セカンドコンタクト1
昼休み。学園の高等部と隣接する大学の中は、学生たちで賑わっている。季節は春も終わる頃。梅雨に入る前の爽やかな気候のせいか、庭の芝生の上でキャッチボールをする者、集まって昼食を摂る者などの明るいざわめきに満ちている。 シキは、一人その中を歩いていく。 同じ敷地内とはいえ、大学の雰囲気は幼・中・高等部とはかなり異なる。特に中・高等部は、受験や進学を控えてある種の緊張感のようなものが張りつめている。それに比べて大学の敷地内は、そうした緊張感から解放されたためか、伸び伸びとした解放感があるようだった。 そんな雰囲気の中を、高等部の制服姿のシキが歩けば、まず間違いなく人目を引く。庭にいる学生たちの何人かが、自分を見ていることは、ただ前を見て歩いているだけでも分かる。高校生が何の用か――そう言いたげな視線だ。 けれど、シキは構わずに中庭を突っ切って、事務棟へ入ろうとした。そのときだった。 「おぉ!? シキティじゃん! なーにやってんのぉー!?」 中庭一面に響きわたった大声は、方向からして中庭をはさんで向かいにある食堂の辺りから発されたものだろうか。シキは思わず顔をしかめ、足を止めた。が、取りあえず、振り返ることはしない。相手はシキの名を連呼しながら騒いでいたが、それを無視して事務棟へ入った。 事務棟の一階には、大学の就職課が入っている。ロビーにはずらりと掲示板が並び、そこに企業からの求人情報を載せた求人票が貼り出してある。その掲示板の一角に、こちらは大学に寄せられたアルバイトの募集情報を載せている掲示板があった。シキは迷わず、そこへ近づいていく。 学園では、基本的に幼・中・高等部の生徒のアルバイトは、禁止されている。ただし高等部の生徒には例外があって、成績上位者と家庭の事情があれば、アルバイトをしてもいいことになっている。シキは成績上位者であるから、その条件にあてはまる。現に、今も一つアルバイトをしている店があった。 掲示板に貼り出された紙面を見ていると、どかどかと乱暴な足音が聞こえてくる。シキは一瞬顔をしかめたが、すぐに無視をすることに決める。しかめっ面を無表情の下に押し込めて、素知らぬ素振りでアルバイト情報を物色していると、近づいてきた相手が声を上げた。 「シキティ、見つーけー!」 それを無視する。 「何だよー。聞こえてんだろー無視すんなよぉ」 それでも、無視する。 シキはふと目についたアルバイトの募集の用紙に、手を伸ばしかけた。途端、ずっしりとした重みが背中にかかる。後ろから抱きつかれたのだ。 「いやん、あなた、冷たいのねー。アタシとあなたの仲じゃなーい。それともアタシのことは遊びだったっていうのー。シキティ冷たーい」 そんな台詞を、男の声で、耳元で棒読みされる。シキはなおも無視――することはできなかった。「煩い」低く呟いて背中にしがみつく相手を振り解きざま、肘を繰り出す。狙いは鳩尾だ。 かなり本気の攻撃だったが、相手はあっさりとそれをかわした。そして、ぱっと跳びのいてシキの間合いの外に出る。いい加減に根負けしてシキが視線を向けると、相手――グンジは唇をつり上げてにやりと笑った。 シキはため息をついた。 グンジは中・高以来の知り合いだ。シキよりは一つ年上で、今年『学園』の付属の大学に進学した。顔を見たのは数ヶ月ぶりになる。中・高と何かと騒ぎを起こしてきた男で、大学に進めば少し落ち着くかと思っていたが、見たところ全くそんな様子もない。長い髪を金に染めて派手な格好をして、小学生の子どものように騒がしい。 「何の用だ」シキは低い声で言った。 「用ってわけじゃねーけどさ、久しぶりに見かけたから声かけただけ。だってー、俺ら、オトモダチじゃん?」 「腐れ縁の間違いだろう」 「何だよ、それ。俺がオトモダチじゃなかったら、シキティ、友達一人もいねーだろ」 呆れの響きを乗せて、シキはふんと鼻を鳴らした。グンジの言葉を否定する気はない。それがどうした、というのが正直なところだ。が、いちいちそれを口にするのも面倒だった。 人を友人というカテゴリに分類するということを、シキはあまりしない。血の繋がりがあれば血縁者、なければ他人――明確に分類できるのは、そのくらいのものではないかと思う。それらに引き比べて、友人という定義は曖昧で、どこか掴みどころがない。恋人も同様だ。シキの意識の中では、他人はよく接する相手とそうでない相手の区別があるだけだった。 友人がいないと指摘することは、相手と場合によっては、それなりのダメージを与える可能性もある。けれど、シキはあまり反応しないのがつまらなかったのか、グンジはため息をついて話題を変えた。 「なー、ここにいるってことは、バイト探してんの?」 「あぁ」シキは掲示板に視線を戻しながら、頷く。 「でもさ、シキティ、前にバイト紹介してやったじゃん? クラブのウェイター。