Goodbye forever2










 遅い昼食の後、身体が回復したなら風呂で汗を流して来いと言ったのは、若者だった。
「……お前はまだ安静にする必要がある。かといって、じっとしていれば、どうせまた眠ってしまうだろう?なら、今のうちに水浴びでもしておけばいい。そうすれば、少しは熱も冷めるだろう」
 なかなか面倒見がいい。未来の性格からは考えにくいが、しかし、これもまたシキなのだろう。戦争やnとの確執によって、人格の片隅に追いやられることになるシキの一面。
 俺は素直に若者の言葉に従うことにして、風呂場へと向かった。衣服を脱ぎ、浴室へ入ってシャワーの蛇口を開ける。最初は少しだけ水を出して温度を見るつもりが、蛇口が老朽化して甘くなっていたらしい。
「うわっ!」
 力加減を誤って蛇口を開きすぎたせいで、シャワーヘッドから勢いよく冷水が迸る。冷水をまともに浴びた俺は、冷たさに思わず声を上げた。同時に足を滑らせて、ぐらりと体勢を崩す。
 とはいえ、俺も伊達に日々修羅場を潜っているわけではない。背中から倒れ込むところを、何とか姿勢を変えて膝と両手を突くことに成功する。俺はほっと息を吐いた。
 そのときだった。ごく微かな、しかし、駆けてきたらしい足音が聞こえた。
「どうした!?」ひどく慌てた若者の声。
 大丈夫だ、と俺が返事するより先に浴室のドアが開けられる。タイル張りの床に四つん這いになった俺を見て、若者はさっと顔色を変えた。出しっぱなしのシャワーで自分が濡れるのも構わずに、俺の傍へ着て床に膝を突く。
「転んだのか?頭は打っていないだろうな?」
「大丈夫だ」
「立ち眩みでもしたか」
「いや……。単に滑っただけだ。この通り、受け身も取ったから心配ない」
 俺が答えると、若者はやっと普段の調子を取り戻したらしかった。こちらを馬鹿にするような表情を作り、「馬鹿か」と溜め息を吐いた。
「付き合いきれん」
 若者は濡れた髪を掻き上げ、立ち上がろうとした。そうする間にも冷水は彼にも降り注ぎ、身に付けている白いシャツとジーンズを濡らしていく。
「あんたも一緒にシャワーを浴びていくか?」俺は若者のシャツの裾を掴んで尋ねた。他意はなかった――少なくとも、そのときは、まだ。「濡れた服が気持ち悪いだろ?」
「馬鹿を言うな!」
 若者は勢いよく俺を振り返りながら叫んだ。その反応の激しさに、俺は慌てて若者のシャツから手を離した。思えば、同性に一緒に風呂に入ろうと誘われれば、嫌悪感を抱いてもおかしくない。相手がシキだからと近づきすぎてしまったか――。
 俺は謝ろうとして、顔を上げた。途端に、じっとこちらを見ている紅い目にぶつかった。先ほどの拒絶とは裏腹に、そこには紛れもない熱が宿っている。
 欲情しているのか、俺に――ほとんど確信に近い推測。気づけば俺は立ち上がり、若者へ手を伸ばしていた。
 若者の肩に、伺うようにそっと触れる。しかし、今度は振り払われはしなかった。俺はほんの少しだけ高い位置にある若者の目を、真っ向から覗き込んだ。彼はただただ魅入られたように、軽く目を見張ったまま立ち尽くしている。
 俺たちはしばらく、互いに一言も発さないまま、見つめ合った。さぁさぁと降り注ぐシャワーの音が、俺たちの間の沈黙を埋めていた。
 俺は、この『シキ』を望んではいけない。そうする権利は、この俺のものではない……。凛とした紅い目が、まだ幼い若者の面差しが、そのことを俺に痛いほど思い知らせる。
(だけど……)
 俺は若者に身を寄せながら、ゆっくりと目蓋を下ろした。目を閉じて、唇を重ねる。若者はしばらく身を強張らせていたが、不意に俺の肩を掴んで壁に押し付けた。そうしながら、口を開けというように、下唇に軽く噛み付いてくる。俺が口を開けると、若者の舌が侵入してきた。
 ぎこちなく口内をまさぐる舌の動きに、ふと思い至る。もしかして、若者はこれが初めての口付けだったのかもしれない、と。俺は微かに罪悪感を覚えた。が、それよりも、自分がシキの初めての口付けを奪ったという興奮の方が、ずっと大きい。
