明けない夜に1
*キツめの暴力表現注意
*性的な描写注意






 ジャラリ。

 ほんの少し動いただけで、はめられた手錠が耳障りな音を立てる。ベッドの上に寝転がっていたアキラは、その音に顔をしかめ、頭を少し持ち上げて手錠を見つめた。手錠の片側はアキラの右の手首、もう一方はあパイプベッドのフレームにはめられ、その間を鎖がつないでいる。
 アキラはしばらくそれを眺めていたが、唐突に右腕を数度大きく振った。
 ガシャン、ガシャン。
 手錠はアキラの動きにあわせて、大きな音を上げるが、外れない。パイプベッドもギシギシ軋むが、壊れる様子はない。疲れたアキラは、腕を動かすのを止めた。途端、右手首に、ひりひりと疼くような痛みが走った。手錠の縁で、皮膚が擦り切れたのだ。同じような傷が、アキラの手首の周囲には既にいくつもできている。それだけが、何度か手錠を外そうとしたアキラの、唯一ともいえる成果だった。
 アキラは苛立たしくため息をつき、再びベッドの上に身を投げ出した。
 見上げれば、頭上にあるのは染みが浮き出たコンクリートがむき出しの天井だ。アキラが閉じこめられたこの部屋は殺風景で、人が生活している気配はない。そんな場所に、もう数日に及ぶ監禁。ベッドの傍の窓をのぞいてみたが、辺りは倉庫のような建物で、その向こうに灰色の海が見えるばかり。助けを求めるにも、人通りがない。
 一体どうしてこうなったのか。
 天井を見ながら、アキラは自問する。
 ――どうしてこうなったのか?そんなの決まりきっている。自分のせいだ。すべて、迂闊だった自分が招いたことなのだ。


***


 悪魔のような男が、本物の悪魔になった。

 アキラがその噂を聞いたのは、場末の酒場で情報収集していたときのことだ。トシマを出て、二年。宿敵と定めたシキを追って裏の世界に踏み込んだアキラは、最早裏の世界の水にすっかり馴染んでいた。
「”あいつ”が悪魔になったって? 頭から角でも生えてきたか? 」アキラは言った。
「俺の話を信じないのか? これは冗談じゃないぞ。お前”あいつ”を……シキを追ってるんだろ。取って食われても知らないからな! 」
 噂を教えてくれた男は、腹を立てたようだった。
 けれど、アキラとしても眉唾ものの噂をそう易々と信用するわけにはいかない。この二年間、アキラは積極的にシキの消息を追い求めてきた。そして、その中には偽の情報も多く含まれていたのだ。
 シキは裏の世界では、ある種カリスマ的な存在だ。他から抜きんでた強さを持ち、ヴィスキオの無敗の王であったことから、自然とそう見なされるらしい。おかげで、シキは鬼か悪魔のように語られる。シキの仕業ではない殺人をもシキが行ったこのにされ、シキ自身が本当に遂行した依頼には背びれ尾ひれをつけて語られる。そのためアキラはシキの消息を追うのには、ひどく苦労したものだった。
 だから、このときアキラが男の言葉を大袈裟に思ったのも、当然のことだった。
 アキラの反応に気を悪くした男は、アキラを脅してやろうと思ったらしい。眉唾ものの噂をいくつか、教えてくれた。それによれば、シキは最近二つの犯罪組織を一人で壊滅させ、もう一つ犯罪組織を乗っ取ってその首領の座に収まっているそうだ。シキは冷酷非情で、部下たちはシキを畏れ崇めているらしい。そして、最近になってそのシキの組織は急速に勢力を拡大しているのだとか。
 あり得ない。アキラはそう思った。
 シキは自身がトップに収まって、権力を拡大して喜ぶようなタイプではない。この犯罪組織乗っ取りの噂は、シキがヴィスキオの王だったという経歴から出ているのだろう。けれど、シキの王という肩書きが名ばかりだったと知るアキラには、はっきり分かった。組織のトップに立つやり方は、シキのやり方ではない。
 結局、また本物のシキの消息はつかめなかった。
 軽い失望のため息と共に、アキラはほとんど手つかずの安酒の代金をカウンターに置いて、席を立った。出口へ向かって歩きかけると、むきになった男の声が背を追ってきた。
「嘘だと思うなら、好きにしろよ。だけどな、シキは乗っ取った組織の名を改名したんだ――ヴィスキオってな」
 その言葉にアキラは一瞬足を止めたが、振り返らずにまた歩きだした。


