Goodbye forever3 アキラの死の描写あり。 死にネタが苦手な方は回避してください。 夏草を踏んでタチアオイの茂みから出る。顔を上げれば遠目に己の両親の所有する別荘が見えて、若者は『帰って』きたのだと悟った。 早朝の散歩に出かけて見知らぬ場所に迷い込んでしまった。それから今、この場所に帰って来るまで、どれほどの時が経ったのだろう。見たところ、辺りは若者が散歩に出たときと、何も変わっていないようだった。 しかし、若者は確かに一昼夜を別の場所で――美しく、しかし、悲しげな青年のもとで過ごした記憶がある。 青年の卓越した剣技。あどけなささえ覗く彼の笑顔。そして、普段の凜とした物腰からは想像もできない姿――艶やかに乱れる肢体、熱心にこちらを求めて伸ばされる腕……。彼の温もりは、いまだこの手に残っているかのように生々しく覚えている。けれども。 「……あれは、夢……?」若者は呟いた。 若者があの青年の存在を疑うのには、理由があった。知ってしまったのだ。青年がシャワーを浴びている間に、別荘の中に落ちていた新聞や書籍の発行年月日を調べたところ、十年ほど先の日付が記されているのを、見てしまった。 そればかりではない。あの青年は、隠してはいたが、確かに己を知っているようだった。熱中症に倒れて休んでいるときの譫言に、或いは行為の最中に我を忘れた風に、彼は繰り返し若者の名を呼んだのだ。 シキ、と。 己を知る、未来の人間――これが夢でなくて何だというのだろう? しかし、もし、現実の出来事だとしたら……。 若者は、青年の存在が本物であればいいと願っている己自身に気づいた。もしも彼が実在の人間であれば、いずれ己とあの青年は出遭うだろう。そうすれば、彼を手に入れることができる。ぎりぎりのところで、己の手を取らなかった彼を――。 『……できたら、もう二度と、離さないでくれ』 若者は自身の右手を握りしめた。 言われずとも、と思う。いつか、あの青年と出遭うことがあれば、必ず手に入れる。そうして、何者からも守り抜く。今は、そのための力を手に入れなければならない。 (強くなる……。必ず、力を手に入れる……) 夏の朝の日差しの中で、己自身にそう誓う。気温が上がり始めて微かに汗の浮いた若者の肌を、涼しい風がふわりと撫でていった。それは、名も知らぬ青年の愛撫のように、儚げな感覚だった。 *** 夏の宵の闇は、現在も過去も変わらない。 夢から醒めたシキは、束の間、己がどこにいるのか分からなかった。果たして己はまだ十七の子どもで、名も知らぬ青年と初めて経験する行為を終えたばかりなのか。或いは、既に大人になっていて、いつものようにアキラを抱いた後に眠りに就いたのか――。 シキはベッドの上に起きあがった。今は空調が小さな音を立てて稼働しており、室内は心地よい涼しさに保たれている。シキはぼんやりと傍らに眠る人物のシーツの膨らみを眺めた。そうしているうちに、現実感が戻ってくる。 己はもはや、十七の子どもではない。トシマでアキラと出遭い、二年の眠りを経て、本当にアキラを己のものとした。同時に、己もまたアキラのものとなった。己は、過去の夢を見ていたのだ。 シキは己の確信を確かめようとして、そっとシーツをめくった。カーテンの隙間から細く差し込む明け方の光に照らされて、眠るアキラの顔が見える。安らかな彼の表情に、シキはなぜだかほっと安堵しながら、手を伸ばした。アキラの額に掛かっている髪を、そっと梳いてやる。 出遭ったときから七年が経ち、かつて少年から脱しきれていなかったアキラは大人になった。頬のラインがシャープになり、美しく、また――本人は決して認めないだろうが――どこか妖艶になりさえした。それでもこうして眠っているときには、いまだに、あどけなく見えもするのだが。 (もう、アキラも二十五か……) そう思ったとき、ふと埋記憶の水面の底で、埋もれていた何かがきらりと光ったような気がした。 