 しかし、さすがにシキというべきか、若者の学習は早かった。俺が誘うように舌先で若者の舌を舐めると、彼はどうすべきか分かったらしい。俺の舌に自分のそれを絡めてくる。
 そうやって口付けているうちに、シャワーはいつしか湯に変わっていた。降り注ぐ水流が煩くなって、俺は口付けの合間に手を伸ばしてシャワーを止めた。
 すると、湯が止まったことで我に返ったのか、若者は顔を離して口付けを止めた。戸惑いの表情と共に俺の顔を見る。しかし、戸惑いながらも俺を突き放さなかったのは、彼も男だからだろう。先ほどの口付けだけで若者の下肢は、密着していればジーンズ越しにも分かるほど、反応していた。
 もっとも、それは俺にも言えることだったが。
「そのままじゃ、辛いだろ。あんたが嫌でなければ……」
 俺は若者の衣服に手を掛けた。濡れて肌に貼り付いたシャツを脱がせる。若者は微かに身を強張らせていたが、抵抗はしなかった。
 それをいいことに、続いてジーンズに手を掛けた。ジッパーを下ろし、下着の中に手を差し入れて、既に反応している若者の性器を取り出す。ぴたりと身を寄せ、同じく昂っている自分のものと一緒に握り込んで手を上下させた。
 快楽は呆気ないほど簡単に高まった。
「っ……」若者の吐息が耳元を掠めていく。
「んっ……ふ……ぁ……」
 俺はこぼれる喘ぎを殺そうとはしなかった。若者がこの行為に嫌悪感を抱いていないのなら、伝えたかったからだ――俺が快楽を感じているということを。
 そう。ただ触れ合っているだけにも関わらず、俺は強烈な快楽を感じていた。
 セックスは久しぶりだが、五年ぶりというわけではなかった。シキがいなくなった後、俺はたまに男や女と関係を持つことがあった。大抵は仕事を円滑に進めるためだったけれど、ごく稀に、慰めを得たくてそうしたこともある。もっとも、誰と関係してもシキと抱き合うほどの充足感は得られなかったが。俺はじきに自分のしていることが自慰に等しいと気付き――それなら自慰の方が後腐れがなくて楽だと悟って、他人を求めることは止めた。
 しかし、若者との触れ合いは、そうした自慰に等しいセックスとは全く異なっていた。肌が触れ合うだけで、ぴりぴりと電流のような快感が生まれる。俺は次第に夢中になり、気づけば羞恥を完全に忘れて更なる快楽を得たくて腰を揺らしてた。
「……くそっ」
 不意に若者が短い吐き捨てる。唐突に、彼は俺の腕を掴んでいた手を離し――下方へと伸ばした。細身の外見に似ず無骨な彼の手が、二人のものを握り込む俺の手に重ねられる。俺が与える刺激では物足りないとばかりに重ねた手に力を込め、若者はより激しく手を上下させた。
 技巧とは、程遠い力任せの愛撫。けれど、それに馬鹿みたいに翻弄される。不意に絶頂の気配を感じた俺は、堪らなくなって右手で若者の首を引き寄せ、噛み付くように唇を重ねていた。
 若者も待ち構えていたかのように、舌を絡めてくる。遠慮のない水音を立てて、舌を吸われたときだった。張り詰めていた感覚が弾ける。達したのは、若者もほとんど同時らしかった。どちらのものとも分からない精が、互いにの下腹部を濡らす。独特のにおいが、つんと鼻についた。
 荒い息を吐きながら、俺たちはしばらく互いに身を寄せ合い、脱力していた。先に動いたのは、俺の方だった。若者の身体を支えながら、手を伸ばしてシャワーの栓を開いたのだ。
 今度出てきたのは、ぬるま湯だった。頭からシャワーを浴びて、若者は初めて自分を取り戻したように俺から身体を離した。
 俺はシャワーでさっと下腹部に付着した精液を洗い流すと、若者を残して浴室のドアへ向かった。振り返れば、若者が何か言いたげに、しかし言うことを躊躇う様子で立ちすくんでいる。
「後で、続き、しようか。そうだな……夜にでも。もしもあんたが、嫌でないならの話だけど」俺にとってはひどく勇気の要る誘い。――けれど、まるで何でもないことのように軽く言う。
「……」若者は顔に浮かぶ戸惑いを更に強くした。
「あぁ、そうそう。続きはともかく、洗濯するから、ジーンズも脱いで置いてくれ。これからあんたの着替えとタオルを用意するから、そのときに取りに来る」
 俺は若者にちょっと笑って見せてから、浴室を後にした。


