Player2 *最後に少しだけ女性→シキの描写があります。 3. 行為の後の眠りの中で、アキラはすべてを思い出した。十八歳でシキに従ってトシマを出た後、何があったのかを夢に見たのだ。 トシマを出た後、宿敵を失ったシキは覇気を失ってしまった。けれど、それでも彼は努力した。現実から目を逸らすことを自身に許さず、アキラと共に生きようとした。一時のシキははアキラと二人で生きることに意義を見いだそうとさえ、していた風だった。 けれど、闘いの中でこそ生きる意義を見いだせるシキの本質は変わらなかった――彼自身にすら、変えられなかった。 数年の歳月が経ち、シキの気力は限界に達しようとしていた。彼は次第に自分で動かなくなり、静かな狂気の中にひとり閉じこもることが多くなった。そこにはアキラの声は届かない。現実の世界で、アキラはシキといながら頻繁にひとりぼっちになった。 それでも、アキラはシキの傍を離れなかった。いつ彼が完全に“眠って”しまうのだろうと不安だったが、どうしても離れたくなかった。トシマにいた頃は受け入れ難かったその感情が恋情なのだと、いつからか理解していた。だから、アキラはシキが静かな狂気に閉じこもる間、彼を狙ってやって来る刺客と闘った。最初は不慣れで無数の傷を負ったが、素人はいつまでも素人ではない。じきに刺客たちを、危ういながらも撃退できるようになっていった。 そのまま、ずっと傍にいるつもりだった。たとえシキが“眠って”しまって目覚めないとしても。生命が尽きるときまで、離れないつもりだった――。 *** 目が覚めたときには、夜が明けていた。ひび割れた窓の向こうの空は、いつものように灰色の厚い雲でべったりと塗りつぶされている。 アキラは身を起こした。そこで、ようやく自分がベッドに寝かされていることに気づく。裸だが、上にシーツが被せてあった。信じられないことだが、シキが運んでくれたらしい。 ――そうだ、彼は? 反射的にアキラは気配を探ろうとした。そのとき、カタンと寝室の入り口で物音がした。振り返れば、シキが立っている。目覚めたばかりのアキラに気づかせるために、わざと音を立てて気配を発したようだった。 「運んでくれたんだな。ありがとう」 アキラは礼を言った。シキはやや困惑した様子で黙っていた。場をはぐらかすように、手にしていたペットボトルの水をあおる。この部屋にアキラが――というよりアキラが演じる“シキ”という役の人間が――備蓄しておいた水だった。 シキの態度が面白くて、アキラは忍び笑いを漏らした。それから、無言で彼に手を伸ばす。シキはすぐに察したらしく、飲みかけの水のペットボトルをアキラに渡した。 ――やっぱり、十代のシキは俺の知るシキと比べて無防備だ。 アキラは新鮮に思いながら、水を飲んだ。そのときだ。 「……やはりお前はこの状況について何か知っているんだろう? そうでなかったとしても、何か思い出したのではないか?」 シキが尋ねた。彼自身は、アキラの演じている“シキ”が自分の未来の姿だとは気づいていないようだった。というより、自分の本当の名前さえ思い出すには至っていないらしい。 「――どうして俺が知っていると?」 「根拠はないが……お前はここで何が起きるのか、知っている気がする。そうでなければ、お前ほどの手練れが無防備に俺に身体を開いてみせることはないだろう」 「無防備にって……セックスなんてそんなもんだろ」アキラは肩をすくめた。 「だけど、お前は誰とでも寝る人間じゃない……そうだろう?」 「俺のことをそんな風に思ってくれるのか。光栄だな」 軽々しい語調で言ってみせたアキラだったが、さすがにシキをからかい続けるのが申し訳なくなってきた。そこで、軽薄な演技は止めることにする。 「……あんたの言うとおりだ。俺は昨夜、いくらか記憶を取り戻したよ。この世界についても少し分かる。だけど、何もかもを明かすことはできない」 「なぜだ」 「頭の中で警告が鳴り響くんだ。“その事実を明かすことは許されない”って。何度か、シナリオから外れた行動をして“死んだ”ときに似た感じがする」 「あぁ……。お前も何度か死んだのか。