。そうするうちにも目が少し闇になれてきて、壁かそうでないかくらいは朧気ながらも見分けられるようになってくる。 まだ少し不安だったが、私は思いきってシキの身体に触れていた手を離した。彼はリンを背負って歩かなければならない。いくら暗くて足下が分からないといっても、この上私がしがみついて彼を無用に疲れさせるわけにはいかない。 「大丈夫、私も目が慣れてきた。行きましょう」 「あぁ……こっちだ、ついて来い」 シキに促され、私は闇に紛れそうな彼の背を追った。 私たちはほとんど無言で下水道の中を歩き続けた。二人分の足音と時折シキが私について来ているかと尋ねる声の他、聞こえるのは地上の砲声や爆発音ばかりだ。 この下水道に入ってからどのくらい経っただろうか。闇の中を歩いていると、現実感がなくなっていくような気がする。戦場になっている地上のことも、トシマであった様々な出来事も、私の感情から遠ざかっていく。いや、そもそも『私』というものが存在して、私の感情というものが存在しているのかどうかも分からなくなりそうだ。 もう、どの辺りを歩いているのか、正しい――出口につながる道を歩いているのかということさえ、はっきりとしない。けれども、疲れた心では、そのことを怖いとも思わなかった。 と、しばらくして、シキが休もうと言い出した。 「休む……ここで?」 「そうだ。お前に倒れられては困る……さすがに俺でも、リンとお前と二人は抱えて行けんからな」 「私は平気」 「無闇に強がるな。いいから休んでおけ」 そんな風にシキが他人を気遣うのは、なんだかとても珍しい気がした。それでもシキの言うままにその場に腰を下ろすと、本当にどっと立っていられないほどの疲労を感じた。 「シキ、リンの頭をこちらに。カビの生えた地面よりは、寝にくくても私の膝を枕にする方がいいと思うから」 「あぁ」 シキはリンを背から下ろし、その身体を抱いて私の側へ移動させる。私は手を差し伸べてリンの肩の辺りに添え、頭が膝の上に来るように手伝う。やがて、膝にリンの頭が乗った重みを感じた。 そっと髪を掻き分けて額に触れると、手のひらに高いリンの体温が伝わる。発熱しているのだ。それに、聞こえてくる呼吸の音も早い。 「熱がある」 「あぁ……足の傷のせいだろう。あの雨の晩から今まで、よく動き回れたものだ……」シキは声にわずかに感嘆の色を込めて言った。が、すぐにそれを打ち消して、ごく事務的な態度に戻る。「待っていろ、水のペットボトルがあるかもしれん。リンに飲ませてお前も飲め」 リンの荷物を探ったシキは、すぐに水のペットボトルを探し当てて私に差し出す。重みからしてほとんど残っているようだ。私はそれを受け取り、蓋を開けてリンの口元に宛がった。けれども。 「どうしよう……飲んでくれない」 口に水を含ませてもリンは飲み下してはくれず、水は頬を伝って零れ落ちていく。その水が私のジーンズの布地を濡らすのが分かる。 「代わろう」 シキが傍へ来てリンの前で跪き、私の手からペットボトルを抜き取る。そうしていきなりボトルの水を呷ると、リンの上に身を屈めた。水を口移ししているのだ。シキは数十秒ほどして顔を上げると、再び水を口に含んでリンの上に身を屈める。 その様子を闇の帳越しに見ながら、私は改めて感じていた。シキがリンを殺さなくて本当に良かった、と。意識のない弟のために水を口移しするなど、兄弟でもなかなかできることではない。本当は、シキはそれほどまでにリンを大切に思っている。リンだって、一時憎しみを忘れてシキと共に私やアキラを助けに来たことを思えば、本当はシキを憎んでばかりではないのだろう。いつかは分かりあえるときが来るかもしれない。 二人が殺し合わずに済んでよかった。そのことは、あまりにも多く人が死んだトシマで出来事の中で、わずかな救いのようだ。