水の中での話1 *シキがニホン国国家元首になった後 1. 港を離れ、海を掛けていく船のデッキに出て、アキラは飽かず景色を眺めていた。船の下では白く飛沫が立ち上がり、潮風は頬を撫でて跳び去っていく。夏の空はからりと晴れて、海は空の色を写すように青い。それらの風景はアキラにはひどく新鮮で、美しく感じられた。 アキラは孤児院の出で、やがて割り当てられた義家族の家のそばにも海はなかった。だから、海を見る機会はほとんどないままに育ったのだ。 とはいえ、それは数年前までのこと。シキと共にトシマを脱出したアキラは、日興連軍に入った。作戦のために、何度か軍艦に乗ったこともある。また、シキがクーデターを起こして軍事政権を立ててからは、アキラは秘書兼、親衛隊隊長として海外へ赴くシキに同行した。それらの経験を思えば、決して海など物珍しいものではない――そのはずなのだが、妙に心が浮き立っている。 こうして、プライベートで海を目にして、純粋に楽しむ気持ちでいることが許される機会は少ないからだろう。 「また景色を見ているのか」船室から出てきたシキが、柔らかく目を細めなが苦笑した。 「はい、総帥。こうしてのんびり海を見る機会はあまりありませんから。海の美しさを、覚えておきたいのです」 「お前がそう熱心に海を見つめていては、俺は海に嫉妬するしかないな」シキはおどけた口調でさらりと言ってのけた。「しかし、それももう終わりだ。アキラ、あと十五分で目的の島に着く。船を降りられるよう、用意しておけ」 「分かりました」 アキラは名残惜しげにデッキを離れ、シキについて船室へ入っていった。 やがて、船は島へ着いた。そこは数十分ほど前、アキラが海上から視界に収めていた小さな島だった。島には小さな入り江があり、岸から桟橋が伸びている。船はそこでシキとアキラを降ろすと、すぐに引き返していった。 アキラは桟橋に立ったまま、しばらく島を眺めていた。この島は無人島で、第三次世界大戦以前に旧ニホン政府の要人が丸ごと買い取って、別荘にしていたのだという。それが売りに出されていたのを、最近、シキが手に入れたらしい。 今年の夏、シキはアキラと共に五日の夏期休暇のうちの三日間、ここで過ごすことにしたのだった。 それにしても、とアキラは思う。小さくとも、島一つは島一つだ。ここを丸ごと別荘にしたり、それを売買したりという感覚は、あまり理解できなかった。今は国家元首の秘書を務めるとはいえ、自分はやはり庶民なのだと思い知らされる気がした。 しかし、別荘のスケールに呑まれているアキラとは裏腹に、シキは平然としていた。船から降ろした荷物の半分を持つと、アキラを促して歩き始める。アキラは慌ててその後を追った。 桟橋を進んで砂浜へ降りる。砂浜の面積はさほど広くなく、間近に森林が迫っていた。砂浜の奥の中央あたりに、森の奥へ伸びる細い道がある。シキは迷いのない足取りで、その道を辿り始めた。 道は一応舗装されていたが、今にも森に呑まれそうに頼りなく見えた。中には、舗装のアスファルトを割って伸びている若木もあるくらいだ。木々の葉が空を覆い、夏の烈しい日差しを遮っている。その代わりのように、蝉時雨が降り注いでいた。 やがて、森が開けた。森の出口にたどり着いたとき、アキラは思わず足を止め、息を呑んだ。目の前に、ちょっとした湖が広がっていたのだ。湖の色は、アキラが見たこともないような澄んだ色をして、きらきらと日の光を反射している。無人島だからこその、誰にも汚されない湖だった。 「すごい……」 「だろう? ここを下見に来たとき、きっとお前は気に入るだろうと思ったものだ。ここは淡水の湖だ。湖底のどこかから、水が湧いているのだそうだ。――そして、別荘はあれだ」 シキは湖の畔に佇む建物を指さした。建物は、別荘としてはなかなかの豪邸の部類だった。