セカンドコンタクト3





 昼休み。ユキヒトは旧校舎の非常階段にいた。建てられてから年数の経ったこの校舎は、今は音楽室などの特別教室ばかりが集められている。生徒が通常の授業を受ける教室は新校舎にあるため、昼休みとはいえ旧校舎には人気がなかった。
 校庭を眺めてユキヒトがぼんやりしていると、廊下と非常階段を繋ぐ金属製の扉が開いた。現れたのは、生徒会長のシキだ。三年生、しかも生徒会長といえば、一年生には雲の上にいるような存在だ。が、ユキヒトは怯むことはなく、シキを迎えた。
「五分遅刻だよ、生徒会長」
「あぁ、悪い。教師につかまってな」
 挨拶代わりにそんな言葉を交わし、二人は本題に入った。シキが教師やPTAの動向を話し、ユキヒトが相槌を打つ。その後には、ユキヒトが生徒たちの噂などを話して聞かせた。二人は、定期的にこうして情報交換を行う。毎年生徒会長が決められるように、学園の情報屋というのも世襲制で昔から続いていて、両者はいつも協力関係にあるのだ。生徒会長は情報屋に情報を提供し、時には教師に目をつけられないように便宜を図る。情報屋が情報を提供すること で生徒会長は生徒の動向を詳しく知り、問題が起こりそうであれば、先手を打つ。
 情報屋とその協力者という、二人は対等の関係なのだ。だから、ユキヒトは決してシキに対して物怖じした態度を取らない。
 いつものように情報交換を終えると、シキはさっさときびすを返す。
「そういえば、この間あんたのことを聞きに来た奴がいたよ」
 ユキヒトが言うと、振り返ったシキは眉をひそめた。「約束通りに答えただろうな?」と低い声で念を押す。
 協力者と情報屋という利害関係とはまた別に、シキはユキヒトは一つ契約を交わしている。シキはユキヒトに、三年生のテストのヤマを教える。ユキヒトはそれを情報として流して利益を得る代わりに、女子生徒がシキの異性関係について聞きに来たときには「恋人がいる」と答えるのだ。これもまた情報屋の使い方ではあるのだが、今のところシキの他にユキヒトにこうした依頼をする者はなかった。
 それにしてもユキヒトには理解できないことに、シキは見栄を張るためでなく、女子生徒との面倒を避けるためにそうしているらしい。せっかくもてるのにもったいない、とユキヒトなどは思うのだが、シキはそうは感じないらしい。噂で遠ざけるくらいなら、どうして女子生徒の告白くらい聞いてやらないのか。理由を尋ねたことはないのだが、シキは女嫌いというより、同じ年頃の男のように恋愛にはしゃいでいる暇がないようだった。生徒会長であり、成績も優秀なシキは、とても多忙なのだ。本人はそんな様子は全く見せなくとも。
 そんなにあくせく生きて、一体何が楽しいのだろう。余計な世話とは知りながらも、ユキヒトはそんなことを考えながら頭を振った。
「ちがう、あんたのことを聞きに来たのは、女じゃない。男だ。男がそんな風にあんたの情報を聞きに来ることなんて珍しいから、あんたに教えてやろうと思って」
「……そいつの名は?」
「アキラ。一年A組のアキラって奴だ」
 すると、シキはごくわずかに目を見張った。その表情の変化を奇妙に思いながら、ユキヒトはあわてて言葉を継いだ。これだけでは、シキはアキラに悪い印象を持つかもしれない。そうなるのは、友達としてアキラに申し訳ない。
「だけど、アキラはあんたに敵意を持って、悪用しようとして聞きに来たわけじゃないと思う。あいつは、そういう悪意で動けるような奴じゃない」
「知り合いなのか?」
「知り合いっていうか……まぁ、今ダチになったとこっていうか。この間、マック食いに行った」
 その答えを聞いて、シキはふっと表情を和らげた。唇の端は微笑にはならないまでもわずかに持ち上がり、眼差しもいつもの鋭さが幾分抜けている。初めて見るシキの表情に、ユキヒトはぎょっとした。
 そんなこちらの反応には、気づいていないのか、気にする気がないのか。「そうか」とシキは穏やかに頷く。
「あいつは不器用なところがあるが、そう悪い人間でもない。仲良くしてやれ」
 そう言って背を向け、シキは去っていく。
 非常階段に取り残されたまま、ユキヒトは呆然とその背中を見送った。
 さっきのシキの柔らかな表情。それに、アキラを気遣うような言葉。アキラの話が出て、どうしてシキがそんな態度を見せるのかが、分からない。というか、どう考えてもあの態度からして、シキはアキラの性格までも知っている。
「あの二人、もしかして知り合いなのか……? だけど、だったら何でアキラはシキのことを聞きに来たんだ?」
 何がどうなっているのか。わけが分からない、とユキヒトは頭を振った。