俺もだ」シキは同情するように言った。 「あんたも“死んだ”ことがあるなら分かってると思うけど、この世界での“死”は一からのやり直しを意味する。もし、ここで俺が頭の中の警告を無視して二人とも“死んだ”ら――」 「せっかくここまで来たのに、またやり直しをさせられるということか」 「そうだ。それより、俺はこのままこの先に進むべきだと思う。だから、すべては明かせない」 「……だが、一部なら明かしてもいいと思っているということか?」 現実の世界の狂気に陥りかけたシキとでは成立しない、投げ合うような会話が心地いい。現実世界でもこうであればいいのに、とアキラは僅かに胸の痛みを覚えた。アキラはそれを押し隠して、にやりと笑った。 「部分的になら明かしてもいいけど。報酬をくれよ」 「報酬?」 「これでいい」アキラはシキを引き寄せて、唇を重ねた。短く触れあわせるだけで、すぐに離す。「今後、あんたの唇は俺のものだ。……ただし、いつか、本当に好きな相手が現れたら、この約束は忘れていい」 「そんなくだらない約束が報酬でいいのか」シキは呆れた顔をした。「だったら、俺は口づけるのは永遠にお前だけだな。俺は己が他人を愛せるとは思わない」 「先のことなんて、何も分からないさ」 自分がそうだったのだ。シキもそうであればいい、と願いを込めてアキラは呟いた。しかし、シキは自身が変わるとは想像もつかないように、早く話せとアキラを急かしただけだった。 そこで、アキラはこの世界について話を始めた。おそらくこの世界の中では、シナリオ通りに役を演じなければゲームオーバー――すなわち、“死”んでしまうということ。シナリオは大まかに決まっているが、多少の自由は許されるのではないか、ということ。 アキラがシキの演じている“アキラ”の未来の姿だということは、告げなかった。それはしてはならないと、頭の中で警告が鳴っていた。 「昨夜、あの路地裏にケイスケを放っていくのはシナリオだった。だけど、二人きりになった俺たちが何をするか、何を話すかは、シナリオに書かれているわけではないんだと思う。だから、今、こうしてこの世界について話すことができている」 それに、とアキラは心の中で独白した。本来、ケイスケの死の後、自分は“シキ”に連れていかれてピアッシングをされた。さらに、“シキ”が“アキラ”を抱いた。だが、先ほどまでアキラはそうした過去に沿わない行為をしていたにもかかわらず、何も起きなかった。すべてがすべて、過去の出来事と同じように進めなければならないわけではないのだろう。 「だが、奇妙だな。こんなこと、現実にはあり得ないはずだ。そもそも、いったいなぜ俺たちはこの世界に閉じこめられて、シナリオを演じさせられているんだ?」シキは首を傾げた。 「心当たりが一つだけある。……これは、nという男の仕業なんじゃないかと思う」アキラは考え込みながら言った。 ニコルウィルスの保菌者で、超人的な力を持っていたn。戦闘兵器としてある意味では軍に『開発』されたに等しい彼の力は未知数だ。そもそも、ニコルウィルスのせいとはいえ、彼の血液は何倍にも希釈された〈ライン〉の中にあってさえ接種した者を狂わせた。最後の最後には、幾つかの言葉だけでシキの心を再起不能なまでに折ってしまった。思えばnにはある種、人の心に働きかける超能力が備わっていたのかもしれない。その延長だとしたら、この不可解な世界も納得がいく。若いシキの精神とアキラの精神とを、どのように行ったのかは分からないが、この閉ざされた世界に幽閉してしまったのだろう。 しかし、そう考えはしても、アキラはシキには理由までは打ち明けなかった。若いシキの心にnへの何らかの感情を植え付けるのは危険だ。もし目の前のシキが本当に十八歳のシキの精神だとしたら、nへの執着は将来の禍根になるかもしれないのだから。 「ならば、結局、nという男を倒せばいいのだろう? 普通の“ゲーム”では、“ボス”を倒せばクリアだ。そういうものだろう?」 シキの無邪気な言葉で、アキラは我に返った。nを倒す――シナリオというか、過去のこの先の展開もそうだったはずだ。ただ、現実にはnが死んでもハッピーエンドにはならなかった。