ジョーカー8






 老大将の元から戻ると、アキラは早速異議申し立ての書類を監察部門に提出した。スズハラ大尉と相談して、書類はアキラとスズハラら数名の連名にした。
 アキラたちが提出した異議申し立ては、握り潰されることなく、処理された。通常と比べれば、迅速すぎるほどだ。これには、監察部門の総責任者の意向もあったのだろう。アキラと老大将の会見は、それなりに有意義だったということになる。
 書類は迅速に処理され、再審議が行われることになった。世間の裁判のように再審議の場にシキを喚ぶことは許可されなかったので、アキラは少し落胆した。ひと目でもシキに逢えると期待していたからだ。
 そんなアキラを、再審議に付き添ってくれているスズハラが慰めてくれた。
「まぁ、いいじゃないか。中佐の冤罪は必ず晴れる。そうしたら、無事な顔がいくらでも見られる」
「……そう、ですね」アキラは頷いた。「そもそも、つまらない冤罪の再審議の場に来ていただくのは、中佐に申し訳ないです。俺たちだけで解決してしまわなければ」
「おぉ、萎れてるかと思えば、なかなか言うな、少尉」
「というより、それくらいの気分でなければやってられません」
 シキの同席は許されなかったが、実際のところ、アキラたちにとって然程の痛手にはなっていない。冤罪の証拠集めは、軍の下層にいるシキの支持者たちの協力のお陰で、十分にできていた。
 また、シマダ少将の動きを探ってくれている女の働きも大きかった。彼女がもたらした情報により、シマダ少将とワタナベ大佐の間に確執があったことが明らかになった。同時に、事件の日にアキラが現場近くですれ違った少佐については、母親が危篤になり前線から戻る際にシマダ少将に便宜を図ってもらったという証言もある。その上、シマダ少将が軍の総務部に掛け合って少佐の母親に対して、通常より多額の見舞金を出させたことも調べがついていた。
 このことから、数回目の再審議の席で同席していた老大将はシマダ少将にも審議に出席を求める決定を下し、本人に伝えた。しかし、約束の日にシマダ少将が再審議の場に現れることはなかった。
 こうして、再審議の日程の大半が終わる頃には、監察部門の人間たちの間でさえシキは無実であるという空気が漂い始めていた。
 シマダ少将が欠席した数回目の再審議は監察部門側もかなりシキの無実に傾いて終了した。その日の前日からシマダ少将は無断で欠勤しており、そのことも皆の不審の印象を強めたに違いない。その日の審議を終えるとき、老大将は次回にはシマダ少将を強制的にでも審議の場に連れ出すことを宣言した。
 シキの解放が近付いている。嬉しい実感に胸を弾ませながら、アキラは審議の途中経過を情報提供者である彼女に真っ先に知らせようとした。が、何度連絡を取っても彼女に繋がらない。
 胸騒ぎを覚えながら、アキラは彼女の属する娼館に客を装って問い合わせを入れた。本来なら、取り決めた方法以外でコンタクトを取るべきではない。しかし、そうも言ってはいられない。
 店の者に尋ねても、前日から彼女の居所は分からないという返事だった。娼婦という商売柄、そんな風に急に連絡を絶つ者も珍しくないらしい。
 アキラはいよいよ不安になった。
 彼女は、今回の思いもかけなかったシキの冤罪を晴らすため、大きな働きをしてくれた。そのためにかなりの危険も冒したはずだ。


 その翌日、シマダ少将と一緒に呼び出されることになっていた少佐――事件当時、アキラと現場近くで出会っていたあの少佐が、自殺したという報せが入った。少佐は自宅近くの林で首を吊って死んでいたのだという。彼の妻は夫が自殺するはずはないと訴えているらしいが、今のところ警察は他殺は疑っていないらしい。
「本当に自殺なのでしょうか」アキラはスズハラにそっと漏らしたものだった。「少佐は自殺するような方とは思えません。それに、今のタイミングで自殺というのは、あまりにも……」
「あぁ……『あちら』にとっては都合がいいだろうな」スズハラも頷いた。『あちら』というのは、もちろん、シマダ少将側ということだ。
 どうも後味の悪い思いのまま、アキラはデスクワークに戻った。机の上に、外部からの郵便物が来ている。封筒に差出人の名もなかった。封を切って中の便せんを開く。いくらも読み進まないうちに、アキラは自分の血の気が引いていくのを感じた。
 便せんには、シマダ少将からの取引の申し出が書かれていた。シキの冤罪をなしにする代わりに、アキラが提出した異議申し立てを取り下げろというのだった。こちらに有利に審議が進んでいる今、応じるメリットもない申し出である。
 しかし、更に続けて書かれていた内容が問題だった。少将は自分の妾がシキのスパイであったことに気づき、彼女の身柄を拘束しているらしい。少将の申し出を受けなければ彼女に危害を加える、と手紙の文面はほのめかしている。
 手紙の最後には、双方の利害を詰めるために会って話そう、と場所と日時が指定されていた。
 

