ファーストインプレッション2
昼休み。 アキラは昼食もそこそこに、体育準備室へと向かった。没収された猫の様子を知るためだ。最初は職員室へ言ってみたのだが、目当てのキリヲはおらず、近くにいた教師が体育準備室にいると教えてくれたのだった。 体育準備室は、学園の体育教師数名が共同で、授業の準備のために使っている部屋だ。そこへ入るのに一瞬気後れしたアキラだが、入ってみればちょうど部屋にいるのはキリヲだけだった。 「おぉ?オメェ、朝の一年坊主じゃねぇか」 自分用の机でカップラーメンを啜っていたキリヲは、アキラの姿を見て眉を上げた。 「――あの猫は……?」 「心配しなくても、ちゃーんと生きてるぜ。そこの箱ん中、見てみろよ」 言われるままにアキラはキリヲの傍の脇机に置かれた、段ボール箱をのぞき込む。すると、中では朝の子猫が丸くなって眠っていた。濡れていた身体は綺麗に拭かれ、箱の中に敷かれたタオルの上で安心しきった様子だ。キリヲが案外丁寧に猫を扱ってくれたことが分かり、アキラはほっと息を吐いた。 「眠ってる……」 「あぁ。午前中獣医にも診せたが、健康体だとよ。良かったな」 「あんた……じゃなくて、先生、医者にまで連れて行ってくれたのか?……その……ありがとう、ございました」 「おー、どういたしましてー。そうそう、礼ならついでにシキにも言ってやりな。一年が猫を拾って登校してくるから、授業中預かってほしいって俺に頼んだのは、あいつだからよ。オメェが登校して来るまで、他の教師も校門に立ってたからなァ。俺以外の奴に没収されたら、厄介なことになってたかもしれねぇ」 予想もしなかったキリヲの言葉に、アキラは目を丸くした。 ――あのシキが、キリヲに頼んでくれていた?言いつけたわけではなく? まさかそんなはずはないと思いかけたところで、アキラは自分の胸元に視線を落とした。自分の制服とは少し肌触りが違う気がする、シキのシャツ。いつも自分でするより綺麗に結ばれたネクタイ。午前の授業中には忘れていたそれらを、急に意識する。 第一印象は最悪だったけれど、確かにシキは悪い奴ではないのだろう。 猫のことだけでなく、シャツのことなども、一度礼を言わなければならない。そう思いながら、アキラはキリヲの言葉に頷いた。 *** 放課後。 校舎内に生徒の姿も少なくなった午後五時ごろ。部活動もしていないアキラは、この日久しぶりに遅くまで残って、図書室を利用していた。遅刻のペナルティとして課された反省文が、なかなか仕上がらないのだ。しかも、提出期限は今日と来ている。 そもそも、この反省文というのが曲者だった。 学園の校則で、校則違反に対しては、ペナルティが課される決まりになっている。そのペナルティの種類も違反内容によって異なり、校庭五週や校内の掃除などの場合もある。遅刻や無断欠席の場合は反省文だが、ただ反省文を書けばいいというものでもない。初等部では古文、中等部では漢文、高等部では英文で書くように指定されているのだ。正直、あまり勉強が好きではなく、この学園のレベルにもついていけないアキラには、気の狂いそうな話だった。 いったい誰が考えたんだ、こんな下らないペナルティ。 内心毒づきながら、アキラは和英辞典をぱらぱらとめくってみる。もちろん書くべき内容は一向に浮かばず、レポート用紙は四分の三ほどが白紙のままだ。この後更に何を書けばいいのかと、気が遠くなる。 はぁと何度目かのため息を吐いたときだった。 ガラリとドアを開ける音が聞こえる。顔を上げてみれば、図書室へ入ってきたシキと目が合った。 「何だ、お前か。ここはそろそろ閉まる時間だぞ」 「……ペナルティの反省文が、終わらないんだ」 「反省文?あんなもの、すぐに終わるだろう」 「そりゃぁ、あんたは三年だし、頭だって良さそうだし、すぐ終わるだろうけど。普通の奴は苦労するに決まってる」 「違う、そういう意味じゃない。……お前の反省文を見せてみろ」シキはため息を吐くと、近付いてきてアキラの隣の席に座った。そして、横から反省文のレポート用紙をのぞきこんで来る。「やはりな。お前、これを自分で書いただろう」 「当たり前だろ。反省文なんだから、自分で書かないと意味がない」 するとシキは、微かに唇の両端を持ち上げる。笑っているような、それでいいと満足しているような表情が、整った顔の上に浮かぶ。冷たいシキの雰囲気がわずかに和らぐ様に、アキラは束の間目を奪われた。 