***


 屋上で初めてユキヒトたちと会ってから二週間後。昼休み、アキラはユキヒトと共に屋上にいた。一昨日から梅雨入りして降り続いていた雨が、今日は晴れてさっぱりとした天気だ。晴れると日差しが強く、蒸し暑く、夏が近いことを思わせる陽気だった。
 さすがに日なたは日差しがきつすぎるので、アキラとユキヒトは屋上に設置された給水塔のつくる日陰に入って昼食を摂っている。アキラは母親の作る弁当だが、ユキヒトは昼休みのチャイムと同時に購買部に走って買ったというパンを食べている。ユキヒトの昼食は、購買部や食堂で買ったパンや弁当であることが多かった。
 なぜアキラがそんなことを知っているのかといえば、ユキヒトやトウヤともう何度か昼を食べているからだ。屋上で初めて会った翌日にトウヤに誘われたのがきっかけで、以来晴れの日は何となく三人で屋上で過ごしている。
 普段ならこの場にトウヤもいるはずなのだが、今日はまだ来ていない。
 ユキヒトによれば、トウヤは体育系クラブの集まりである運動部会のことで、用があるのだという。運動部会は定期的に開かれ、各部の部長が集まって、グラウンド使用の日程やその他様々なことを各部で話し合って調整する場だ。トウヤは一年生ながらもサッカー部のキャプテン兼部長なので、この会に出なければならない。今日の放課後にこの会が開かれるので、会の中で唯一の一年生であるトウヤは、資料のプリントアウトといった雑用にかり出されているのだ。
 そのことを聞かされたとき、アキラはトウヤも大変なのだなと、少し同情したものだった。
 やがて屋上の扉が開き、トウヤが入ってきた。「ふー……疲れた疲れた」などと言いながら、アキラたちのいる日陰まで来てばたりと仰向けに倒れ込む。
「お疲れ」ユキヒトが言った。
「トウヤ、大丈夫か……?」アキラも声を掛ける。
 すると、トウヤは寝返りを打って腹ばいにるなり、「アキラ、卵焼きっ!」と言った。くれ、ということなのだろう。アキラは少し戸惑いながら、自分の弁当の卵焼きを箸で取って、トウヤに差し出す。こうしたことは昼休みの教室でよく見られる光景だが、実際自分がすることになるとは、アキラは考えたことはなかった。幼なじみのケイスケとだって、こんなやり取りをしたことはないのだ。
 しかし、戸惑うアキラにトウヤは気づかず、ぱくっと箸先の卵焼きを口で奪い取っていく。友人同士ならごく当たり前のことをしているのだ、というような普通の態度だった。
「んんぅ……うまい!」卵焼きを咀嚼していたトウヤは、不意にぱっと笑顔になった。「アキラん家のおばさん、料理上手いな。羨ましいぜ」
「ありがとう。トウヤがそう言ってたって言ったら、母さんも喜ぶ」
 それから、トウヤ今度はユキヒトの方へと顔を向ける。「ユキヒト、ユキヒト、あーん」そう言って大口を開けるのを、ユキヒトは一度は横目で一瞥したものの、結局無視した。が、なおもトウヤが諦めずに口を開けたままでいるものだから、やがて根負けして食べていたパンを差し出してやった。
 それを一口かじって、トウヤが声を上げる。
「うめぇ! これ、購買部一番人気の焼きそばパンじゃねぇか。この俺ですらまだ買えたことがないのに……」
「羨ましいか? 味わって食え」ユキヒトはいかにも意地が悪そうに笑って見せた。
「お、じゃぁもうちょっと……」
「もう駄目だ」
 にべもなく言いながら、ユキヒトがパンを引っ込める。トウヤは気落ちした様子でがくっとうなだれたが、すぐに元気になって起きあがって、二人に礼を言う。そして、自分の昼食を買いに再び屋上を出ていった。
 屋上は、またアキラとユキヒトだけになた。
「お前ら、本当に仲良いんだな。長いつき合いなのか?」
 先ほどのじゃれるようなやり取りを微笑ましく思い出しながら、アキラは言った。言いながら、ふとケイスケのことを思い浮かべた。ユキヒトとトウヤも幼なじみか、それに近いつき合いなのだろうか。
 けれど、ユキヒトは首を横に振った。
「違う。トウヤとは……中等部三年のときからだ」
「そうなのか。仲が良いから、俺はもっと長いつき合いなんだと思ってた」
