明けない夜に2






 ――ここで、死ぬのか。
 そう思った瞬間、アキラは急に怖くなった。トシマであれほど生々しい死を見て、ケイスケを目の前で失って、トシマを出てからはこの手で何人も殺した。それでも、自分はまだ死ぬということがどういうことなのか、本当には分かっていなかったのかもしれない。
 死ぬというのは、何て――何て痛くて苦しくて惨めなのだろう。絶望する。
 と、次の瞬間、目の前を白銀の光が走った。光は、思考も泥のような絶望さえも切り裂いて、虚ろになりかけていたアキラの意識を引き戻す。アキラが我に返って見れば、目と鼻の先のアスファルトに鋭く輝く刃が突き立てられていた。今日、一度も抜かれることのなかったシキの刀、その抜き身の刃だった。
「満足か」
 上から響きのいいシキの声が降ってくる。アキラは目だけ動かして視線をあげた。が、シキの顔は月明かりの陰になり、表情は分からなかった。
「これで満足したか」
 またシキが言う。
 答えようとするが、声が出なかった。おまけに意識はほとんど闇に引き込まれかかっていて、答えようにも考えがまとめられない。

――あんた、を……殺しに行く、約束……守れ、な……った……よ

 まともに動かない頭で、何かを言えたか。言えなかったか。それすら分からないまま、アキラは意識を手放していた。
 瞼の裏に、シキの刀の輝きばかり焼き付いていた。


 さらさらさらという雨音で、目が覚める。
 目覚めると、そこは殺風景な部屋の中だった。コンクリートが打ちっ放しの天井にはシミが浮き、ベッドの傍の窓ガラスは汚れてくもっている。アキラのいるベッドから、窓の外に見える空は灰色に曇り、雨が降っているものの、夜ではなかった。
 ここはどこなのか。なぜここにいるのか。
 寝起きの頭はぼんやりして、思い出すことができない。辺りを見回そうと身動きしたところで、全身に激痛が走った。そこでようやくアキラは、自分が死にかけたことを思い出した。
「――生きてる……」
 その事実に驚きながら、アキラは自分の身体を見下ろした。そして、ぎくりとする。アキラが身につけているものは、サイズの大きなシャツ一枚きりだった。シャツの裾からは、素足が伸びている。裾をめくって確かめてみる気はしなかったが、下着を着けていないらしい。皮膚の感覚で分かる。
 確か、シキと闘ったとき、自分はレザーのコートと上着、そしてパンツを身に着けていたはずだ。それが、一体何という格好をしているのだろうか。
 アキラは絶句し、とにかく着るものを探そうとベッドを降りかけた、が。ジャラリ。重い音と同時に動きを阻まれる。見れば右の手首に手錠がかけられ、パイプベッドのフレームにつながれているのだった。
「これ、は……」何なんだ、一体。
 と、そのとき部屋の空気が揺れた。