***


 夕食を作ったのは、今度も若者だった。浴室にいる間に気を取り直したらしい若者が、どうしても自分が作ると言い張ったのだ。俺はといえば、もともと料理が得意というわけでもないから、喜んで彼にキッチンを明け渡したのだった。
 夕方。日が西へ傾き、裏手の林からカナカナカナと蜩の声が聞こえてくる頃、俺は若者に呼ばれてダイニングのテーブルについた。驚いたことに、テーブルの上に並べられているのは、オムライスだった。その他に、サラダとコーンスープが添えらえている。
「あんた、俺の好物がどうして分かったんだ……?」
 呆然と呟くと、若者は眉をひそめた。
「好物だと?」
「あぁ、オムライス。好きなんだ」
 すると若者は拍子抜けしたような表情をした。
「風呂場での意趣返しに子どもっぽい料理を出せば嫌がるかと思って作ってみたが……まさか、好物だったとは」
 俺は首を傾げた。浴室で、若者は俺を拒絶している風ではなかった。……ということは、主導権を握られたことが癪だったのだろうか。思い至った俺は、堪えきれず笑みを漏らした。
「あんた、可愛いな」
「何を言うか」
 若者は不機嫌な顔をした。思ったことを言っただけなのだが、これ以上彼をつつけば怒らせてしまいそうだ。俺は話題を切り上げて、スプーンを手にした。「いただきます」黄色い卵を被ったオムライスの端に、慎重にスプーンを入れて掬う。口に運んだオムライスは、とても美味かった。卵がふわりとしていて、中のチキンライスも微かにバターの風味の上品な味付けがしてある。
 これが、シキの家のオムライスの味なのだろうか――。俺の知るシキが眠ってしまったのは、トシマを脱出して間もなくのことだった。彼に手料理を食べさせてもらう機会は、結局、一度も訪れなかったのだ。
「美味い」俺は向かいの席で不機嫌そうな表情のまま食べている若者に、素直に告げた。「あんた、料理、上手いんだな。昼のそうめんも美味かったし」
「この程度はできて当たり前だ。士官学校では、自分の身の回りのことは一通り自分でするように仕込まれる」
 若者は素っ気ない口調で答えた。それでも、態度とは裏腹に不機嫌そうな表情は少し和らいでいた。