***


 右手首の擦り傷は、しばらくすると赤く腫れ、熱と疼くような痛みを発するようになった。その痛みを紛らわせたくて、アキラは手首に顔を寄せ、擦り傷を舐める。もちろん、舐めても傷は治らない。けれど、濡れて温かな舌の感触に、ほんの少し痛みが軽くなる気がする。
 手負いの獣のように、傷の出来た皮膚を繰り返し舐めていると、ふと一つの記憶が脳裏に浮かんでくる。その映像にアキラはギクリとした。

 ――唾液をまとった舌――艶やかな赤い色。
 薄い唇の隙間からわずかにのぞくそれが、皮膚の上を這っていく。その思いがけない熱に、思いがけず背筋がぞくりとする。
 こちらの反応に気をよくしたのか。シキは見せつけるように何度も、アキラの手首の傷を舐めてみせた。まるで、獲物を味わう肉食獣のように。
 そのとき手錠は外されていたが、アキラは抵抗しなかった。できなかった。シキに抱かれ、散々達した後で、アキラは動く気力もなくただそれを見ていた。代わりに、アキラは自分を好きに扱うシキを憎み、憎しみの強さの分だけ強く、目の前の光景を脳裏に焼き付けた。

 今でも、鮮やかに思い出せる。
 シキがどんな風に舌を這わせ、どこでわざと歯を立てて傷を作ったのか。そのとき、シキはどんなに愉しげに笑っていたか。
 いつしか、アキラは記憶にあるシキの仕草をなぞり始めていた。シキがしたように自分の手首の傷口を舐め、シキが歯を立てたところで自ら皮膚に噛みつく。その痛みで、アキラは我に返った。
 束の間でもシキに意識を支配されていた自分に腹が立ち、左手でベッドのマットレスを殴りつける。ベッドは軋んだ音を立てたが、それだけだった。
 アキラは寝返りを打って、シーツに顔を押しつけた。そのまま息を吸い込めば、わずかにシキの匂いが嗅覚に触れる。この場にいないはずのシキの存在をリアルに感じて、忌々しさに舌打ちが出た。アキラは横目で窓を見た。窓の外は、日が暮れ始めている。
 じき、夜が来る。
 夜が来れば、シキがこの部屋を訪れるだろう。それはほとんど確信に近い。なぜなら、アキラを生かさず殺さずというのが、今のシキの方針らしいからだ。少なくとも、このまま放置して餓死させたり、脱水症状を起こさせたりする気はなさそうだ。シキは毎日一度、この部屋を訪れ、アキラに水や食料を与える。
 そして、それはアキラにとって、長い夜の始まりでもあった。