あれ、辞めちゃったわけ?」 「いや。給料も悪くないし、シフトもちょうどいいからな。続けている」 「なら、増やすつもりかよ? いいのか? シキティ、今年三年だろ。オベンキョウしなきゃなんねーんじゃねぇの? 俺みたいにエスカレーターで上がっちゃうなら、話は別だけどー」 グンジの言葉に、シキはまた鼻で笑った。成績は、もちろん首位を維持していた。バイトを増やしても、維持できる自信はある。というより、その程度のことは、してのけなければならない。そうしなければならない理由があるのだ。 「オメェさ、何か企んでるだろ」尋ねるグンジは、珍しく真剣な表情をしている。 「さて、な」 シキは薄く笑んではぐらかし、掲示板から一枚の紙を引き剥がした。 *** 放課後、アキラは一人校舎の屋上へと上って行った。 火曜と金曜の放課後、屋上に情報屋がいる。幾らか手数料を払えば、情報屋は、『学園』についての情報を何でも教えてくれる。――そうした噂をアキラが聞いたのは、つい先日のことだ。それを、ふと確かめてみたくなったのだっt。 屋上へ続く階段を上り、重い金属製の扉を押し開こうとする。扉に細く隙間ができるまで開けたところで、初夏を思わせる風に乗って、屋上の声が聞こえてきた。 「二年A組の……、彼……本当に彼女は……?」と、女生徒の念を押す声。 「あぁ……からの情報だ……間違いは……」男子生徒の声が応じる。 情報屋とその客だろうか。『彼女』という単語からして、どうやら少し込み入った話の最中らしい。 少し迷ってから、アキラは屋上へは入らずに、静かに扉を閉めた。扉を閉めてしまうと、屋上の声は聞こえなくなる。そうして待つこと数分で、声の主らしい女生徒が扉を開けて屋上から出てきた。彼女の表情は、どことなく明るいようだ。 「あ、あなた、情報屋に会いに来たの?」女生徒は、アキラを目に留めて言った。「今ならすぐに話せるわよ」 「分かった。ありがとう」 「いいえ、こちらこそ、お先でした」 笑顔を見せて、女生徒は階段を下りていく。まるでスキップでもするかのような歩調で、彼女のスカートの裾が楽しげに揺れている。そんな様子が微笑ましくて、アキラは束の間彼女を見送ってから、屋上への扉をもう一度押し開けた。 途端、外の光が薄暗い階段に馴れた目を射る。吹き付けた風は微かに草木の匂いがして、埃っぽい空気を背後に吹き飛ばすかのようだ。アキラは、眩しさに僅かに目を細めながら、屋上へ出た。 見渡すと、屋上のフェンスの前に、一人の男子生徒が立っていた。そこから校庭を見下ろしていた男子生徒は、赤い髪を風になびかせながら振り返る。『情報屋』なのだろうか。ネクタイの色から判断するに、情報屋はアキラと同じ一年のようだった。整った顔立ちなのだが、ややつり目で、少し取っつきにくい印象がある。 アキラは、ふと情報屋の顔に見覚えがあることに気づいた。 「お前、C組の……」 「A組の奴か、お前。名前は……確か、アキラ、だったか?」情報屋が言った。 「知ってるのか? 俺のこと」 「当然。でなきゃ『情報屋』なんて名乗れない。でも、お前も俺のこと知ってたんだな。俺は一年C組のユキヒト。お前、他人に興味なさそうだから、俺のことも知らないと思ってた」 「興味が、ない、わけじゃない……」 そう、興味がないわけではないのだが、そう思われても仕方のない部分もある。自覚があるので、否定の言葉はぎこちないものになった。 そんなアキラの態度をどう思ったのか、ユキヒトはにやりと笑って見せた。 「別にいいと思うぜ、そういうの。少なくとも、恥じることじゃない。要は、興味がなくとも、非常識にならない程度に他人に接してりゃいいんだよ。――で? 用件は?」 改めて促され、アキラは言葉に詰まった。 情報屋の噂を聞いてここへ来たのは、好奇心があったからだ。どんな情報を扱っているのかとか、どういう奴がやってるのかとか、そんなことが知りたかっただけだ。だが、そもそもなぜ情報屋の噂に好奇心を抱いたのかといえば――自分にも、知りたい情報があったからだろうと思う。 知りたいのは、シキのことだ。 先月、シキにいろいろと助けられた一件の後、アキラは借りていたシャツを洗濯して返しに行った。シキは、それを受け取った。あの一件の後の接触といえば、それくらいのものだろう。もちろん、中庭や廊下ですれ違うことはある。シキは生徒会長であるから、集会の折りなどに壇上に立つ姿も見かける。けれど、言葉を交わしたりすることはない。当然だ。学年も違うし、もとよりさほど親しいわけでもないのだから。 けれども。 姿を見かける度に、なぜか――やけに落ち着かない気分になる。その理由が、アキラには分からない。分からないが、どうも原因はシキにあるのではないか、というくらいのことは思いつく。