 アキラは、窓とは逆の部屋の奥に、他人の気配があることに今更気づいた。いや、気づかされたのだ。そんな風に完全に自分の気配を消すことができるのは、余程訓練を積んだ人間だけだ。たとえば、シキのように。
 シキがいる。そう直感する。緊張で、背筋を汗が一筋滑り落ちるのが分かる。アキラは、ゆっくりと慎重に背後を振り返った。
 その途端、紅い瞳と視線がぶつかった。戸口の脇に、シキは木箱の上に腰を下ろして、こちらを見ていた。
「――どうして、殺さなかった」アキラは尋ねる。
「死にたくないと、貴様が言った」とシキは応じた。
「嘘だ。俺はそんなこと言わない」
「事実だ」
「いい加減なことを言うな! あんたは勝ったんだから、中途半端なことしてないで、ちゃんとケリを着けろよ。それとも、俺が殺せないのか!? 」
 途端、シキの目に路地裏で見せた怒りと狂気の光が宿る。殺されかけたときの苦痛が脳裏に蘇り、勝手に身体が震え出す。アキラは、理由も分からないまま、かってないほどにシキを恐ろしく感じた。
 それなのに、シキは近づいてくる。
「そうだな……確かに、貴様は命乞いしたわけではない」
 震えるアキラを見下ろして、シキは息を一つついた。
「……俺は何か別のことを言ったのか? 何と言ったんだ? 」
「思い出せないのか。ならば、そのままでいい。――それよりも、トシマでのルールを覚えているか。敗者は勝者に服従すること……今日から、俺が貴様を所有する。いい加減に鬼ごっこも飽きたのでな。貴様はここで俺に飼われるんだ」
「何を馬鹿な……! 」
 あまりの言葉に、アキラはかっとなってシキに掴みかかろうとした。が、動いた途端身体を激痛が駆け抜ける。思わず強く痛んだ腹部を庇うような格好で、うずくまった。シャラシャラと、アキラの微かな身動きにあわせて手錠の鎖が立てる音が、耳へと滑り込んでくる。
「当面は、大人しくその身体を癒すことだ」
 頭上から、冷静なシキの声が降ってくる。
 無性に悔しくなったアキラは、顔を上げてシキを睨んだ。シキのことは、恐ろしいといえば恐ろしい。けれども、ここまで傍若無人な態度を取られると、恐ろしさよりも腹立たしさが先に立ってくる。
「所有って、あんた一体どういうつもりだよ? 何か、あんた今日は変だぞ。何かあったのか? 」
「殺したい相手の心配とは、貴様も奇特な奴だ。貴様は、ただ俺に飼われていればいい――余計なことは、考えずにな」
「無茶言うな。あんた、本当に話が通じないな。この際所有云々は置いとくけど、これじゃ怪我を治せるわけないだろ。せめて、シャツ以外の着るものも寄越せ。じゃないと、身体が治る前に風邪をひく」
 半ば自棄になって、アキラは文句を滔々と並べ立てた。シキは、聞いているのかいないのか、アキラが話している間黙っていたが、やがてふいと部屋を出ていってしまった。


