千耳6





 自分の街へ戻って、俺が真っ先に向かったのは、自宅ではなく知り合いの闇医者の診療所だった。
 一度師匠の葬式を出したことがあるとはいえ、俺はいまだに人の死を弔う手順など何ひとつ分かっていない。師匠のときだって、何が何だか分からないままに知人の医者や住職に言われるまま走り回り、気がつけば葬式が終わっていたというような具合だった。そのときのおぼろげな記憶から、とにかく初めに医者にアキラの死を確認してもらわなければ、と思ったのだ。
 街に着いたのは朝もかなり早い時刻だったにもかかわらず、俺たちはすぐに診療所に入ることができた。先に連絡を入れていたので、“先生”は夜間の診察を終えても診療所を閉めずに待っていてくれたのだ。あのアキラの死んだ廃墟からずっとシキは遺体を抱いたままで、診察に通されて先生に促されてようやく、アキラの身体を診察台の上に降ろした。
 そんなシキの様子を見て、先生はちょっと眉をひそめ、おもむろに別室で看護師の手当てを受けるようにとシキに言った。そこで、俺は初めてシキが傷を負っていることに気付いた。よく見れば、彼の左肩の辺りの衣服が裂け、皮膚を染める赤がのぞいている。

 アキラがつけたのだろう。生命と引き換えに。

 また胸の辺りから、熱の塊が込み上げてきた。俺はそれを押さえつけて、言われるままに診察室を出て行くシキを先生と共に見送る。シキが出て行くと、先生は手すぐにアキラの死を確認して告げた。
 「――しかし、あんたも辛いだろう。この間<千耳>を送ったかと思えば、今度のこの坊やは…あんたの大切な相手なんだろう?酷い顔色だ。少し休んだ方がいい」
 「大丈夫。今立ち止まったら、しばらく歩き出せない気がするんだ。さっきの男…ちょっとした知り合いなんだけど、あいつ、何だかぼんやりしてるし…俺がしっかりしていないと、何も先に進まない」
 それは自分に言い聞かせる言葉であると共に、自分への言い訳でもあった。
 シキは、純粋だ。喪えば自分自身を壊してしまえるほど一途に、アキラに執着している。
 そういう嘆き方は、俺にはできない。アキラを喪った今でも俺の世界は回っていて、食事時になればものを食べようと思うし、明日しなければならない細々とした家事の予定なども頭に浮かぶ。シキのように、自分の世界をとめてしまうことは、できないのだ。
 その差が、アキラへの想いの強さ、関係の深さを表しているように思えてならない。俺などより、敵対していたはずのシキの方が、余程アキラと深く関わっていた…そう思うと、ひどく惨めな気分になる。だから、いっそ自分はシキとは違って“不純”なのだと開き直って、嘆く代わりに歩こうと思うのだ。
 涙を流す代わりに笑ってみせる俺を見て、先生は不安気に眉をひそめた。
 「――あんたら3人がどういう関係なのかは分からんが、悲しむ形は人それぞれだ。あんたが何を遠慮しとるのか知らんが、さっきの男が深く嘆き悲しんでいるからって、あんたが嘆いちゃいけないきまりなんかない。悲しみの中でも先を見ることができるのは、あんたの強さなんだろうが、無理をするのは、」
 と、そのとき女性の悲鳴が先生の言葉を遮った。待合室でシキを手当てしているはずの、看護師の声だ。一瞬顔を見合わせた俺と先生は、次の瞬間、診察室を跳び出していた。