シキのことを知れば、少しはこの突発的な落ち着かない気分の原因も分かるかもしれない。 とはいえ、いざ情報屋――ユキヒトを目の前にすると、ためらいを覚えた。『三年生のシキのことが知りたい』だなんて、わざわざ情報屋に聞くようなことではない気がしてきたのだ。 ユキヒトは、ためらうアキラを不思議そうに見ていたが、ふたたびにやりと笑った。 「なるほど、ここへ来たのはただの好奇心というわけか。時々いるぜ、情報屋の噂を聞いて、動物園のパンダ感覚で見に来る奴」 「そういうつもりじゃない!」 「別にいいって。そういう見物客だって、大抵は知りたいことの一つや二つあるから、情報屋に興味を持つんだ。自分が何を知りたいのか、気づかないだけでさ。だから、そういう奴も大事なオキャクサマってわけ」 「そういう、ものなのか……?」 「そうそう。ま、物は試しだと思って、何か知りたいことを言ってみな。好きな子に恋人がいつかどうか、今度のテストのヤマ、教師の秘密……テストの問題・回答そのものと犯罪っぽいこと以外なら、何でもアリだ。お代は情報の価値によるけど……まぁ、今回初めてだし、サービスでタダにしてやるよ」 情報屋にも、何かお決まりの売り込み文句があるのだろうか。ユキヒトの口上は滑らかで、ひどくテンポがいい。それを口数の少なそうに見えるユキヒトが言うのだから、口上に妙な信憑性さえ感じてしまう。 そこまで言うのなら、とアキラはふと思いついた素振りで口を開いた。 「……それじゃ、試しに。生徒会長、いるだろ。三年の。あいつのことが知りたい」 言った途端、ユキヒトが噴き出した。腹を抱え、激しく肩を震わせて笑っている。一体何が可笑しいのか、とアキラが睨むと、ようやくユキヒトは笑いを収めて顔を上げた。 「悪い悪い……まさか、そう来るとは思わなかったんだ。俺が高等部に上がった四月から今まで、シキのことを聞きに来たのは五人。全員女だ。あの人に今付き合ってる人はいる? ってさ。けど、まさか男からアイツのことを聞かれるとは……」 「俺は別に、シキの彼女のことが知りたいわけじゃない。ただ……目立つから、どういう奴なんだろうって、ちょっと思っただけで……」 アキラは渋面で言った。が、言葉とは裏腹に、胸には何かもやもやとした感情が広がっている。それは、敢えて無視した。 「目立つ? そりゃぁ、まぁ、目立つよな。生徒会長だし、この間も壇上に立ってたし」 ユキヒトは、ムキになる子を宥めるような笑みを浮かべて、話し出した。そうしてユキヒトが語った内容は、驚くべきものだった。 シキは『学園』の高等部三年生。二年の学期末に前任者の推薦と全校投票を経て、生徒会長に就任。――と、そこまではいい。問題はその後だ。シキの実家は不動産その他を扱う会社を経営しており、父親はそこの社長となっている。だが、それは表向きのこと。実際には、シキの父親は暴力団豊島組の組長であり、経営している会社というのも、暴力団の系列会社なのだという。 つまり、シキはヤクザの息子ということになる。 シキには腹違いの弟が一人いて、現在中等部三年に在籍している。けれど、本妻が産んだシキが嫡男であり、将来父親の跡を継ぐのは、まず間違いなくシキの方だと言われているのだそうだ。 話を聞いて、アキラは慌てた。 確かにシキには、少し普通ではないようなところがある。けれど、まさかそんな複雑な家庭環境だなんて、想像だにしていなかった。それに、ヤクザの内情など、高校生が遊びでやっているような『情報屋』の口から出てくる話題にしては物騒すぎる。 「そんな話しても平気なのか?」アキラは思わず尋ねた。 「そんな話って……あぁ、暴力団の内情を喋るのはヤバいって? 平気平気。このくらい、学園に長くいる生徒や近所の人間は、皆知ってるよ。シキん家はヤクザだけど、地元の有力者でもあるからさ」 「ならいいけど……。なぁ、やっぱり情報料、払うから。やっぱりタダにしてもらうわけにはいかない」 「俺の情報に価値があるって、認めてくれるわけ? ありがたいね。だけど、本当に今回はいらない。今も言ったけど、シキん家のことは皆知ってるからさ。――そうだな、たとえばシキの付き合った女とか、彼女の有無とかなら、情報料をもらうとこだけど。聞きたい?」 シキの彼女――その言葉に、なぜかぎくりとしてしまう。なぜそこで自分が動揺するのか、と考えてアキラは更に落ち着かない気分になった。一体何なんだ。自分で自分の反応が意味不明だ。 混乱しながらも、アキラは「興味がない」と言って、ユキヒトの申し出を断った。そんなアキラを見て、ユキヒトは束の間目を細めたが、やがて「そうか」と頷く。そのあっさりした態度にほっとしながら、アキラは礼を言って踵を返そうとした。そのときだった。 「そうだ! アキラ……」 ユキヒトが呼び止めるのとほぼ同時に、屋上の扉が勢い良く開いた。 (2009/07/25) 目次 |