アンノウン2






 翌日の夕方。学校から帰ったアキラは、私服に着替えてから家を出た。母親には、友達のところへ遊びに行くのだ、と嘘をついた。
 閑静な住宅街から繁華街へ。辺りがにぎやかになるにつれて、薄闇の中に派手な色のネオンが増えていく。
 アキラがシキのアルバイト先のバー”Meal Of Duty”に到着したのは、開店時間の一時間ほど前――午後五時だった。
 シキのシフトを、アキラは知らなかった。そのため、シキを捕まえるには、待ち伏せをするしかない。客として店に入るという手段を考えもしたが、実行には移せなかった。前回、トウヤ達とこの店に入ったときに、店主やスタッフの一部にアキラが未成年だということが知られてしまったからだ。店に入っても、つまみ出されてしまうかもしれない。
 また、たとえ店の人間がアキラの顔を忘れているとしても――その可能性は高いが――こうした類の店に入る勇気は出なかった。
 アキラはバーの裏口近くのビルの壁に背を預け、ひたすら待ち続けた。その間に店の関係者が何人か出入りしたが、シキは姿を現さなかった。結局、二時間ほど待った末に、アキラはその日は諦めて帰宅することにした。じっと立っているだけとはいえ、緊張し通しだったせいか体力が限界を迎えつつあったのだ。
 一日目に目的を果たせなかったが、アキラは待ち伏せを続けた。翌日、翌々日も結果は空振りに終わり、体力的にも精神的にもアキラは疲労する一方だった。待ち伏せを始めて三日後には、夜の睡眠だけでは疲れが取れず、家族や友達にも気遣われるほどになっていた。
 そして、四日目。
(あと一回……今日が限度かもしれないな……)
 目に見えて疲れた様子の自分を気遣う母の声を聞きながら、アキラはそう思った。最初はどうしても捨て難いほど強かったシキへの気持ちは、今は疲労の中で次第に色褪せ始めていた。
 今日一日を最後と思いながら、アキラはバーの裏口に面した通りに立った。どれくらい、そうやってぼんやりしていただろうか。ぽつりと頬を濡らす水滴で、アキラは我に返った。
「――雨か……」
 天を仰げばまた一粒、ぽつりと水滴が頬を打つ。じきにさぁさぁと音を立てながら、本格的に降り始めた。”弱り目にたたり目”とはこのことだ、とため息をついたとき。
「――ねぇ、君……」
 おずおずと声を掛けられる。突然話しかけられて驚いたアキラがぎくしゃく振り返ると、そこに若い男が立っていた。
 男は大学生風のラフな格好で、銀縁の眼鏡をかけている。アキラはその顔に見覚えがあった。シキと同じ”Meal Of Duty”のウェイターだ。以前トウヤ達と店を訪れたとき、働いている姿を見たことがある。
「君、シキの後輩だよね……?」
「――はい」
「こんなところでどうしたの? 君、ウチのスタッフの間で噂になってるよ。このところ綺麗な子が裏口に立ってるけど、どうしたんだろうって。俺は最近は遅出だったから、見かけなかったけど……もっと早く確認しておけばよかったな。シキに会いに来たの?」
「……はい……」
 すると、眼鏡の青年は少し困った表情になった。
「シキとは学校で会えないの? 先輩・後輩なんだしさ。――あぁ、でも、それができたらこんなところで待ってないか。でも、残念ながら、シキはバイト辞めちゃったんだ」
「辞めた……!? 何かあったんですか?」
「さぁ……。俺も『家庭の事情』って聞いただけで、詳しいことは知らないんだ。今日か明日あたりに制服の返却と事務手続きに来るはずなんだけど、何時になるか……」
 と、キキッと大通りの方でブレーキ音が高く響いた。
 見ればアキラのいる通りの入り口に、高級そうな外車が横付けにされていた。運転席からダークスーツをまとった男が降りてきて、後部座席のドアを開ける。運転手の恭しい一礼を受けながら、後部座席から降りてきたのは――シキだった。こちらはラフな私服姿だ。
「――若。こちらでお待ちいたします」
 運転手がそう言いながら、傘を開いて差し出す。しかし、シキは傘は受け取らず、運転手に頷いてみせただけで歩きだした。通りへ入って来たかと思えば、アキラたちの前を素通りして”Meal Of Duty”の裏口へと近づいていく。シキにはアキラたちの姿も見えているはずだが、見向きもしない――敢えて無視しているのだろう。
 アキラは息を止めて、シキの歩みを見守った。ネオンに照らされた冷たい横顔は、初めて見るほど激しい拒絶の色が浮かんでいる。シキに会いに来たはずなのに、アキラはとっさに声を掛けることができなかった。

