Party1
sideシキ



 余生を生きている。シキは己自身の現状について、そう認識していた。
 齢二十八にして余生だというなら、現役はいったいいつだったのか。もちろん、刀を握って闘っていた間だ。
 三年前、シキは宿敵であるnを追って、第三次大戦以前の首都圏であった旧祖地区にいた。そこで、日々、人を殺めていた。とはいえ、殺人に快楽を覚えていたというわけでもない。ただ争い奪うことしか知らなかったから、そのようにしていたというだけだった。
 やがて、日興連とCFCによる内戦が始まると、シキは旧祖を脱出した。その際、ずっと執着しつづけた宿敵への恨みを手放し、人を殺めるための剣も封印した。かつての己の生き方そのものだったと言えるものを捨てたのは、おそらく、アキラのせいだ。
 アキラ。nと対の存在。非ニコルの保菌者である青年。
 三年前のトシマで、シキは死のうとしていたアキラを拾い、生かした。ほんの気まぐれのつもりだった。しかし、今になってみれば分かる。出会った瞬間から、己はどこかで彼に惹かれていたのだろう、と。
 何の接点もないはずのアキラと過ごした奇妙な時間は短かった。けれど、“殺人狂”と呼ばれたシキの何かをすっかり変質させてしまった。そのせいだろう。後に旧祖を脱出する際に、シキは仲間の仇だと言って己を攻撃してきた実弟のリンに、とどめを刺さなかった。また、最後の闘いで重傷を負わせたnを放置せず、旧祖から救い出しもした。
 あのとき、リンやnを殺さなかったのは、傍らにいたアキラがシキを制したためだった。だが、シキは本来、他人に制止されたからといって、己の意思を曲げるような男ではない。表面上はどうあれ、心の底ではリンにしろnにしろ、殺したくないと思っていたのだろう。だから、己はアキラの言葉を聞き入れたのだろう。そうと悟ったシキは、殺すための剣を捨てた――捨てなければならなかった。
 闘いの場に立つために、シキは二つのルールを持っていた。一つは肉親であれ、何であれ、敵となった場合には容赦しないということ。もう一つは、いつか己が力及ばずに敗北するときには、潔く受け入れて勝者に生命を差し出すこと。それが、闘いの中で他人の生命を奪うシキの、犠牲者に対するけじめだった。
 ところが、シキは結局、情に流されてしまった。もはや他人の生命を奪う資格はない。そう思っての選択だった。
 シキは、己が戦場を去った後のことを、考えたことがなかった。争いの中に生き、争いの中でたおれるのが、己の生き方だと考えていた。けれど、実際には、『その後』が生じてしまった。だから、余生というわけだ。
 闘うことの他は何も知らないシキは、旧祖脱出後、ひどい空虚感に襲われた。己は虚ろなまま、ゆっくり朽ちて死ぬことになるだろうとも思った。けれど、己の緩慢な自殺にアキラを道連れにはしたくはない。残っていた気力とプライドを振り絞って、シキはアキラを突き放した。
『どこへでも、好きなところへ行け』
 そう告げたとき、アキラは戸惑いの表情を浮かべた。何か言いたげな様子だったが、言葉が見つからないようだ。彼はきつく唇を噛んで、シキに手を差し伸べてきた。真っ暗闇の中で手探りしているような、覚束ない手つきだった。
 シキは、アキラの手を取りたいと、心から思った。けれど、理性を総動員して、己を制した。差し伸べられた手は、しばらくして力を失ったように落ち、アキラの身体の横に収まった。
『分かった。そうする』
 掠れた声で、アキラは呟いた。そのときの彼の眼差しは、その後も忘れられずシキの記憶に焼き付いてしまった。傷ついたような色を宿すアキラの目――その繊細で複雑な碧。
 そうして本当に全てを手放したシキだが、結局、己の生命まで捨てることはできなかった。実弟リンの苦境を知ったためだ。
 リンはトシマでのシキとの戦闘の際に、左足を負傷していた。けれども、無事に旧祖を脱出したらしい。ディバイドラインを越えたところで、日興連の避難民収容施設に身を寄せたリンは、すぐに病院に入れられたという。
『――リンの足の傷は酷かったんだ。素人目に、俺にもそれが分かった』と、シキにリンの情報を知らせに来た、元情報屋の源泉は顔をくもらせた。
 リンの足を診た医師によると、傷口から腐敗が始まっているということだった。左足を切断しなければ、腐敗はやがて身体の他の部分にまで広がるだろう。しかし、内戦の始まったこのご時世、日興連に属さないリンが適切な手術とリハビリを受けるためには、高額の費用が必要であるらしい。
 源泉の説明に、シキはなぜ彼が己を訪ねて来たのかを悟った。そこで、自分がリンの医療費を全て払うと伝えた。
 善意や兄弟としての思いやりから、そう言ったわけではない。ただ金が余っていたというだけのことだ。大戦後、シキは己の腕を磨くために裏の仕事を幾つも請けてきたが、その報酬はほとんど手つかずのまま、闇の口座に放置していた。宿敵を追うことで手一杯で、金を使うことに気を回す余裕がなかったのだ。それこそ、リンのチームを潰滅させたときの報奨金もそっくりそのまま、残っていることだろう。
 そうした金の使い道としては、リンの莫大な手術費はちょうどよかった。
 シキは、リンの手術の成功を見届けてから、どこかへ去るつもりだった。しかし、手術の後も目覚めたリンに引き留められて、去る機会を失ってしまう。というのも、この頃シキは気力を失い、多少ぼんやりとした状態だった。
 そのせいだろう。
『もうちょっといてよ』
 リンに言われて、頷いてしまった。