兄を殺さなければならなかったケイジのことを思いだし、胸の痛みを宥めるように静かに息をついた。そのときだった。 「。次はお前が飲め」 シキがペットボトルを差し出す。私はいらないと首を横に振った。咽喉の乾きは覚えていたが、この先どれほどこの下水道を歩かなければならないのか分からないことを考えると、水を浪費するわけにもいかない。それに私よりも病人であるリンとリンを背負って体力を使うシキこそ、水分補給を優先すべきだ。 「私は大丈夫。あなたが飲んで」 「いいから飲め。お前が倒れては困ると言っただろう」 「シキが倒れても困る。私は本当にいい、咽喉乾いてないから」 「強情者め。口移しされたいか?」 シキは感情の読めない声で言う。と、同時に彼の手が私の肩を掴む。私ははっとして身を強張らせ、シキの気配に意識を傾ける。数秒の間私たちはどちらも動かず、息を潜めていた。 「……私、やっぱり飲む」掠れた声で言った途端、ふっと張り詰めていた空気が緩む。シキは――気のせいかもしれないが、どこかほっとした様子で――私の手を取ってペットボトルを握らせてくれた。その蓋を開けて水を一口口に含み、残りをシキに返す。シキは自分でも少し飲んで、蓋をするとペットボトルをリンの荷物の中にしまった。 それからシキは私の傍らに腰を下ろし、壁に背を預けた。「もうしばらく休んでいろ」と、彼は言う。私はポケットにあったハンカチでリンの汗を拭いてやりながら、「えぇ」と頷いた。すると。 「お前も休め」 言うなりシキは私の肩を掴み、引き寄せた。そのため私の身体は傾き、シキに凭れかかる格好になる。私は何かしていないと不安なのだと訴えようとしたが、間近にシキの気配を感じていると不思議と心が落ち着いてきて、じっと彼に寄り添いったままでいた。 遠く砲声の聞こえる中、それは思いがけず心穏やかなときとなった。 そうしてどれほどの間そのままでいただろうか。いつの間にか私は眠っていたようだった。ふっと気がついて身動きすれば、傍でシキの声が聞こえる。 「目が覚めたか」 「うん……私、眠ってしまってた。ごめんなさい。重かったでしょう? 長い間眠ってた?」 「いや、それほど時は経っていない。少しは体力が回復したか?」 「えぇ、十分に」 「ならば、そろそろ行くか」 そこで、私たちは出発の準備をした。私はシキの刀を抱え、シキはリンを背負って歩き出す。下水道の中をひたすらに歩いていると、何となく砲声は遠ざかっているように思えた。 何度か小休止を取りながら、ひたすら下水道を進んでいく。そのうち、闇ばかりだった前方に小さな白い点が見え始めた。 あれは……外の光、なのだろうか? そう思ったとき私は嬉しさと共に、ひやりと鉛のような重さが胸に沈んでいくのを感じた。ここを出て旧祖を出てしまえば、外の世界は私にとって全く未知の世界だ。もう過去の元の時代に戻れない以上は、私はそこで生きていくしかない。 私にそれができるだろうか? 一人きりで生きていけるだろうか? おそらく、外の世界に出たらシキは私をそれ以上彼の道連れにしてはくれないだろう。闇の中で寄り添ったシキの体温を思い出しながら、確信めいてそう思った。なぜならば、 トシマの外の日常の世界においては、私たちの生きられる世界は違いすぎる。私はシキの足手まといにしかなれない。たとえ私たちの間にどんな感情が存在しようと――いや、ある種の感情が存在するからなおのこと、シキは私を切り捨てる。 シキはそういう人だ。 そうすることは、優しさでもある。裏の世界では生き残れないだろう私への優しさ。私がシキであったなら、私も同じ判断をする。だから、私は一人で生きていく覚悟をしておかなければならない――。 そう思う間にも光は近づいてくる。 