パンドラの箱2−1 シキがアキラと共にトシマを脱出してから二年後。シキは再びトシマにいた。だが、同じ場所に戻ってきたとはいっても、二年前と現在とでは状況がまったく違う。シキはもはや強さを追い求めて宿敵に翻弄されるばかりの“挑戦者”ではない。ニコルウィルスの保菌者となったシキは、今や“強さ”そのものだった。 同様に、シキを取り巻く世界も変化しつつある。第三次世界大戦以降、ニホンの東と西に分かれて対立してきたCFCと日興連は、二年前、とうとう『正当なニホン国政府』の地位を巡って旧祖地区で内戦を始めた。けれども、その内戦はさほど、長くは続かなかった。第三次大戦後の不況に苦しんできた両者には、戦争を維持していくだけの体力はなかったのだ。結局、日興連とCFCの争いは停戦状態に入り、そこへ世界的な景気の悪化が追い打ちをかけた。結局、両者は内戦の再開どころではなく、それぞれの体制を維持していくことで精一杯になってしまった。 日興連とCFCは、少しでも多くの国家予算を得るために手放せる資産はすべて手放した。その中には、内戦で手に入れた旧祖地区――日興連とCFCがちょうど中央で分割したその土地も含まれていた。とはいえ、土地の買い手はなかなか見つからなかった。何せ、対立する二つの政府の中間の土地なのだ。いつまた内戦の舞台になるかも分からないその場所を欲しがるなど、普通の神経ではない。 ところが、やがて買い手は現れた。シキを王として擁しながら新たに結成された麻薬組織〈ヴィスキオ〉に。どうしても土地を売って儲けたい政府の足下を見た交渉で、〈ヴィスキオ〉はあっさりと土地の所有権を得ることができた。シキはその広い土地に、前よりも大きく堅牢な〈城〉を築き、〈ヴィスキオ〉の本拠地としていた。かつての〈ヴィスキオ〉がそうだったように。 日興連とCFCの内戦から二年――二つの勢力はすっかり力を失い、ニホン国内の秩序は崩壊しつつある。世界的な不況のせいだ。資源の乏しかった第三次世界大戦の頃の軍国政府時代よりも、人々の暮らしは貧しくなりつつあった。治安が悪化し、幾つかの都市はスラムの様相を呈している。けれど、第三次大戦の頃のように民衆を導く政府は存在しない。日興連もCFCも『正式なニホン国政府』を名乗ることができないまま衰退したため、ニホンは他国から無政府状態と見なされ始めていた。 政府がないということは、他国は交渉ができないということを意味する。国連が援助しようにも、窓口となる機関がない。それだけではない。自国の利益を他国から守る存在もないのだ。言ってしまえば、ニホンの領土はいつ他国から侵略されたとしてもおかしくない状況だった。それでも他国が侵略して来ないのには、理由があった。ニホンの中央部――旧祖地区に広大な〈ヴィスキオ〉の領土が存在するせいだ。 もちろん、〈ヴィスキオ〉は正式なニホン政府ではない。首領たる王のシキもまた、国家元首ではあり得ない。本来なら他国は、一麻薬組織など無視してしまっても構わないのだ。だが、〈ヴィスキオ〉は単に麻薬を世界中に流通させるだけでなく、精神と肉体を増強することに特化した新型ラインを各国の軍隊に供給している。この新型ラインは製法も原料も〈ヴィスキオ〉独自のもの――というのも、シキの血液成分から精製されせいだ――であるため、他国は迂闊に〈ヴィスキオ〉に手出しできない。 こうした奇妙な勢力均衡状態の中、シキは〈ヴィスキオ〉の頂点に――ひいては無政府状態のニホンに君臨しているのだった。 シキは城の一角にある『謁見の間』と呼ばれる広い一室にいた。もともとそこは『謁見の間』などという大時代的な名称ではなく、会議室だとか面会室だとか無難な名前であった。けれど、シキが実質上のニホンの覇者といってもおかしくない状態になるにつれ、客を迎えるその一室は誰からともなく『謁見の間』と言うようになったのだ。 まったく妙なものだ。 無駄に立派な“玉座”に座り、謁見に訪れた他国の麻薬組織の使いの口上を聞きながら、シキはぼんやりとそう考えた。