ファーストインプレッション1
母親が、再婚した。 それがこのところのアキラの身の回りにおいて、最も大きな変化だった。もちろん、それに伴って、アキラの生活環境もこれまでとはがらりと違うものになった。 これまで、アキラは母親と二人、小さな田舎町の古びたアパートに暮らしていた。それが、この春から父親となった人の持つ一戸建てに、引っ越すことになった。新しい父親の家は、アキラたちが暮らしていた田舎町から遠く、比較的開けた土地にある。だから、アキラは中学卒業と同時に、慣れ親しんだ友達や幼馴染とは別の、遠く離れた街の高校に通うことになる。それは半年前から決まっていたことだ。そのため、アキラは三月半ば、友人たちとは別に一人とある街の学校を受験したのだった。 それが、三月までの状況。 何とか第一志望の学校から合格通知を貰ったアキラは、そこからひどく忙しない春休みを過ごすことになった。春休みの半ば、引越しを見送りに来た幼馴染のケイスケは、もう高校生にもなるのに子どもみたいに泣いて、寂しいと言って。それを「いつでも遊びに来られるから」と宥めて、別れを告げた。そうして引越しが片付いたと思ったら、待っていたのは意外に煩雑な入学手続き。そんな風にばたばたしていたら、四月になって春休みも終わり、あっという間に入学式の日が来てしまった。 アキラが入学したのは、地元で評判のいい(らしい)私立の学校だった。あまりに有名なのと、他に近くに同じような私学がないのとで、単に『学園の生徒』と言うだけで地元の人間にはどの学校の生徒か通じるほどだという。 地元の人間が、ただ『学園』と呼ぶその学校は、小学校から大学までの教育部門を持っている。エスカレータ式の一貫教育が、特色なのだ。とはいえ、高等部や大学からの途中入学も幾らかいるのだという。それでも、最初は母親もアキラも「途中入学では学校に馴染めないのでは」という不安を持っていた。ただ、新しい父親が学園への入学を強く勧めたため、結局それに従う形でアキラは受験の志望校を決めた。あまり勉強に意欲的でないため、特にどの学校へ行きたいという思いもなかったからだ。 けれど。 途中入学の生徒も多いから、とたかを括っていたのは、やはり間違いだったかもしれない。入学して蓋を開けてみれば、クラスの大部分は初等部・中等部からの知り合いで、既に人間関係も出来上がっている。途中入学組は途中入学組で、何となく肩身が狭いから、同じ途中入学の生徒同士で固まろうとする。が、もともと他人に馴染みにくい性格のアキラは、どちらの輪にも入り損ねてしまった。友達同士だから集まるというのは、いい。ただ、友達がいなくて不安だから、取り合えずあまり親しくない誰かとでも一緒にいるという状態が、何となく受け付けなかったのだ。 四月が過ぎ、ゴールデンウィークが過ぎして、次第に自分の状況が分かってきたとき、アキラはため息を吐きたくなった。 決して、いじめに遭っているわけではない。ただ何となく遠巻きにされている感じ。その腫れ物に触るようなクラスメイトからの扱いを、無性に面倒だと感じてしまう。もとより一人でいることには苦痛を感じない方だから、今のまま一人でも構わないといえば構わない。ただ、クラスで浮いて悪目立ちしているような気がするときは、どこかのグループに紛れておけばよかったとも思う。けれど、やはり浮きたくないからグループに入って仲間面しているのも何だか嫌で――結局現状維持という結論になる。 何が辛いわけでも、苦しいわけでもない。 それでも、時折自分を取り巻く状況が、少しだけ息苦しくなる。 辛いから今の状況を打開したいわけではない。逃げ出したいのとは、少し違う。ただ、出来ることなら、跡形もなく消えてしまいたい。自分が消えたことに誰一人――そう、両親でさえも――気付かず、初めからいなかったものとして時が過ぎていく。多分、それが一番いい気がする。 *** 朝の天気予報が、今日は一日中雨だと告げていた。 唐突に芸能ニュースに切り替わったテレビの音声と、母親の見送りの声を背に受けながら、アキラは父親と共に家を出る。外は既に雨が降っていて、二人して傘を差しながら、並んで歩く。歩きながら父親にぽつぽつと学校のことを尋ねられ、アキラも素直にそれに答えた。 父親とは、途中まで同じ方向なので、朝こうして並んで歩くことがある。近所の人は意外にその様子を見ているらしい。この間は、向かいの家のおばさんに「お父さんと仲がいいのね」と言われた。