 半年後。ようやくリンのリハビリが一段落した。シキは今度こそ去ろうとしたが、その行動は再びリンによって押しとどめられてしまった。
『兄貴』リハビリの期間にたびたび会ううちに、リンはいつしかシキを兄と呼ぶようになっていた。『ねぇ、兄貴、源泉のオッサンが知らせてくれたんだけどさ、俺たちの実家、日興連に接収されそうになってるらしいんだ。当主不在ってことで』
『欲しいなら、屋敷でも財産でもくれてやるさ。俺は興味はない』
『そぉー言わずにさ。一度、帰ろうよ。屋敷はまだ古くからいる使用人たちが守ってくれてるんだって。日興連に接収されたら、皆、行き場をなくしちゃうよ。……それにさ、兄貴は嫌じゃないの?』
『何がだ』
『今の日興連の上層部の連中って、昔はうちの親父に媚びてた下っ端だったんだよ? その癖、第三次大戦が終わったら、敗戦のドサクサに紛れて成り上がっちゃってさ。しかも、うちがちょっと当主不在になったら接収だなんて、恩知らずだ。俺や兄貴を敬えって言うつもりはないけど、世話になったうちの親父にはそれなりに敬意を払って欲しいよ』
 弟の言い分に驚き、シキは思わずリンの顔をまじまじと見つめた。恩知らずとは、年に似合わない古風な言い方をするものだ。だが、思い返してみれば確かに、リンには時代がかった考え方をするところがある。そうでなければ、仇討ちなどと称してシキを追っては来なかっただろう。
『実家が気になるなら、リン、お前が当主になってどうにかすればいいだろう』
『そういうわけにはいかないよ。ほら、俺って非嫡出子だろ? 当主として手続きをする権利がないんだよね。親父はさ、兄貴にもしものことがあったら、そのときに俺を跡継ぎにする手続きをすればいいと思ってたみたいなんだよね。俺、一緒に暮らして養ってもらってたけど、法的にはまだ親父の子として認知もされてないらしいんだ。親父はもう死んでるし、今から申請して認めてもらえるかどうか』リンは肩をすくめた。
『何……? 認知すらまだだったのか』
『そういうこと。で、ここは嫡出子の兄貴の出番ってわけ。一緒に実家に来てくれるよねー?』
 シキは完全にリンに押し切られる形で、生家へと向かった。
 二人の生まれ育った家は、広く立派な邸宅だった。旧ニホン軍の中でも高い地位にあった父の権勢の賜物だといえる。父の栄華を反映するように、戦時下の物資の乏しい時期でも、人々が盛んに邸に出入りし、時にはパーティも開かれたものだった。
 けれど、もはや昔の活気は見る影もなくなっていた。当主不在の邸はがらんとして空虚だった。その中で僅かに残った老いた使用人たちが、細々と主の留守を守っている。あまりに侘びしい光景だった。
 シキとリンが実家の門を潜ると、かつて二人の世話係だった老女が出てきて迎えてくれた。彼女は二人を見るなり、泣き出してしまった。何という変わりようだろう。シキはしばらく呆然と玄関に立ち尽くしていた。
 二週間ほど実家に留まって、シキはリンとともに家に関する法的手続きの数々を済ませた。不要な土地や別荘を売り、様々な権利関係を整理する。
 いっそ『家』を丸ごと取りつぶす方が、楽な手続きだっただろう。わざわざ資産を整理して実家の邸を残したのは、実のところ、残った使用人たちのためだった。内戦で社会情勢が不安定だというのに、彼らから職と住居を奪って放り出すわけにはいかなかったのだ。
 手続きがほとんど終わったある日。リンは突然『家を出る』と宣言をした。驚いたのは、シキだ。シキは今後は弟が生家を守るものと思っていた。そのための手続きもしている。
 が。
『俺、写真家になりたいんだ。写真が好きなんだよ。ちょうど源泉のオッサンが、海外の戦地に一緒に取材しに行くカメラマンを探してるって。そこ、交戦中で危険だから、行きたがる人間がいないみたいで』
『だが、お前は足が……』
『もう平気。俺、片足をなくしたからって、自分の好きなことを諦めたくないんだ。……兄貴も分かってくれるよね? こんなハンデに負けるもんか、絶対やりとげてやるって気持ちを』
『あぁ……。とても……よく、分かる』
 シキは頷いた。かつてnと闘って負傷し、運び込まれた病院のベッドの上で拳を握りしめた己自身のことを、思い出す。あのとき、己はどんなことをしてもnを超えると誓い、全てをなげうって追い続けたのだ。
 そう。シキは知っていた。それほどまでに強い思いに捉われる瞬間が、人にはあるのだということを。リンを引き留めても無駄だということは分かっていた。
『――行くがいい』シキは静かに言った。
 己は好き放題をしてきたのだ。次は弟が夢を目指すのを、助けてやるのも悪くはないと思った。
『ありがとう、兄貴』リンは大人びた表情で微笑した。『うちのこと頼むよ。ちゃんと生きて帰ってくるから。変てこなエスニックな木像とか、お土産を持ってね。だから、待ってて』
 半年後、リンは無事に帰国した。もちろん、宣言通りに奇妙な民族工芸風の木造を手みやげに。それは、旧祖脱出からほぼ一年後のことだった。