***


 カツカツカツ。廊下に響く規則正しい足音が、シキの訪れを告げている。金属のドアが開閉される音に、アキラはベッドの上で上体を起こした。ほどなくして、シキが部屋に入ってきて、明かりを点ける。その明るさに目を細めながら、アキラはシキを振り返った。
 シキは、毎日夜更けに、この部屋を訪れる。大抵はソリドと水のペットボトルをもって来るのだが、時折その中にアキラの着替えが混じっていることもある。最初に文句を言ったせいか、着替えはきちんとシャツの他、下着とスラックスが用意されている。そういう意味では、待遇は決して悪くはない。
 問題は、この生活がいつまで続くかということだ。運動量が減れば、筋肉が落ちる。ましてや、今のアキラはベッドにつながれ、動くことすら制限されている有様だ。
 シキが用意した拘束具には、手錠と足枷の二種類があった。足枷の鎖は長いので、この部屋の中なら、トイレや風呂場も含めて自由に移動することができる。けれども、手錠の鎖は短くて、動けるのはせいぜいベッドの上くらいのものだ。シキは、腹を立てたり気まぐれを起こしたりして、時々鎖の短い手錠でアキラをベッドの上に縛りつけることがあった。
 昨日もそうだ。シキが抱こうと手を伸ばしてきたのに反抗して怒りを買い、手錠をはめられた。おかげで、アキラは一日中ベッドの上で過ごさなければならなかった。
「主の帰りを待ちわびていたのか? 」
 入ってくるなり、シキはそう言って笑った。そして、ベッドに近づいてくると、傍にある小さなテーブルにソリドやペットボトルを置いた。
 アキラは、シキを睨んだ。シキの瞳の奥底には狂気があり、恐ろしいといえば恐ろしい。けれど、その恐れは既に理由のないものではなくなっていたから、抑えることは難しくなかった。
 シキが狂気を宿すようになったのは、宿敵であったプルミエからニコルウィルスを受け継いだせいだ。監禁されて、シキと親しくなったんわけではないものの、同じ部屋で時を過ごすうちにそんな話もぽつりぽつりとしていた。敵同士だというのに、少しずつ相手について知ることが増えていく。それは、奇妙な感覚だった。
「別に待ちわびてたわけじゃない。困ってたんだ。鎖の短い手錠につないだまま出ていくなって、前にも言っただろ。トイレに行きたくなったらどうしてくれるんだ」
「さて。現状では、ここで用を足すしかないだろうな。何なら携帯用の簡易トイレでも用意してやろうか? 」
「要るか、そんなもの。あんたは至れり尽くせりだけど、何か方向性が間違ってるんだよ。簡易トイレとか考える前に、鎖につなぐなよ」
「断る」
「……だったら、せめて鎖は長いのを使えよな」
 ひとしきり、軽口のような言い合いをしてから、二人でソリドを食べる。食事が終わるとシキは手錠を外し、ようやくアキラは動けるようになった。
 しかし、拘束が外れたといってもほんの一時、アキラが身の回りのことをするための間だけだ。それ以上の自由は、与えられない。シキの目を盗んで逃げることを、アキラは初めから考えなかった。逃げたとしても、気配を読むのに長けたシキには、すぐに分かってしまうだろう。
 ベッドを降りて、アキラは浴室へ向かった。シャワーを浴びて出ていくと、ベッドでシキが転寝している。シャワーは、この部屋で他に楽しみがないから浴びてみたが、この状況ではまるで抱かれるための準備をしたみたいだ。一瞬そう思ってから、アキラは自分の思考を恥じた。
 嫌な状況だと思うなら、ベッドへ近づかなければいい。けれど、抵抗しても結局シキの好きにされることは目に見えている。アキラは内心ため息をつきながら、ベッドへ近づいていった。のぞき込むと、シキは目を閉じている。眠っているのかもしれないし、目を瞑っているだけかもしれない。アキラには判断できなかった。分かるのは、シキが眠ったふりも上手くやってのけるだろうということだけだ。
 しばらくの間、アキラはベッドの傍に立ち尽くしていた。
 今のうちに、シキの首を絞めて殺してしまえばいい。そんな誘惑を強く感じたが、実行はしなかった。もしシキを殺すことが請け負った仕事であれば、アキラもこの機会を逃さなかっただろう。しかし、シキを殺すことは純粋にアキラ個人の望みだ。だから、今このとき、あるいは抱かれている最中に隙を見て、シキを殺したとしても、後味が悪いだけで何の意味も価値もない。
 勝負してシキに勝ってこそ、その勝利に意味がある。シキの生命を奪うというのは、勝利に付随する結果であって、アキラの望みそのものではない。
 それが甘い考えなのだという自覚はあった。アキラの実力では、それこそ姑息な真似でもしなければ、万に一つもシキに勝つことはできないだろう。それでも、シキに勝つことが個人的な望みである以上は、勝ってシキを殺すにせよ負けて殺されるにせよ、納得のいく形にしたかった。
 アキラは、シキの首を絞める代わりにじりじりと後退をした。ドアへ向かい、この部屋を出て、逃げるつもりだった。逃げて身を潜め、シキとの再戦に挑むのだ。
 一瞬、シキが起きていたらどうなるかという考えが、頭を過ぎた。けれど、アキラは逃げることを止めなあった。たとえシキに捕まるにせよ、このまま何もせずに囚われるよりはましだ。少なくとも、意思表示にはなる。自分はまだ心まで飼われているわけではない、という意思表示に――。