『俺は、二十五だ』 かつて、名も知らぬ青年がそう言っていたのではなかったか。 シキははっとして、アキラをじっと見下ろした。十七のときに出遭ったあの青年の面影は、はっきりとは思い出せない。覚えているのは、肌の温もりと強烈な快楽、そして、眼差しが凛然としていたことだけだ。 けれど。 あの青年は、今のアキラのように妖艶ではなかっただろうか? にもかかわらず、どこかしらあどなさを含んではいなかっただろうか? 青年の凛とした瞳は、アキラと同じ青ではなかっただろうか? 今の今まで記憶の片隅に追いやられていた青年の姿が、急速にアキラと重なっていく。シキはどうすることもできず、己の中に微かに残っていたあの青年の印象が、アキラに塗り変わっていくのを感じていた。 忘れてもいいと、あの青年は言った。 事実、今の今までシキは青年を忘れていた。いつか青年に出会い、守るために力を手に入れたいと望んだにも関わらず、己は戦争の中で歪み、手段と目的がすり替わってしまったのだ。ひたすら力を求める中で、己はアキラと出遭い、再び強さを極める以外の生きる途を見いだすことができた。しかし、青年のことは忘れたままだった。 今になって気づく。 十年ほど未来にいた青年――己を知っていたあの青年は――もしかして。 「…………アキ、ラ……?」 思わず呟いたときだった。眠るアキラの閉ざされた目蓋の下から、じわりと涙の粒が玉を結ぶ。驚くシキの目の前で見る間に盛り上がった涙の粒は、つぅとアキラのこめかみを滑り落ちていった。 泣いている。 「アキラ」 シキはそっとアキラに呼びかけた。大きな声を出したり、身体を揺さぶったりしなかったのは、果たしてアキラを起こすべきなのか判断がつかなかったからだ。 己にしてもアキラにしても、決して平坦とはいえない道の果てに今ここにいる。ここまで来る課程で負った『傷』の中には消しようのないものもあった。とりわけ、アキラは『傷』を『傷』としてそのままに背負うことで、他人を傷つけて生きるしかない非ニコル保菌者たる自身の生を許容している節もある。 お互いがお互いもののであるとしても、自己の『傷』とはひとりきりで向き合う。――そんな暗黙の了解が、いつからかシキとアキラの間には存在していた。そして、互いに相手はそれが可能だと、過去の『傷』に呑まれてしまわないと信頼し合ってもいた。 寄りかかり合うのではなく、互いが一人の人間として立つことで初めて、共に生きくことができる。それが、出会って八年近い年月の中で見いだしてきた二人の関係のあり方だった。 だから、普段ならばシキは、悪夢にうなされるアキラを無理に起こすことはしない。目が覚めていても、傍にいるだけだ。 しかし、このとき、迷いながら掛けたシキの声に反応して、アキラはゆっくりと目を覚ました。ぼんやりした青の瞳が、まっすぐにシキを捉える。 「……シキ……。夢を、見たんだ……」前置きもなく、アキラは言った。「あんたは、目覚めないまま死んでしまって……俺は一人ぼっちだった……。だけど、突然、子どもの頃のあんたが現れるんだ……」 「子どもの頃の、俺だと……?」 「そう……。あんた、可愛らしかった……十七だって、言ってたな。一人ぼっちの俺は、十七のあんたに傍にいてほしいって思った。寂しかったから……。だけど、それでも、結局は帰れって言うんだ。十七のあんたは、いつか大人になって……俺と出会わなければならないから……。夢の最後には俺はまた一人になって、一人で泣いていた」 「アキラ。それは夢だ……。実際には起こらなかった出来事だ……」 シキは諭すように言って、右手でそっとアキラの目元を覆った。 夢だと言ったものの、シキ自身は名も言わなかった青年――『アキラ』が夢だとは思わない。夢というよりは、起こり得なかった世界――平行世界か。タイムスリップや平行世界など現実にはあり得ないことだが、あの『アキラ』の存在を、彼の悲しみを、夢まぼろしだと片づけるのはあまりに薄情すぎると思うのだ。 