ジョーカー9






 ――私を殺して、少尉。


 アキラは束の間、何を言われているのかが理解できなかった。数秒してやっと意味が分かると、アキラは激しく頭を振った。
「何を馬鹿な」
「……警察や軍の尋問は、おそらく苛烈なものになるはずです。私は尋問に耐えきれず、全てを告白してしまうかもしれない……だから、死んで口を閉じるのが一番いいんです」
 女は頑なに言い張った。
 軍の上層部にシキの目的を知られてはいけない、と彼女は主張した。というのも、シキの政治的な力はまだ弱いからだ。軍の上層部に中佐が何をしようとしているか知って圧力をかけてくれば、まだ今のシキには耐えられないだろうというのだ。
「だめだ。非戦闘員のあんたを、犠牲にするわけにはいかない。非戦闘員を踏み台にして新しい世を作るのでは、日興連や旧ニホン軍がしてきたとの同じになる……」
 アキラは必死に言った。しかし、彼女は微笑して首を横に振るばかりだ。
「私は非戦闘員ではありません。中佐のために働くと決めたときから、私は戦闘員にないました。……さぁ、少尉、私を殺してください。そして、警察と軍には私はシマダ少将の仲間で、少将の命を受けて中佐をスパイしていたのだと言って。仲間割れして、私が少将たちを殺して逃げようとしたから射殺した、と」
「何だって……!?」
 彼女は、生命を投げ出すだけでなく、自分が仇である男の仲間だったことにしようとしている。シキのために働いてきた功績も名誉も投げ捨てて、自分を犠牲にしてなおシキの未来に繋げようとしている。

『駒は、時には犠牲になって道を開くもの』

 アキラは今になって、彼女が自らをチェスの駒になぞらえて説明した意味を悟った。駒としての生き様――そのあまりの壮絶さに打たれて、束の間、動けなくなる。
 そうするうちにも、パトカーのサイレンが近づこうとしていた。
「さぁ、その手の銃で私を撃って……どうか私の死であの方の道を切り開いて」
 女が微笑しながら、アキラに手を差し伸べる。その動作で何かのスイッチが入ったように、アキラは銃を構えて引き金を引いた。
 一発、二発。銃弾が女の胸と腹に命中する。撃たれた衝撃で女は床に倒れた。アキラが駆け寄ると、彼女はまだ弱々しく息をしていた。
 震えながら持ち上げられたその右手を、思わず縋るように握りしめる。
「――少、尉……」女は囁くように言った。「ありがとう……これで、娼婦に落ちてしまった……汚れた自分から……解放される…………。どうか、あの方と新しい世を、作って…………強い国……弱い者も虐げられない世を…………」
 おねがい、と唇を動かした後に、彼女は息を引き取った。それでもアキラはしばらく握った彼女の手を放せないままでいた。


***


 シキは拘束中の部屋の中で、シマダ少将と女の死を知った。正直シマダ少将の死には何の感銘も受けなかったが、女に対しては申し訳なさと憐憫を覚えた。けれど、それもさほど思ったほど強い感情ではなかった。
 ここに至って、シキはようやく悟った。取り込んだニコルウィルスによって、己の中の常人の感情は死んでしまった。はっきりした感情として残っているのは狂気、そして対の存在であるアキラへのだけだ。
『――化け物だ!』以前戦場で敵兵が己を指して叫んだ言葉が脳裏に蘇る。
 なるほど、ここにいるのは人の皮を被った化け物に違いない。シキは一人きりの部屋の中で、皮肉げに笑った。


 監査部門の老大将は、警察からシマダ少将の死の連絡を受けると、すぐにシキの拘束を解くように指示を出した。シキの殺人容疑は冤罪の可能性が濃厚であったため。だが、それ以上にシマダ少将の死によって戦時中だというのに軍幹部に欠員が出たため、人材を余らせておく余裕がなくなったというのが大きいだろう。
 理由はどうあれ、シキにとっては解放されたことが重要だった。
 拘束が解かれると、シキはその足で同じ監査部門の建物の一室にいるアキラを訪ねた。アキラは警察が駆けつけたとき、シマダ少将の死の現場に居合わせたらしい。一時警察に保護された後、軍が身柄を引き取って今は監査部門での事情の聴取を待っているという。
 アキラの待機している部屋は、ごく簡素な机とパイプ椅子だけの置かれた部屋だった。同じ部屋の中に付き添いの監査部門の職員がいたが、今回アキラは殺人容疑ではないため、シキが入っていくと面会を許可して席を外した。
 二人きりになると、アキラはうつむかせていた顔を上げ、シキを見た。その顔に憔悴の色がある。無理もない、とシキは思った。なぜなら、アキラはその手で女を撃ったのだから。
 警察の調べでは、女がアキラに襲いかかったためにアキラが『正当防衛で』銃を撃ったことになっている。が、それが真実ではないことはすぐに分かった。現場でアキラと女がどういうやり取りをしたのかも、二人をよく知るシキには予想がついていた。
「アキラ」
 シキはアキラに近づき、子どもにするように跪いて顔をのぞき込んだ。今にも泣きだしそうな目が、シキを見返した。
「申し訳ありません……」アキラは押し殺した声で言った。「俺が彼女を……全ては俺の弱さのせいです。俺があなたの代わりに冤罪を受けていれば、こんなことには……」
「お前のせいではない」
「いいえ……俺のせいです。――中佐……シキ、あなたに誓います。俺はもっと強くなる。こんなことがもう二度とないように……あなたの傍にいられるように……強くなる」
「アキラ、」
 そのときだった。ノックの音が部屋に響く。シキがアキラから離れて立ち上がったタイミングでドアが開き、監査部門の職員が顔を見せた。
「――少尉、大将以下の監査部門幹部がシマダ少将を発見したときのことで話が聞きたいそうだ」
「……分かりました」
 アキラがパイプ椅子から立ち上がり、シキに「行ってきます」と告げる。シキはアキラに言葉を掛けようとして、結局何も言えなかった。アキラの表情が先ほどとは打って変わって、毅然として何か侵しがたい意思の強さを湛えていたからだ。

