アンノウン1
別荘で過ごした三日間の日々を終えて、アキラはシキと共に自分達の街へと戻った。表面上は何事もなく――しかし、二人の間には確かにぎこちない空気が残っていた。 原因は、おそらく最後の日の朝に訪れたシキの母方の祖父だという老人の存在にある。シキに海外留学を勧めた老人に、アキラはためらうシキを差し置いて、『シキは留学する』と答えてしまった。老人の様子を見るに、即答しなければすぐに留学の話を取り下げようとする雰囲気が隠れ見えたような気がしたからだ。 シキはやくざである父親の後継者という立場から逃れるため、一人立ちしようとしているのだ、とアキラに打ち明けてくれた。そのために、別荘に来てからというもの援助を求めて祖父の元へ通いつめていたのだ、とも。その祖父から出された援助の条件が留学――つまり、それを逃せばシキは望みを叶える機会を失ってしまうということだ。 父親の後継者として、シキはこの街に、実家に、つなぎ止められてしまうことになる。それは、アキラには納得できなかった。 シキは優秀だ。能力も、才能もある。そして、あまり知る者は多くないが、非常な努力家でもあるから、環境次第ではどこまででも能力を伸ばすだろう。少なくとも、決してどこかにつなぎ止めてしまっていい人間ではない。 それが分かるからこそ、アキラは直感したのだ。離ればなれになるとしても、シキを送り出さなければならない。この機会を、必ず捕らえなければならない、と。 アキラの行動に、シキは傷ついた表情を見せた。それもそうだろう。シキはアキラのために、返事をためらっていたようだから。けれど、留学の提案が出た瞬間、シキは確かに心動かされた表情をしたのをアキラは目にしている。おそらく、自分というしがらみさえなければ、シキはためらわずに留学すると返事していただろう。 老人が別荘を去った後、二人きりになっても、シキは黙ったままだった。ただ淡々と帰り支度をして、二人とも言葉少なに家へと戻った。 後になってみれば、あのときシキが何か言ってくれていたら――なぜ勝手に返事したのかと怒ってくれればよかったのに、とアキラは思う。或いは、自分がちゃんと行動の理由を説明できていたら、と。 そうすれば、二人の間がぎこちなくなることは避けられたかもしてない。 別荘から戻ったアキラは、ずっとそのことを考え続けていた。旅行から戻って以来、シキからはメールや電話の一つもなく、彼のアキラに対する怒りの深さが窺えるようだった。そこまで不機嫌なシキはアキラには初めてで、自分から連絡する勇気は出なかった。 怖かったのだ。 もうお前のことなど嫌いだと、想いがなくなったと拒絶されたら。そんなことになったら、どうしたらいいのか分からない。 折り悪くというべきなのか、夏休みの残りの日々にシキが家庭教師に来る予定はなかった。そのため、話し合う機会もないまま日々は過ぎ、九月の新学期に入ってしまった。 それでも、アキラは事態をいくらか楽観していた。九月になれば、またシキと学校で会うことができる。話し合う機会は必ず巡って来るだろう、と。 しかし、そうではなかった。 新学期に入っても、シキと学校で話す機会は訪れなかった。それもそうだろう。学年が違えば、普段使用するフロアも全く違う。そうそうばったりと出くわすこともない。 だが、かといって、アキラの方からシキの教室を訪れるわけにも行かない。一年生のアキラにとって、三年生の教室というのは、文化祭の準備で何度か立ち入ったとはいえ――踏み込めない領域だった。 結局、アキラが最もシキに接近したのは、行動で行われた全校集会のときだった。シキが生徒会長として壇上で挨拶するのを、アキラは整列した生徒たちの中から見上げていた。本来なら、自分とシキの間には何の接点もないのだと、思い知らされたような気がした。 それでも、望みはまだあるはずだった。 週に二度、シキは家庭教師としてアキラの家に来る。その日を待てばいいと思っていた――けれども。 シキが家庭教師に来る予定の日を翌日に控えた前夜。アキラは両親と共に居間にいた。昨年ヒットした映画が地上波で放送されるのを、皆で観ていたのだ。 映画の出来は、アキラから見れば、可もなく不可もなくというところだった。ストーリーは王道で、それでも退屈させないくらいには派手なシーンもある。ちょっと困ったのは、濡れ場がしばらく続いたことくらいか。両親と観ていたせいで、アキラはひどく気まずい思いをさせられた。それは、もしかしたら両親も同じだったかもしれない。 居間の電話が鳴り響いたのは、そんな気まずい雰囲気の中でだった。 母親が立ち上がり、電話に出る。ほっとしたように、父がテレビの音量を下げる。アキラは聞くともなく、電話に対応する母の声に意識を向けた。 わけもなく、電話の会話が自分に関わるもののような気がした。 「――うちに電話してこられるなんて、珍しい。……まぁ、そうなんですか……。それは残念です……。えぇ……いえ……。こちらこそ、お世話になりまして――」 やがて、電話を置いて戻ってきた母は、驚くべき事実を告げた。シキが、家庭教師をやめたいと電話してきたのだ。