***


 シキの噂を聞いたまさにその晩、アキラはシキに出くわした。
 酒場からねぐらへ戻ると、シキがその前に立っていたのだ。突然のことだが、アキラは驚かなかった。トシマを出て二年、アキラは既に二度シキと巡り会い、刃を交えている。シキを捜し求めているのはアキラの方であるはずなのに、いつもシキがアキラを見つけて接近してきた。
 二度闘って、二度とも負け。
 それでも、シキは二度ともアキラを殺さなかった。殺すほどの価値もない、ということなのだろう。代わりにシキは、打ち負かしたアキラを思う様陵辱した。
 初めのとき、アキラはただ身体の奥を裂かれる痛みばかりを感じた。けれど、行為の最中シキの指がアキラの萎えた性器に絡み付き、そこから痛みと快楽が入り混じって、わけが分からなくなってしまった。そして、行為が終わり気がつけば、達していた。
 二度目に抱かれたときには、アキラは自分の中にうねる快楽の波を感じ、その波に呑まれて嬌声を上げさえした。
 シキの姿を目にした途端、そのときの記憶が蘇ってくる。初めて負けたとき、陵辱の仕上げに腹にピアスを穿たれた。その箇所が、じくりと疼くのが分かった。
 性欲にもよく似た疼きだった。
 猛烈な忌々しさと怒りがこみ上げてきて、アキラは刀に手を掛けた。アスファルトを蹴り、疾走。目はシキだけを捉えている。アキラは自分の殺気を、隠そうともしなかった。シキは振り返らないままだが、シキほどの手練れで気配を読むのに長けた男が、こちらの存在に気づいていないはずはない。
 ならば、殺気を隠すのは無意味。
 刃の届くぎりぎりの間合いに踏み込みながら、アキラは抜刀の勢いに乗せてシキに斬りつけた。その瞬間。
 ガキン。
 けたたましい音が辺りに響く。シキはその場に佇んだまま、手にした刀を掲げて鞘の部分で刃を受け止めたのだ。しかし、その視線はいまだに前方に向けられたまま。まるでアキラなど目を向けるまでもない、というかのようだ。
 そんなシキの態度にいよいよ怒りを煽られて、アキラは刀を持つ手に力を込める。
「――刀……抜け、よ……! 」
 アキラが怒りを込めて低く言うと、ようやくシキはアキラへと目を向けた。「フン、ならば俺に抜かせてみせることだ」言うなり、シキは鞘で受けていた刃を、振り払った。
 その勢いでアキラは後方に弾きとばされ、倒れそうになるのを、危ういところで踏みとどまる。即座に立て直す。再び、アキラは地を蹴って疾走した。
 小手先は、通用しない。そのことは、これまでの二度にわたる敗北で、思い知らされている。小手先が駄目なら、真正面から攻めるまでのことだ。
 アキラはシキの間合いに跳びこみ、刀を振るった。精一杯鋭く打ち込むが、シキは易々と鞘でそれを受け、あるいはかわしてしてしまう。躍起になったアキラが力押しに斬り込んでいると、シキは刃を受け流しながらため息をついた。
「所詮、貴様はこの程度か……つまらん」
「何を……!? 」
「聞こえなかったか。俺はつまらんと言った。この闘いも、貴様との茶番も、もうたくさんだ」
 薄気味悪いほど静かに、シキは言う。次の瞬間、シキは鞘で受けていたアキラの刃を、強く押し返した。今度ばかりはアキラも踏みとどまることができず、押された勢いでアスファルトの上に身を投げ出す。
 慌てて起き上がるろうとすると、シキが自分の前に佇んでいるのが見えた。
 シキの白い面に表情はなく、苛烈な光を宿す紅い瞳がただじっとアキラを見下ろしている。その手には、刀――鞘は払われていない。
 負けだ。
 唐突にアキラは悟った。負けたのに、シキはまた自分を殺さず、陵辱して去るつもりなのだろうか。ただ屈辱を与えるためだけに。そんなのは、我慢ならない。
 自分はどうも少しおかしい、とアキラは思った。シキに執着して追い求め、長い時間が経ったせいだろうか。こうしてシキに出合う度、抱かれる度、少しずつ憎しみや殺意以外の何かが育ち始めている。また抱かれれば、そのわけのわからない感情は、また成長して、アキラの中に根を伸ばすだろう。このままでは切り離せなくなる、そんな予感がする。そのことが、アキラには恐ろしかった。
 生かされて、シキに憎しみ以外の感情を抱くようになるくらいなら――いっそ、殺されたい。
「こっちだって……もう、たくさんだ……っ! 」アキラは叫び、シキを見据えた。「あんたは殺す気で来いと言った! 俺と命のやりとりをすると言った!なのに、俺を負かした癖に、どうして命を取ろうとしない? 生温いのはどっちの方だよ!? 」
 すると、シキは初めてそれまでの無表情を崩し、わずかに目を見張った。紅い双眸に浮かんだ驚きの色が、次の瞬間怒りと深い狂気に燃え上がる。
 端正な、けれど凶々しいシキの表情に、アキラははっと息を呑んだ。
 これまでにも、シキの目に宿る意思の苛烈さに圧倒されたことは何度かある。けれど、今、シキの眼差しにあるのは、そのときのように生優しいものではない。これまでに見たこともないような、深く、研ぎ澄まされた狂気――その鋭さに、アキラはその場に縫い止められてしまった。本能でシキへの恐怖を感じているのに、動くことも目をそらすこともできない。
 と、不意に頬に衝撃を感じた。シキが日本刀の鞘の先端で、殴りつけてきたのだ。殴られた勢いでアキラはアスファルトの上に身を投げ出す。そこでようやく、打たれた頬に熱い痛みを感じた。
 苦痛に呻きながらも、アキラは起きあがろうとした。殺せと言ったが、無抵抗で殺されるのは性に合わない。アスファルトに手をつき、状態を起こしたとき、刻むような靴音が聞こえた。カツカツカツ。近づいてくる。シキが傍に立ったことが分かった。
 間を置かず、今度は腹に衝撃。二度、三度と容赦なくシキの靴先が腹にめり込み、アキラは声にならない悲鳴を上げる。そして、とうとうこみ上げる不快感を耐えきれず、アキラはシキの蹴りを辛うじてかわしたその場で、這いつくばって嘔吐した。
 胃の中のものを吐き出して、息をつく間もなく側頭部にシキの蹴りを受ける。その衝撃に、アキラは為す術もなく吐き出したものの上に倒れこんだ。生温い吐しゃ物に片頬を触れさせながら、そのことを不快に思いはしても、拭う力は出ない。吐しゃ物のつんとした臭気に顔をしかめる気力もなく、アキラは虚ろに暗い路地裏の風景を眺めていた。
 ここで死ぬのか、と思った。
 Bl@sterに参加していたときも、トシマでも、ここまで追い込まれたことはなかった。シキと闘ったときでさえもだ。本気で死を予感したのは、これが初めてのことだった。







(2009/06/06)

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