ジョーカー1 *トシマ脱出後一年、シキとアキラの日興連軍所属時代。 トシマを脱出して一年が過ぎた頃、アキラはシキと共に日興連に身を寄せていた。nの血を受けてニコルウィルスの適合者となったシキは、ウィルスをねじ伏せて自らの支配下に置こうとしていた。つまり、ウィルスを思いのままに利用することを考えたのだ。 シキは、自分の考えを実現させるために、日興連と手を結ぶことに決めた。そこで、シキはトシマ脱出早々に日興連の軍に話をつけて、早速軍属になってしまった。ニコルウィルスを活用するといって、その使い途はかつての研究実績もあう軍事部門が一番だろうとシキは考えたのだ。 この呪われたウィルスの力を使って、どこまでのことができるか――それが新たなシキの関心ごとになった。 アキラは、トシマ脱出以来シキと共に行動していた。特に命じられたわけでもなければ、強制されたわけでもない。それでも、従わねばならないという気がしたのだ。また、シキもアキラが自分に従うことを、当然のような態度を取っていた。 シキはニコルウィルス研究への協力を条件として、日興連の軍に配属されて中佐となっている。アキラもまた同様に軍に入り、シキが希望したのか日興連側が配慮したのか、シキの部下として少尉の待遇で迎えられた。それから一年。自分でも上手くやっていると、アキラは思う。 もともと軍人は嫌いだった。生活態度としても自分はいい加減な方で、とても軍人に適しているとは思えない。この一年の訓練で随分軍人らしい態度は身につけたが、特に軍人という職業が気に入ったわけでもない。それでも今も軍に居続けているのは、ひとえにシキが軍にいるからだった。 内戦の最中にある日興連は、経済的に苦しい状況にある。かつての第三次世界大戦の頃ほどではないというが、市民には砂糖や燃料などの使用制限が勧告され、制約のある生活が行われている。日興連にしろCFCにしろ、まだ戦争をするには経済力が十分とはいえない状況で内戦が始まったためだ。 年末も押し迫った十二月半ばのこの日、アキラは、久しぶりに間近に夜の街の明かりを目にしていた。軍の階級では上官にあたるシキを車で官舎に送るため、上に前線での報告をしている彼を待っているのだ。 今日までアキラは、シキと共に前線に行っていた。つい最近ニコルウィルスを原料とするラインの改良型の効果をテストするためだった。テストでは、改良型ラインを投与した兵士たちはCFC兵士との白兵戦で目覚ましい戦果を上げた。シキはその詳細なデータを基地に持ち帰り提出し、日興連軍上層部を唸らせた。もとより日興連はCFCに戦力の点で劣っている、じきに改良型ラインを実戦に取り入れるだろう、というのがシキの見方だった。 シキがどうして自分にそこまで考えを話すのか、アキラには理解できなかった。不審に思うあまり、アキラは「どうしてか?」と尋ねたほどだ。 すると、シキは薄く笑みを浮かべて、こう言ったものだった。 『俺は日興連の一軍人で終わる気はない。お前に関しても、たかが一兵卒で終わらせる気はない。これまでも、俺はそのようにお前を教育してきた。これからもそうするつもりだ。お前も、そのことを心しておけ』 確かに、シキの性格からして、ただ日興連の軍人として使われる立場で終わることをよしとするはずはない、ということは分かる。しかし、シキがどこを目指しているのか、自分自身はシキに従ってどう変わろうとしているのか、アキラには見当もつかなかった。 将来自分がどうしているのか全く見えない。そのことにアキラは不安を抱いていた。 アキラはもうかなり以前から、人生のレールのようなものを踏み外してしまっている。トシマに行く前、ミカサでBl@sterの賞金で生活していたのがいい証拠だ。けれどミカサにいた頃の先の見えなさと、今の先の見えなさは、全く性質が異なっている。 ミカサにいた頃は、アキラは自分の将来について、Bl@sterで稼げなくなったらつまらない仕事に就いて生き、生活できなくなったら一人で死んでいくのだろうと思っていた。せいぜいのところがそのくらいの人生だと見切ることはできたのだ。 しかし、今はそうではない。シキはジョーカーのような男だ。とんでもないタイミングで、アキラの予想もつかないようなことをやってのける。日興連に自分の身を保護させ、代わりにライン研究の材料を提供、自分も軍属の待遇で研究に参加――この一年のうちにシキがやってのけたことが、もう既にアキラの理解の範疇を軽く越えていた。自分がこれからどうなるのかは、シキの一存に懸かっている――ミカサの頃と違って、完全な闇の中だ。旧祖地区の、街灯一つない夜と同じだ。 前線報告が長引いているのかシキはなかなか現れず、アキラは手持ち無沙汰でラジオをつけていた。ラジオはしばらくニュースを流していたが、やがて番組が変わり、今年も終わりだというトークの後に女のゆったりとした歌声が流れ出す。アキラは歌声を聞きながら、ぼんやりと明ける年のこと――その先の未来のことを思った。 