本物の“シキ”はまるで呪いをnの最期の呪いを受けたかのように、覇気を失ってしまったのだから。 現実はゲームのように簡単ではない。だが、その事実もまた若いシキに打ち明けるわけにはいかない事柄の一つだった。 「そうだな。nを倒してすべてが終わればいいな。……もうじき、そのときが来るだろう」 アキラは静かに言った。 4. やがて、そのときはやって来た。 アキラはnと対峙していた。“シキ”として。 シキは背後でアキラを見守っている。“アキラ”として。最初から手出ししてはならないと言い含めてあったためだ。彼はもどかしそうではあったけれど、言いつけを守ってその場でじっとしていた。 ひとしきり会話をした後に、アキラは刀を抜いてnに斬りかかった。nは避けない。過去に目にした光景そのまま、無抵抗で刃を受ける。 手に肉と骨を断つ感触が伝わった。 ――終わった。 アキラがそう思った瞬間だった。辺りの一切の音が消えた。アキラはぎょっとして思わずnから離れた。振り返れば、何もかもが静止している。背後にいたシキも、流れる雲も、風に吹かれる木々も。自分を除くすべてがモノクロに色褪せて凍り付いているのだった。 「これ、は……」アキラは喘ぐように呟いた。 「“ゲーム”が終わったんだ」 静かな声に、アキラは振り返った。見れば、nもアキラ同様に凍り付いた世界の中で、本来の色を持ってそこに立っていた。刀を受けた傷口から流れた血液が、彼の衣服を赤く赤く染めている。モノクロの風景の中で、nだけがいやに鮮やかだった。 「“ゲーム”って……やっぱり、お前のせいだったのか」アキラは詰問した。 「違う。誰のせいという言い方はおかしいが、敢えて答えるならこの世界は――アキラ、お前の作り出した世界だ」 「何だって……? 俺はそんなことしてない! できるわけない!」 「なぜそう思う?」 nが言うには、ニコルウィルスや非ニコルウィルスの適合者というのは、結局のところある種の超能力者であるらしい。そういう資質のある人間だけが適合して、ウィルスは更にその人間の能力を引き出そうとする。かつて、nの血液が〈ライン〉という形で人々を狂気に駆り立てたのも、ウィルスそのものというより、n自身の能力だったのだという。 「あんたの持ってた、超能力……?」 「そう……。今でこそ分かるが、俺はいわば感応能力者だった……。といっても、他人の心を感じ取るばかりではない。自分の感情を他人に感染させることができたんだ……。自分の一部――つまり、あのときは血液を媒体として」 「じゃあ、〈ライン〉で皆が狂ったのは」 「俺の虚無感が感染したせいだ。ニコルウィルスは超能力覚醒のために劇的な作用をするが、何倍にも希釈された〈ライン〉にはそこまでの効果はない」 「だったら、非ニコルの俺の血はなぜ〈ライン〉を使った人間に劇的な反作用を?」 「お前の非ニコルは、実は反作用ではなくニコルの触媒……。同時に接種すると、ニコルの反応を大幅に増幅させる……」 つまり、〈ライン〉を摂取した後に非ニコルを取り込んだ者が死んだのは、増幅効果のせい、ということらしい。本来なら問題にならないほどの〈ライン〉中のニコルの効果を非ニコルが増幅させて、摂取者の体内にニコルウィルスそのものを多量に取り込んだのと同じ状態にしてしまったのだ。 アキラは乾いた嗤い声を上げた。 「その事実は知りたくなかったな。……昔、俺がケイスケを殺したことには変わりないけど……。俺の血を取り込まなければあいつが生きていたかもしれないなんて」 「真実が何であれ、多くの過去は変えられない」 nは静かに言った。アキラはその言葉に違和感を覚えた。 「多くの、と言ったよな? それはつまり、変えられる過去もあるということか?」 「分からない。ただ……今、お前はそうしようとしているのだろう?」 「俺が?」 そうだと頷いて、nは空を見上げた。 「先にも言ったが、この世界を作り出したのはお前だ。お前が己の心と、過去のシキの心と俺の心をこの世界に送り込んだ。何かの目的で……」 「俺が? どういう目的で?」 「お前の目的は、俺には分からない。