***


 明かりを落とした寝室のベッドの上で、衣服を脱ぎ、裸で向かい合った。夜になってでてきた涼しい風が、開け放した窓から月明かりと虫の音と共に入ってくる。
 最初は少し緊張した様子だった若者は、俺の身体を上から下まで見ると、不思議そうな表情をした。
「どうしたんだ?」
 尋ねると、答えの代わりに若者は俺の身体に手を伸ばした。右掌を俺の鳩尾の辺りに触れさせたかと思うと、すぅっとその手を下に滑らせる。若者の手がたどり着いたの先は、臍に着けた銀色のピアス。若者の指が物珍しげにピアスを摘んで軽く引っ張るものだから、刺激で微かに甘い疼きが呼び起こされる。
「……っ……」
 思わず艶めいた吐息がこぼれた。それを聞いた若者は、いいものを見つけたとばかりに愉しげな目になって、執拗にピアスを弄りだす。俺は素直にその刺激を受け止め、若者の望むように幾つも熱い息を吐き出した。
「こんなところが感じるのか」少し乱暴にピアスを弄りながら、若者が言った。「コレは、自分で着けたのか?」
「……違う。……もらったんだ……俺に『生きる』ことを、教えてくれた人に……」そう言うと、ピアスを弄り続けていた若者の手が、ぎくりと止まった。俺はピアスを摘んだままの彼の手に、そっと自分の左手を重ねた。「コレは……俺の生きる意味の証で……生き続けるっていう約束なんだ」
 すると、若者はピアスを摘んでいた右手をさっと引いた。まるで遠慮したような仕草に、俺は少し笑う。そして、若者の手を手に取った。
「少し、濡らすから」
 俺は若者に断って、彼の右手の指を口に含んだ。最初に断っておいたにも関わらず、若者がはっと息を呑む。それには構わず、俺は軽く吸い上げたり、舌で丁寧に指の形をなぞったりして、唾液を擦りつけた。
「ん……んんぅ……ふ……っ」
 時折、唇と指の狭間で水音が起こると、若者は、まるで自分が水音を立てているかのように身を竦めた。羞恥を感じているらしかった。あぁ、本当に可愛らしい。俺は若者の指を口に含んだままひっそりと笑った。最後にちゅっとわざと音を立てて、若者の手を解放する。
「……指を舐めるだけで、興奮したのか」
 若者は兆し始めた俺のものを見て、嘲笑うように言った。けれど、俺は大して悔しくもなかった。若者の声音には、虚勢の気配が感じられたからだ。
「あぁ、感じた」俺は若者に挑むように頷いた。「これからあんたのこの手で気持ちよくしてもらうんだ。そう考えるだけで、ぞくぞくする」
「っ……」
 若者がはっと息を呑む気配があった。
 俺は胡座をかいた彼の前で膝建ちになり、身を屈めて頬に口づけた。そして、若者の右手を自分の足の間――後孔へ導く。
「ここであんたを受け入れるんだ。そうできるように、解してくれるか?」
 肩に手を掛けて囁けば、若者は無言で後孔の表面に指を押し当てた。固く閉じたそこを、揉むようにして解してから、指を一本挿し入れていく。若者は明らかに手慣れていない様子で、最初の挿入までに手間取ったものの、焦って無理に押し開こうとはしなかった。淡々とした態度ながらも、彼は全神経を傾けてこちらの反応を見ながら、事を進めていった。
「ん……ぅ……。指、もう一本足してくれ……平気、だから……。っ……もうちょっと、奥……。んっ! あっ……そこ、だ……!」
 不意に若者が体内の感じる部分に触れた。俺はびくりと腰を跳ねさせながらも、そこが気持ちいいのだと若者に告げた。
 若者は、俺がイイと言った場所を素直に刺激する。やがて、指での刺激では物足りなくなった俺は、もういいからと若者を促した。指はいいから、あんた自身が欲しい、と。
 手を伸ばすと、若者の性器は既に張りつめていた。これなら愛撫の必要もない。俺は若者の手を引きながら、ベッドに倒れ込んだ。足を開き、彼を誘う。若者はぎこちない手つきで俺の足に手を掛け、更に押し開き、中に入ってきた。
 馴らしているときの慎重さとは裏腹に、挿入後の若者の動きは激しかった。まるで堪えきれなくなったかのように。若者の乱暴さは決して俺を傷つけようとするものではないと分かっていたから、俺は歓んで彼の激しさを受け止めて、自ら煽りさえした。
 若者に引きずられるようにして、あっという間に絶頂に押し上げられる。俺は夢中で彼の背を強く掻き抱いた。途端、鼻先を掠める若者の肌の匂い。
(――シキの匂いだ……)
 真っ白に染まる思考の片隅で、そんなことを思った。