 ここにいるアキラは、もう子どもではない。
 守り、教え、導くべき存在ではない。
 ここにいるのは、自ら判断し、行動することのできる一人前の男なのだ。

 シキは寂しさを覚えながら部屋を出ていくアキラの背中を見送り、ふと息を吐き出した。
 死んだ女を愛していたわけではない。けれども、かけがえのない同志だとは感じていた。女の死を深く悼んでやれるアキラが少し羨ましい。己もアキラのように悲しんでやれればいいのだが――と失った感情を思った。
 少しだけ、虚無に囚われた亡きプルミエの心情が分かった気がした。


***


 翌年の早春、アキラはコウベの街の郊外――セトの海沿いにある墓地を訪れていた。一年前、警察も死んだ彼女の素性を調べられず無縁仏として扱われていたのを、シキが引き取ってそこに埋葬したのだ。
 日興連の勢力圏は西日本だが、それにしても、なぜ首都でもないコウベなのか。不思議に思ったアキラが尋ねると、シキは昔彼女の一家が住んでいたことがあるからだ、とだけ答えたものだった。
 シキは墓地の中でも見晴らしのいい、海の見える場所を選んで墓を建てた。そうして、一年後の今、アキラは緩やかな丘を登って彼女の墓へ向かっている。
 早春の海風は冷たく、肌寒かった。それでも、空はからりと晴れて夕方の日差しがへと降り注ぎ、海面がキラキラと輝いている。まるで光の海のようだった。
 シキがこの場所を墓に選んだことは、きっと彼女の意にかなっただろう。アキラは一度振り返って海を眺めながら確信した。


 やがて彼女の墓に着く。シキが管理人と定期的に墓の掃除をする契約をしているため、滅多に訪れないにもかかわらず、墓は綺麗だった。アキラは墓前に持ってきた花と線香をあげ、手を合わせた。
 もうすぐだ、と心の中で彼女に呼びかける。
 今日、アキラが彼女の墓参りに来たのには、理由があった。シキがクーデターを起こす日が決まったのだ。成功すれば、彼女とシキの目的である新しい世が実現する。アキラは彼女にその報告に来たのだった。
 シキも来たがっていたのだが、クーデターを間近に準備に追われて来ることができなかった。代わりに、とアキラはシキからあるものを託されて来ている。
 ひとしきり手を合わせると、アキラは踵を返して元来た丘を降りて海の前で立ち止まった。墓参りをする間に日が傾き、海は西日を移して柔らかな薄紅に色を変えている。その海の色に彼女の面影を思い出しながら、アキラはコートのポケットからシキに託されたものを取り出した。それは、金で装飾された勲章だった。先日、シキに贈られたばかりのものだ。

『俺はお前のようなあの女の死を悲しむための感情を、失ってしまった。哀悼の意は結果を出すことで示そう。――この勲章は彼女への餞に……セトの海にでも投げてこい』

 授与式の後、シキは惜しげもなく勲章をアキラに渡して言った。
 軍人の服装規定で、改まった場では勲章をつけなければならないとされている。勲章を捨ててしまえというシキの言葉は、今後は日興連の権力に束縛されないという意思の表れだとも言える。つまり、シキは日興連からもらった勲章を餞にすることで、彼女に決起の報告をしようというつもりらしかった。
(――見ていてくれ。あんたの犠牲が未来につながったことを示してみせるから……シキは必ず結果を出すから)
 アキラは心の中で呟いて、勲章を海に向かって投げた。きらきらと夕日を反射しながら弧を描いて落ちる。海は海面に落ちた音すら聞こえないままに、勲章は淡い紅に染まる海へと消えていった。






2010/05/15


前項
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