「まぁ、トウヤはあぁいう性格だから、誰とでもすぐ仲良くなる。っていうか、俺たちの場合は仲が良いっていうか、腐れ縁って感じだけど」ユキヒトは顔をしかめた。
 確かにトウヤは人好きのするタイプだ。が、それでもアキラの見るところ、トウヤは他の友たち以上にユキヒトを気の置けない相手と感じているようだ。また、ユキヒトも一見邪険に扱いながらも、トウヤのことを親友だと思っていることは明らかだ。そうでなければ、ユキヒトのように一人を好むタイプが、度々同じ相手と一緒にいるはずがない。
 やがてユキヒトはしかめっ面を改めて、アキラへ目を向けた。
「そういえば、アキラ。お前、シキと知り合いなのか?」
「何でそう思う?」
「いや、まぁ、ちょっといろいろあって」
 ユキヒトは言葉を濁した。
 もしかしたら、ユキヒトがそう思ったのは、情報屋として得た情報か何かが原因なのかもしれない。だとすれば、これ以上聞いたところでユキヒトは明かさないだろう。情報屋としてのユキヒトに手数料を払えば教えてくれるのかもしれないが、そこまでする必要があるとは思わなかった。
 質問にどう答えるべきか、とアキラは束の間迷った。知り合いといえば、自分とシキは猫を拾った日以来の知り合いと言えるだろう。おまけに今やシキは家庭教師として、週に二度家を訪ねて来る。けれど、そこまで言う気にはなれず、アキラはただ頷くに留めた。
「……まぁ、一応知り合いだと思う」
「ふうん、やっぱり。何となくそんな気がしたんだ。――でも、何で俺にシキのことを聞きに来たんだ? 俺が教えた情報なんて、シキの知り合いなら知ってるはずだ。知らないとしても、本人に聞けばいい」
 珍しく、ユキヒトは心底不思議そうに言った。それへ、アキラは首を横に振った。
「俺は本当に何も知らなかった。知り合いって言っても、シキとは顔を合わせて少し話した程度で、親しいわけじゃない。立ち入ったことは聞けない」
「でも、興味はある、っと。俺の情報でお前の好奇心は満足したか?」
 少し考えてから、アキラはまた首を横に振った。
「いや。ユキヒトには悪いけど、お前の情報は俺が知りたいこととは少し違う気がする。だけど、具体的に何が知りたいのかは、よく分からない」
 そう言いながらも、アキラは既に気づいていた。
 たとえば、忙しいだろうに、どうしてシキは常に毅然としていて、自身の仕事をこなせているのか、とか。どういうつもりでアキラの家庭教師になって、どうして初日にあんなキスをしたんだろう、とか。何を考えているんだろう、とか。知りたいのはそういうことなのだが、それはユキヒトから得られる類の情報とは、また別のものだった。
 まるでアキラの考えを見越したようなタイミングで、ユキヒトが口を開いた。
「だったら、話してみるのが一番いいかもしれないな」
「話す?」
「そう。たとえば、アキラ、俺はお前のプロフィールを知ってる。学年クラス・家族構成・誕生日・血液型……それはお前の一部だけど、お前自身じゃない。初めて話したとき、俺はお前がどんな奴かプロフィール以上に知りたくなったから、今一緒にいる。そういうことだ」
「つまり、俺はユキヒトに情報収集されてるのか?」
「まぁ、そうと言えばそうだけど。それだけでもない。趣味と実益っていうか……。アキラのことを嫌な奴だと思ったなら、最初から興味を持たないし、持ったとしても一緒にいようとは思わない」
「? ユキヒトは、俺と飯を食うのが趣味なのか?」
「それは言葉の綾。つーか、お前、天然ってよく言われるだろ」
 呆れたようなユキヒトの声に少しむっとしたアキラは、「言われたことない」とぶっきらぼうに返した。ユキヒトはそれへ、「あーそうかそうか」と相槌を打ってみせる。明らかに、聞き分けのない子どもを宥めるような調子だった。
 その態度に、更にむっとする。
「あー……悪かった。悪かったって」アキラの不機嫌に気づいたユキヒトは、苦笑しながら謝った。「とにかくさ、シキのことを知りたいのなら、俺にヤツことを聞くより、話してみればよく分かるってこと。シキは見かけほど怖い奴じゃないから、話しかけても大丈夫だって」
 ユキヒトの言葉に、アキラは考え込んだ。話しをしたとして、それで少しは自分にもシキの考えていることが分かるだろうか――。