 旧祖を脱出して三年経ったある日。あいかわらず余生を生きていたシキの元に、リンから国際電話が入った。彼は源泉とともに戦地で手がけた初仕事によって高く評価され、新進気鋭のカメラマンとして少しずつ地位を築きつつあった。今も海外の紛争地域で、写真を撮っている。
『やっほー。兄貴、元気?』
 少しノイズの混じる国際電話から聞こえるリンの声は、活力に溢れていた。好きな仕事に携わっているという充実感のせいかもしれない。
「珍しいな。国際電話は金がかかると言って、普段の用件はメールで済ませるお前が」
『今日は兄貴に頼みごとがあってさ。メールはいざとなれば破棄しておいて、「届いてなかった」って嘘をつけるだろ? だから、直接頼もうと思って』
「俺が今までそうやって、お前からのメールを破棄して届かなかったふりをしたことがあったか?」
『ないけどさ。でも、今回は兄貴、本当に嫌がりそうなんだよね。――あのさ、今年、日興連とCFCの内戦も終わって、東西の行き来が自由になったでしょ? ってことで、年末に知り合いだけで旧祖脱出三周年パーティをしようよ』
「パーティ?」
 シキは眉をひそめた。リンが誰を招待するつもりなのかは、分からない。しかし、そもそもトシマでは、己以外の人間は全て敵であったはずだ。誰を招待するにせよ、和やかにパーティなどする間柄ではない気がする。
 そんなシキの疑問も意に介さず、リンはウキウキした声で続けた。
『心配しなくても、皆の所在は源泉のオッサンに調べてもらったから。抜かりはないよ。兄貴のメールアドレスに住所録を送っといたから、案内状出してね。……そうそう。アキラは住所録には入れてないんだ。兄貴、年賀状やり取りしてるから、住所は分かるだろうと思って』
 確かに、リンの言うとおりだった。シキは年に一度、アキラと年賀状をやり取りしていた。それも、先に年賀状を送ってきたのは、アキラの方だったのだ。
 シキがリンと実家に戻った後、一度だけ、アキラが訪ねてきたことがあった。庭の紅葉が紅く色づく晩秋のことだ。おそらく、源泉から居場所を聞き出したのだろう。風に吹かれて舞い散る紅葉の雨の中で、アキラはシキを確認するようにじっと見た。そして、顔を綻ばせた。
『よかった。あんた、ちゃんと生きてるんだな』アキラは言った。
 おそらく、旧祖を脱出したとき、アキラはシキが生きる目的を失ったことを、察知していたのだろう。シキが生命を捨てないか、彼なりに心配していたらしいことが、言葉に滲み出ていた。
 アキラは、シキに何を求めるでもなく、すぐに邸を去って行った。その年明けに、初めてアキラからの年賀状が届いたのだ。
 年賀状は、毎年、欠かさず届く。

 ――旧年中は大変お世話になりました。
 ――本年もどうぞよろしくお願いします。

 シキはアキラを世話したことなどないし、よろしくする予定もなかった。けれど、毎年、年賀状は同じ文面で送られてくる。おそらく、テンプレートそのままの文章なのだろう。
 だから、シキも毎年、型どおりの挨拶をアキラに送る。文章の中には、何一つ意味のない手紙。そこに込める意味はただ一つ――己はまだ、ここで生きているということだけ。おそらく、アキラの方も同じ意図なのだろうとシキは考えていた。
『兄貴。そういうわけで、アキラも忘れずに招待状を送ってね。頼むよ』
 リンはしっかり念押しして、電話を切った。受話器を置いたシキは、そっとため息をついた。


 もう二度と、アキラと会うことはないだろうと思っていた。
 再び彼の顔を見てしまったとき、果たして己は押し殺しきれるだろうか。アキラの手を取って、抱き寄せて――この余生に付き合わせたという愚かな執着を。







(2011/12/18)
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