パンドラの箱2−2





 シキがアキラを部屋に連れ戻ったときだった。ノックの音が室内に響く。アキラをベッドに下ろしたシキは、顔を上げて言った。
「入れ」
 命じれば、静かにドアが開いてナガツカが入ってきた。長い黒髪を首の後ろで一つに束ね、片目に眼帯を着けている。かつてはなかった眼帯だった。一年半前、シキはアキラを殺そうとしたナガツカの片目を、罰として奪った。にもかかわらず、彼はシキを恨むわけでもなく、仕え続けることを選んだ。シキはそんなナガツカの忠誠に報いて、彼を傍近くに置くようになっていた。
「――申し訳ありません、王よ。シコクに武装した船の一団が現れたとの報せが入りました。おそらく、先ほどの使者の組織かと」
「やはりこちらが断ることも予測していたか……」
「そのようです。現在、シコクの支部が対応しておりますが……」
「攻めてきたからには、勝算があるのだろう。敵の兵力の方が上だろうな」
「シコク支部もそのように分析しております」
「分かった。こちらから援軍を出す。また、俺も共に向かおう」
 シキがそう言うと、えーっとベッドのアキラが不満げな声を上げる。しかし、シキはアキラには構わなかった。城に残ることになるナガツカに幾つかの指示を出す。それを終えると、シキはアキラに身を寄せた。
「……すまないが、行ってくる」
「また俺を置いてくの」
 ぷぅっと子どものようにアキラは頬を膨らませた。シキは無表情のまま、けれども、丁寧な手つきで彼の頭を撫でてやった。
「大人しくここで待っていろ。……万が一のときは、ナガツカの指示に従うように」
「はーい」
 あっさりとアキラは承諾の返事をした。しかし、その表情は気のない様子だ。とはいえ、シキはアキラに取り合っていることもできず、慌ただしく私室を後にした。


 部屋に残されたアキラは、ナガツカを顧みた。彼はシキが去った後も、しばらくじっと扉を見つめていた。
「……一緒に行きたいんだろ」
 アキラが呟くと、ナガツカは振り返った。まるでシキを真似るような無表情で、アキラを見つめる。
「何を……」
「お前は俺と一緒だね」
「馬鹿なことを。私はシキ様の指示に従うだけだ。逆らおうとは思いもしない」
「そう? だけど、お前はシキが好きだろう? ……そして、俺が嫌いだ」
 アキラの言葉に、ナガツカはぎょっとしたように表情を動かした。そのことに満足して、アキラは微笑する。ナガツカは悔しげに眉をひそめ、視線を逸らした。