かつて強さを極めることを、己は望んだ。そのためにすべてを捨てて宿敵を追い続けたのだし、己の主義に反してニコルウィルスを体内に取り込みもした。ニコル保菌者となってからは、nとは違う生き方をするのだと決意もした。 しかし、だからといってニホンを支配したいという野望があったわけではない。ただnとは違うように生きようとして、積極的にニコルウィルスを活用しようとしただけである。そのため、実質上ニホンの覇者となってしまった現状に戸惑いがないわけでもない。個人的な欲からニホンの覇権を欲したのではないから、己のものだと言われてもニホンをどうこうしたいという気にはならないのだ。 「――ですから、我が首領はこのニホンの女性にぜひ、組織で働いていただきたいと……。」 使いの男の用件は――言ってしまえば、無政府状態で取り締まる者のいないニホンの領土の女を自らの組織で娼婦として働かせたいというものだった。そこで、彼らはこの領土を縄張りとする〈ヴィスキオ〉に根回ししようとしているのだ。 シキは冷めた目で使者の男を見つめた。玉座の左右に二人ずつ並んでいる幹部たちは、緊張した面持ちで黙っている。皆、王の不機嫌を感じとっているのだろう。シキは弱者を嫌う。だが、弱者を食い物にしようとする輩には、より強い嫌悪を抱くのだ。 と、玉座の影でゆらりと気配が動いた。そこにいるもっとも忠実な部下が使者を殺そうとするのを察知して、シキは玉座から腰を上げた。おもむろに使者の方へ歩み寄ることによって、動きかけた部下を制する。シキは使者を見下ろして、口を開いた。 「その話、断る」 「な……」 世界でもそれなりに強力な組織に属している使者は、ぽかんと口を開いた。いくらニホンを実質的に支配しているとはいえ、〈ヴィスキオ〉は今のところ彼らの組織よりも序列が低い――とされている。〈ヴィスキオ〉へ持ちかけたニホンの女の人身売買の話も既に決定事項であり、まさかシキが断るとは考えていなかったのだろう。 「……いいのですか? 断ったりして。我が首領の手に掛かれば、〈ヴィスキオ〉をひねり潰すことはできなくはない。それでも敢えて人身売買の話を根回ししたのは、互いに共存してより多くの利益を得るため」 「このニホンは俺の“所有物(もの)”だ。好きにしていいのは俺ひとり。他の者の手出しは気に食わん」 「断れば後悔することになりますぞ」 「くどい。貴様の生命は取らないでおいてやる。後悔するのはそちらだと首領に伝えておけ。……失せろ!」 シキが一喝すると、使者は怯えたように立ち上がった。いそいそと退出していく相手を見送って、シキは静かにため息を吐いた。望まずしてニホンの実質上の支配者となったのはまぁいい。だが、支配者というのも案外面倒なものなのだ。どうでもいいからと放っておいても、周囲はこのニホンの領土を狙ってくる。シキがそういった輩を不快だからとはねのけているうちに、ニホンは無政府・無秩序だが不可侵という奇妙な状態になってしまっているのだった。 『謁見室』を後にしたシキは、城の一番奥のにある私的スペースへ戻っていった。そこに王であるシキの私室があるのだ。 広く豪華な部屋は、城の裏側にある庭に面している。というより、塀で他の区域から閉鎖された城の裏庭はシキの私室からしか入れないのだ。庭師だけが塀の鍵を与えられ、外から入ることができるようになっていた。私室へ入ってみれば中はがらんとして、そこにいるはずの人間はいなかった。見れば、庭に出る窓が開きっぱなしになっている。風がゆらゆらとカーテンを揺らしていた。 シキは揺らめくカーテンに誘われるように、庭へと降りた。春を迎えた庭には、美しい草花が咲き乱れている。とはいっても、シキの趣味ではない。いずれもシキの私室で起居する者を慰めるために植えられた植物だった。 (――アレは草花を好むからな……) 花の咲き乱れるツツジの茂みを回り込んで、シキは裏庭の中央部にある広場に出た。