理由は、大学受験を控えて、志望校を変えたために自分の勉強に専念しなければならなくなった、ということだった。 このことは、シキと二人きりで会える機会を待ち望んでいたアキラには、晴天の霹靂だったといえる。母の言葉を聞いた瞬間、アキラは腹の底からこみ上げてきた焦燥に、息苦しささえ覚えた。 両親は、そんなアキラの様子など知らぬげに、のんびりと会話している。 「しっかりした、立派な子だったな」と父が言う。 「えぇ、本当に。教え方も上手で、おかげでアキラは見違えるくらいに成績が上がりましたもの。それに、礼儀正しくて。シキさんが来られなくなったなんて、本当に残念だわ」と母も頷いている。 「受験生なんだ。仕方ないさ。シキ君くらい優秀な子なら、そりゃあ、トップクラスの大学を受験するんだろうしな。――アキラもだいぶ勉強のコツが分かったみたいだし、しばらくは新しい家庭教師は探さずに、一人で頑張ってみてもいいんじゃないか? ……なぁ、アキラ?」 急に父に話を振られ、ショックに沈んでいたアキラははっと顔を上げた。強ばった顔の筋肉を必死に動かして、無理に笑顔を作ってみせる。何でもないふりをする。 「――……あぁ、父さん。しばらく一人で頑張ってみる」 すると、父は「よく言ったな」と満足そうに微笑んだ。 アキラは父に笑みを返してから、映画に飽きたと言って席を立った。実のところ映画がどうというより、平静な顔を繕っていられなくなってきたのだ。 ごく自然な態度を心がけながら、アキラは居間を出て二階へ上がり、自室へ入る。そうして、静かにドアを閉めた途端、足から力が抜けて床に跪いた。 腹の底から熱いものがこみ上げてくる。両親の前では押し殺していた感情が、堰を切ってあふれ出す。アキラは床に身を投げ出し、額を押しつけて嗚咽した。 シキが家庭教師を止める――そんな些細なことで泣くなんて、どうかしている。自分でも信じられないくらいの女々しさだ。 そもそも、シキは三年生であり、進路を決める時期なのだ。普通なら、アルバイトにかまけている暇なんかない。アキラの勉強を見てくれたことも、特別な巡り合わせによるものだったのだ。二学期以降は、もうバイトをしている暇がないとシキが言うのは、ごく自然なこと。 けれども、アキラは疑わずにはいられない。 夏休みのことで、シキは自分を嫌いになったのではないか。もう会いたくないから、家庭教師を止めると言い出したのではないか。――だとしたら、どうしたらいい? どうしたら、シキに許してもらえる? (……違う。そうじゃない) アキラは頭を振った。 相手の顔色を窺うだけで、話し合って納得することもなく意見を変えようとするのは、自分らしくない。たとえシキを失いたくないからといって、自分を捨てるような人間になれば、もう顔を上げてシキと向き合うことはできない。シキの側にいる資格を、自分から棄ててしまうのと同じだ。 (焦っちゃいけない) 先走りそうになる思考を、アキラは懸命に引き留めようとした。シキは忙しくなったからバイトを止めると言っただけだ。それ以外のことは、何も言っていない。勝手に悪い想像をしてはいけない。 (勝手に、シキの気持ちを知ったような気分になっては、だめだ) こうなれば、話せる機会を待っているだけでは埒が空かない。ともかく自分からシキと話に行かなければ。 決心したアキラは、シキの携帯にメールを入れた。『話がしたい』と。しかし、二、三日待ってみても返信はない。そこで、何度か時間帯をずらして携帯に電話を掛けてみたが、シキは一度も出ようとはしなかった。 あぁ、やはり。自分はシキに嫌われたのだろう。 予感は確信へと変わっていく。 九月の半ばになる頃には、アキラはシキと仲直りする望みをすっかり失っていた。それでも、校内ではシキの姿を探し、取られない電話を掛け、返事のないメールを送り続けた。最早アキラにとって、シキはたった一度の拒絶で――しかも、明言されたわけでもないのに――諦められるほど、結びつきの浅い相手ではなくなっていたのだ。 一方で、アキラはそんな自分の態度を、苦々しく思わないでもなかった。 女々しく未練がましい自分。そんな面があるなんて知らなかった――知りもしなかった。いっそのこと、シキと身体を繋けなければ、こんな風に女々しく執着することもなかったのかもしれない。 けれど、とアキラは思う。 どうしようもない程みっともなくても、仕方がない。誰かを本当に好きだと思えたのは、シキが初めてなのだ。小綺麗なつきあい方や別れ方なんか、知るはずもない。今の自分には、みっともなくても情けなくても、シキを求めて手を伸ばすことしかできない。 そして。もしも伸ばした手を振り払われるなら、全くの無防備で傷つくことしかできないのだろう。それほどに、もはやシキは自分の心の鎧の内側にいるのだから。 どこか諦めに似た心境で、アキラは覚悟を決めた。そうして向かったのは、夏休みの初めにトウヤたちと訪れたシキのバイト先のバーだった。 シキと話すには、こちらから捕まえる必要がある。が、学校内やシキの自宅の前で待ち伏せるのは、シキに迷惑を掛ける可能性が高い。となると、バイト先が最も待ち伏せにふさわしく思えたのだ。 (2010/01/23) 目次 |