が、次の瞬間シキが発した言葉が、一気にアキラを現実に引き戻した。 「お前は要領が悪いな。見た目通りだ」 「はっ……?何でそうなるんだ、いきなり」 「反省文は自力で書くもの。だが、そんなものは建前だ。学園には、代々引き継がれている反省文の定型などというものがある。皆、それを適当に改変して書き、提出する。うちの学校をエスカレーターで上がってきた者なら知っているはずだが、誰にも教えてもらわなかったのか?」 教えてもらおうにも、そこまで親しい友達がいない。しかし、こちらを馬鹿にしたようなシキの言葉の後で、そんな実情を素直に告白してやる気にはなれない。それでアキラが黙っていると、シキは「まぁいい」と息を吐いた。 「自力でここまで書いたんだ、残りも自分で書いてみろ。――だが、その前に三行目のその単語を直せ。綴りが違う」 「えっ……あ、そうか」 「それから、ここの一文。文法がおかしい」 「おかしいか?俺には合ってるように見えるけど……あ……時制がおかしい、のか……?」 シキが次々に英文の間違いを指摘してくる。指摘された箇所を直して続きを書けば、更に間違いを指摘されて修正する。その繰り返しで、いつしかアキラはシキにつきっきりで英語を教えてもらっている形になってしまった。 レポート用紙を半分ほど埋めたところで、その状況に気付く。 そういえば、今日は何かとシキに世話になっている。その礼をまだ一度も言っていない。けれど、今のこのタイミングで言うのも唐突な気がして、アキラは横目でシキの様子をうかがった。途端、シキが表現に詰まったのかと尋ねてくる。それへ首を横に振って答え、シキへと顔を向けた。 「あんた、朝、猫のこと頼んでくれたんだってな」 「キリヲから聞いたのか。――俺は、別に頼んだわけじゃない。遅刻しそうな奴がいるから、塀を乗り越えて入ってこないか注意しておけ、と告げ口しただけだ。頼まれたというのは、キリヲの勘違いだろう」 無表情のまま、素っ気ない調子でシキが返す。普段なら腹の立つ態度だが、このときアキラは怒りを感じなかった。何となく、シキのこの高圧的な態度は、照れ隠しではないかという気がしたからだ。 今日遭ったばかりの短い付き合いだが、その中でもはっきりと分かった。シキは、相手に注意すべきことがあるなら、きっと、真っ向から言いに行く。相手に嫉妬の感情を抱いたとしても、陰でどうこうするのではなく、正々堂々と相手を越えようとする。――告げ口などの姑息な手段は好まないタイプなのだろう、と。 だから、アキラは穏やかな気分で言葉を続ける。 「それでも、結果的にキリヲは猫に良くしてくれてる。それに、猫のことだけじゃない。シャツを貸してくれたし、こうして英語も教えてくれてる」 「これはただの暇つぶしだ」 「そうだとしても、俺は助かった。ありがとう」 いつ言い出すかとあれほどタイミングを測っていたのに、いざとなると感謝の言葉はあっけないほど自然に口から滑り出た。そのことにほっとして、アキラは知らず知らずのうちに表情を和らげていた。 アキラの感謝の言葉を聞いて、シキは一瞬目を丸したが、すぐにレポート用紙に視線を落とした。 「礼を言われることではない。それよりも早く反省文を終わらせろ。学園が閉まるまで残っている気か?」 「あ……あぁ」 集中しろ、とシキが無言の圧力を掛けて来る。それに慌てて頷いて、アキラは反省文に戻った。 *** やっとのことでアキラガ反省文を書き終えたのは、午後六時半を過ぎた頃だった。 途中、五時半頃に一度図書室を管理している教師が、戸締りに来たことがあった。そのときアキラは追い出されるかと内心ヒヤヒヤしたものだ。けれど、シキが教師に頼んでくれたおかげで、閉館時間を過ぎて図書館を使う許可をもらうことができた。 反省文が終わると、アキラはシキを手伝って、二人で図書室の戸締りをした。最後に図書室を出て、シキが教師から預かった鍵で施錠するのを待って、職員室に鍵を返却に行く。そうして、二人は体育準備室へ向かった。 校則で、ペナルティの結果は、ペナルティを課した教師に報告することになっている。今朝のアキラの遅刻に関しては、キリヲに反省文を提出すればいいというわけだ。 初め、アキラは一人でさっさと反省文を提出し、朝の猫を引き取って帰るつもりでいた。キリヲに用があるのは自分だけだから、シキは職員室の前で別れるものだとばかりおもっていた。それなのに、なぜかシキはついてきた。