聞けば、建物はもとの島の持ち主が建てたもので、シキは買ってから補修しただけだという。いったい前の持ち主はどれだけの金持ちだったのか、とアキラは呆れる思いだった。 「行くぞ、アキラ」 促されて、アキラは別荘へと歩きだした。湖に心惹かれていたが、荷物を放り出して遊ぶわけにもいかない。いや、そもそも主であるシキの傍にいるからには、シキを守り、世話することが何よりも優先されるべきなのだ。 アキラはシキに従って、別荘の中へ入った。長い間使用されていないはずだが、別荘の中は綺麗に掃除されており、食料なども補充されているらしかった。不思議に思ったアキラに、シキは「管理する人間を雇っている」と説明した。予めシキは管理人に連絡して、昨日までに別荘を整え、食料などを補充しておくように指示しておいたのだという。 こうした別荘に来るのは初めてのアキラのために、シキは内部を案内してくれた。内部の造りもやはり豪華で、呆れたことに、寝室は五部屋もあった。もともとここは、ゲストを呼ぶための場所だったのかもしれない。 五部屋ある寝室の中から、アキラとシキは湖のよく見える部屋を選んで使うことにした。 「五部屋もあるのに、ここしか使わないのはもったいない気もしますが……」 「ならば、別々の部屋にするか? せっかくプライベートで来ていて、ずっと一緒にいられるのにか?」 そう言うシキは少しおどけた表情をしていたが、声音は睦言を言うかのように甘かった。アキラは勝手に頬に熱が集まっていくのを感じた。 普段はシキもアキラも多忙で、共に過ごせる時間は限られている。アキラはシキの秘書なので公式の場面で行動を共にすることもあるが、そうした場所ではシキと触れ合うことはできない。だからこそ、プライベートで、好きなときに相手と話し、甘え、触れ合う時間は貴重だ。 シキは、言葉の上では睦言らしい表現を使わなかった。しかし、遠回しにずっとアキラに傍にいてほしいと言っている。シキに心酔し、心の底からシキを望んでいる自分にとって、これが嬉しくないはずがない。 「――あなたと同じ部屋がいいです」結局、アキラはそう言った。「寝ても覚めてもあなたの傍にいられる機会など、普段はほとんどないのですから」 すると、シキは唇の両端を持ち上げるようにして笑い、「いい答えだ」と呟いた。 2. 一通り荷物を整理すると、二人は順に風呂に入った。汗をかいていた上、潮風にさらされた身体はひどくべたついたからだ。 先にシキが入り、次にアキラがシャワーを使った。アキラが風呂場から出ると、脱衣場に用意していたはずの新しい衣服はなく、代わりに下着と一緒に別のものが置かれていた。広げてきると、それは着物――いや、浴衣のようだった。 これを着ろ、というのがシキの指示なのだろう。アキラは浴衣を着ようとしたが、着方が全く分からない。悪戦苦闘していると、なかなか風呂から出ないアキラを心配したのか、シキが様子を見に来た。 「どうした、アキラ?」 脱衣所へ入ってきたシキも先ほど見た服装とは違って、黒に近い灰色の浴衣を身につけていた。その姿に、アキラは自分の状況も忘れて、つかの間見ほれてしまう。合わせた襟元からのぞく肌やすっと伸びる首筋に、普段は意識しないようにしているシキの艶やかさを感じた。その途端、頬が熱くなるのを感じた。 「アキラ?」 「は、はい! ……すみません、総帥。浴衣を着るのに手間取ってしまいまして」 「あぁ、お前は苦戦するだろうな、と思っていた。適当に様子を見に来て手伝ってやるつもりが、うっかりしていた。すまないな」 「いえ、そんな。俺が不器用だからいけないんです」 「そう言うな。お前があっさり浴衣を着てしまえば、俺が手伝ってやる楽しみがなくなってしまう」 そう笑いながら、シキは慣れた手つきでアキラに教えながら浴衣を着付けていった「手伝う楽しみ」という言い方からして、途中で何か悪戯でも仕掛けてくるかとアキラは覚悟していたが、実際にはそんなことは起こらなかった。 