ただ、この世界を用意するために、お前は未知数の非ニコルによる超能力を使ったようだ。前代未聞の行為と言えるだろう……」 しかし、一都市のある期間だけとはいっても、過去の世界を完全に再現するのは非常に困難である。そのため、様々な部分で“シナリオ”から外れることができた。逆に、“シナリオ”にはまりきらない諸々の出来事を、アキラに代わってnが対応することで世界のひずみを修正してきのだ、とnは告白した。 アキラにしてみれば、信じ難い内容である。だが、目の前のひどく穏やかな表情のnを見つめていると、納得ができた。過去の彼は狂人のような目つきでシキに斬られて死んでいったというのに。nの態度こそ、話が真実であると物語っていた。 「もし、この世界が崩壊したら、どうなっていたんだ?」 「分からない。だが、おそらくここに囚われている我々三人の精神は、現実世界で死を迎えただろう」 「そうか……。ずっとこの世界を守ってくれていたんだな。ありがとう。俺はあんたを誤解していた」 「礼を言われるほどのことはない」 nがそう言ったときだった。ガラガラと何かが崩れるような音が聞こえた。振り返れば、風景の端が崩れ落ち、そこから真っ黒な闇が除いていた。この閉じられた世界も終わりのようだ、とアキラは悟った。 ピシッ、ピシツ。足下の地面にも大きく亀裂が走る。アキラは辺りを見回したが、その場にもはやシキはいなかった。アキラとnの二人だけだ。 「あの男は元の場所に帰ったのだろう。お前も帰るといい」 「あんたは?」 「俺は……今の俺は死の直前の一瞬の夢にすぎない。トシマでシキに斬られて、俺は死ぬ。その結末は変えられない……というより、それで良かったのだろうと思う」 「だけど」 「アキラ、お前は違うだろう。自分がこの世界に入る直前、どこで何をしていたのか思い出せ。結末を変えたいと望むなら、強く念じるんだ」 ――この世界を一つ生み出すほどの力を持ったお前だ。きっと結末を変えることができる。 nがそう呟いたとき、アキラの足下の地面が二つに分かれ、ぱっくりと虚空が口を開いた。返事する暇もなく、アキラは真っ暗闇の中へ落ちていった。 *** ――十八歳のシキが目覚めたのは、病院のベッドの上だった。長い夢を見ていた気がするが、確かなことは何一つ思い出せない。 入ってきた若い女の看護士に尋ねると、シキは戦場で負傷して死にかけたということだった。言われてみれば、確かに左胸――心臓より少しずれた位置がガーゼで覆われ、胸に包帯が巻いてあった。その傷を見るうちに、シキは自分がある男に圧倒されて無様に敗北したことを思い出した。 紫の瞳を持つあの男――。必ず倒さねばならない。負けたままでいるのは、シキの性分では我慢のならないことだった。 シキはすぐに包帯をはずし始めた。 「何をするんです。いけません」看護士が止めようとする。 「俺に構うな」シキはにべもなく言った。 「いいえ、いけません。傷がまだ治っていないんだもの。まだここにいてもらわないと……」 そこで看護士は急に顔を近づけてきた。彼女の表情は先ほどとは打って代わって妖艶な雰囲気を漂わせている。シキはそそられるよりもうんざりした気分だったが、彼女は気づかなかった。 「ねぇ……。そんなに生き急いでどうするの? 戦場に戻るの? そんな風に急いだって死ぬだけよ。ここでゆっくりしていけばいいわ。私があなたを楽しませてあげる」 唇を重ねて来ようとする女を、シキは顔を背けて避けた。一瞬、身体が彼女を排除しようと動きかけたが、それを抑えたのは相手がか弱い女だったからだ。 シキは至近距離から、絶対零度の侮蔑の眼差しを看護士の顔に突き立てた。 「俺に触れるな。去れ」 殺気さえ込めて言うと、看護士は怯えた様子で部屋を出ていった。一人きりになったシキは指先で己の唇に触れた。 なぜ、己がそこまで口づけを避けようとしたのか分からない。だが、『誰かの』他の人間とキスをすべきではないという気がした。 『誰かの』の部分は思い出せなかったけれども……。 *** ――二十三歳のアキラは、安宿のベッドの上で意識を取り戻した。起きあがろうとすると、左脇腹に痛みが走る。