そうして、私たちはとうとう光の中に足を踏み入れた。 *** 外に出ると目の前に現れたのは、トシマとそう変わらない廃墟と瓦礫の街並みだった。違うのは、その向こうに高い壁が見えることだ。何かの建物を囲う壁にしては、壁は妙に長い。 「あの壁は……?」 「ディバイドライン――日興連の国境だ」 「じゃぁ、私たちは生きて旧祖を出られたということ……」 生きて旧祖を出たということが嬉しいというより、何だか実感が湧かなくて呆然としてしまう。しかし、そんな態度はトシマで死んでいった人々に対して失礼な気がして、私は未来への不安を押し殺して明るく振る舞った。 「生きて出られてよかった。さぁ、早く日興連に入りましょう。早くリンを病院に連れていかないと」 そのときだった。「ん……」とシキの背中で小さなうめき声が上がった。リンが目覚めたのだ。目を開けたリンは辺りを見回し、「ここは……?」と小声でシキに尋ねた。 「日興連のディバイドラインだ」シキが答える。 「――どうして……俺、城で倒れたはずなのに……。まさか、あんたが運んでくれたの?」 「がそうしろと煩かったのでな」 「そうか……」 リンは考え込むような表情で頷いた。が、すぐにシキに自分を地面に下ろして欲しいと頼む。私たちが歩くのは無理だと止めても、リンは耳を貸さなかった。仕方なくシキが地面に下ろすと、リンはふらつく足で何とか地面に降り立ち、よろよろと歩き出した。 私は思わず止めようして手を伸ばしかけたが、リンの気迫のようなものに呑まれて手を引っ込めるしかなかった。そうするうちにも一定の距離を置いたところで立ち止まり、シキの方へと向き直る。そこでリンは突然ホルダーからスティレットを抜いた。 「シキ……助けてくれたことには、感謝する……だけど、お前が仲間の仇だということに、変わりはない。……外に出る前に決着を着けたい……俺と闘え……!」 「リン! やめて! せっかく生きてトシマを出たのに……あなたの仲間だって、あなたの生命をかけて仇討ちなんて望まないはず……!」 私は慌ててリンとシキの間に割って入った。けれども。 「――いいだろう」シキがそう応じる。 「シキ! 兄弟で闘うなんて駄目よ! あなたは、殺し合うためにリンを助けてくれたんじゃないでしょう!?」 「ソレは何としても決着を着けなければ、納得せんだろう。この先も割り切れないまま生き続けるくらいなら、ここで決着を着けた方がいい。――俺の刀を寄越せ」 「――っ……嫌……もう私の目の前で、親しい人が死ぬのを見るのは嫌。二人とも、殺し合いたいならまず私を殺してから争えばいい!」 半ば癇癪を起こすように、私はしっかり刀を抱きしめたまま叫んだ。腹を立てたシキに殺されるかもしれないと、頭の片隅で覚悟した。けれども。冷静な表情のまま、シキはゆっくり私のもとへ歩いてくる。私は意地になってその場を引かないまま、シキを真っ向から見据える。 やがて、シキは私の前で立ち止まってじっとこちらを見下ろした。それから唐突に私を抱き寄せる。予想外の行動に私はすっかり慌てしまい、ただ身を強ばらせることしかできなかった。 「、俺を信じろ」シキは私の耳元に囁いた。「――俺を、信じていろ」 『信じろ』 そう言われても何のことだか分からない。私が何とも答えられずにいると、次の瞬間シキは抱きしめた優しさとは正反対に乱暴に私を突き放した。その勢いでよろめき、地面に倒れ込んでしまう。 地面に倒れた拍子に両手をつき、そこで私ははっと気づいた。――刀がない。さっきシキに奪われたのだ。 慌てて振り返ると、刀を抜きリンに向かって駆けていくシキの後ろ姿が見えた。リンもスティレットを手にシキに向かって跳びかかろうとしている。次の瞬間、二人のシルエットが交錯した。 目次 |