世間一般では、高校生にもなると、子どもはあまり親と親しく接しないらしい。アキラも何となく知識としてそのことを知っていたが、別に親を嫌う理由もないから、普通に接している。 だって、母親を嫌えるはずがない。前の父親と離婚してから、ずっと女手一つでアキラを育ててくれた人だ。苦労しているその背中を見てきたから、自分は母親には苦労をかけたくはない。幸せになってほしいと思う。それに、新しい父親のことも嫌いではない。口数は少ないが、母親のことを本当に思いやってくれる。もちろん、アキラにもよくしてくれる。こんな状況では、意味もなく反抗なんかする気になれないものだ。 自宅から数十メートル進んだところで、アキラは父親と別れた。この後、父親はそこにあるバス停からバスに乗って、会社へ行くのだ。アキラはといえば、もう二十分も歩けば学園へ辿り着く。 一人きりになって歩きながら、アキラはいつしかこのところよく浮かんでは消える思考を弄んでいた。 どうやったら、跡形もなく自分の存在だけ消えることが出来るか。もちろん、そんな都合のいいことが不可能なのは、よく分かっている。人間は生まれたら、死ぬ以外にこの世から消える方法なんかない。そして、生きるのが大変なのと同じくらい、死ぬことだって大変なのだ。そこまで考えて、いつものように、やはり死ぬのも面倒だという結論に至った。そのときだった。 やや強い雨の音に混じって、微かに耳に届いた音があった。 ピィともミィとも表現しにくい、かん高い音――いや、これは鳴き声か。雨音に紛れてしまいそうなその声が、必死の色を帯びている気がする。そこで、思わずアキラは足を止めた。耳を澄ませば、その声は住宅と住宅に挟まれた狭い公園の中から、聞こえてきているようだ。 アキラは一瞬迷って、右手首にはめた腕時計を確認した。午前八時十五分。始業時刻まで、あと十五分しかない。そして、ここから学園までは、まだ歩いて十分ほどある。寄り道をしている時間は、あまりない。それでも、どうしても立ち去ることが出来なくて、アキラは公園の中に足を踏み入れた。 公園は、まだ早朝、しかも雨の日とあって、人気がない。 鳴き声は、公園の入り口のすぐ傍の植え込みから聞こえている。アキラが屈んで覗き込むと、鮮やかな花を咲かせるツツジの茂みの陰に、茶色い段ボールの箱が見えた。弱々しい鳴き声は、箱の中から聞こえている。もう少し近付くと、段ボールの表面に『この子たちを可愛がってやってください』とマジック書きされているのが読めた。箱の隅には、雨に濡れた小さな毛玉が一つ、丸くなって震えていた。 この子たち、と書いてあるからには、箱の中には他に何匹かいたにちがいない。他は勝手にさまよい出て行ったのか、拾われたのか。いずれにせよ、今、箱の中で丸まっている毛玉は一匹きりだ。 「猫、なのか……?」思わずアキラは呟いた。 毛玉は、生まれてごく間もないのか、ひどく頼りない姿形をしていた。頭に耳はついているが、普通の猫ほどピンと立っていない。体毛も、まだ生えそろっていない感じがする。何の動物か外見では判断しにくいが、雰囲気と鳴き声から猫ではないかと推測できる程度だ。動物の、こんな幼い姿を見るのは、アキラも初めてだった。 きっと、このまま放っておけば死んでしまうだろう。 そっと毛玉に手を伸ばしかけたところで、アキラははたと我に返った。この猫らしい生き物を放っておけないのは確かだが、拾ったところで自分に責任が持てるのか。今の学校では、親しい友達もいない。クラスメイトの中から飼い主を探すのは難しいだろう。といって、自宅は母親が動物をあまり好きではないから、引き取ることも難しい。 どうする。どうすればいい。 見捨てる、しかないのか……? そうしたら、この子猫はどうなるのかと想像して、アキラはぎゅっと手の中の傘の柄を握り締めた。そのとき。 「お前は学園の生徒だな?こんな時刻に何をしている?」 低く響きのいい声が、耳に届く。顔を上げれば、公園のフェンス越しに同じ学園の制服を着た男子生徒と目が合った。冷たいほどに整った顔立ちと、強い意思の光の宿る紅い目。胸元には、学園の高等部三年を示す濃い赤のネクタイが、きっちりと締められている。 アキラは束の間、質問されたことも忘れて相手の顔に見入っていた。学園の上級生に知り合いなどいないはずなのに、なぜか目の前の人物には見覚えがある気がしたのだ。 いつまでもアキラが黙っているのを不快に思ったのか、上級生は形のいい眉を跳ね上げた。 