草木に阻まれていた視界が一気に開ける。広場の芝生の上に、白っぽいシルエットがあった。シキの私室で暮らす者――王の愛妾の地位にあるアキラだ。 アキラは今やトシマで出会った頃とはまったく違っていた。細い身体がさらに細くなり、無造作にまとったシキのシャツの中で身体が泳ぐかのようだ。身につけているのはシャツ一枚で、しかし、その姿に男とは思えない色気が漂っている。整った顔に浮かんでいるのは、幼いと言ってもいいほどの無防備な笑み。彼は笑いながらひとり舞っていた――一振りの刀を手にして。刀はシキがいざというときのため、私室に置いている予備のそれのようだ。 舞いながらアキラはシキに気づき、悪戯が見つかった子どものように肩をすくめた。が、悪びれもしないまま舞い続ける。素振りや鍛錬というにはあまりに華やかで無駄の覆いアキラのその動きは、舞いとしか思えないものだった。 やがて、アキラは疲れたらしく、ばたりと芝生に倒れ込んだ。そこでようやく、シキはアキラに近づいた。 「何をしている?」 「……闘ってるときの、シキのまね。上手いでしょ」 「俺はあんなに無駄な動きはしない」 「ほめてくれてもいいだろ」 アキラはぷぅと頬を膨らませた。が、シキは取り合わず、アキラの傍らに投げ出されていた抜き身の刀を鞘に戻した。それを見たアキラが「シキ、起こして」と手を伸ばしてくる。シキはその手を取らずに――刀と共にアキラの身体を抱き上げた。 「うわっ」シキの腕の中で、アキラがはしゃいだ声をあげる。 楽しげに煌めくアキラの碧眼を見つめながら、シキは以前の彼の強い意思に満ちた瞳を思い出していた。 アキラが今のようになってしまったのは、一年半前のことだ。それまでニコルウィルスを取り込んだシキは、アキラの存在を持て余していた。アキラはどうしても手放せない。けれども、傍で彼のあの強い意思の宿る瞳で見られると、まるで責められているような気分になるのだ。 ――お前がニコルウィルスを取り込んだのは、本当にnに勝つためだったのか? nに負けたからこそ、ニコルの保菌者になったのではないか? ――今のお前は、nの亡霊に操られているだけではないか? 己だけが狂っていくようで、シキは思いあまった末にアキラを殺そうとした。そのときだ。アキラはシキに『あんたのために、狂ってやる』と言って意識を失い――目覚めたときには子どものようになっていた。 実を言えば、シキはほっとしたものだった。アキラがあの真っ直ぐな眼差しを己に向けなくなったことに。だが、同時に物足りなさも感じていた。ここにいるのは――今、己が抱いているアキラは彼の抜け殻に過ぎないのではないかという思いが、ずっと頭に引っかかっている。 (……構わないさ。壊れた者同士、俺たちは似合いだ) そう思うものの、シキはたびたび狂う直前のアキラの言葉を思い出しもする。 『――あんたが助けてくれと言うなら、俺は戻ってくるから』 あのときのアキラの言葉は、どういう意味なのか。ニコル保菌者となって最強の力を手に入れた己が、狂って子どものようになったアキラに助けを請うときが来ると本気で信じているのだろうか。どうなのだ、とシキはもういない正気のアキラに問いただしてみたかった。 しかし、尋ねるべき相手はもういないのだ。 「……ねぇ、シキ」 シキの腕の中で大人しくしていたアキラが、きゅっとシャツを掴んだ。 「どうした?」 「花が咲いたよ」 「そうだな。春が来たからな」 「明日の晩、花見をしようよ」 ね、と無邪気に笑いかけてくるアキラに、違うだろうとシキは思う。お前はそんな風に俺に無防備に笑いかけるべきじゃない。そんなのはお前じゃない。けれども、違和感と同時に言葉にし難い強い感情を覚えて、シキは無言でアキラを抱く腕に力を込める。 目の前にいるのが己の望み通りのアキラでないとしても、決して離れたり放り出したりすることはできないのだと分かっていた。 2013/01/20 目次 |