 その夜、アキラはスズハラにだけ電話をして手紙を受け取ったことを話し、シマダ少将の呼び出しに応じる意思を告げた。当然ながら、スズハラは罠だと反対した。当然の反応だ。取引などしなくても、シキの冤罪を晴らすことはできる。その上、シマダ少将を失脚させる機会にも繋げられるかもしれないのだから。
 それでも、アキラは取引しようという意思を変えなかった。
「今回がチャンスなのは分かります。しかし、冤罪が晴れれば、中佐なら自らシマダ少将を追い込む機会をお掴みになるはずです。対して、今回の取引に応じなければ、俺たちは中佐に忠実な情報提供者を……同志を失うことになる。ともかく、彼女を救わなければ」アキラは言った。
『アキラ。こう言っては何だが、彼女は取り替えのきく駒でしかない。彼女のような情報提供者は、いくらでもとは言わないが、なり手がいる。今、彼女と引き替えに中佐の政敵を潰す機会を失うわけにはいかない』
 何が重要かよく考えろ、とスズハラは言う。普段の気さくで面倒見のいいスズハラからは想像もつかないような、無機質な声音だ。電話の向こう側にいる相手が自分の見知らぬ人間であるような気分に囚われる。
「……それでは駄目な気がするんです」アキラは呟いた。「情報提供者といっても、彼女は女性で非戦闘員です……弱者なんです。理想のためにと理由をつけて弱者を犠牲にしては、大義が失われてしまう」
 新しい世を作るというシキの目的。そのためには、今の政府とは違う未来を目指さなければならない。日興連が旧ニホン軍関係者――それも女子どものような弱者を虐げてきたように、弱者を踏み台にして進むのでは、新しい世を作る意味がなくなってしまう。
 シキは、旧ニホン軍とも日興連やCFCとも、全く違う存在でなければならない。だから――ただ一人の弱者をも踏み台にしてはいけない。
 アキラはスズハラに懸命に説明した。スズハラは、アキラの考えに同意こそしなかった。それでも、黙って全てを聞いてから一言、思い通りに行動してみればいいと言う。ただし、シキが最優先であり取引を失敗したときのことを考えて、協力はできないということだった。アキラはスズハラが黙認してくれることに対して礼を言い、電話を切った。


***


 電話を済ませると、アキラは指定された場所へ向かった。手紙が指定した会見場所は街の郊外の貸しペンションだった。時刻は午後八時前……もうすぐ約束の時間になろうとしている。
 アキラはペンションの集まる地区の入り口でタクシーを降り、指定のペンションへと歩いた。まだ早春で避暑シーズンから外れているためか、ペンションの集まるその地区は静まり返っていた。
 やがて、目的のペンションにたどり着く。ペンションの窓からは明かりが漏れ、庭の門は開いていた。アキラは慎重に門を開け、敷地へ入った。建物へ進みながら気配を探る。
 いやに静かだ。アキラはそう思いながら、ペンションの玄関に立ってドアノブを回した。ドアは簡単に開いた。と、同時にむっと独特の臭いが鼻につく。

(血の臭いだ……)