「お前は高等部の一年だろう。こんな時間に、ここで何をしているのか、と尋ねているのだが?」 「何って……」 我に返ったアキラは、そこで答えに詰まってしまう。猫を見捨てようとしていた、と口にするのには憚りがある。かといって、猫を助けていたと言えるわけでもない。まだ助ける決心だって、できていなかったのだから。 それに、どうして偉そうな口を利かれなければならないのか、とムッとする部分もある。 結局ぶっきらぼうに「別に」とだけ答えると、上級生はこちらを小馬鹿にしたように嗤った。そして、全てお見通しというような視線を、ツツジの茂みへと投げかける。 「まぁ、聞かなくとも、何をしていたか予想はつくが。生き物を拾うなら、中途半端な覚悟では拾わないことだ。そして、さっさと決めるんだな。始業まで、もう時間がない。遅刻や無断欠席のペナルティは……分かっているだろう?」 「――煩いな。あんた、教師かよ……」上級生の物言いにムッとして、アキラは反発する。 「反抗的だな。それも、下らない反抗だ。保護者に学費を出してもらって、教育を受けている学生の身分だ、真面目に授業を受けるのが筋というものだろう。遅刻やサボりは、教育を受けさせてもらっている自覚のない、甘ったれた奴らのすることだ」 まるでアキラがそうだと言わんばかりの口調と冷笑に、頭にかっと血が上る。「違う!おれは……」思わず叫ぶと、段ボール箱の中の子猫がミィと怯えた声を上げる。周囲の気配を感じているかのような猫の反応に気が削がれ、アキラは口をつぐんだ。 「――違うと言うなら、遅刻せずに登校してみせることだな。そこで鳴いている生き物を拾うかどうかは……まぁ、好きにすればいい」 嘲る調子の言葉と共に、男子生徒が去っていく。アキラはまた一人、子猫と共にその場に取り残されることになった。 はぁ、と一つ息を吐くと、アキラは再び段ボールの中の子猫に手を伸ばした。取り上げれば、温かく軽い身体が手の中に収まる。子猫は、文字通り手の平に少し余るほどの大きさしかなかった。生まれたばかりなのだろう。目はまだ開いておらず、腹にへその緒が残っている。アキラは学生鞄からハンカチを取り出して猫を包むと、懐に抱いて立ち上がった。 今や、猫を助けないという選択肢は、アキラの頭からは消えていた。先ほどの上級生に嘲られたせいで、意地でも猫を助けてやるという気になっていたのだ。それに何より、こんなに小さくてか弱い生き物を、死ぬと分かっていて放置することはできない。 それにしても学校はどうしようか、と考えて、結局登校することに決めた。 といっても、決してあの紅い目の上級生に言われたからではない。この場所からでは家よりも学校の方が近いからだ。教師たちは、多分猫など連れて行っていい顔はしないだろう。それでも、保健室かどこかで、猫の保温のためのタオルなどを借りるくらいは許してもらえるはずだ。飼い主はあてもないが――駄目なら母親に頼み込もう。 そんなことを考えながら、アキラは通学路を辿る。本当は走りたかったが、懐の子猫に負担をかけられないため、走ることもできない。結局、学園に辿り着く前に、遠くに始業のチャイムが聞こえてきてしまった。 始業から遅れること、十分。 ようやく辿り着いたアキラを校門の前で待っていたのは、大柄ないかつい印象の男だった。高等部の体育教師で、風紀の取り締まりも担当しているキリヲという教師だ。 「……ほれ、十分遅刻。オメェ、一年の癖にこの時期から校則違反とは、いい度胸してんなぁ?」 ヤクザ顔負けの迫力のある顔を近付け、キリヲはにやりと凶悪に笑う。間延びした口調は、のんびりしているというより、何だかこちらがゆっくりと嬲られているような気分になってくる。それでも、アキラは怯みそうになるのを堪え、真っ向からキリヲを見返した。 確かに、遅刻は校則違反だ。それでも、自分は間違ったことはしていない。 「ほぅ……一年坊主の癖に、いい目ェしてるじゃねぇか。――その懐の毛玉、没収な」 「なっ……!こいつは、まだ生まれたばかりなんだ!雨にも濡れてて……そこらに放っておいても生きていける大人の猫とは、違うんだ……!」 「あァ?没収っつたら没収なんだよ。ぐだぐだ言ってねぇでこっち寄越せや」 アキラは必死で抵抗したが、すぐにキリヲに捕まって容赦ない力で抑えつけられる。子猫を潰さないように気遣いながらでは、ろくな抵抗もできない。結局、あっという間にキリヲに猫を奪われてしまった。 