やがて、コツコツと窓ガラスがノックされる。ノックの音で顔を上げると、シキが少し身を屈め、車内をのぞき込んでいた。シキの顔に浮かぶ微かな笑み、それでも変わらぬ苛烈さを宿した眼に、一瞬目を奪われる。それからすぐに我に返って、アキラは車を降り、シキへと向き直った。 「失礼いたしました、中佐」 「いや、待たせたな。今日はこのまま官舎に戻る予定だったが、予定変更だ。飲みに行くことになった」 と、シキは視線で背後に立つ同僚を示す。他にもシキの同僚や上官が駐車場に出てきており、車に分乗しているところだった。皆、そろって同じクラブへ飲みに行くのだろう。 さしずめ忘年会といったところか。 「承知いたしました」 アキラは頷き、シキと彼の同僚のために車の後部座席のドアを開けた。 車に乗り込んだシキは、基地から少し離れたあるクラブへ行くようにとアキラに告げた。日興連軍――特に幹部クラス御用達の高級クラブだ。軍に入ってからはアキラも多少酒を飲むことを覚え、同僚と飲んだりシキのお相伴に預かることもあったが、幹部クラスが使うほどの高級クラブなど近づいたこともなかった。 (――あんた、そんなとこ行って大丈夫なのかよ……?) アキラは、高級クラブに行くシキのことを心配をした。今はエリート然とした澄まし顔で日興連軍中佐の地位に収まっているシキだが、そもそもの出自は犯罪者なのだ。クラブで他の将校と共に飲めば、さすがにエリートとはほど遠い元犯罪者のボロが出るのではないか。しかし、アキラの心配を余所にシキは落ち着き払ったもので、悠然とした態度で同僚と話している。 そんなシキの世慣れた様子に、アキラは自分ひとり軍という慣れない世界に放り出されたような気分になる。後部座席で交わされる軍の幹部同士の専門的な用兵についての会話から意識を逸らし、殊更に運転に集中した。 *** 軍幹部御用達の高級クラブは、あるビルの地下にあった。政府から燃料などの使用制限勧告が出ているので、大っぴらに地上にネオンの看板を出してはいない。それでも、そのクラブの存在は軍の幹部には知れ渡っている。近場で幹部クラスが飲みにいけるクラスの店となると、今はその店くらいしかないため、店は繁盛しているようだった。 店の裏の駐車場に車を停めると、シキは同乗してきた同僚と共に車を降りた。それから、アキラへは遅くなるから帰ってもいいと言う。 「分かりました、それでは連絡をいただければすぐにお迎えに参ります」アキラは言った。 「いや……その必要はない。今日は前線から戻ったばかりで疲れただろう。お前は帰ってゆっくり身体を休めるがいい」 「ですが」 なおもアキラがためらいを見せると、傍にいたシキの同僚が、ならばアキラも連れて行ってはどうかとシキに提案する。シキは数瞬考えた末に、仕方ないというような顔で「ならば、共に店に入るか」とアキラに尋ねた。 正直、気疲れしそうな高級クラブに入るのは嫌だった。けれど、シキを置いて帰宅することをためらった以上、ここで「やっぱり帰る」と言うわけにもいかない。 アキラはためらいながらも、頷くしかなかった。 幸いにも、アキラの他にも別の幹部の供をしてきた下士官が数名いて、アキラはクラブの中でそれほど浮き上がらずに済んだ。 店内では幹部たちは幾つかのテーブルに分かれ、店の女を侍らせて談笑している。その傍ら、アキラたち下士官は酒を飲む余裕はなく、給仕のように幹部たちに気を遣って動いた。 アキラはこうしたことが苦手だったが、シキに仕込まれたので最近では人並みの振る舞いをすることができるようになっている。酒が足りているかに気を遣い、幹部たちのグラスが空になっていればまめまめしく酌をした。少し器用な下士官ともなれば、自らの顔を売る機会とばかりに積極的に幹部たちに酒を注いで回り、行く先々で談笑などしている。アキラにはそこまでの器用さはなく、気疲れのする思いで早く終わればいいのにとばかり思っていた。 シキは気疲れしないのだろうか。 そっとうかがうと、シキはごく寛いだ様子で他の将校と話している。そればかりか、店の女もシキの傍に行きたがるため、彼はいつも人に囲まれていた。シキは、虚勢ではなく、こうした場に慣れているようだ。 そういえば、とアキラはふと気づく。自分は、シキのことはトシマの頃と第三次大戦で戦場に出ていたということの他、何も知らない。トシマではシキは犯罪者であっても、もともとは名家の出ということも考えられた。 そうすると取り残されたような気分で、アキラはますます身の置き所がないような気がしてきた。今の酒宴の場だけではない、日興連軍に自分がいること自体が間違いなのかもしれない。 やがて、酒宴が終わると将校たちはそれぞれの車に乗り込んだ。アキラもシキと彼の同僚が乗車したのを確認すると、車を出して官舎へ向かおうとした。 それを、シキが止める。 「アキラ、今夜は官舎には送らなくていい。