怪訝に思って尋ねれば、シキもキリヲに用があるのだという。シキは生徒会長だから、生徒会の関係で用があるのかもしれない。勝手にそう納得して、アキラはシキと並んで廊下を歩いた。 春になって、かなり日が長くなったとはいえ、今日は雨の日。空は雲に覆われ、普段よりも辺りが暗くなるのが早い。暗い廊下にはもう生徒の姿はなく、静けさの中に二人の足音だけが反響する。 シキは、何も話そうとはしない。 もともとアキラも口数は多くない方だが、シキはそれに輪を掛けた感がある。けれど、二人ともおしゃべりでないからこそなのか、間に落ちる沈黙には重苦しさがない。無理に話す必要のない沈黙――それが妙に居心地がよく、アキラは知らず知らずのうちに肩の力を抜いている自分に気付かされる。 出遭いは、確かに最悪だった。それなのに、どうしてだろうか。 何となくそんなことを考えながら、アキラは横目で隣のシキを見る。すると、その視線に気付いたらしいシキも、アキラへ目を向けた。 「何だ」 「……何でもない」 「……そうか」 おそらくシキは、アキラの「何でもない」という言葉が、ただの方便だと気付いたのだろう。わずかに目を細め、見透かすような表情をして、それでもアキラの言葉に頷く。そのまま、二人はまた無言になって歩いていく。 体育準備室に着くと、そこにいたのは、またしてもキリヲだけだった。他の教師は部活動に出たり、席を外しているらしい。一人暇そうにしていたキリヲは、アキラたちを見るなり、にやりと笑った。 「よく来たな。オメェら、反省文は終わったのか?」 投げかけられたキリヲの言葉に、アキラは目を丸くする。『オメェら』とキリヲは言ったが、ペナルティを課されたのは、シキではなく自分だけのはず。そう思って混乱するアキラの横で、シキがおもむろに自分の鞄からレポート用紙を取り出した。それをシキがキリヲに手渡す一瞬、レポート用紙に綴られた文章がアキラの目に入る。シキのレポートは見るからに美しく、何度も書き直した痕の残るアキラのそれとは全く異なっている。 「あんた……まさか、遅刻してたのか……?」 「お?オメェ、気付いてなかったのか?」意外そうにキリヲが目を見開いた。そして、アキラに向かってニヤリと笑いかけてくる。「ま、生徒会長が遅刻するなんて、思わねぇもんなー。だけど、これがするんだよな、人間だしよォ。なぁ、会長?」 「そんな……だって、俺には遅刻するなんて甘ったれてるといか、好き放題言った癖に!」 思わずアキラはじとりとシキを睨む。その視線をそよ風のように受け流して、シキは平気な顔をしている。アキラはむっとして、文句を言ってやろうとしたが、結局思いとどまった。あまり多く話すのが苦手なアキラとは、シキは違う。シキは話そうと思えば話せるが、必要に迫られないから話さないだけだ。 言ったところで、自分は口ではシキに負けるだろうという諦めがあった。 アキラは腹を立てながら、自分の鞄からレポート用紙を出して、キリヲのデスクへ置く。 そんなアキラとシキの様子をキリヲは面白そうに眺めてから、口を開いた。 「ま、ペナルティのことは置いといてだな、ちょっと頼みがあるんだが――」 *** 『――一日世話してたら、こいつ情が移っちまってよォ。飼い主がいねぇなら、俺がもらいてぇんだが』 廊下に出たところで、先ほどのキリヲの言葉を思い出し、アキラはふぅと息をついた。キリヲといえば、顔が凶悪なだけに、実は一年生の間では鬼のように恐れられている教師だ。その教師が「頼みがある」と言い出したときには、いったい何を言われるかと、アキラは不安に無意識に身構えてしまったほどだった。 けれど、その不安はいい意味で裏切られた。 「何か意外だな……キリヲが、あんなに猫によくしてくれるなんて」 「飼い主が見つかって良かったな」 「あ、あぁ……もとはといえば、キリヲに頼んでくれたあんたのおかげだ。ありがとう」 「礼を言われるほどのことではないと、言ったはずだ」 体育準備室から出た後は、レポートを提出できたことへの開放感も手伝って、自然と口数が多くなる。二人は体育準備室を訪れる前とは裏腹に、他愛もない話をしながら廊下を歩いていく。そうして、校舎の入り口あたりまで来たときだった。 不意にシキが立ち止まり、「それではな、気をつけて帰れよ」と声を掛けて去っていこうとする。 思わずアキラは、その背を呼び止めた。 「……あんた、帰らないのか?」 「あぁ。生徒会の仕事が少し残っているのでな」あっさりとシキは頷いてみせる。 