そこで、アキラは自分に何があったのかを思い出した。 シキが“眠り”がちになったある日、刺客が襲ってきて――アキラは撃退しようとした。だが、歯が立たず、それでもシキを守ろうとして――腹を切り裂かれたのだ。為す術もなくアキラは地面に倒れ伏した。動かないシキが光の消えた目でアキラを見つめている。そこへ、敵が向かっていくのが見えて……。 いや、違う。記憶の混濁。自分が倒されたのは、単なる悪夢だ。 ――記憶が新たに上書きされる。 実際には、アキラはシキを庇って攻撃を受けそうになった刹那、眠っていたはずのシキが急に動いた。アキラの手をぐっと強く引っ張ったのだ。 アキラは姿勢を崩して倒れ込んだ。そのおかげで、敵の攻撃は左脇腹をかすめただけだった。シキが久しぶりに目覚めた喜びはさておき、アキラはともかく反撃に移ろうとした。 そのとき。シキが刀を抜いてアキラと敵の間に立ちふさがった。久しぶりに感じるシキの強烈な闘気に、アキラは思わず安堵した。そうして、脇腹の痛みで気を失ったのだった……。 「あ、俺……」 ――生きている。 アキラは両手を目の前にかざした。安堵で涙があふれる。それを流れるままに任せていると、不意にバスルームの扉が開いてシキが出てきた。シャワーを浴びていたらしく、髪が濡れている。以前とどこか違うように思うが、それがどこなのかは分からなかった。 シキはアキラが起きているのに気づくと、近づいてきた。アキラは注意深く、シキの顔を観察した。少し心配そうな顔をしている。それだけだ。トシマを出て、時が経つごとに濃くなっていた虚無感がどこにもない。 「身体はどうだ、アキラ?」 「どうって? どうって……! それより俺の方があんたに聞きたいよ! あんた、どうしたんだ? 少し前までは俺の顔なんてろくに見なくて、毎日ほどんど自分の中に閉じこもりっきりだったのに」 「あぁ……それは、悪かった」 「悪いとか悪くないとか、そんなことどうでもいいんだよ! 俺、あんたに……あんたが……!」 思わず叫んでから、アキラははっと口を閉じた。シキを責めたり怒ったりしたいわけではないのだ。けれど、自分の感情が上手くコントロールできない。涙が先ほどから止まらず、それどころか後から後から流れ出してくる。こんなみっともない自分を、シキに見せたくはなかった。 ひどく混乱して、アキラは両手で顔を覆った。すると、ぽんと頭の上に優しい重みが落ちてきた。ゆっくりと頭を撫でる感触――シキの掌だ。 驚いて、アキラは顔を上げた。 「落ち着け、アキラ。ゆっくり話せ。どれだけ時間が掛かっても、聞いてやる。……もはやnがいない今、急いだところですることはないからな」おどけたように、シキは片方の眉を上げて肩を竦めた。その仕草に驚いて、アキラはぽかんと目を丸くする。涙は一瞬で止まってしまった。 「……あんたは、それでいいのか?」 「何がだ」 「nのことはもういいのか? 宿敵がいなくて、生きる意味を見失いかけていたんだろうに」 「あぁ、そうだな……。nを殺してから最近まで、ずっと、俺は自分が生きる目的を見失っていた。それでお前に縋ろうともしたが、結局、お前はnの代わりにはならなかった」 「だって、俺はあんたの敵じゃないから……」 「その通りだ。今まで俺が求めていたのは好敵手だった。お前では俺の競う相手にはなり得なかった。実力のせいではない……お前を憎むことができないからだ。――だが、昨日、お前の生命が危険にさらされかけて、初めて考えが変わった。お前を失えないと理解した」 「今更かよ」 「今更だ。……もう、間に合わないか? そんなことはないだろうと思うが」 「――……悔しいけど、あんたはいつだって間に合うよ。あんたの自惚れの通りで、ほんと、悔しくて仕方ないけどな」 アキラはシキをにらみつけながら、唸るように言った。シキは微笑して、不意に身を屈めた。触れるだけの口づけを落として、すぐに離れていく。 「そう怒るな。お前への代償として、コレだけはお前だけのものだっただろう? ――それこそ、初めて出会ったときから、な」 シキは自らの唇を指先でひと撫でしてみせた。 2013/12/08 目次 |