「総帥……。あの、この浴衣はどうしてここに?」 「あぁ、俺が用意させた。休暇中、お前には普段できないような経験をさせてやりたかったのでな。……孤児院から義家族へ、一人暮らしをしてからトシマへ、そして俺と共に軍へ。お前は、同じ年頃の子どもがするような楽しみを、ほとんどして来なかっただろう? それに浴衣は、単に俺が見たかったということもある」 「そんな……。総帥にそこまでお気遣いいただいてしまって、申し訳ありません。俺はともかく、総帥はよくお似合いです」 「お前もよく似合っている。思ったとおりだな」 浴衣を着せ終えると、シキは満足そうにアキラを眺めた。その視線に、アキラは少し気恥ずかしくなる。こういうとき、たいていシキは何か悪戯を仕掛けてくるものだ――そう思って少し身構える。しかし、やはりシキは何もせずに脱衣場を出ていってしまった。 少しだけ拍子抜けした気分で、そして拍子抜けした自分自身を恥じながら、アキラはシキの後を追ってダイニングへと向かった。そこには、昼食の用意が整えられていた。 「総帥、まさか作ってくださったのですか……!?」 主に料理をさせたのだと知り、アキラは申し訳なさで一杯になった。本来なら、自分が風呂に入る前にしておくべきだったのに。 しかし、シキは鷹揚に笑ってひらひらと手を振った。 「たいした料理ではない。俺がそうしたかったから、作っただけだ。――アキラ、ここでは俺に気を遣う必要はない。トシマの頃の、遠慮のないお前に戻れ。せっかくの休みなのだからな、お前が堅苦しい態度では俺も肩が凝る」 「はっ、申し訳ありま」 「気を遣う必要はないといっているだろう。……そうだ、ここでは俺を総帥と呼ぶのも止めろ」 「分かりました、総す……シキ」 「そう、それでいい」 シキに促され、アキラはテーブルに着いた。テーブルの上に置かれているのは、サンドイッチだった。 これを作ったのはアキラの入浴中――ということは料理時間は短かったはずだが、サンドイッチは案外凝ったものだった。具は数種類のバリュエーションがあり、味も美味かった。 「もう昼を過ぎていて、今食べると夕食までの時間が半端だからな、軽いものにしておいた。まだ若いお前には、物足りないかもしれんが」 「貴方も俺とそう年齢が違うわけでもないでしょうに。俺はこれで十分です。もう成長期は過ぎていますから。……それに、あなたの手料理が食べられるのは、とても嬉しいです」 「俺も、久しぶりのお前の手料理を楽しみにしている。だが、今日の分の料理は、管理人に作り置きさせたものが冷蔵庫に入っている。今日の夕飯はそれにして、この後はのんびり過ごすとしよう」 「はい」 アキラは微笑しながら頷いた。ここで過ごす時間のことを思うと、子どもに返ったかのようにわくわくする気分が湧いてくるのだった。 3. 昼食――時間的には昼食と言えないが――の後、一通り別荘内を探検し終えたアキラは居間に面した大きなガラス窓から湖に突き出したテラスへと降りた。湖は西日に照らされて、オレンジがかった光を反射しながらきらめいている。 シキはテラスで庇の影になる場所に椅子を出し、何やら外国語の本を読んでいるところだった。内容に没頭しているらしく、アキラがテラスへ出ても顔を上げない。 アキラもシキの邪魔をするつもりはなかった。だから、シキに声をかけず、サンダルを足に引っかけてテラスの縁まで歩いていった。テラスの縁には柵がしてあり、それに寄りかかって湖をのぞき込む。遠目に見た印象そのままに湖水は澄んでいて、水中を見通すことができた。テラスの下は、比較的深い場所のようだった。 「気をつけろ。建物が古いのでな、あまり体重をかけると、柵が壊れるかもしれんぞ?」 不意に背後でシキの声が聞こえた。