行く末2
――十年後。 鉢屋衆の里に、一人の男が訪ねてきた。忍犬を伴ったその男は、忍術学園の教師だという。 「――<三郎>さま。忍術学園からの遣いは竹谷八左ヱ門と名乗っておりますが、いかがいたしましょう?」 男に応対した家人に尋ねられて、自室で書を読んでいた<鉢屋三郎>はにっこり笑った。 「八左ヱ門は私の学園時代の友人だ。もちろん会うさ」 「分かりました」 一礼した家人が去っていく。<鉢屋三郎>は文机の上に本を置くと、立ち上がった。廊下を歩いて、竹谷がいるはずの部屋へ向かう。襖を開いて中へ入ると、そこには背の高い体格のいい男が座っていた。相変わらずあちこち無造作にはねた手入れの悪い髪がひどく懐かしい。 「――久しぶりだな、三郎! やっぱり雷蔵の姿してんのな」竹谷はそう言って、昔と変わらぬ明るい笑みを浮かべた。 「あぁ、久しぶり、八左」<鉢屋三郎>も片手を上げて応じ、竹谷の前に腰を下ろした。「まさか、座学の苦手だったお前が学園の教師になるとはな。いや、人の人生というのは分からいもんだ」 「俺も驚いてるよ。だけど、教師はどうやら性に合っているらしい」 「そうだろうな。お前は昔から、後輩の面倒見がよかった。――ところで、今日は何の用でここまで来たんだ?」 「旧友に会いに。……ってだけじゃ、足りないか?」 「悪いとは言わんが、用もなくここまで来るのは割に合わないだろう。これでも鉢屋衆の忍の里だ。秘匿されているし、警戒も厳重だ。連絡(ツナギ)を取るのもそれなりに手間だしな」 <鉢屋三郎>が言う。と、竹谷は笑ってちょっと舌を出した。 「実は学園長の遣いなんだ。これを届けにきた」 竹谷が懐から取り出したのは、一巻の巻物だった。その巻物に、<鉢屋三郎>は見覚えがあった。自分もかつて受け取ったことがある。これは――。 「学園の卒業証書……? だけど、私は十年前にもらったぞ?」 「いいから、開けてみろよ」 促されるままに、<鉢屋三郎>は巻物を手に取った。紐を解いて開いてみる。卒業証書という流麗な文字の傍らに書かれているのは、<鉢屋三郎>ではなく――不破雷蔵の名だった。 「これ、は……」 「そ。不破雷蔵の卒業証書。つまり、お前のだよ……雷蔵」 「……」 するすると巻物を閉じた<鉢屋三郎>――否、雷蔵は竹谷の顔を真っ直ぐに見た。 「――確かに僕は不破雷蔵だ。どうして分かったんだい? 鉢屋衆の皆でさえ、僕が本気で三郎のふりをしているときには見分けがつかないのに」 「なぜって……」竹谷は首をひねった。が、すぐにあっけらかんと笑顔を浮かべた。「まぁ、勘だな。根拠はない!」 「そんな。それって僕にとっては、わりと死活問題なんだけど」 「ま、いいじゃねぇか。細かいことは気にするなよ。……お前も三郎も本当にまわりに心配ばっかりかけてくれたから、その仕返しだ」 「う……ごめん。僕らもいろいろあって、必死だったんだ」 雷蔵は頭を垂れた。 学園最後の年、雷蔵と三郎は双忍として生きていくために、ある謀(はかりごと)を行った。すなわち、雷蔵は自分が死んだと見せかけておいて、鉢屋三郎として学園生活を過ごす。一方、本物の三郎は卒業の半年前に実家に戻り、雷蔵と双忍として鉢屋衆に戻らせてくれるよう、両親を説得したのだ。 ――私は新しい忍術を取り入れるため、学園に入れられた。今、戻ってきた私がその結果だ。 ――今まで忍は己の情を殺して生きてきた。しかし、今後、天下布武を成し遂げる武将が出て、太平の世になれば、忍は今の形ではいられまい。 ――姿を映す相手を殺すという試しは、もはや時代遅れだ。新たな忍の形を見出すために、私は雷蔵と双忍として鉢屋衆に戻りたい。 約束通り、三郎は詭弁を尽くして鉢屋衆を説得した。それでも、色よい返事はもらえなかったが、譲歩らしきものは引き出せたらしい。その間、雷蔵は三郎として学園を卒業。鉢屋衆の里に向かった。三郎がある程度の説得をしていたために、鉢屋衆の里に入っても雷蔵が殺されることはなかった。 そうした事情を、雷蔵は竹谷に説明した。 「……それで、雷蔵は里に来てから三郎の実家で暮らし始めたわけか。まるで嫁入りだな」 「まぁ、否定はしないよ。