「もしかして、その仕事があるのに、俺に付き合ってくれたのか?」 「あれは単なる暇つぶしだ。今日はバイトもないのでな、時間を持て余していた」 まるでアキラに付きっきりで反省文を看ていたことなど、大したことでもないという口振り。けれど、きっとそんなことはないだろう。もう比較的遅い時間なのだ、生徒会の仕事というのが急を要しないなら、シキだってこのまま帰ることができるはず。 そんな思いが顔に出ていたのだろう。 こちらを見ていたシキは、唇の端を持ち上げ、微かな笑みのようなものを浮かべた。 「情けない顔をしているな。一人で夜道は帰れないか?」 「ふざけるなっ。こっちが申し訳なく思ってるところなのに、あんたは……」文句を言いかけて、結局口ではシキに敵わないと悟り、アキラは肩の力を抜いた。「もういい……どうしてあんたが生徒会長に推されたのか、分かった気がする」 一見高圧的だが、これでも面倒見がいい性質なのだ、シキは。それに、忙しくとも表情に出ないせいで、いつも落ち着いて頼りになるように見える。けれど、だからこそ必要ない苦労まで背負うタイプなのではないか、という気もする。たとえば遅刻の件にしたって、猫を拾うか迷う自分に話しかけなければ、シキは始業時間に間に合ったのだろうし。 そう思いながらアキラはため息をつき、そこでふと思いついて自分の鞄に手を突っ込んだ。中を探れば、すぐ指先に探していたものの当たる感触が伝わる。アキラはそれを引き出し、シキの目の前に突きつける。 「――何だ、これは」アキラが取り出したのは銀色の包装、その表面には『solid』の文字とオムライスの絵。ここ数年若者の間で流行している、バランス栄養食だ。細長い形のそれを、シキはまじまじと見つめる。 「何って……あんた、ソリドを知らないのか?」 「ソリドくらい知っている。俺が聞きたいのは、ソリドなんか出してどういうつもりか、という点だ」 「これ、あんたにやる。まだ残るのなら、腹減るだろうから」 そう言うと、シキは瞬きを一つしてから、ソリドを受け取った。 「オムライス味……お前は、この味が好きなのか?」 「別に。たまたま持ってただけだ」 アキラは早口に素っ気ない調子で返した。 実は、アキラはソリドを買うとき、大抵このオムライス味を買う。理由はないが、いつからだか、何となくそう決めている。それは、一般的にいえば、好きということになるのかもしれない。そう言えば、母親に何が食べたいかと聞かれたときも、いつもオムライスと答えているような気がする。 もっとも、それはここで言うべきことではない。高校生にもなった男がオムライス好きなどと言えば、子どもっぽいと馬鹿にされるのは目に見えている。 ソリドを受け取ったシキは、束の間アキラとソリドを見比べていたが、やがて「もらっておく」とだけ言って踵を返した。背筋の伸びた凛とした背中が、電灯の消えた暗い廊下の先へと進んで闇に紛れていく。アキラは、何となくその背中を見送りながら、腹の底からある感情が込み上げてくるのを感じた。 情けない――シキに借りをつくってばかりだった今日の自分が。しかもシキは、それを借りとはさせてくれないのだ。朝、キリヲに猫を頼んでくれたことも、告げ口しただけと言い張る。英語を教えてくれたのは、暇つぶし。けれど、シキがどう言おうが、それはアキラにとって借りなのだ。 そうして他人に借りを作って生きることしかできない癖に、自分は毎朝起きれば消えてしまいたいと考えている。 そんな自分がどうしようもなく情けなく感じられて、アキラは床に視線を落とし、ため息をつく。それから、ふと顔を上げ、シキの消えて行った廊下を見つめた。記憶に新しいシキの後姿――あんな風に背筋を伸ばして、迷いなくいられるようになりたいと、そう思った。 *** キリヲに貰われた子猫は、ミツコさんと名付けられ、元気に成長した。半月もすれば、毎朝キリヲについて学園へ来ては、庭で過ごす姿が見られるようになった。生徒たちの間ではこのミツコさんが人気者になったが、彼女自身は気ままで人に愛想をしてみせるということもない。 ただし、どういうわけか高等部の生徒会長は彼女のお気に入りで、庭を通る度に擦り寄られているのだとか。 そんな噂をアキラが知ったのは、六月に入った頃のことだった。 噂を聞いて思わず吹き出したアキラを、クラスメイトたちは不思議そうに見つめていた。 2009/05/16 目次 |