***


 ――〈ヴィスキオ〉シコク支部。
 沖合に現れた武装船団と対峙したまま夜を迎えた支部の建物内は、物々しい雰囲気に包まれていた。
 海岸の護衛のシフトを終えたトモユキは、支部に戻ってきてほうっと小さく息を吐き出した。“ペスカ・コシカ”時代の昔から、敵と一触即発の緊張感というのは何度も経験している。これまでは心地よいと感じられたその張りつめた空気が、今回は何となく息苦しい。自分が変わってしまったのか、それともこの状況の深刻さが昔とは比べものにならないほど重いからなのか――どちらだろう、と考えるともなく思う。
 それというのも、トモユキは実質上、ニホンの国防の最前線にいるせいだった。
 現在、ニホンは無政府状態にある。他国からの侵略を免れているのは、ひとえにトシマに強大な力を持つ〈ヴィスキオ〉が在るためだ。〈ヴィスキオ〉が仕事の便宜のためにニホン各地に置いた支部は、〈ヴィスキオ〉の掟に背く人間を取り締まる役割を果たしている。さらには、支部が他国の侵入への警戒線にもなっているのだった。支部に駐屯する〈ヴィスキオ〉の構成員たちは、古めかしい表現を使うのならば『防人』のようなものだといえる。
 中でもニホン海に近いフクオカやトヨオカ、ニイガタなどの支部は、気の休まる間もないところだとされていた。というのも、それらの支部はニホン海を挟んでその向こうの大陸国家の出方を、常に警戒していなければならないからだ。大陸の国家の兵が上陸してきて小競り合いが起こったことも、一度や二度の話ではないという。
 それに比べれば、トモユキたちの属するシコク支部が接するのはだだっ広い太平洋だ。そうそう太平洋側から攻め込もうとする敵もいない。かなり平穏な支部だと言われていた。そのため、トモユキはシコク支部に出向を命じられたとき、ほっとしたものだった。こんな辺境の地ならば、敵と闘わなくてすむ――と。といっても、トモユキ自身は闘うことが恐ろしいのではない。トモユキの推挙で〈ヴィスキオ〉に入って部下となった友――リンを闘わせたくないのだ。
 トシマ脱出後、左足を失って呆けたようになっていたリンは、仇であるシキについて話すときだけ人間らしい意思を取り戻した。そんな彼が不憫でトモユキはリンに頼まれるままに〈ヴィスキオ〉に推挙したのだが――正直なところ、後悔し始めていた。〈ヴィスキオ〉に入ったリンは、シキに憎悪を燃やすときだけ元気になったのだ。
 そんな中、リンはシキから遠く離れてトモユキと共にシコクに移ることになった。トモユキはリンが再び呆けてしまうのではないかと不安に思ったものだ。けれど、リンはそうはならなかった。ごくのんびりした様子で、リンは仕事の合間に釣りを覚えるなどしてシコク支部でののどかな暮らしに馴染んでいったのだ。このことはトモユキにとって、嬉しい誤算だった。このままなら、リンは憎悪を忘れて生きていくことができるのではないか、と。
 しかし、その考えは甘かったのだろう。
「おかえり、トモユキ」
 詰め所から出てきたリンが、トモユキを見つけて近づいてきた。〈ヴィスキオ〉に入ったときシキの目を避けるため、彼は生まれつきの金髪を茶に染めて髪も短くしてしまった。そのときの格好が気に入ったのか、リンは未だに染めた髪を短く刈り込んでいる。左足が義足であるため、彼は少しだけ足を引きずるような歩き方をしていた。その動作を見ていると、以前の彼の軽やかな動きを知るだけに何だか痛々しく思える。
 けれど、リン本人は快活な笑みを浮かべていた。いっそ、空恐ろしいほどに明るい。
「――海岸の方はどうだった? 敵はもうすぐ上陸してきそう?」
「さぁ……。しばらくは〈ヴィスキオ〉とのにらみ合いを続けることになると思うけどな」
「ちぇっ、つまんないの。早く戦闘になればいいのに。退屈だよ」
 リンは子どもっぽく唇を尖らせてみせる。彼の傍を通りかかった同じ支部の同僚が、「勇ましいな」と楽しそうに声を掛けながら去っていった。けれど、トモユキの心情はリンを勇ましく思うどころではない。はっきりと、リンは自分たちとは違うのだと感じていた。彼は身の内に修羅を飼っている――闘いを求める怪物を。
 昔、“ペスカコシカ”を潰滅に追いやったシキ。生き残ったリンを裏切り者だと責め立てた自分たち元チームメイト。皆して寄ってたかって、リンの中にあったとんでもないモノを――修羅を目覚めさせてしまったのではないか。そう何度も考えた思考の途を、トモユキは再び辿った。
「いっそ、こっちから仕掛けてしまいたいな」リンは無邪気に言った。
 その言葉にトモユキは苦い顔をする。
“ペスカ・コシカ”時代からリンは先制攻撃を好んでいた。敵対チームへの宣戦布告から間を置かずして即座に仕掛け、相手が体勢を整える隙も与えない。もちろん、敵の出鼻を挫くためには圧倒的な強さが必要だ。だが、当時のリンは毎回それをやってのけた。
 といっても、もちろん果敢な攻撃だけではチームの強さは維持していけない。じっくりと敵の出方を見ながら攻撃か友好か決めるのは、どちらかと言えば副リーダーである亡き友カズイの得意分野だった。そのカズイがリンを補ってチームとしての作戦を立てることによって、“ペスカ・コシカ”の無敗伝説は作られていったのだ。
 当時からリンは何も変わっていない。――というより、変われないまま、恐れを知らぬ子どものままに成長を止めてしまっている。
「軽はずみな行動は、くれぐれも慎めよ。王と援軍が来るまで、シコク支部はこちらから攻撃してはならないことになってるんだからな」
「ふん、そんな指示! シキが人を斬りたくて我が侭を言ってるだけだ」
「口も慎め、リン。……お前、反逆の罪で処分されたいのか」トモユキは鋭くリンに警告した。
「分かってる。分かってるよ」
 リンは拗ねた顔で唇を尖らせた。そのときだ。
 ウーウーウー。支部の内部にサイレンが響きわたる。敵襲の合図だった。つい先ほどの見回りのときには静かだった沖合の敵船団が動き出したのだろう。
「ちっ……まだ王も援軍も到着しない……。もうしばらく、にらみ合いでもしてくれればよかったのに」
 トモユキは短く舌打ちする。対してリンはぱっと顔中に満面の笑みを浮かべた。まだ前線でもないのに、彼の手は早くも腰の得物を確かめている。
「ふふふ、いいじゃないか。ちょうどこっちも退屈してたとこだし」
「お前な……」
 思わずトモユキは渋い顔をして見せた。けれど。
「行くよ、トモユキ。手柄がなくなっちゃう」
 愉しげに言って、リンは走り出した。わずかに垣間見えたその表情には、狂気じみた笑みが浮かんでいる。
「待て、リン!」
 トモユキは慌ててリンの後を追った。