「言っただろう、俺が貴様を所有すると」

 不意に、静かなシキの声が響く。アキラははっとして逃げようとしたが、既に遅い。反射神経は格段にシキの方が上で、あっけなく腕を取られてベッドに引き倒される。あっと言う間に互いの身体の位置が逆転し、アキラがシキに見下ろされる格好になった。
 見下ろす深紅の目には、やはり深い狂気が宿っている。もう何度か目にしていながら、またもやアキラはその狂気に恐れを感じた。
「忘れるな。俺はいつでも貴様を殺すことができる。だが、可能な限りそうしたくない」シキはアキラの咽喉もとに、緩く手をかけた。
「何で、だよ……」
「貴様は――そう、手がかりだからだ」
「どういう意味だ? 」
 すると、シキはふと息をついた。そして、顔を背けて視線を逸らし、アキラの身体の上から降りてしまう。ベッドに座り直しながら、シキは窓の外へ目を向けた。
 話したくないのかもしれない。
 このまま黙っているつもりか、とアキラが思いかけたときだった。予想に反して、シキが口を開き、話し始めた。
「ニコルウィルスを宿して以来、俺は過去の自分が分からなくなった。もちろん、記憶はある。だが、その記憶に実感が伴わない。何かを行ったとき、自分がどう感じてそれを行っていたのかが思い出せない」
「意外だな……あんたは、感情なんか不要だと言いそうなタイプだと思ってた」
「あぁ、感情など不要だと今も思っている。感情がなくとも、過去の自分の行動は自分のしたことだという実感くらいはあるだろう。だが、俺にはそれがない。過去の自分が、他人のようだ」
 思いがけない告白だった。いつしかアキラは起き上がり、シキの声に耳を傾けていた。
「その、過去の自分が他人みたいに思えるのと、俺と、どう関係するんだ? 」
「過去の自分が執着したものを追い求めれば、少しは過去の自分に実感が湧くのではないかと思った。だが、俺は過去の俺が追い求めた強さを、既に手に入れている」
「ニコルウィルスのことか? 」
「ウィルスの力を超えることだ。今、過去の俺が執着しながら、この手に収めていないものは唯一つ。貴様だけだ。貴様は、俺が過去の俺を知るための手がかり、だから殺さずにいる。――しかし、今の俺自身は、貴様を殺すことに何のためらいも執着もない」
「……」
 そこで、シキはアキラを振り返った。
「過去の俺は、なぜ貴様に執着した? 」
「……分かるわけないだろ。あんた自身のことだ」
「だろうな……」
 シキは頷く。その面は相変わらずの無表情だが、どこか途方に暮れているようでもあった。
 ふと、アキラは胸に奇妙な感情が湧き出してくるのを感じた。殺し合うだけの自分とシキの関係には不似合いなほど、温かで優しい何か。シキと出遭う度、抱かれる度、きっと自分は胸の内のこの感情の気配を感じて、恐れていたのだろう。今更ながらに、思い知らされる。
 けれど、もう遅い。止まらない。
 気がつけば、アキラはシキへと手を伸ばしていた。両手でシキの頬を包み込み、紅い双眸を正面からのぞき込む。
「過去のあんたの考えは知らない。だけど、要するに、あんたは今の自分が本当の自分か分からないから、怖がってるんじゃないか? ニコルウィルスのせいで、自分ではなくなってしまったんじゃないかって」
「怖い? 俺は恐怖など感じない。ただ、今の状態に違和感があるだけだ」
「どっちでもいい。とにかく、だったら俺をあんたの傍に置けよ。ニコルウィルスがあんたを変えたって言うなら、俺が戻してやる。皆があんたを畏れ敬おうと、俺はあんたに反発して、挑んでやる――今まで通りに」

 だって、あんたを殺すのは、この俺だ。

 睦言のようにアキラは囁く。胸に満ちる温かな感情はいつしか温度を変え、煮え立つほどに熱を帯びている。熱に浮かされるように、アキラはシキへ顔を近づけ、唇を重ねた。








(2009/06/19)

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