「返せよ……!」 猫を取り返そうと、アキラはキリヲに跳びかかろうとする。と、そのとき「やめろ」と鋭い声が響いた。見れば、校舎の入り口に、公園で遭遇したあの上級生が立っていた。 「お前は結局遅刻したのか。威勢のいいことを言っておきながら、やはり考えの甘い子どもに過ぎないということだな」 「違う!今日は事情があったんだ。あんた、見てただろ。いつもは遅刻なんかしない。だいたい、知った風な口利くけど、あんたが俺の何を知ってるって言うんだよ!?」 「お前のことなど知らんな。俺は一般論で遅刻がいけないといっているだけだ」 「っ……だからっ……!」 と、唐突にキリヲの大きな手が、アキラの目の前にかざされる。まるでこれ以上アキラが反論するのを、止めるかのようだ。 「どっちも、分かったから、そこまでな。オメェら、朝っぱらから煩ぇんだよ」のんびりした口調で言ってから、キリヲは上級生へと目を向ける。「おい、シキ。この一年坊主、講堂へ連れてってやれや。一限目は、高等部は全学年集会だからな。もう始まってるぜ。まぁ、校長の話は長ぇから、ちっとばかし遅れて行く方が楽だろうけどな」 「――シキ、だって……?」 キリヲが呼んだ上級生の名前が、ふとアキラの記憶に引っかかる。はて、どこかで聞いたような名前だ。本当に三年生に知り合いなどいないはずなのに、どうして――と、そこまで考えたところで思い当たる。シキという名を聞いたのは、確か入学式の日だ。途中居眠りしていたのでろくに聞いていないが、壇上に上がって新入生に挨拶していた人物の名が、確かシキだった。ということは。 「――……もしかして、生徒会長……?」 おずおずと呟くと、シキと呼ばれた上級生は、「だったら何だ」と小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。キリヲはキリヲで、今頃気がついたのかと呆れて見せてから、二人を追い立てた。 「ほら、行った行ったー。オメェらの仲が良いのは分かったが、この調子じゃ痴話喧嘩してるうちに集会が終わっちまう。……あ、そうそう、遅刻のペナルティの反省文、提出は今日中な」 「痴話喧嘩って何だよ。それに、猫が……」 キリヲの手の中で時折ミィと声を上げる猫を案じて、アキラは歩き出すことをためらう。すると、大股にこちらへ近付いてきたシキが唐突に、ぐぃとアキラの腕を掴んだ。そして、そのまま有無を言わせない調子で歩き出す。とっさに振り払うタイミングを逃したアキラは、そのままずるずると引きずられていくばかりだ。 「待てよ!俺はまだ話があるのに……!」 「生徒が猫を持ち込むのは、校則違反だ」 「それはそうだけど!そうじゃなくて!生き物の生命一つかかってるんだぞ」 「――……心配するな。あぁ見えて、キリヲは世話好きだ。死にそうな生き物を放り出すことはないだろう」 思いがけずシキから返ってきた宥めるような言葉が意外で、アキラは目を丸くする。なんだか、驚きで抵抗する気分を削がれてしまったようだ。時間がないことも確かで、アキラは大人しくシキに従って、後者へと入って行った。 二人が校舎へ消えるのを見送って、キリヲはため息を吐いた。 「やれやれ、若ぇのはどうしてみんな、煩いのかねぇ。……おっと、早くオメェの身体を拭いてやらねぇとなぁ」 手の中に視線を落とせば、子猫がまだ目を閉ざしたまま、小刻みに震えている。その身体を守るように手の中に包み込みながら、キリヲもゆっくりと校舎へ向かって歩き出した。 *** 校舎に入り、アキラは自分の教室へ鞄を置きに行こうとした。が、そこでシキに呼び止められる。思わず自分の顔が歪むのを感じながらも、表情を押し隠せるほど器用でもなく、アキラは嫌そうな表情のまま足を止めて振り返った。 「まだ何か用かよ?」 「――上級生に向かって、随分と『丁寧な』言葉遣いだな」 「それは、あんたが他人の神経を逆撫でするようなことばかり、言うからだ。生徒会長がそんなに攻撃的でいいのかよ?」 「生徒会長はサービス業ではないからな、仮に攻撃的でも問題ない。それよりも、お前はまったく……他人が忠告してやろうというのに」はぁとため息を吐くと、シキはずんずん近付いてきてまたアキラの腕を掴んだ。「もういい。来い」 「おい!待てよ……集会は……!?」 細身の外見に反して、シキの力は意外に強い。振り払うこともできないまま、アキラはずるずると引きずられていく。 