What I know2
シキはアキラをフェンスに押しつけながら、Tシャツの裾から右手を差し入れた。温度の低い手が汗ばんだ腹部を撫で、胸へとたどり着く。突然左胸の突起を指先で撫でられ、アキラは驚きの声を上げそうになった。 「んっ……何、する……ん……っ!」 抗議の言葉が、不意に押しつけられたシキの唇によって封じられてしまう。シキはアキラの口内に舌を差し入れ、思う様蹂躙した。いつもの触れ合わせるだけの口づけとは、まったく違う。以前一度だけしたことのある、深い口づけともまた違う。ただ一方的に、暴力的に、シキの舌がアキラの口内で暴れている。 口づけながら、シキは執拗にアキラの胸の突起を弄り回した。最初は左、次に右。けれど、アキラは女ではないから、そんなところに触れられたところで、何か感じるわけではない。そう思って困惑した、そのときだった。 ぐっと少し強く胸の突起を押しつぶされる。途端、奇妙な感覚が体内に広がった。それは、多分快楽だった。 自分の意思とは無関係に、びくんと不自然に身体が跳ねる。シキは右手で一層強くアキラの肩を押さえつけながら、強引にアキラの足の間に膝を割り込ませた。膝がまるで股間を刺激しようとするかのように、ぐっと押しつけられる。そこでようやく自分の状況を自覚したアキラは、激しくもがいた。シキの唇から逃れようと、盛んに頭を振る。死に物狂いでシキを突き放そうと、手をシキの胸に当て突っ張った。 「っ……い、やだっ……!」 弾みでわずかに外れた唇の合わせ目から、呻くような声を押し出す。すると、シキは一瞬びくりと肩を揺らし、口づけを止めた。そして、脱力するかのようにぐったりとアキラに寄りかかりって肩口に顔を埋め、「すまない」と消えそうな声で呟いた。 アキラはシキの変化についていけず、抵抗も忘れて呆然と立ちすくんだ。肩に、シキの少し荒い吐息が触れている。押しのけようとシキの胸にあてがったままの掌から、シキの鼓動を感じた。 ぴたりと密着したままの身体が、ひどく熱い。はっはっはっと乱れた耳障りな呼吸音が、自分のものだと気づくのに数秒かかった。 そこで、アキラはふと我に返った。 自分はどういう状況にあったのか。シキは自分に何をしようとしていたのか。頭を整理しようとするが、上手くできなかった。 唐突に、恐怖というよりは、衝撃に近いものがこみ上げてくる。アキラは動揺のままに、とっさにシキを突き飛ばしていた。 僅かにシキがよろめいた隙に、フェンスとシキの間から逃れる。おそらくシキなら、簡単に阻むことはできただろう。しかし、シキはそうしなかった。ぼんやりとその場に佇んでいるばかりだ。 最早シキを振り返ることなく、自由になったアキラはその場を走り去った。 家に戻ると、当然のことながら家は普段通りだった。父と母が、いつものように居間で娯楽番組を見ながら、あああでもないこうでもないと他愛ない言い合いをしている。その光景が、ガラス一枚を隔てた別世界のもののように、アキラには思えた。 頭には、まだ先ほどシキに触れられたことへの衝撃が残っていて、居間の父母の平穏な光景から自分だけが浮いている気がする。それでも、居間に入っていくと父母は当たり前のようにアキラを迎え入れ、アキラも普段通りに二人に接した。そうしながらも、さっきあんなことがあったのに、両親に普段通りに振る舞える自分が、自分とは何か別のものに思えた。 汗をかいていたため、アキラは母親に言われるがままに風呂場へ向かった。今日はアキラが一番最後の入浴なので、風呂掃除をしてから出てくるようにと母親に言われている。 まだどこか呆然としたまま、アキラは脱衣場で衣服を脱ぎ、浴室に入った。浴槽に張ってある湯に身を沈め、ほっと息を吐く。 一息吐くと少し衝撃が和らいで、疑問が頭を巡り出した。 ――自分は、一体何をされようとしていたのか。 アキラだって小さな子どもではないのだから、分からないわけではない。さっきシキが仕掛けてきたのは、性的な行為だ。ただ、どういう意図で、シキが自分をその対象にしようとしたのかが分からない。 怒ったからか? だから、自分を辱めようとしたのか? そう思って軽蔑できたら、楽だった。悪意があったのだ、と信じることができるなら。 けれども、シキはそんな風にして他人を辱める卑怯な人間ではない。いつも毅然としていて、一見厳しそうなのだが、家庭教師として教える段になると非常に丁寧に教えてくれる。アキラが苦手な問題を理解するまで、ずっとつき合ってくれる。決して甘やかしはしないが、根本的なところでは優しいのだ。 そんな、アキラがこれまで見てきたシキの顔と、先ほど見た獰猛な顔つき。どちらも忘れられず、一体シキがどういう人間なのか分からなくなる。 混乱を抱えたまま、アキラは浴槽の中で目を閉じた。目蓋の裏に浮かんでくるのは、先ほどのシキの飢えたような目だ。 と、不意にぞくりとしたものが背筋を走り抜けた。途端堰を切ったように、暗い道ばたでの記憶が溢れ出してくる。腹部を撫でた温度の低い手、胸の突起を摘んだ指先……。 「……っは……」 知らず知らずのうちに、アキラはため息をついていた。その息が、自分でもひどく物欲しげなのが分かる。ふと違和感を覚えて視線を下ろしていけば、透明な湯の中でアキラ自身が勃ち上がっているのが見えた。 「っ……何、で……」 アキラは呆然と呟いた。自分の身体の反応が、信じられない。けれど、理性を裏切るように、勃ち上がった性器は既に少し時間を置いたくらいでは静まらないほどになっている。それでも、無理に思考を切り替えて鎮めようとしたが、できなかった。かえって夜道でシキにされたことを、思いだしてしまう。 それだけではない。 シャツを借りたときに知ったシキの匂いや、これまで戯れのように繰り返してきた触れるだけの口づけの感触も、蘇ってくる。今までは何でもなかったはずのそれらの記憶さえ、急に淫らな意味を持つものに感じられた。 ――駄目だ。考えるな。 そう思うのに、次々に記憶の断片が浮かんでくるのを止められない。そうするうちにも雄は完全に勃ち上がっていて、アキラは途方に暮れてしまった。 どうしたらいいのかと言っても、道は一つ。ここまで来たら、欲求を解消して鎮めてしまうのが、一番手っ取り早い。アキラは恐る恐る左手を下肢へ持っていく。情けなさと後ろめたさが込み上げる一方で、妙に興奮を感じた。 湯の中で張りつめた自身に触れ、水音を立てないように慎重に手を上下させる。遠慮がちな刺激にも関わらず、既に欲求が高まっていたせいか、強い快楽を感じた。 「……っ……」 息が乱れるのを抑えながら、手の中のものに更に刺激を与える。ただ熱を解放することだけに集中しようとする。それなのに、頭の中には勝手にシキとの記憶やシキが身体に触れたときの感触が蘇り、一層アキラを快楽へと追いつめた。 普段一人でするときより、ずっと悦かった。 強い快楽に耐えながら目を閉じると、目蓋の裏にシキの顔が浮ぶ。さっき夜道で見せた、ひどく獰猛な貌。その鋭い視線の幻に、射竦められる。先に性的な行為を仕掛けたのはシキであったはずなのに、アキラは自分がシキを汚す行為をしているような気がした。信じられないことに、そんな罪悪感に促されるように、腰の奥から更なる快楽が込み上げてくる。 「っ……くっ……!」 快楽が極限まで高まり、一瞬思考が真っ白になる。その瞬間、アキラは背を浴槽に押しつけて、達していた。 荒い息を吐きながら薄目を開ければ、達したときに吐き出した白濁が、湯の中でたゆたっているのが見えた。