パンドラの箱2−3 黒ずくめのシルエットが戦場を駆ける。王自らが出てきたことで、<ヴィスキオ>側の士気が見る間に高まっていった。わっと海岸に上陸した敵に向けて攻勢に出ていく。 朝日の中で遠目に見た敵は、どこかの犯罪組織らしいにもかかわらず、まるで一国の軍隊のような装備だった。<ヴィスキオ>もニホン国内で比較すれば、どこよりも優れた装備が支給されてはいる。それでも今の敵勢力と比べれば装備面で劣っていることが見て取れた。いまだにニホンが経済的に苦しいせいだ。それでも、現状、<ヴィスキオ>がニホンを支配することで他国の侵略を免れているのは、ラインのためだろう。 旧型と違って、新型ラインには副作用がない。ゆえに各国の軍に戦時の精神安定剤として普及している。ニホンと<ヴィスキオ>を攻撃するなら、ラインの供給が断たれてしまう。そのために、簡単にニホンを攻撃できないのだ。 トモユキは一瞬、我に返ってぞっとした。自分たちは何と危うい均衡の中で生きているのか。今の王がいなければ、ニホンは頼る政府もなく侵略されていたはずだ。 ――もしかして、守られている? あの王に? 一瞬、浮かんだ思いつきを、トモユキはすぐに打ち消した。トモユキは冷酷な王の姿を自分の目で見てきている。また、リンからも王の非道さについては聞かされていた。だが、一度、気になってしまうと、王の行動に今までと違う印象を受けるのも、確かだった。 戦場になった最中でぼんやりしていたトモユキは、しかし、すぐに我に返った。闘わなければ。そうしなければ、生き残れない。 辺りは混戦の様相を呈している。味方に中る可能性ががあるため、銃を持っている者は少ない。とりわけ、<ヴィスキオ>側は王が銃を好かないこともあって、日常的に銃を好む者はいない――真実とはいえないだろうが、表向きは皆そう言う。皆、銃のない戦いに馴れている。そういう事情があるためか、形勢は<ヴィスキオ>に有利になり初めていた。 おそらく、王の銃嫌いは単なる好みの問題ではない。トモユキは不意にそう悟った。銃は離れた距離からでも、命中させれば確実に人を殺傷することができる。だから、兵士は銃を使うことを好む。効率的な攻撃方法ということもあるのだが、同時に近距離であればあるほど正常な精神状態の人間は他者を傷つけることをためらうものだからだ。こうした兵士の心理状態については、昔、軍の訓練所にいたときに授業で聞いていた。が、トモユキ自身の経験からもその通りだと思えた。敵の顔が見えると、やはりためらいは生まれる。銃を使えば、そうした問題は解決されるだろう。 しかし、銃が万能というわけでもない。 あまりに近距離であったり、敵味方が混じり合ってしまった今のような状況であれば、銃だけに頼ることはかえって危険だ。特に、今の時代は戦争をするにも資源不足で白兵戦が主となる状況であるから、混戦状態は起こりやすい。それならば、いざというときのために敵の顔が見えるほどの近距離での戦闘に馴れておくことは重要である。――王の銃嫌いはそういう意味なのかもしれなかった。 現に〈ヴィスキオ〉の構成員たちは混戦にも馴れた様子で、怯む気配もない。その中でも突出しているのは、やはり王だった。圧倒的な強さで敵を倒していく。 敵の方も王が出てきていると分かったのか、シキの周囲に攻撃が集中する。たちまち、彼の周囲が激戦区となっていた。王を守ろうとする〈ヴィスキオ〉の構成員たち。懸命に攻撃している敵側。そんな両者を気にかける様子もなく、シキは刃を振るいながら悠然と先へ進んでいく。 と、そんな激戦区の最中で、王と同じように軽やかに駆け回る人物の姿があった。リンだ。左足が義足であることを感じさせない動きで、大降りのサバイバルナイフを閃かせている。 「っ……あのバカ……!」 トモユキは舌打ちした。 〈ヴィスキオ〉に入れるよう取り次ぐとき、トモユキはリンに決して目立たぬようにと約束をさせた。だが、そんな約束などぶち破って、今のリンは誰よりも目立っている。 不安に駆られたトモユキは、ともかくリンを大人しくさせたいと考えた。しかし、声を掛けようにも、まさか戦場の最中で叫ぶわけにもいかない。じりじりする思いで、トモユキはリンの動きを目で追う。 と、リンのすぐ傍。敵を倒しながら前進するシキが、ふと振り返ってリンを見たのだ。 ――何だ……? シキの仕草にトモユキはふと違和感を覚えた。 王たるシキのことは、〈ヴィスキオ〉の構成員内の噂で多少は知っている。残忍で冷酷。弱者には手を出さないが、卑怯と不正には容赦がない。王という地位にあるものの、金にも女にも興味はなし。執着を示すのは愛妾――過去にトモユキが偶然、生命を救った青年だ――にのみ。その噂はおおむね正しい、とトモユキは考えていた。 そんなシキが、リンを見ている。単によく仕事をする部下を確認しているのだとは、トモユキは思えなかった。なぜなら、戦場で前しかないはずのシキが振り返るというのは、余程のことだからだ。 ――いったい、何なんだ……? そんな疑問を胸に押し込めたまま、トモユキは生き延びるために戦いに意識を戻した。 *** ――もはや見慣れた夢の中、トシマの廃墟の中を俺は歩いていた。 