シキはアキラを引きずったまま廊下を少し進んで、『生徒会室』とプレートに表示された部屋へ入った。 生徒会室は、普通の教室の半分ほどの広さの部屋だった。中央には、長机が四脚長方形を形作って置かれている。更に左手の壁には書類棚が、右手の壁にはロッカーがずらりと並んでいた。 初めて入る生徒会室が物珍しく、アキラはもがくのをやめてあたりを見回した。同時に、なぜ自分がここへ連れてこられたのかと怪訝に思う。アキラを連れて来たシキはといえば、この部屋に入って早々にアキラから手を離し、壁際のロッカーへと歩いていった。そして、先ほどから、あるロッカーの中を探っている。 「……一年の教室は四階だろう。一度四階まで上がって、降りて講堂へ行ったのでは、遅くなる。鞄はここに置いていけ。集会の後、取りに来ればいい」背を向けたまま、シキはそう言った。 「だけど……いいのか、そんなことして」 「少しの間だ、構わん。集会の後には、必ず全学年風紀検査があるからな。そちらに遅れる方がまずい。風紀検査は、生徒個人の評価に響く」 ほどなくして、ロッカーの中を探るのを止めたシキが、何か衣類を片手に近付いてくる。そして一言、脱げ、と言った。その突拍子もない要求に、アキラは目を丸くしたまま固まってしまう。 「脱げと言っている。時間がない。手間を取らせるな」 「待てよ!あんたいきなり何なんだ、本当にっ!?」 「風紀検査で、そのシャツはまずい」 かっとなるアキラとは裏腹に、シキは冷静にアキラの胸元を指差す。視線を向ければ、ブレザーの内側のシャツが泥で湿って汚れている。少しでも保温になれば、と懐にあの猫を抱いてきたが、そのときの汚れらしい。 「別に大丈夫だろ、汚れくらい」 「今までに引っかかった奴がいる。そいつは泥ではなく、パンのジャムの汚れだったらしいが。言っておくが、うちの風紀検査の厳しさは半端ではないぞ。遅刻の上風紀検査にも引っかかれば、ペナルティどころではなく内申が下がる。替えを貸してやるから、すぐに着替えろ」 説明しながら、早くもシキの手はアキラのブレザーのボタンを外しかけている。アキラは慌ててそれを押し留め、自分でするからと言ってブレザーを脱いだ。あまり他人に借りを作りたくはないが、シキの申し出を断る選択肢はなさそうだった。それこそ、断ればさきほどのようにシキが自分の手で脱がせに来そうだったからだ。 アキラが急いでシャツを着替えると、シキはアキラの姿を見て目を細めた。その表情が、一瞬小言を言いたげなものになる。 「タイの結びが甘い」 「――苦手なんだよ。中学までは学ランだったし。……下手で悪かったな」 「まったく、世話の焼ける」 シキはため息を吐くと、アキラとの距離を詰めてシャツの襟元に手を伸ばしてくる。あっという間に、長い指がアキラのネクタイを絡め取っていた。驚くアキラの目の前で、シキは鮮やかな手つきでネクタイの結び目を解き、結び直し始める。 互いの息遣いも伝わるような間近で、アキラはぼんやりとシキの顔を見上げた。シキの方が頭一つ分ほど身長が高いため、俯き加減になると、背の低いアキラからもその顔がよく見える。 それを眺めながら、やはり整った顔立ちをしているな、とアキラはぼんやりと思った。整った顔立ちでも人形めいた印象がないのは、シキの目が強い意思の光を宿しているからだろうか。そんなことを考えていると、ネクタイを結び終えたシキが顔を上げ、目が合った。そのまま、逸らすタイミングが掴めずに、視線が絡み合う。 どのくらいそうしていただろうか。おそらく、時間にしてはほんの数秒のこと。先に目を逸らしたのは、シキだった。 「……早く行かなければ、校長の話が終わってしまうな」 呟くように言って、シキはアキラから離れた。そうして、自分の腕時計を確認すると、部屋の出入り口へと歩き出す。我に返ったアキラも、慌ててその後を追おうとした。そのときだった。ふわりとある匂いが、嗅覚に触れる。自分の体臭ではない、香水とも違う微かなそれに、何となく覚えがある気がする。一体何の匂いだったかと考えて、すぐに答えに思い至った。 シキの匂いだ。さきほどネクタイを結んでもらったとき、感じたのと同じ匂いだ。 そもそも、シキからの借り物のシャツなのだから、シキの匂いがしたところでおかしくはない。そう、おかしくはないのだが、なぜか動揺してしまう。結局アキラは先を歩くシキをしばらく直視できず、俯きながら後に従ったのだった。 (2009/05/06) 目次 |