アキラはしばらくぼんやりとそれを眺めていたが、ふと我に返って猛烈な羞恥に襲われる。慌てて湯をかき混ぜて白濁を湯に紛らわせてしまうと、洗い場に上がってから浴槽の栓を抜いた。このときばかりは、自分が一番最後に風呂に入ったときで良かったと心から思った。 減っていく湯を見ながら、アキラは自問する。 ――一体、俺はどうしたんだろう? *** 数日後、週に二度の授業の日、シキはいつも通りにアキラの家を訪れた。部屋で二人きりになると、シキは授業を始める前にアキラに向かい、真っ直ぐに目を見ながら言った。 「この間はすまなかった」 「えっ……」 「お前が俺の顔を見たくないと思うなら、母親に俺を辞めさせるように言って構わん。教え方が下手だとか、理由は適当につければいい」 「なっ……そんな嘘、言えるわけないだろ。だいたい、あんた以上に教えるのが上手い奴なんて、そうそういない」 唐突なシキの申し出に、アキラは慌てて言い返した。その言葉を聞いても、シキは冷たい無表情を崩すことなく「そうか」と頷いただけだった。 「急な話では、戸惑うのも当然だな。俺は今日も、これからも、今まで通りお前に教える。お前は、俺を辞めさせたくなったときに、辞めさせればいい」 「……」 アキラが返事に困っている間に、シキはこれで無駄話は終わりというように机に向かった。そんなシキの横顔を、アキラは呆然と見つめる。今のところ、シキは自分からアキラの家庭教師を辞める気はないらしい。そのことには安堵した。けれども。 (――あんなとこがあっても、俺はやっぱりあんたがいい。あんたを辞めさせるわけなんかない) 心はそう叫んでいたが、口に出すことはできなかった。そうするには、夜道でシキに襲われかけたことが、棘のように引っかかっていた。 あんなことがあっても、まだシキに惹かれている。けれども、あんなことがあったのに、シキに心を開いていいものか分からない。なぜなら、アキラもシキも同じ男なのだ。同性に性的行為の対象にされかけたのだ。普通なら、自分はシキに嫌悪感を抱いていなくてはならない、とアキラは思っていた。けれど、そこまでの悪い感情を抱けないから、困っている。 アキラは息を一つ吸い、勉強に集中しようとした。顔からは表情を消し、殊更に無表情を保つ。それでも、内心では常にシキを意識していて、うっかり以前の親しみを顔や態度に表しはしないかと、ヒヤヒヤしていた。 授業は、淡々と進んでいった。 これまで通りシキの教え方は、十分に丁寧だった。それでも、授業中に一つ変化はあった。これまで、ふと視線が合った瞬間などに、シキは触れるだけの口づけを仕掛けてくることがあった。それを一切止めてしまったのだ。 そうすることが、シキなりのケジメなのだろう。 授業の間中、シキは粛然とした態度を保っていた。それはそれでシキらしい、潔さを感じさせる。けれども、アキラはシキの態度を好ましく思う以上に、鬱屈した感情を抱かずにはいられない。 夜道でシキに襲われかけた日から既に何度か、アキラはシキのことを思いならら自慰をしてしまっている。止めなければと思うのに、欲求を感じると止められなかった。せめて最中にシキのことを考えまいとしても、快楽を感じれば、シキに触れられたことが自然に思い浮かんできてしまうのだった。 被害者は、こちらのはずだ。それなのに、アキラは自慰をしてしまう度、まるで自分がシキを汚しているような気になった。そんな後ろめたさは、シキの潔い態度によって一層強くなった。 *** それから一週間、二週間と経ったが、シキの態度は変わらなかった。決して必要以上にアキラに触れようとせず、『完璧な家庭教師』として振る舞った。そのことに、アキラは内心寂しさを感じていた。 確かに、あの日道ばたで襲われそうになったのは、衝撃的なことだった。