What I know1





 弟は、よく生きものを拾って来る。
 シキの記憶によれば、最初は子犬だった。弟は、拾ってきた犬を飼いたいと言ったが、父は許さなかった。捨てて来いと言われた弟は、父親と大喧嘩を始めてしまう。結局、シキが犬の貰い手を見つけて来て、騒ぎは収まった。
 そんなことがあっても、弟は懲りなかった。時折犬だの猫だのを見つけて、拾ってきた。生きものを拾う度、弟は捨ててこいと言う父と喧嘩をする。そこで、いつも拾ってきた動物の貰い手を見つけてきて、二人の喧嘩を収めるのはシキの役目だった。
 いい加減、弟は学習すればいいのだ。父も父で、犬や猫の一匹でも、飼ってやればいい。そうすれば、「既にペットがいるから」と、弟の拾い物を止めさせる口実ができるというものだ。
 しかし、二人とも頑固で、一向に自分から譲ろうとはしないのだった。


(またか……)
 シキは弟の部屋の戸口でため息をついた。部屋の中には見慣れなぬ段ボール箱が置かれ、中で何かが動いている。緑色の体をしたそれは、爬虫類のようだった。
 今度は、イグアナか。
「リン、それはどうした?」
 答えは分かっていたが、シキは尋ねた。まさか世の中にイグアナを捨てる人間がいるとは、信じがたかったのだ。イグアナは、犬猫よりは、珍しいのだから。
 段ボールの前でイグアナに構っていたリンは、シキを振り返って「拾った」と答えた。これまた予想通りの答えだった。あっさりとしたその言い方に、シキは猛烈に腹立たしさを感じた。いっそ、履いているスリッパを脱いで投げつけてやろうかと思ったほどだ。
 が、それは辛うじて思い留まった。ここで自分が騒いで、リンがイグアナを連れ込んでいることが家族に発覚すれば、大騒ぎになるだろう。父は怒るだろうし、シキの母もリンの母も、犬猫ならいいが爬虫類が家にいることは歓迎するまい。そうなっては、話はややこしくなるばかりだ。
 シキは腹立ちを堪えながら、リンを睨んだ。
「お前が拾ってきた生きものの始末を付けるのは、誰だと思っている」
「分かってるよ。いつも兄貴にはお世話になってマス。けど、大丈夫。今回はちゃんと自分で里親を見つけたから、迷惑はかけないよ」
「もう? やけに早いな」
「そう? コイツを拾って来たの、昨日だもん」
「昨日だったのか……?」
「気づいてなかったんだ。兄貴、昨日バイトで帰り遅かったもんね。最近忙しそうだし。だから、俺、いい加減兄貴に迷惑かけちゃいけないなって思って」
 少し自慢そうに、リンは胸を張る。こちらを見上げる眼差しに、褒めて褒めてと僅かに期待が込められているのが分かって、シキは何だか毒気を抜かれてしまった。今でこそ不良グループのようなものの頭をしている弟だが、こういう部分は子どもの頃から変わらない。
 弟に言葉を返そうとした、そのときだった。突然、リンの携帯の着信音が響いた。相手は、里親の候補らしい。リンは相手少しイグアナの様子などを話してから、電話を切った。
 シキはリンの話し声を聞きながら、弟の部屋に入ってベッドに腰を下ろした。そうして、ため息を吐く。
「で、兄貴どうしたの? 俺の顔でも見たくなった?」通話を終えたリンが振り返る。
「馬鹿が。お前、この間英和辞典がないと探していただろう。俺の部屋に忘れていたぞ。前に俺の部屋で勉強したとき、忘れたんだろう。……ほら、持ってきてやった」
「あ、サンキュ。そこに置いといて」
 言われた場所に辞書を置き、シキは部屋を出ていこうとした。すると、リンは思い出したようにシキを呼び止めた。
「兄貴! ……えっと、受験のことなんだけど」
「お前は、学園でエスカレーター式に高等部だろう。それとも外部の学校を受験するつもりか? 親父は反対すると思うぞ」
 シキとリンの父親は、自身の母校である『学園』を、息子達の教育に最もいい学校だと信じきっている。たとえリンが外部の学校へ通うと言っても、父は認めないだろう。またこの家の諍いの種が増えるのか、とシキはため息をつきたくなった。
 けれど、リンはそうではないと首を横に振った。
「俺じゃなくて、兄貴のことだよ。自分が高校三年だって、忘れちゃったの? 兄貴こそ、学園の大学に行くの? それとも、別の大学を受けるの?」
「さて、な……」シキは曖昧に応じる。
「俺、高等部のことはよく分からないけど、兄貴が三年生で一番優秀なんでしょ。俺の母さんが言ってた――兄貴なら、T大やK大も夢じゃないって。だけど、親父は兄貴を学園の大学に行かせようと思ってるでしょ?」
「さて、親父からは今のところ何も言われないが」
 しかし、父親が進路について口を出さないのは、今のところシキが進路希望用紙の第一志望欄に学園の大学と書き続けているからだ。そのことはよく分かっている。T大やK大など第一志望にしたと知られれば――たとえそこがどんな優秀な大学であろうとも――父親は反対するだろう。
 父親の望みは、シキが学園の大学に進んで地元に留まることだ。そこには、将来シキに組長を継がせようという心積もりがある。
「兄貴。親父の望む通りにして、本当にいいの? 兄貴にとって、大事なことなのに」
「リン、お前は心配しなくていい。俺は俺で、いいようにする」
「心配もするよ」と、リンは眉をひそめる。「俺は二番目の子だから、結構自由にさせてもらえた。それで親父とよく喧嘩もするけど。でも、兄貴はそんなに自由にさせてもらえなかったでしょ? ――このまま、生き方まで親父に決められるなんて、」
「お前が案じるほど、俺は不自由ではない。俺は自分が進むべき道については、自分で選ぶ」
 シキは弟ににやりと不敵に笑って見せてから、部屋を後にした。
 自室に戻り、机に向かう。そこには先ほど席を立ったときそのままに、白紙の進路希望用紙が置かれている。シキはまだ空白の、第一志望の欄を指で撫でた。
 父親は、リンではなく自分を後継者に、と考えている。それは嫡子だからという以上に、シキとリンの気質の違いから来る選択でもある。
 リンは、外見も性格も、母親に似ている。動物を拾ってくることにも表れているが、とにかく情が深い。その情の深さは、反面リンの心の脆さでもある。対してシキは、外見はともかく、性格的には父親の血を色濃く継いでいる。情を掛けるべき相手かどうかの判断ができるし、必要とあれば非情にもなれる。
 少なくとも、リンよりは自分の方が、ヤクザの組長としては上手くやるだろう。それどころか、父親を越える自信すらある。けれども――。
 やがて物思いから我に返ったシキは、机の上のボールペンを手に取った。そして、進路希望用紙の第一志望に、学園の大学への進学を希望すると書いた。