「――シキ」

 声を発したのは、アキラと一緒にいた眼鏡の青年だった。
 こちらを無視するかに見えたシキは、しかし、青年の声に足を止めて振り返った。眼鏡の青年は、気弱そうな外見とは裏腹に、気丈な態度でしっかりとシキの冷たい視線を受け止める。
「シキ。君にお客さんだ。この子は何日もここで君を待っていたんだ。少しくらい、話を聞いてやってもいいだろ?」
「――」
 シキは眼鏡の青年を睨みつけた。それでも、青年が怯まないと見ると、ため息をついてアキラたちの方へ歩いてくる。青年は気を利かせたらしく、「じゃ、バイトの時間だから」とアキラに囁き、バーの裏口へ消えて行った。
「……シキ……」アキラはためらいがちに口を開いた。「ここまで来てしまって、すまない。だけど、俺、あんたと話したくて……」
「……話すことは何もない」シキが冷たい声で応じる。
「っ……。この間のこと……別荘で俺がしたことを、怒っているのか……?」
「違う。俺は何も怒ってなどいない。――もはや、あのときと今では状況が違う。俺たちの間には何もない。『最初から』何の関係もなかったんだ。お前は、もう、俺にこだわるのを止せ」
「それで俺が納得すると思うのか……? っ……馬鹿にするな! ちゃんと説明しろよ!」
「説明すべきことなど、何もない」
 切り捨てるようなシキの言葉。アキラは腹の底からこみ上げてくる感情の嵐を必死に抑え込みながら、シキを睨みつけた。
 初めて出会った春から今まで、他愛ない話をし、喧嘩もしながらやって来た。何度も口づけをして、たった二度とはいえ抱き合った。互いに互いの存在を欲したから、そうしたはずだった。短いとはいえこの春から夏にかけての時間は、確かにアキラの中の『何か』を変えたのだ。その時間を全て否定して、『何もなかった』とシキは言う。アキラは目の前の男が腹立たしいのか、哀れなのか分からなかった。
「――そうかよ」
 ともすれば泣き出しそうなのを堪え、アキラは叩きつけるように怒鳴った。それでも、シキは冷然とアキラを見つめている。アキラはシキに背を向け、その場から走り去った。大通りへ飛び出し、ネオンの光の中を駆ける。そのうちに怒りが引いていき、じんじんと疼くような痛みが胸に残った。
 びゅんびゅんと車の行き交う車道の脇で、とうとうアキラは足を止めた。後から後から涙が溢れてきて、視界がくもる。何も見えない――。

「――アキラ……!?」

 不意に声を掛けられて、アキラははっと顔を上げた。涙を拭って振り返れば、ネオンに照らされて馴染みの人物が立っているのが見えた。ユキヒトだ。買い物帰りなのか、ユキヒトは手にスーパーの袋を提げていた。
「ユキ、ヒト……」
「どうしたんだ、アキラ? お前、最近学校でも様子が変だったよな。いったい何があった?」
「――……」
 アキラは何も言うことができなかった。話せば、またシキに拒絶された瞬間の痛みや苦しさが強烈に蘇りそうで、言葉にできなかったのだ。
 ありがたいことに、ユキヒトは無理に話を聞き出そうとはしなかった。気遣わしげな表情でアキラを見ていたが、やがてため息をつくと自分の差していた傘をアキラに差し掛けた。
「――言いたくないなら、今はいい。とにかく帰ろう。今が秋だからって、そんな濡れた格好でいたら風邪を引く。……送っていってやるよ。話を聞いてやることもできないんだから、せめてそれくらいはさせてくれ」
 ユキヒトの言葉に、アキラは頷いた。