この先の道を真っ直ぐ行け」 「……はい」 シキは、あるホテルの名を行き先として告げた。そこでアキラははっとした。誰が手配したのかは知らないが、幹部たちには女が宛がわれるのだろう――もちろん、シキも。この後シキが女を抱くのだと思うと、アキラはなぜか平静ではいられなかった。 トシマでは散々にアキラを抱いたシキだが、トシマを出てからは全く触れてこなくなった。もう一年余りになる。もっとも、それも当然といえば当然のことだった。トシマには女がいなかったから、男が――時には死体になっていてさえも――女の代用品にされた。しかし、ここはトシマではない。女などいくらでもいるし、シキほどの容姿ならば放っていても女が近寄ってくるはずだ。それなのに、シキがわざわざ男である自分を抱く必要性は全くない。 (それでいいじゃないか。俺だって男に抱かれたいわけじゃない……むしろ、あれは屈辱だったんだから) そう心の中で呟いてみたが、自分でも言い訳じみてるように思えた。 この一年余り、アキラは誰とも性交渉を持っていない。機会はなかったわけではなかった。女を買おうと仲間に誘われたこともあるし、言い寄ってくる女もごく稀にだがいた。けれど、そんな気分にはなれなくて、全ての誘いを断っていた。軍の生活に馴れるのに苦労していて余裕がなかったというのもあるが、心のどこかでシキが許さないだろうと考えていたのも事実だ。シキに操を立てていたわけではないのだが結果的にそうなってしまったこと、そしてシキは自分に対して関心を持っていなかったのだろうということに今更気づき、アキラは言い様のない悔しさを覚えた。 といって、シキを詰るのも筋違いな話だ。 アキラは怒りをぶつける場もないまま、黙々と車を運転してホテルへと入った。そうして、車を降りたシキと同僚を既に女の待っているらしい部屋まで送る。先にシキの同僚を送り、アキラは続いてシキと共に彼が泊まる予定の部屋へと向かった。 ホテルは、そこそこ格式が高いらしく内装が上品で、時折すれ違う従業員も折り目正しく礼をして通り過ぎる。ホテルの廊下は人気がなく、足音は床の絨毯に吸い取られて消えていくので、居心地が悪くなるほど静かだった。 アキラは唇を引き結んでシキの傍を歩いた。あまり刺々しい態度は上官への礼を失することは分かっていたが、この後シキがホテルの一室で行うことを思えば軍の下士官らしい態度を装う気にもなれない。 と、そのとき。 「――何を拗ねている?」シキが尋ねた。 「……拗ねてなどおりません」アキラはぶっきらぼうに言った。 「拗ねていないなら、何だ?」 「何だ、とは何に対してのご質問ですか、中佐」 「俺に対して思うところがあるのだろう? 言ってみろ」 「思うところなどありません。私はいつも中佐の戦果は素晴らしいものだと尊敬申し上げております」 「心にもないことを。アキラ、お前は軍に入ってものの言い方を覚えたが、同時に嘘も上手くなったな」 「心外です」 そのときシキの泊まる部屋が見えてきて、二人の不毛な会話は打ち止めになった。アキラは部屋の扉の前で、ごく事務的に一礼した。 「それでは中佐、私はここで失礼いたします。明日朝お迎えに上がりますので――、」 「アキラ」不意にシキがアキラの腕を掴んで引き寄せる。「俺が女と寝ることに、嫉妬しているのだろう?」 「……お戯れを」 アキラが身動きすると、シキはあっさりとアキラの腕を放した。腕を組み、面白そうな目つきでこちらを見下ろす。その余裕のある尊大な表情に、ちりちりと反発心に火が点くのが分かる。アキラはあからさまにシキを睨み付けた。すると。 「一緒に、部屋に入るか?」 「――は……?」 「一緒に部屋に入るか、と尋ねている」 「何を……」 何を馬鹿な、とアキラは鼻で笑おうとしたが失敗した。シキは露出趣味でもあるのだろうか。だから自分に、女との行為を見せたいのだろうか。それとも、見せ付けてこちらの反応を楽しみたいのか。いずれにせよ、悪趣味というより他にない。仮にアキラが部屋に入ったところで、シキはいいとしても相手の女は嫌がるだろうに。 アキラは本気でシキのことが分からないと思った。 トシマでは散々自分を抱いたかと思えば、トシマを脱出してからは放置しきっている。ノーマルかと思えば、女を抱く場に立ち合えなどと言う。いったいこの男は、自分をどういう存在だと考えているのか――。 「俺は、帰ります」 やっとのことでアキラはそう言った。怒りや疑念や嫉妬を抑えながら言ったため、声は低く掠れていた。しかし、シキはそんなアキラの努力を一蹴してしまった。 「許さん。一緒に来い。……命令だ」 「そんな命令……! ――……いえ……分かりました。ご一緒させていただきます」 するとシキは満足そうに頷き、部屋のドアを開ける。アキラはシキの後について部屋へ入った。奥のベッドルームに既に女の気配があるのを感じてしまい、不快な種類の緊張が勝手に背筋を這い上がってくるのが分かった。 (2010/01/24) 目次 |