***


 何かがおかしい、とアキラは思った。
 おかしいと思うのは、学校の上級生であり、なぜか自分の家庭教師にもなってしまったシキのこっとだ。シキは常に普通と少し違うが、今日ははっきりとどこか様子がおかしい。
 週に二度、シキは家庭教師として、アキラの家へやって来る。今日はちょうどその日に当たっていて、アキラはシキと共に自室の机に向かっていた。問題を解かせ、分かりやすく要点を説明し、アキラの質問に答え。シキの家庭教師としての仕事ぶりは、今日も見事としか言いようがない。けれども、仕事ぶりとはまた別のところで、どこか上の空のように思える。シキがそんな風に集中力を欠いた様子を見せることは今までなく、アキラは落ち着かない気分になった。
 どうしたのか、と問うてもいいだろうか。しかし、自分が尋ねてもはぐらかされるだけのような気がする。それに、そこまでシキのことに立ち入ってもいいのか分からない。
 そんなことを考えているうちに母親がジュースを運んできて、休憩しようということになった。そこで、アキラは迷いながら「なぁ」と口を開いたが、やはりどうしたのかとは尋ねられなかった。結局、話を逸らしてしまう。
「……えっと、あんた、三年でトップの成績なんだよな?」
「あぁ、それ以外にはなったことがないな。それがどうかしたか?」答えるシキは、表面上は普段通りだ。
「何か嫌味だな……まぁ、それはいいんだけど。あんた、どこの大学受けるのかなと思って。一年で一番の奴は、今のうちから将来はT大の医学部を受けるって言ってる。俺は、そんな先のこと、まだ考えられない。けど、進路希望用紙を書けって言われて……」
「一年では、進路希望用紙には、具体的な大学名を出す必要はない。志望の学部なんかを書いておけばいい。まぁ、具体的に書いてもいいが」
「あんたは、一年のときどうだった?」
 すると、シキは珍しく視線を伏せた。見間違いかもしれないが、その表情がかげったように見えた。
「最近やけにそんな話をされるな……」
「……?」
「いや、何でもない。――俺の将来は、あの家に生まれたときから、決まっている
 その声はあまりに微かで、アキラにはほとんど聞こえなかった。辛うじて、『将来』『家』などの単語が聞き取れたが、それを繋ぎ合わせても理解できなかった。いくらヤクザの組長の嫡子とはいえ、シキが大人しく家を継ぐタイプとは、思えなかったのだ。
「えっ……?」
 とっさに聞き返すが、シキは言葉を濁してはぐらかす。結局、そのまま休憩時間は終わってしまった。