***


 ユキヒトに送られて家に帰り、どうやってベッドに潜り込んだのか。ほとんど記憶にないまま、アキラは翌朝、自室のベッドで目覚めた。身体がひどくだるくて、熱っぽい。もしや、と思って体温計で計ってみると、熱があった。昨夜、雨に打たれたせいで風邪を引いたのだろう。その日一日、アキラは学校を休むことに決めた。
 その翌日、翌々日は土曜・日曜で休日だった。アキラの熱は日曜の晩まで続いた。
 月曜の朝、ようやく熱が下がったアキラは、学校へ行くことに決めた。これ以上伏せって、両親を心配させたくなかったのだ。そうでなくても、彼らは木曜の夜、アキラに何事かがあったと気づいている。『理由を聞きたいが、息子をそっとしておいてやりたい』という気遣い混じりの眼差しが、アキラにはいたたまれなかった。
 登校したアキラは、普段通りに授業を受けた。しかし、その内容は一向に頭に入って来ない。午前中の授業がのろのろと過ぎて昼休みになると、アキラはいつものように屋上へ上がっていった。
 ユキヒトに、先週の夜の礼を言わねばならない。
 しかし、屋上のドアを開けると、そこには誰もいなかった。秋の気配のする風がコンクリートの上を吹き抜けるばかりだ。
(――ユキヒトが昼休みに屋上に上がって来ないなんて、珍しいな……。今日は休みか……?)
 アキラがそう思ったとき、ドアが開いてトウヤが屋上に出てきた。購買で並んでいたのだろう、その手には購買部一番人気のパンの袋が握られている。トウヤはアキラの姿を見ると、片手を上げて「よぉ」といつものように挨拶をした。
「アキラ、金曜日、風邪だったんだってな。もういいのか?」
「あぁ、もう治った。――今日は、ユキヒトは休みか?」
「いや。ユキヒトは来てるぜ? ほら、ウチのクラスって、あいつのクラスと体育が一緒だからさ。今日だってバスケの試合であいつと対戦したよ。――授業の片づけでもしてるんじゃ……」
 そのときだった。急に中庭がざわざわと騒がしくなった。
「……何だ?」
 不思議に思ったアキラは、手すりに手を掛けて中庭を見下ろした。トウヤもすぐにそばに来て、アキラ同様に地面を見る。「あの馬鹿……」と、トウヤは微かな舌打ちを漏らした。
 中庭には、ユキヒトとシキの姿があった。二人は敵同士のように対峙しており、周囲を他の生徒たちが遠巻きに取り巻いている。ユキヒトとシキは何かを話しているようだが、二人の声は低く屋上までは聞こえてこなかった。
 次の瞬間、ユキヒトが地を蹴ってシキに殴りかかる。
「やめろ! ユキヒトっ!」
 ユキヒトが、シキに返り討ちにされてしまう――アキラは思わず叫んだ。が、直後に目にしたのは信じられない光景だった。シキがあっさりとユキヒトの拳を頬に受け、衝撃で地面に倒れ込んだのだ。
 あまりの光景に、ギャラリーの生徒たちは束の間、ざわざわという声が消えた。囁き合うことさえ忘れて目の前の光景を見守ったかのようだった。
 屋上で見ていたアキラたちも、一瞬、何が起こったのか理解できず、呆然としていた。
 最初に我に返ったのは、トウヤだった。
「生徒会長相手に暴力沙汰だと……!? あの、馬鹿ユキヒト、停学じゃ済まないかもしれねぇのに……!」
「何だって……!?」
 トウヤの言葉に、アキラもようやく事の深刻さを理解する。二人はほとんど同時に、現場である中庭を目指して駆け出していた。





(2010/02/19)
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