 まさか、彼女はもう――。アキラは隠し持ってきた銃を出しながら、玄関へ飛び込んだ。途端、足元でぴちゃりと水音が上がる。電灯の下で見れば、玄関は血溜まりになっていてその真ん中に若い男の死体が一つ転がっていた。死んで面変わりしているが、それはシマダ少将の腹心の部下だった。
 いったい、これはどういうことなのか。シキのみならず、今度は自分を冤罪に陥れようとしているのか?
 いや、それはないはずだ――アキラは自分の仮説を否定した。今でさえ、シマダ少将が仕組んだシキの冤罪は暴かれかけている。監察部門も少将に疑惑の目を向けているところへ、同じ手が使えるわけがない。
 シマダ少将の意図は分からないが、それでも何が起きているのか確かめなければならない。アキラは慎重にペンションの奥へ進んでいった。
 廊下を進み、つきあたりにあった扉を開ける。部屋の明かりは消えていたが、大きく取られた窓から差し込む月明かりで内部の様子がぼんやりと見て取れた。広い空間にテーブルといくつかのソファ――どうやら居間のようだ。
 そこで、アキラはペンションに入って初めて人の気配を感じた。居間に誰かいるらしい。気配の中に殺気は混じっていなかったので、アキラは思い切って中に足を踏み入れた。
 と、不意にすっくと人影が立ち上がった。その人物は今までソファに座っていたため、ソファの影と同化して見えなかったらしい。
「誰だ」アキラは言った。
 人影はそれに応えるように、窓の前まで移動する。月明かりに照らされて浮かび上がったのは、ほっそりとした姿だった。シキの忠実なスパイであり、今は囚われの身であるはずの女がそこに立っていた。
「――少尉」女が声を発した。
「あんたは……シマダ少将に囚われていたんじゃ……?」
 アキラは驚き、彼女に駆け寄ろうとした。その瞬間、濃い血臭が鼻についた。ぎくりとして見れば、ソファの影の床に誰かが倒れて事切れている。太って腹の出た体格からして、シマダ少将のようだった。
「これは……あんたが?」
「えぇ。この男は、私の仇だったんです。だから討った。――あなたはどうしてここに?」
 女に尋ねられ、アキラはシマダ少将から手紙を受け取ったことを話した。代わりに女は、自分が今までどうしていたのかをアキラに話した。
 話によると、彼女は今日までシマダ少将が仇であることを知らなかったのだという。最初にシマダ少将に近づいたのは、シキの政敵だからという理由に過ぎなかった。今回、シキの冤罪から思いがけず少将のボロが出て、これがシキの政敵を追い落とす機会だと彼女も情報収集に精を出した。
 彼女はこのままシマダ少将が追い込まれて政治生命を断たれるのを見守るつもりだった。そこで、アキラにシマダ少将の情報を渡した後は少将から離れ、身を隠していたのだという。そのときふと思いついて少将の経歴をよく探ってみたところ、シマダ少将の公にはされない過去たどり着いてしまったのだ。
 隠された過去――即ち、旧ニホン軍の幹部であったという事実に。そして、シマダ少将が彼女の父を戦勝国と日興連に戦犯として売ることで、今の地位を得たのだということに。
 こうなると、シマダ少将への憎悪は止められなかった。彼女は仇討ちの準備をして、少将に『会いたい』と告げた。
 それに対して、少将は猫撫で声で快諾した。
 おそらく少将は――これは彼女の述べた推測だが――彼女とシキの繋がりに気づいて、彼女を使ってシキ側と取引をしようと考えた。彼女をこのペンションにおびき寄せて捕らえるつもりで、『会いたい』という彼女の希望を受け入れたのだろう。そして、アキラに例の手紙を送った……。
「じゃあ、あんたが捕らえられているというのは出任せで、俺はそれに引っかかったということか……――だが、ともかくあんたが無事でよかった」
 早くここを出て逃げよう、とアキラは言いかけた。そのときだ。遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「警察? どういうことだ……」アキラは眉をひそめた。
「おそらく、私が少将と彼の部下を射殺したときに、この付近のペンションにいる人間が銃声を聞いていたのでしょう」女は冷静に推測を述べた。
「なら早く逃げないと……!」
「いいえ、少尉。逃げきるのは無理です。軍人を殺したんですもの。日興連軍部が威信にかけて、犯人を捜し出そうとするはず。――私、分かっていたんです。シマダを殺すより、失脚させる方がいいって。でも、仇を討たずにはいられなかった」
「だけど、このまま警察に捕まるわけにはいかないだろう。シキのために働いてくれた貴女に、そんな苦しみを味わわせるわけにいかない」
「優しいのですね、中尉。大丈夫。自分の身の振り方は、考えているのです」女は優しげに微笑して、そして、言った。


 ――私を殺して、少尉。






(2010/05/15)

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