Gangster1
1. 目が覚めると、ベッドの隣はもぬけの殻だった。シキがいない。はっと気づいて、アキラは慌てて跳び起きた。枕元の時計を確認すると、時刻はじきに午前六時になろうとしている。 しまった、五時半には起きるつもりだったのに。 ベッドから飛び降りると、急に動いたせいで腰が鈍く痛んだ。原因は分かっている。昨夜、シキに抱かれていたせいだ。 痛みに顔をしかめながら、アキラはベッドの脇の椅子におざなりに乗せられたシャツを手に取り、素肌の上に羽織った。昨日適当に脱いだ――というよりは脱がされたのだが、床に散らかっていた二人分の衣類を、先に起きたシキが拾っておいてくれたらしい。 適当に山を成す衣類の中から手に取って腕を通してみると、そのシャツは自分のものより幾らか大きいようだった。シャツから僅かに漂う匂いで、それがシキのものだと気づかされた。 しかし、気が急いていたアキラに、シャツを替える余裕はなかった。むしろ、裾の長さで一応身体が隠れるのを幸いに、シャツのボタンを二つ三つ留めて歩き出した。 あられもない格好だが、それで部屋から出るわけでもない。じきに着替えるのだから、問題はないだろうと思った。 大股に寝室を横切って、アキラは隣りに設けられたバスルームへ向かおうとする。そのとき、ちょうどドアが開いて、中からシキが出てきた。バスルームにある洗面台で身支度をしていたらしいシキはこざっぱりとして、着ているシャツも洗い立てのアイロンの利いたものだ。その姿を見て、アキラはちょっと残念そうに顔をしかめてから、がくっとうなだれた。 「すまない。また寝坊した」 「まだ屋敷を出るには早いくらいだ。気にすることはない」 「そういうわけにもいかないだろ。あんたは俺のボスなんだから。あんたに仕え、世話するのが秘書の俺の役目だ」 アキラとしては、同じ部屋で寝る以上は、シキより先に起きて着替えなどの手伝いをすべきだと思うのだ。が、毎回その決意は果たされることはない。 いつも決まって深く寝入ってしまって、結局シキが先にシキが起き出してしまう。 「確かに、お前は俺の秘書だが、今はプライベートだ。閨の内側まで上下関係を持ち込むのは無粋だろう」 不満そうなアキラの頬を宥めるようにするりと撫でて、シキはクローゼットへ歩いていく。アキラはその背を追って、シキが手にしようとしたベストを奪い取った。そして、それをシキに向けて差し出す。 シキはごく自然にアキラの手を借りて、ベストに腕を通した。 「ネクタイは?」 「そうだな……そこに掛かっているものを」 視線でシキが示したネクタイを手に取って、アキラは向き合った。シキの首にネクタイを掛け、たどたどしい手つきながらも結びび始める。 もともとアキラは不器用な性質で、自分のタイを結ぶのにも手間取る方だ。が、最近は慣れて、だいぶましになったように思う。今では手つきこそ怪しいが、結び目自体は綺麗に仕上がるようになっていた。 「よくそんな妙な手つきで、綺麗に結べるものだな。お前は不器用どころか、逆に器用なんじゃないか?」シキが言う。 「それ褒めてないだろ。煩くすると、手を滑らせて首を絞めるぞ」ネクタイに集中しながら、アキラは言い返した。「――シキ、さっきの話だけど」 「あぁ」 「今はプライベートってのは分かるけど、それでも俺はあんたの部下だから。一緒に寝たなら先に起きて、あんたの手伝いでもしなきゃって思う」 「無理をする必要はないと言っている。今も身体が辛いのだろう? ……まぁ、正直な話、こういう状況は悪くはないと思うがな。今のお前の格好は、なかなか煽情的だ」 改めて指摘され、アキラは真っ赤になった。しかし、シキの感想は微妙に間違っているとも思う。 素肌にシャツなどという格好は、女がした方がいい。少なくとも、男の自分がしたところでだらしないだけで、誰一人楽しくないだろう。 「煩い。急いでたんだよ――って、そうだ、時間! 時間がない。十分……いや、八分で準備するから、待っててくれ!」 