***


「そんなの、分かるわけないだろっ!」

 アキラは悲鳴のように叫んだ。目の前の机の上には教科書とノートが広げてあり、ノートの新しいページには数学の問題が解きかけになっている。シキがアキラの理解度を試すため、即興で作った練習問題だった。
 その問題には、解答のための時間が十分間与えられていた。けれど、その時間を過ぎても、ついにアキラは問題を解くことができなかったのだ。
 ギブアップ宣言を聞いて、アキラの隣に座るシキが小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。こんな簡単な問題も解けないのかと、嘲笑う。しかし、そうは言ってもシキの出した問題は、難しかった。シキと自分とでは最初から頭の出来が違うのだ。
 既にアキラは何度かシキの授業を受けているが、シキの頭の出来がまず理解不能だった。どうやったら、あんな難しい問題を解けるようになるのかが分からない。シキを知り彼の考えを知る以前の部分で、アキラは越えようのない壁にぶつかっていた。
 これでは、ユキヒトの言っていたことを実践するなど、いつになることか……。
 ふうとため息をつくと、シキの叱責の声が飛んできた。
「授業中に余所ごとを考えるな。何を考えていた?」
「別に」
「嘘をつけ。何を考えていた?」
「問題を解くことしか考えてないって言ってる」
 頑なに言って、アキラはシキを睨みつけた。シキもしばらくアキラを見据えていたが、やがてその顔がどんどん近づいてくる。何だか覚えのある展開だ、と思ったときには唇か重なり、すぐに離れていった。
「俺の授業中に上の空だった罰だ」
「は……?」アキラはさっきまでの頑なな態度も忘れ、目を丸くした。それはどんな理屈だ、と思わず内心ツッコミを入れている。けれどもとっさのことで、声としては出てこなかった。
 初日以来、シキは授業の度にこうした口づけを仕掛けてくる。さすがに週に二度の授業の度に毎回、というわけではない。けれど、それでも初日から既に何度か、アキラはシキに口づけられているのだった。毎回シキは罰と称したが、それは何だかおかしいような気がしていた。
 同じ男とキスするなんて、普通なら罰を与えるシキだって、気持ち悪く感じるはずなのだ。しかも、キスしたからって頭が良くなるわけでもない。罰を与えるなら、問題を解かせるなり宿題を増やすなりすれば十分ではないだろうか。アキラは、自分自身がシキとの口づけに特に嫌悪を感じないことを棚に上げて、シキのことを変な奴だと思っていた。
(本当に、シキは何を考えてるんだか……)
 シキの顔を見ながらそう思ううちに、アキラはふと目の前のシキの取り澄ました表情を、崩してみたいという欲求を覚えた。意表を突くことができれば、シキの本音も見えるかもしれない。それはなかなかいい思いつきだという気がして、アキラは早速傍にあったシキの顔に、今度は自分から顔を寄せた。
「さっきの仕返しだ」
 間近で呟き、押しつけるように唇を触れ合わせる。
 はっとシキが息を呑む気配が伝わってきた。
 次の瞬間、シキの手がアキラの肩を掴んだ。シキは慌てて身じろぐアキラを強引に引き寄せ、驚きに開いたままの唇の間から舌を挿し入れてくる。上顎や歯列を軽くなぞって、すぐに出ていったシキの舌は熱かった。事態が理解できないまま呆然とするアキラの意識の中、その熱だけがはっきりとリアルな感触を持って残った。
 離れた後、二人は束の間見つめ合っていた。アキラだけでなく、シキもまた少し呆然としているようだった。が、シキはすぐに立ち直って、問題に戻るようにアキラを促す。彼の顔は、またいつもの取り澄ました表情に戻っていた。
 アキラは、それこそ魂が抜けたような有様のまま、言われるままにノートへ向き直った。いつもと違うシキの反応。あれが、シキの本音や素の部分と考えていいものだろうか。それとも、違うのか。つい先ほどの出来事に理解が追いつかず、飽和したままの頭は結局深く考えることを放棄する。数学の二次関数だの英語の関係詞だのと同様、これは自分の手に余る問題だ、とアキラは思った。






2009/08/08

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