 外に出ると、ドォンっと砲弾の音が聞こえた。どこか思いの外、近い場所で爆発音が響きわたる。トモユキは振り返って、出てきたばかりの〈ヴィスキオ〉シコク支部の建物を見た。シコク支部の建物の端の屋根から、火が上がるのが分かった。どうやら先ほどの砲弾が命中したらしい。
 トモユキは偵察時に目にした敵方の戦力を頭の中に呼び起こした。敵方は船舶三隻。いずれも二十世紀末頃に使われていた軍艦である。もちろん、たかが犯罪組織が軍艦を保管していたとは考えにくい。第三次大戦後に困窮したどこかの政府が手放して、市場に出回っていたものだろう。つまりは旧式である。
 だが、旧式とはいえ軍艦は軍艦。砲弾の射程距離はかなり広い。それを敢えて海岸からほど近い〈ヴィスキオ〉のシコク支部だけに向けているのは、それだけ敵方が決着を早く付けたがっているせいに違いなかった。
 旧式の軍艦は、まだ燃料が豊富に手には入った時代背景を反映して、最新式よりも燃費が悪い。また、発射する砲弾も資源不足のため、昔よりも格段に値段が高くなっている。製造の際に多くの高価な燃料を必要とするから、どうしても単価が上がってしまうのだ。一国の政府ならまだしも、一犯罪組織がそう景気よく使えるはずがない。そこで、ともかくニホン侵攻のために邪魔になる〈ヴィスキオ〉だけでも叩いてしまおうということだろう。
 安全だと言われて平和ボケしているようなシコク支部だけで軍艦三隻を相手にするのは、正直、辛い部分がある。だが、攻撃に出なくとも戦闘を長引かせることができれば、確実に相手の消耗を誘うことができるはずだ。
「――皆、前へ出すぎるな! ここを守って援軍を待つんだ」
 トモユキは浮き足立っている味方に向かって、叫んだ。
 王が臆病を禁じているから、〈ヴィスキオ〉の兵が総崩れになって逃げ出すことはないはずだ。ただ、それでも浮き足立っていることには違いない。トモユキの指示を聞くと、兵たちは自分の役目を思い出したのか出鱈目に逃げることを止めた。
 しかし。
「トモユキ、援軍を待つなんて悠長なこと、言ってられないよ!」海岸の方から戻ってきたリンが言った。どうやら海上の敵の様子を見に行って、戻ってきたらしい。彼はトモユキの前まで来ると、背後を振り返った。「敵兵が上陸してきた。きっと夜のうちにここを落とすつもりだ」
「チッ……。援軍を待たせてはくれないか」
「ま、当然だよね」リンは肩を竦めた。
「じゃあ、どうしたらいい?」
 トモユキは素直に尋ねた。状況が悪すぎて、どんな策も思い浮かばないのだ。その点、“ペスカ・コシカ”のリーダーであったリンは戦闘の経験が豊富なため、何か名案が浮かぶかもしれない。
 しかし、トモユキの期待にリンは首を横に振った。
「どうしたらいいって、どうしようもないよ。今更、攻勢に出たって先制攻撃にもならないし――ここで持ちこたえるしかない」
「やっぱそうか」
 トモユキは肩を落とした。が、すぐに立ち直って近くにいる構成員たちに支部防衛のための指示を出し始める。リンは神妙な表情で、トモユキの後に従った。


 夜を徹しての戦闘になった。トモユキたちは〈ヴィスキオ〉シコク支部の建物を拠点として、懸命に敵を防ごうとした。
 使える砲弾が尽きたのだろう。砲撃はいつしか止んでいて、夜の静けさの中で時折、遭遇した敵同士が殺し合う密やかな息づかいだけがこだまする。トモユキとリンも緊張と疲労でくたくたになりながら、夜を徹して闘っていた。常人ならば耐えられないはずの戦闘――それに耐えることができたのは、ごく薄いながらもラインを服用しておいたせいだろう。
「――午前四時……。もうじき夜明けだね」近くにいたリンが腕時計を見ながら呟いた。
「夜明けか……。明るくなれば、敵は引くと思うか?」
「さぁ……。だけど、向こうには〈ヴィスキオ〉側が服用しているようなラインはないだろうね」
「だとすると、いい加減に疲れが出る頃だろうな」
「それを願うよ」
 そのときだった。誰かが叫ぶ声が辺りに響いた。

「――王(イル・レ)だ!」

 その声にトモユキは思わず立ち上がった。見れば、朝焼けに染まる東の空の下、黒ずくめの軍勢が見えた。その先頭には黒いコートを翻した男の姿がある。まるで朝の光の中に取り残された夜のように――〈ヴィスキオ〉の王がそこにいた。






2013/04/21

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