***


 授業が終わり、シキが帰宅するときになると、アキラはコンビニに行くからと言って家を出た。本当は、コンビニに用事などない。ただ、今日のシキの様子が気がかりで、このまま別れる気にならなかったのだ。
 我ながら、女々しいやり方をしていると思う。
 アキラは軽く自己嫌悪に陥りながら、シキと二人夜道を歩いていく。今までアキラはこうして、親しい友達にするようにシキを見送ったことはなかった。今日の突然のアキラの行動を、シキがどう思ったのかは分からない。けれど、シキは何も言わなかった。
 もともと互いに喋る方でもなく、二人は黙りがちに歩く。そうして、ある公園の前まで差し掛かった。公園の辺りは灯りが疎らで、薄暗い。それとは対照的に、公園から少し先に見える道はコンビニの照明に照らされて、明るかった。
 アキラの目的地はそのコンビニ、ということになっている。あと少し進んだら、コンビニの前でシキと別れることになる。アキラは俄かに焦りを覚えた。
 このままシキと別れれば、今日のシキの態度のことを聞く機会は来ないだろう。けれど、そこまでシキに立ち入っていいのか――立ち入るのか――立ち入れるのか、自分は。
 夏特有のじとりと湿気を含んだ空気が、身体にまとわりついてくる。公園の草むらから、じぃじぃと虫の音が聞こえる。緊張しているせいか、今夜はやけに暑い気がした。つぅと、浮きだした汗が背中をすべり落ちていく。その感触に驚いて、声を上げそうになる。
 何となく、ユキヒトから教えれたシキの『情報』を反芻する。それから、シキが時々見せる、笑みとも言えない微かな笑みが、ふと浮かんでくる。そして、ユキヒトの言葉を思い出した。

『学年クラス・家族構成・誕生日・血液型……それはお前の一部だけど、お前自身じゃない』
『俺はお前がどんな奴かプロフィール以上に知りたくなったから、今一緒にいる。そういうことだ』

 次の瞬間、アキラはとっさにシキの腕を掴んでいた。突然のことに驚いて、さすがのシキも僅かに目を見張ってこちらを見ている。
 ちがう。普通に呼び止めるつもりだったのに。アキラは自分の行動に慌てながらも、やっとのことで「待ってくれ」と言った。なぜか頬に血が上ってきて、顔が熱い。
「あのさ、シキ……」
「何だ? 今日のお前は妙だぞ、アキラ」
「っ……妙なのは、あんたの方だろっ。何か上の空でさ。……その……何か、あったのか……?」
 尋ねると、シキがはっと息を呑む気配があった。やはり、何かあるのだろう。けれども、シキは話すつもりはないようだった。
「何もない。第一、俺のことがお前に何の関係がある」
 シキは取り付く島もない調子で言った。その顔は普段通りの無表情だが、ごく僅かに拒絶を示す頑なさな色が浮かんでいる。いつもの余裕が感じられないシキの態度に、アキラは、初めてシキに出会った日のことを思い出す。
 あの日、シキはまだ生徒会の仕事があるのに、アキラを手伝ってくれて。その後、もう遅い時間なのに、疲れも大変そうな様子も全く見せずに、自分の仕事に戻っていった。あのとき暗い廊下で見た、シキの毅然とした後ろ姿が忘れられない。
 シキは、いつもそうだ。
 生徒会の仕事に、バイトに、勉強に――するべきことは山ほどあるはず。それでも、たとえば生徒集会の壇上で、或いは家庭教師として教えに来るとき、疲れた顔をしていることなどなくて。
 シキは、疲れないのだろうか?
 弱音を吐き出せる相手が、いるんだろうか? たとえば、恋人など弱味を見せられる相手が。
 なぜか僅かに胸が痛むけれども、それはそれでいいと思った。ただ、誰にも弱味をみせずに、走り続けるように多忙な毎日を送っているとしたら――辛いだろうと思う。
 そうだ、自分はシキが知りたいんだ。
 改めてアキラは思った。同じ学校の生徒、或いは家庭教師とその教え子。自分たちの関係は精々そんなもので、決して近しいとはいえない。それでも、なぜか心惹きよせられる。皆には弱味を見せないシキの毅然とした背中を、見ていたかった。けれど、それ以上に今は――誰にも話さないのならば――シキの抱えているものを知りたかった。
 そんな思いが、アキラの背を押した。

 あんたの話が聞きたい、とアキラは言った。

「俺は、あんたとそこまで親しいわけじゃないのかもしれない。友達ってわけじゃないし。俺には、あんたの事情に深入りできるような立場じゃない。……だけど、心配くらいしてもいいだろ? あんたは成績が良くて、生徒会の仕事なんかも忙しいのに立派にやってて……それでも、疲れることくらいあるはずだ。今日様子が変なのは、疲れてるせいなんじゃないか?」
 その言葉に、シキはしばらく考え込んでいたが、やがて動いた。唐突に左腕を掴んでいるアキラの手を右手で取り、ぐいと引っ張る。はっとした瞬間には、フェンスに押しつけられていた。本能的にその場から逃げようとしたアキラだが、シキがフェンスに手をついて、逃げ場を奪う。
 シキが手を突いた拍子に、フェンスがガシャンと派手な音を立てた。
「っ……シキ……?」
「心配というならば、」

 ストレス解消にでも、付き合ってもらおうか。

 脅すような低い声音が、降ってくる。間近に見上げたシキは、今まで見たこともないような険悪な表情をしている。険悪? ――いや、違う。アキラはふとそう感じた。この顔は、険悪というより獰猛だ。シキは、まるで獲物を見る獣のような目をしていた。







(2009/09/06)
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