「俺に構って自分の身支度の時間がなくなるのでは、意味がないだろうに」 慌てだしたアキラの様子に、シキは苦笑の混じるため息をこぼす。それを聞きつけたアキラは、凄まじいスピードで身支度をしながら、言い返した。 「だから! あんたに仕えるのは俺の仕事なんだ!」 「……仕事熱心なのはいいことだな」 シキは肩を竦め、ベッドに腰を下ろしてアキラを待った。 二人が身支度をして朝食を終える頃には、屋敷の門の前に車が用意されていた。玄関を出ると雨が降っていたので、アキラはシキに傘を差かけて車までの短い道のりを歩く。運転手がドアを開けた後部座席にシキが乗ると、アキラも反対側へ回ってシキの隣へ乗り込んだ。 ほどなくして、車は滑るように走り出す。その振動を感じながら、アキラはポケットから手帳を取り出した。 「――それでは、ボス、本日のご予定ですが……」 寝室とはがらりと異なる秘書の貌で、淡々とシキのスケジュールを読み上げていく。シキは黙ってそれを聞いていたが、ふと何かに気づいたらしく、アキラの方へ手を伸ばしてきた。 長い指先が、つとアキラの首筋をなぞる。 皮膚に与えられた僅かな刺激にアキラが息を呑むと、その反応にシキは小さく笑った。 「どうした? 感じたか」 「……いいえ。もう仕事の時間ですので、悪ふざけはお止めください」 「悪ふざけではない。ネクタイの結びが甘いのを、指摘しただけだ。……それにしても、綺麗に痕が残っているな」 シキは二度三度と、アキラの首筋のある一点を撫でた。が、不意に「結んでやろう」と言ってアキラのネクタイを直し始めた。アキラは慌てたが、狭い車内では離れようもない。諦めて、為されるがままになっていた。 最後にシキは「おまけだ」とアキラの唇に軽く口づけて、離れていく。 「……あんた、こんなとこを見られたら、下の人間に示しがつかないぞ」 アキラはため息をつき、つい素の口調で言った。それでも、実際のところはそう思っていなかった。シキには、カリスマ性というのか、妙な威厳がある。シキがどんな格好の悪い真似をしようとも、シキがシキである限りは、部下たちはシキをボスと認めるだろう。 そういうカリスマ性こそ、リトル・トシマのヤクザ・ヴィスキオ一家の弁護士でしかなかったシキがボスになった一因なのだから。それでも。 (あまり示しがつかないのも、困るんだよな。威厳のないヤクザのボスってのも、格好がつかないし……) 秘書としてそんな心配をしながら、アキラは車の窓の外を見る。 リトル・トシマの街には、今日も雨が降っている。 2. 世界を二分した三度目の戦争――第三次世界大戦。 軍国主義体制を取って、覇権とエネルギー資源を得ようと参戦したニホンは、戦争に敗れた。そして終戦後、ニホンを危険視する国連の手で政府が解体され、ニホンの領土はとある大国に併合されてしまう。国民は国籍を変えられ、こうして、ニホンという国家は消滅したのだった。 ニホン併合後、大国は賠償金の代わりにと、高額の税金を元ニホン国民に課した。これを不服として、貧困に喘ぐ元ニホンの領土を脱出した人々は、移民として各国へ流れ込む。しかし、こうした移民たちは、移民先で歓迎されることはほとんどなかった。 各国は既に人口問題や増加する移民の問題を抱えており、簡単に移民を受け入れられる環境ではなかったのだ。元ニホン人たちは、自分たちを守るため、仲間同士の結束を固めて助け合うしかなかった。そうしてできた集団の一つが――ヤクザだった。 アキラは、ニホンという国を知らない。 シキはニホンで生まれたそうだが、両親と共にすぐこの国へ移り住んだのだという。アキラやシキのように、ニホンを知らない世代は増えつつある。 それでも、まだ移民やその子どもはこの国では、半ば余所者扱いをされる。そのため、移民たちは身を寄せあうようにして住み、そこはいつしかニホンの都市の名で呼ばれるようになっていた。 ここ、リトル・トシマも、そんな街の一つだ。 こうした街には貧しい者が多く、犯罪が多発する。