***


 夜の間に、若者とは二度抱き合った。駆け抜けるように性急で荒々しかった一度目とは違い、二度目は若者も落ち着いていて、ゆっくりとお互いの形を確かめあうような行為になった。
 俺たちは行為の果てに疲れ果てて、眠りに落ちていった。
 そして、明け方。
 隣が寒くてふと目が覚めると、彼自身の衣服をまとった若者がベッドの傍に立っていた。端然としたその姿に、俺は何となく彼が去ろうとしているのだと悟った。
「……行く、のか……?」
「あぁ。今なら、帰れる気がする」若者は頷いた。
「そう、か……」
 俺は若者の姿を覚えておきたくて、じっと彼を見上げた。すると、若者は俺を見つめ返して、迷うように瞳の紅を揺らした。
「……俺は、じきに戦争に行く。……――だが、お前が望むなら……ここに、いてやってもいい」
 その言葉に、俺は驚いてベッドの上に起きあがった。身体に掛かっていたシーツが滑り落ちて裸の上半身が露わになるが、気にはならなかった。
 ここにいてもいい、と若者は言ってくれた。シキが――たとえあのトシマでの出会いを知らないシキであっても――傍にいてくれるなんて、何て幸せなことだろう。
(だけど……) 
 もしも十七のシキが俺の元に残ったら、彼はきっと俺が出会ったシキのような人間にはならないだろう。宿敵に執着し、力を求めて歪むこともない。それは、シキにとって幸せだと言えるのだろうか? 俺はシキがシキとして生きる機会を、奪おうとしているのではないだろうか?
 それに、シキが過去からいなくなれば、過去の出来事もまた変化してしまう。トシマで俺がシキに出会ったことは、起きなかったことになる。俺はシキに出会うことはなく――生きる意味も、愛することも知りもせず、死んだように生きていく。そして、死んでいく。
 俺の我が侭のせいで、俺自身とシキが出会わなくなる――。
「……あんたは、帰らなくちゃならない」
 短い呼吸を繰り返した末、俺はようやくそう言った。すると、若者は凛とした顔をくしゃりと歪め、今にも泣き出しそうな表情になった。
「なぜだ」
「――ここは……あんたの生きる場所じゃ、ない」
「なぜそう言える。お前は、俺を必要としているのではないのか?」俺は若者の言葉を否定してみせようとした。が、それを遮って、若者が叫ぶ。「俺が必要でないなら! ……なぜ、お前は今、泣いている……?」
 若者はベッドの脇に膝をついて、俺と視線を合わせた。彼の右手が伸びてきて、そっと俺の頬に触れる。そのとき初めて、俺は自分が涙を流していたことに気づいた。
 俺は頬に触れる若者の手に、自分の手を重ねた。
「――あんたは、俺のものではないんだ。それに、俺もあんたのものじゃない。俺があんたを望むことはできない。……だから、行ってくれ」
「お前の所有者は誰なんだ? そいつがお前の所有者だというなら、なぜ、お前を一人で放っておく?」

 あんただよ。俺の所有者は、あんただ。

 心の中だけで答えて、その答えの皮肉さに俺は少し笑った。
「言えない。……俺はあんたが欲しいけど、それでも手放すのは、俺の我が侭なんだ。誰かに気兼ねしてそうするわけじゃない、俺だけの我が侭」
「……お前の言う意味が分からない」
「分からなくてもいいよ。とにかく、あんたはここを去らなきゃならない。俺のことも、忘れていい。だけど、ここを去って……戦争に行くなら必ず生き延びて、いつか俺を見つけてくれ」
「また会えるというのか?」
 俺は答える代わりに、近くにある若者の顔に顔を寄せて、唇を重ねた。触れるだけのキスをして、すぐに離れる。
「必ず俺を見つけてくれ。……そして、そのときは、できたらもう二度と俺を離さないでくれ」
 若者はぐっと唇を噛みしめると、俺を振り切るように立ち上がった。そのまま、振り返りもせず、寝室を出ていく。ほどなくして、別荘の建物の中から若者の気配が去っていくのを感じた。
 これでよかったんだ。俺は自分に言い聞かせた。この別れは俺の望んだこと――俺自身の我が侭なのだ、と。
 俺は十七歳のシキを傍に置くことで孤独を埋めるよりも、生涯に一度でいいからトシマでのシキと出会いを経験したいと思った。生きていく中で、無数の出会いの中で、あの出会いこそが、俺の生そのものだった。
 だから、どうしたって、十七歳のシキの手を取ることはできないのだ――。
 俺はもう一度眠ろうと、横になった。シーツに顔を擦りよせれば、ふわりと若者の残り香が香る。勝手に新たな涙が頬を伝い落ちて、シーツに吸い込まれていった。俺はシーツに顔を押し付けて、呟いた。

「さよなら、シキ」

 






2011/08/07

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