とにかく、皆に認めてもらうのが大変だった。……でもね、三郎ったら、たちが悪いんだぁ」 「は?」 「僕らはいちおう、双忍ってことで認めてもらっただろ。おまけに不破雷蔵は公には死んでることになってる。だから、僕と三郎は二人で鉢屋衆宗家跡取りの<鉢屋三郎>の役を演じてたんだけど、三郎ってば、暇なときは学園にいた頃みたいにしょうもない悪戯をして回るわけ。で、悪戯された人が怒りに来ると澄ました顔で――“それは私ではない<鉢屋三郎>の仕業でしょう”って。皆、だんだん途方に暮れてしまってさ」 そんなことを続けるうちに、やがて鉢屋衆も三郎と雷蔵の存在に慣れていった。それでも、“不破雷蔵”という人間は存在せず、三郎と雷蔵は二人で<鉢屋三郎>として扱われていたのだが。 しかし、転機はやってくる。 五年前、三郎の父が隠居して、<鉢屋三郎>が正式に鉢屋衆の首領となったのだ。この頃から、それまでは<鉢屋三郎>は対外的に一人の人間としていたのが、それとなく二人以上の人間が交代で演じているのだと外に漏れ始めた。――というより、三郎が雷蔵という人間の存在を取り戻したいと言って、敢えて噂を流したのであるが。そんな風に、今では鉢屋衆の中でも外でも、<鉢屋三郎>が一人でないことは何となく知れるようになっていた。 「……それじゃ、皆に雷蔵の存在を認めさせた三郎の勝ちだな」竹谷は笑って、卒業証書を指差した。「それ、さ。学園長がそろそろ届けてもいい頃だからって、俺を遣いに寄越したんだ」 「そう……。学園長先生は、僕らのしたことをお見通しだったのかな……」 雷蔵は卒業証書を大事に胸に抱いた。泣き出しそうな表情をしてしまったのだろう、竹谷が「な、雷蔵。お前は今、幸せか?」と尋てくる。 「幸せだよ? どうして?」雷蔵は当たり前のように答えた。 「いや……。卒業前に、お前は<不破雷蔵>を殺して<鉢屋三郎>として生きなければならなくなっただろう? 辛くなかったのか? お前と三郎なら、もしかしたら鉢屋衆に戻らなくても二人どこかで生きていくことができたんじゃ――」 「もちろん、それも考えたよ。でも、鉢屋衆は三郎にとってどうあっても切り離せぬ宿命だった。だったら、逃げるんじゃなくて立ち向かおうと二人で決めたんだ」 「また、迷い癖のあったお前が、よくそんな決断をしたな」 ふふっと雷蔵は笑った。 「当然。三郎と生きる未来を手に入れるためなら、僕は何を相手にしても――たとえ鉢屋衆に博打を仕掛けてもしてもいいって覚悟してたんだもの。……竹谷。僕は<不破雷蔵>の存在を殺したことを後悔はしてないよ。三郎と生きていく未来は、僕にとっては値千金にも勝るんだから」 そのときだった。たたたと廊下を歩く足音がする。その足音に雷蔵は覚えがあった。三郎がわざと立てる足音だ。本当は音を立てずに歩くのもわけないはずなのだが、ときどき、そうして三郎は自分の所在を教えようとする。たいていは、部屋に入る前に雷蔵に自分の存在に気付いてほしいときにそうなるらしい。 やがて、部屋のふすまが勢いよく開いた。 「ただいま! 今帰った。八左が来てるんだって?」 「おかえり。ほら、八左ならここにいるよ」 「あ、ほんとだ。……珍しいな、八左が来るなんて」 「学園長の遣いさ。まさか、教師になってもお遣いに出されることがあるなんて、知らなかったぜ」 苦い顔をする竹谷に三郎は苦笑してみせた。 「そりゃあ、あの爺さんは人使いが荒いからな。……で、用件は?」 「雷蔵の卒業証書、持ってきたんだよ。お前のは渡したけど、雷蔵のはまだだったからって。……もう十年も経ったんだ。お前らのしたこと、各方面に対しても時効だろうからってさ」 三郎は目を見張って、卒業証書を胸に抱く雷蔵を見つめた。どんな変装をしても変わらないその美しい目に、一瞬、痛みと罪悪感が過る。その様を見て取った雷蔵は、柔らかく三郎に笑いかけた。 ――お前が傷つくことじゃない。僕は望んでこの道を選んだんだから。 眼差しで、そう告げる。そのときだった。たったったと軽やかな足音と共に、小さな人影が飛び込んできた。白い狐面を着けた幼い少年だ。竹谷が子どもの姿に驚き、うぉっと声を上げる。 