それでも、この国は福祉の手を差し伸べることはしないし、警察も賄賂のやり取りをしているばかり。彼らに代わってリトル・トシマに一定の秩序をもたらしているのは、皮肉なことにこの街を拠点とする日系マフィア――『ヤクザ』――ヴィスキオ一家だった。 一年前、先代のボスに指名され、シキはそのヴィスキオ一家のボスになった。これは、異例のことだといえる。当時シキは一家の専属弁護士に過ぎず、先代ボスにもキリヲという右腕がいたのだから。が、周囲が気を揉んだのとは裏腹に、キリヲはあっさりとシキの部下に収まり、全てはスムーズに進んだ。 今では、シキ以上にボスに相応しい人間がいるとは、一家の誰も思っていないだろう。 アキラは一年前からはシキの秘書をしているが、元はヴィスキオ一家の人間ではない。シキがボスになる以前は、弁護士であるシキの下で使いっぱしりのようなことをしていた。使いっぱしりになる前は孤児で、それも十四まではヴィスキオの寄付で経営されている児童福祉施設にいた。 十五のとき。アキラは施設を出て、Bl@sterという賞金付きのバトルゲームに参加した。優勝すれば、賞金が手に入るからだ。その金で、アキラは施設を出たかった。施設の孤児は増え続けて、定員オーバーになりつつあったからだ。 幸いにもアキラは喧嘩が強く、Bl@sterで優勝して賞金を手に入れることができた。しかし、結果的にそれは、災いを呼んだ。 ある日、リトル・トシマと境を接する高級住宅街で、強盗事件があった。アキラは、その強盗の一人ではないかと疑われた。素手で被害のあった屋敷のガードマンを倒したということから、警察は喧嘩の強い者が怪しいと睨んだのだ。 もちろん、冤罪だった。それでも警察は最初からアキラを犯人と決めてかかり、警察署へと連行した。 その数時間後、なぜか警察に当時まだ弁護士だったシキが現れた。シキは警察の証拠不十分を追求して、たちまちアキラを解放させてしまった。自由になった帰り道、アキラは思わずシキに尋ねていた――なぜ自分を助けたのか、と。シキはその場で、ヴィスキオのボスがアキラの名付け親であり、名を与えたアキラのことを気に掛けていたからだと明かした。 しかし、シキがアキラを助けに来たのはボスの指示でなく、たまたま状況を知ったシキが独断で動いたことらしかった。最初アキラはシキに感謝したが、すぐにその気持ちは薄らいだ。シキ自身が尊大に、助けてやった借りを返せと言ったからだ。 シキの尊大な態度は気に食わなかったが、助けてもらったのには違いない。アキラは借りを返すために、シキの事務所で働き始めた。ろくに学校を出ていないアキラには、弁護士の仕事は分からない。それでも、アキラにできるような雑事も多くあり、仕事には事欠かなかった。 以来、何だかんだで三年ほど、シキの傍にいる。 今、ボスであるシキに部下は多いが、彼らはボスとしてのシキに忠誠を誓っている。アキラは一年前シキと共に正式にヴィスキオの一員になったが、シキに対する忠誠はシキ個人との間にあるものだった。 二人がヴィスキオ本部に行くと、事務所には幹部の一人である源泉が既にいた。昨夜から帰っていないのだろう。ヴィスキオの資金繰りを担当する源泉はとりわけ多忙で、たまに事務所に泊まり込むことがある。 ヴィスキオは、街一つを拠点とする、規模で言えば小さな組織だ。大きな組織に比べれば、台所事情は決して楽ではない。それでも、街で寄付したりしてバラ撒かなければ、地元の住民の信用を失ってしまう。節約しようにもそう簡単ではなく、源泉は苦労している。 徹夜明けの源泉は、ぼんやりした表情でシキと仕事の話をしている。小難しい単語の混じる会話を聞くともなく聞きながら、アキラは二人にコーヒーを出した。 源泉はコーヒーを飲み干して、ふらふらと帰っていく。一時自宅で眠り、また昼頃に本部に出てくるのだろう。 シキも飲み終えたカップを置き、ソファから立ち上がる。 こうして、ヴィスキオ一家の一日が始まる。 (再録2009/11/01) 目次 |