現実世界での俺はシキに望まれた通りに正気を手放し、狂気に堕ちて赤子のようになっている。しかし、夢の中は無意識に閉じこめられた正気な俺の領域だ。そうなるように、狂気に堕ちる直前に俺自身が選択した。 なぜなら、ニコル・ウィルスの影響で狂気に染まったシキの心を救い出すには、この方法しかないと思ったからだ。 どうしてかは分からないが、この夢の世界はシキの意識とつながっているように感じる。ニコルと非ニコルのせいかもしれない。以前、ニコルの保菌者であるnに触れたときにはピリリと電流が走るような感覚があった。また、理屈では説明できないが、nに引きつけられる磁力のようなものを感じたこともある。それと同じで、俺とシキの場合、ニコルと非ニコルの共鳴反応の一種が、この夢での繋がりなのかもしれなかった。 もちろん、俺の妄想である可能性も捨てきれはしない。だが、急速に狂気に心を明け渡していくシキを目にして、俺は自分の妄想かもしれないこの世界に賭けるしかないと決めた。なぜなら、シキの捨て去ろうとしている人間らしさこそ、俺が彼に惹かれる理由だからだ。何もしないまま諦めて、ケイスケを死なせたときのように後で後悔したくはない。 「――シキ!!」 歩きながら、俺はシキが現れそうな場所で彼の名を呼んだ。初めて会った通り。破壊され尽くしているが城らしき場所。植物園の跡地。どれほど探し回っても、どこにもシキはいなかった。 それでも、俺は諦めない。 「シキ!!」 夢の中なので声は枯れないが、さすがに疲れ果てて立ち止まる。シキを探すのを諦めようとは思わない。けれど、立ち止まっているとじわじわと不安がこみ上げてくる。 ――現実世界の自分を狂気に明け渡したのは、間違いではなかっただろうか。もしこの世界が、シキと夢で繋がっているという仮定が妄想でしかないなら、俺はずっとこの世界に一人きりで閉じこめれてしまう。狂ったシキにさえ、もう会うこともできない。 そんな不安を踏みつぶすようにして、しばらくすると俺はまた歩き始めるのだ。 そうしてどれほど時が経っただろうか。 歩き続けていた俺は、ふと人のものらしき声を聞いた気がして顔を上げた。風ばかりが吹き抜けていく廃墟の最中で、じっと耳を澄ます。と、遠く遠く、幻聴かと思うほど微かな声が途切れがちに耳に届いた。 『――……の……か……?』 微かな響きは、それでも確かにシキのもののように思える。 「シキ!? ……ここにいるのか、シキ……!?」 思わず俺は叫んだ。けれど、返事は聞こえてこない。先ほどの微かな声に縋るような思いで、俺は名を呼びながら、シキの姿を求めてがむしゃらに辺り一帯を走り回った。だが、周囲は先ほどと変わらず、ただ廃墟が広がるばかり。 そうするうちに、足下の瓦礫につまずいて倒れ込む。といっても、夢の中のこと、痛みはなかった。俺はシキを見つけられないもどかしさと不安で、手の下の瓦礫に爪を立てた。ぎりぎりと瓦礫の表面を引っかきながら、自分を宥めようと息を吐く。落ち着こうとしたせいだろうか、俺の頭に思いつきが降ってきた。 先ほどのシキの声は、ひどく微かだった。声がどこから聞こえるのかは分からない。けれど、とにかく俺が叫んでいたり、走り回ってドタバタしていたら、聞き取ることができないのではないだろうか。 焦る気持ちを抑え込んで、俺は上体を起こした。胡座をかいてその場に座り込む。目を閉じて、静かに呼吸を繰り返しながら耳を澄ました。 『――ン……あいつが……』 予想通りというべきか。再び微かにシキの声が聞こえた。前や後ろ、左右、どの方向からというわけでもない。強いて言うならば、まるで頭上の空から降ってくるかのような妙な位置から聞こえているようだ。 シキと呼びかけたいのを堪えて、俺は微かな声に耳を傾けた。 『――なぜ……あいつが生きているんだ……。殺したと思ったが、あのとき生きてトシマを脱出していたのか……?』 ――それは誰の話だ? 内心、首を傾げながら、俺は声を聞き続ける。一瞬、nの顔が浮かんだが、すぐに俺はその可能性を否定した。なぜなら、シキの声音には憎しみの色はなかったためだ。 どちらかといえば、戸惑っているかのようでもある。誰かの死に対して、そんな風に中途半端な態度を見せるシキを、俺はいまだに見たことがなかった。不思議なような、妬ましいような気分で、俺はシキの声を聞き続けた。 『生きていたんだろうな……。やはり我が弟だけのことはある……リンは』 そう呟くシキの声には、彼が狂気に陥ってからは聞いたことのないような温かさがあった。その響きにヒリヒリと胸が痛む。あんな風にシキが話しかけるのが俺だけであればいいのに、と考えてしまう。 と、そのときだった。シキの声は驚くべき発言をした。 『……だが、再会を喜んでもおれんな。あいつは、仇である俺を殺しに来るだろう。たとえ、手を失っても、足を失っても、這ってでも。――それが、俺とあいつに流れる血の業だ……』 俺は一瞬、嫉妬も忘れて驚いた。止めなければ、と強く思う。しかし、現実の肉体を捨ててしまった俺には、どうすることもできない。リンは俺の友達でもあるのに。俺は初めて、この世界に来たことを後悔した。 2013/04/29 目次 |