それでも、アキラは夢だと思えばいい、とシキは思う。この世に一人きりで取り残される『アキラ』がいることなど、アキラには考えさせたくなかった。 「だだの夢だ、アキラ」 シキが言うと、アキラはシキの手で覆われた目をぱちぱち瞬かせた。新たな涙がアキラの目から溢れ出るのを、シキは手のひらに感じた。 「分かってる……シキ。だけど……どうしてだろう、涙が止まらない……」 「案ずるな。俺はここにいる……お前の傍に。決して、お前を手放したりはしない」 宥めるように、シキは囁き続けた。 *** 目を開けると、真っ赤な夕日が海を赤く焼き払いながら西へと沈んでいくところだった。潮の匂いを含んだ海風が、海に切り立った崖の上に横たわる俺に吹き付けてくる。 十七歳のシキとの不可思議な出会いから二年。俺はニホンを離れ、東南アジアのある国にいた。第三次世界大戦後に独立した比較的新しい国だ。 俺が『仕事』の場をニホン国内から国外へ変えたのには、理由があった。十七歳のシキと別れた後、トシマで知り合ったフリージャーナリストの源泉と再会したのがそのきっかけだ。源泉は俺が生きていたことを喜んでくれて、更に、当時彼がトシマにいた目的なども教えてくれた。ニコルプロジェクトに関わった者として、プロジェクトの始末を着けたかったという源泉の言葉に、俺は共感した。 シキに言われて、生き続けている自分。ただ生きるのではなく、自分の生を孤独に耐えて生き続けてきた意味のあるものにしたい、と初めて思った。そこで、俺は源泉を護衛して、或いは彼の代わりに世界各地の危険地帯に潜入し、取材の手助けをすることに決めたのだった。 中でも今回の潜入は、とりわけ、因縁深いものだった。ニコルウィルスの研究者が、戦後、ニコルプロジェクトの資料を持ち出し、東南アジアの新興国家に身を寄せた。そこで、国家予算を後ろ盾にして、再びニコルウィルスを研究しているという情報があったのだ。 新興国家は、いまだ軍隊が十分に整備できておらず、軍事力の一部を外国人傭兵に頼っていた。俺は傭兵に化けて、ニコルウィルスの研究が行われている軍事施設に潜入していた。 はっはっと短い息を繰り返しながら、俺は少し笑った。 「――夢、だったのか……。残念、だ……」 呟いただけで、身体中に激痛が走る。激しくせき込んで、咽喉をせり上がってきた血の固まりを吐き出した。撃たれたのは確か右の脇腹の辺りだが、血と泥にまみれた衣服のせいで傷口は判然としない。 情報収集は成功したものの、逃げるときに感づかれて銃撃を受けた。脇腹の傷はそのときのものだ。俺は何とかこの海辺まで逃げたものの、ニホンの土を踏むことは不可能だろう。自分の身体のことは、自分が一番よく分かる――死期が迫っているのだと。 情報のデータの入ったメモリーは、正体がバレる前に上手く偽装して源泉に送ってある。この国の闇が暴かれるのも時間の問題だ。 「ははは……。ザマぁみろ、……だよな……」 呟きを、もう一つ。激痛の中で意識が飛びそうになっていたが、俺は何とか正気を保とうとした。今、意識を失えば、もう一度シキが俺の傍にいてくれる夢を見ることができるのかもしれない。そうしたら、幸せな気分のまま逝くことができるだろう。 けれども。 俺の愛したシキは、結局のところ、ただ一人だった。俺の傍にいてはくれなかった。宿敵を失った喪失感に耐えられなかった。それでも、最期の一瞬を俺にくれた。 だから、俺も幸福な夢に逃げ込むよりも、最期の一瞬を俺を愛してくれたシキのために使いたかった。彼を想っていたかった。俺に生きろと言ったシキは、こんな俺の最期でも許してくれるだろうか? 「…………シ、キ……」 霞む視界の中、目の前にあるはずの海へと手を伸ばす。シキの目の色に似た紅に向かって。 「あんたを……愛してる」 囁いた瞬間にふわりと吹き付けた海風は、軽やかで優しくて――トシマで初めてシキとした口づけを思い出させた。 2011/08/14 目次 |