「だ、誰だ、この子? まさか、お前らの……?」 「そうそう、私たちの子どもだ」三郎が得意げに言う。 「あ、でも、もちろん産んだわけじゃないよ。いろいろ事情があって、養子に取ったんだ。来年、十になったら忍術学園に入れるつもりだから、よろしくね」 淀みなく答える雷蔵の膝に、子どもが上がってくる。雷蔵の耳元に顔を寄せて、ひそひそと囁いた。外でこの辺では見かけない犬を見た、と。四つで戦忍として働いていた両親を失った子どもは極度に内気で、しゃべるときもこうしてひそひそ話しかできないのだ。しかも、内気すぎて自分の顔をさらすことも厭(いと)う。 まるで、昔の三郎のように。 血のつながらない仲とはいえ、そんな養い子が雷蔵は懐かしく、愛おしかった。 「その犬は忍犬だよ。――このおじさんが連れて来たんだ」 「おじさんって、おい」 竹谷は渋い顔をした。が、雷蔵は構わずに言う。 「ねぇ、竹谷。この子に君の忍犬を見せてやってもいい?」 「あぁ」 頷く竹谷に礼を言って、雷蔵は子どもを連れだした。 「――悪かったな」 竹谷と二人きりになった三郎は、真っ先にそう言った。十年前、あと半年を残して密かに実家に帰ってしまったこと、雷蔵の死を偽装したこと、いずれを取っても友人たちに顔向けができないと思っている。三郎は竹谷に殴られる覚悟さえした。 しかし、竹谷はからからと笑っただけだった。 「いいさ。雷蔵もお前も、それだけ必死だったんだろ? さっき雷蔵の話を聞いたよ。そりゃあ、十年前の俺なら怒ったかもしれない。でも、今はよくやったと言ってやりたい」 「……よくやった……?」 「あぁ。何せ、忍のたまご二人だけで、忍集団に自分たちを認めさせたんだからな。さすが天才・鉢屋三郎と優秀な不破雷蔵――お前たちは、本当によくやったよ」 竹谷はそう言って、学園にいた頃のように三郎の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。淡い色の雷蔵を模した髢(かもじ)がぐしゃぐしゃになる。その感触さえ懐かしかった。 三郎は抗議はしなかった。ただ苦笑して、縁側の向こうへ目を向ける。縁側の先の中庭では、雷蔵が子どもと忍犬とじゃれあっていた。明るい笑い声が辺りに響く。その平和な様にじわりと胸が温かくなった。 「……私はお前に褒めてもらえるようなことはしてないよ」三郎は呟いた。「ときどき、これで良かったんだろうかと思うときがある。雷蔵を死んだことにして、家も家族も未来も捨てさせてしまったし、そればかりか雷蔵本人も変えてしまった」 「変えてしまったって?」 「雷蔵は雷蔵だけど……素のままの雷蔵でいられる時間は短いんだ。あいつは、ほとんどのときを<鉢屋三郎>を演じて過ごしている。だからかな、雷蔵と私は、今ではほとんどお互いの考えが分かってしまうんだ。二人一役で<鉢屋三郎>を演じるために、そうならざるを得なかった。――そんな風に、一緒にい続けるために犠牲にしたものはある。昔と変わってしまったものも」 「そう……だな」 「だから、雷蔵に申し訳なく思うときもある。だけど、仕方のないことだと分かってはいるんだ。人もものも、永遠に変わらないものは何もない。結んだ縁も、望むと望まざるといつかは解けてしまうかもしれない。何もかもが変化する中で、絆を繋いでいくには強い意思が必要なんだと思う。変わっていく自分と相手を受け入れて、共にいようとする意思。それと、多少の幸運が」 すると、竹谷はひどく優しい顔で笑った。 「お前らが将来も一緒にいるんだろうなってことは、俺も兵助や勘右衛門も分かってたよ。多少の幸運? そんなもの、最初からお前の傍にあったじゃないか」 「? どういうことだ?」三郎は首を傾げた。 「昔、勘右衛門が言ってた。勝負に強いのは三郎だけど、賭け事に強いのは雷蔵なんだって。……だって、雷蔵は誰もが諦めるような賭けをやってのける度胸があるんだから」 「くくく……そうだな。違いない」 三郎と竹谷は顔を見合わせて笑った。 中庭から、何も知らない雷蔵が子どもと一緒に、三郎たちに「外へ出てきて遊ぼうよ」と呼びかけていた。 pixiv投下2013/04/28 目次 |