けれども、これまでの、遊びみたいな触れるだけの口づけやささやかな接触は、案外、嫌なものでもなかった――今になってそう気づかされる。 もっとも、アキラはそれを認め、シキへの態度を軟化させるような真似はできなかった。なぜならば、触れられるのが嫌でなかったなど――まるで、自分がシキに恋愛感情でも抱いているみたいだからだ。別に同性愛を嫌悪するわけではない。それでも、自分が当事者になっても平気かといえば、そこまで落ち着いてもいられないのだった。 (俺はどうしたいんだろう? シキにどう接すればいいんだろう?) アキラは、何度もそのことを思い悩んだ。 そうするうちにも、七月が訪れた。学園は七月の初めに学期末試験の週間に入り、試験は瞬く間にやって来て、過ぎていった。 試験が終わったとき、アキラは自分の成績にあまり期待していなかった。勉強をするにはしたのだが、頭の中は常に半分ほどシキのことで悩み続けていた。あまり集中できたとは言いにくい。 けれど、驚いたことに、成績は上がっていた。何だかんだで、シキに叩き込まれた内容が頭に残っていたらしい。これには、アキラも素直にシキの家庭教師としての優秀さに関心するしかなかった。 「どうだ? やはり、俺の教え方は良かっただろう」 授業でシキが家に来た日、アキラは返ってきた答案を見せた。すると、シキは自慢そうに言う。このときばかりは、シキは無表情ではなく、まるで自分のことのように誇らしげだった。 それで、アキラは思わず笑ってしまった。 「あぁ、そうだな。あんたのおかげだ」 「……素直で気味が悪いな。これはお前の勉強の成果だろう。俺のせいではない。つまり、俺がいくら教えようと、お前が努力を続けなければ意味がないということだ」 シキは、褒め言葉か忠告か分からないような調子で、言った。それでも、ひどく遠回しながらも褒めているようだったので、アキラは笑いながら素直に頷いた。 そんな風にして、少し心の和むときはあったものの、概ね二人の間にできた妙な距離間は一向に変わらなかった。 (妙な意地を張らずに、今まで通りシキに接すれば良かったんだろうか……だけど、あんなことがあった後では、それも不自然だっただろうし……) アキラは、そんな問いを自分の中で繰り返した。けれど、そんなアキラを後目に、期末試験の終わった学園には、お祭り前のようなうきうきした雰囲気が漂い始めていた。 『学園』は、毎年夏休みの前に、学園祭を行う。学園祭、夏休みと立て続けに楽しみを控えていては、生徒たちが浮き足立つのも無理はない。 学園祭には、全校が参加することになっている。初等部から大学まで一斉に劇や喫茶店など出し物をする。そのため、学園祭は見に来る近隣の住民にとっても、ちょっとしたお祭りのように思われていた。 今年はどんな学園祭になるのかと、学園の内外が期待している。そのため、高等部の出し物を統括する生徒会は、大忙しだった。 そんな中、学園祭までの二週間は家庭教師の授業を休むと連絡があった。しばらく顔を合わせないと分かってで、アキラの不安はまた募った。シキが家庭教師の授業に来られないのは、生徒会長で仕事が忙しいから。分かっている。それでも、その一方で考えてしまうのだ――シキは、自分との授業が嫌になったのではないか、と。 そんな風に不安になる自分が、アキラはひどく嫌なものに思えた。会えばシキの一挙一動も気になって、会わなければシキの内心を邪推して。こんな女々しいのが自分だなんて、考えたくもない。 こんな風に嫌な自分ばかり知ることになるのなら、いっそ前の方が良かったと思った。あの雨の日にシキに会う以前――生きていても死んでいても同じだと思える、無感動な日々を送っていた自分に戻れたら、楽だろうに、と。 (2009/09/19) 目次 |