いつの間にか、気配を消して背後まで来ていたらしい。アキラは振り返ろうとしかけたが、そうするよりも早く背後から抱きしめられた。 すっかり油断しきっていたアキラは、驚いて身動きし、体勢を崩してしまった。そして、アキラを抱きしめていたシキもまさかそこでアキラが体勢を崩すとは考えていなかったらしく、つられて身体を傾がせる。 古びた柵に、成人男子二人分の体重が掛かった。その瞬間だった。ミシミシッ、バキッと嫌な音と共に柵の一部が壊れた。アキラとシキは為す術もなく、柵の破片と共に湖に落下するしかない。 「っ、ぷはっ!! ……シキ!? シキ!? 無事ですか!?」 落ちた場所の水深が幸いして、二人は水に身体を受け止められた。これが浅い場所なら、湖底に身体をたたきつけられていただろう。 アキラは立ち泳ぎしながら、シキを探す。落下からやや間があって、すぐ傍の水中からシキが顔を出した。 「俺は無事だ、アキラ。しかし、まぁ……」シキはテラスの壊れた柵を見上げた。「まさか本当に壊れるとはな。しかも、ニコル保菌者の俺と泣く子も黙る親衛隊隊長のお前が、無様に湖に落ちるとは」 その言葉に、アキラは「申し訳ありません」と口走ろうとした。そのときだった。ばしゃりと顔に水を掛けられる。びっくりして見れば、シキはにやにやしながらこちらを見ていた。 「捕まえてみろ、アキラ」 シキは水中に潜ると、水に浴衣の裾をなびかせながら泳ぎ去っていく。 戸惑いながら、アキラはシキの言葉に従うべく水の中に潜ってみた。 湖面に差した西日が、光の帯となって水中へ伸びて水中を照らしている。その無数の光の帯の中を、魚たちに混じって泳いでいくシキの後ろ姿が見えた。浴衣の袖をヒレのように翻し、裾を長く引きながら泳いでいくその姿は、幻想的で美しかった。 まるで魚――いや、人魚のようだ。 捕まえるため、というよりは魅せられてしまって、アキラはシキの後を追い始めた。浴衣の袖や裾が絡みついてきて、泳ぎにくい。もっとも、軍で行われる、着衣で装備を背負ったまま水中を泳ぐ訓練に比べれば、かなりマシだったが。 (それにしても、シキはどうやって泳いでいるんだろう……。浴衣は邪魔じゃないんだろうか?) 内心首を傾げながら、アキラは水中を泳いでいった。水の底には様々な魚たちが泳ぎ、場所によっては水草が生い茂ったり、大きな岩が転がっていたりして、地上の景色とは全く違っていた。束の間、アキラは水中の景色に目を奪われていた。 そうして気がついたときには、すっかりシキを見失っていた。 (しまった……!) はっとしたアキラは、一度水面へ顔を出して周囲を見渡した。が、シキは見つからない。もう一度水中に潜って泳いでみたが、やはりシキの姿は見えて来なかった。この湖は小さいとはいえ、二十五メートルプールほどの広さは十分にある。シキは湖のもっと別の部分にいるのかもしれない。 アキラは更にシキを探そうとしたが、新たに泳ぎ出す力が出なかった。浴衣を着たままで泳ぎ、またシキに追いつこうと全力を出したことから、思ったよりも体力を消耗してしまったらしい。 仕方なく、アキラは泳ぐことを止め、浮力に身を任せた。ぼんやり浮かびながら、ゆっくりと暮れていく夏の空を見上げ、流れていく雲を目で追った。 静かだった。 聞こえてくるのは木々のざわめきや鳥の声、風の音だけ。人間の発する喧噪が全く聞こえないので、生まれたときから自分はここに居たのではないかという気にさせられる。トシマのことも、親衛隊隊長という今の立場も何もかも、束の間の白昼夢だったのではないか、と。 そのときだった。 水中から、軽く袖を引っ張られる。アキラはぎょっとして、水上だということも忘れて起きあがろうとした。が、当然、身体の下は水に過ぎないので、体勢を崩して沈んでしまう。それを、力強い腕が引き留めた。 シキだった。 (2010/08/15) 目次 |