 待合室に駆けつけてみると、壁際で怯えている看護師の姿が見えた。シキはといえば、相変わらず心ここにあらずといった様子で、長椅子に腰掛けている。その足元には包帯が転がっていて、シキの肩の傷はまだ手当てされていなかった。
 先生が事情を聞くと、看護師は震える声で状況を説明した。彼女が手当てをしようとしたがシキに拒絶され、無理に手を触れると睨まれ――急に恐ろしくなったのだという。看護師は闇医者の下で働いているだけあって、滅多なことでは動じない女性だが、さすがに闇の世界の猛者でも震え上がるシキの殺気には動じずにはいられなかったのだろう。
 俺はシキに言葉をかけようとする先生を制して、ゆっくりとシキの方へ近づいていった。
 「なぁ、その肩、手当てさせてくれないか?」
 「…要らん」虚ろな声音で、それでも、にべもない答えが返ってくる。
 「だけど、いつまでもそのままにはしておけない。本当に手当てするだけだから。お前に何か悪いことをしようなんて、思ってない」
 「要らんと言っている」
 「そういうわけには、」
 手を伸ばして、シキの腕を取ろうとする。と、シキは差し伸べた手を勢いよく払い除け、逆に自分から俺の手を掴んだ。次の瞬間、あっと思う間もなく、足払いをかけられる。俺はシキが座っていたのとは向かい側の長椅子で背中を打ちつけてから、リノリウム張りの床にあお向けに倒れこんだ。
 ぶつかった拍子に長椅子の脚が床を擦り、ギギッと耳障りな音が鳴る。それを最後に、待合室は破りがたい沈黙が落ちた。俺の上にのしかかったシキが、紛れもない殺気と威圧を放ったからだ。それは主に俺に向けられたものであったけれど、闇の世界に関わっているとはいえ荒事は専門外の先生や看護師には、苛烈すぎる空気だったに違いない。
 シキは、俺の咽喉もとに右手を掛けた。途端、その動作の意図を察した先生と看護師が、動こうとする気配が伝わってくる。俺は自分自身身を強張らせながらも、2人に「動くな」と叫んだ。
 「――俺に指図するとは、いい度胸だな。死にたいのか?」
 こちらを見下ろす紅い双眸が、殺気と威圧を湛えて燃えている。視線の強さ苛烈さには身が竦むのに、その鮮やかな紅には見入らずにはいられない。うっかりすると、シキの眼差しに呑まれてしまいそうになる。けれど、俺は目を逸らすことも、眼差しに呑まれて見入ることもしなかった。
 そのいずれを選んでも、負ける。
 理由などないのに、直感に近い部分がそう叫んでいる。だから、俺はシキの視線を受け止めて、逆に真っ向から彼を見据えた。
 「子どもじゃあるまいし、手当てくらい大人しく受けろよ。手当てする手も振り払うなんて、お前、何をそんなに怯えてるんだ」
 途端、紅い双眸がかっと一際鮮やかな怒りに燃え上がった。
 咽喉にあてがわれた手に、ぐっと力が込められる。急激に気道が狭まり苦しくなって、俺はもがきながらも駆け寄ろうとする先生と看護師をもう一度「動くな」と制止した。
 「貴様など殺すことは容易い。分を弁えて、口を慎んだ方が身のためだ」
 「何が…弁えろだ…ふざけんなっ。ちょっと、人殺しが上手いからって…お前が、偉いわけじゃ、ないからな…。――俺とお前は、対等で…指図じゃなくて……提案してるんだ…手当て、した方がいいって……」
 「対等?今の状況を見てからものを言うんだな」
 「――…手当て、しないと…っ……お前、無視して…ひとりで、アキラ…送る、から…な…」
 すると、シキは目を伏せ、咽喉を圧迫していた手を離した。途端、一気に酸素が流れ込んできてむせる。一頻り咳き込んでから上体を起こせば、俺の上から退いたシキはまたぼんやりとその場に佇んでいた。彼の顔からは表情が抜け落ち、先程の殺気も威圧感もすっかり失せてしまっている。炎のように鮮やかに燃えていた双眸は、今やただの紅いガラス玉のようだ。
 急速に指先が冷えていく気がして、俺は指先を強く握り締める。
 恐ろしかった。
 それも、殺されかけたことが恐ろしいのではない。シキという一個人が怖いのでもない。一人の人間から気力が失われていく、そのあまりの変わりように言いようのない恐怖を覚えていた。


 結局、その後シキの手当ては、看護師ではなく先生が行うことになった。俺は先生の処置が終わるまで、ずっとシキの傍に付いていた。まるで子どもに付き添う母親みたいだが、実際にはそんな微笑ましいものではない。万が一、再びシキが手当てを拒んで暴れるようなことがあれば、身体を張ってでも先生を庇うためにしたことだった。もっとも、シキはもう暴れようとはしなかったのだが。
 先生の指示でシキがコートとインナーを全て脱ぎ去ると、下から幾つもの傷痕が現れる。その数や程度は、アキラの比ではない。中でも最も新しいのが、左の首筋から肩にかけてアキラが負わせた刀傷だった。あとほんの少しでも位置がずれていれば、生命に関わっていたかもしれない。シキの肩を染める赤を見ているうちに、俺はなんとも言えない気分になってくる。

 アキラは、この傷ひとつ負わせるために生命をかけた。そして、シキは、敵であるはずのアキラを喪ったために、自ら壊れようとしてる。殺し合うだけの関係で、けれども、互いにそれほどの執着を抱いている。
 どうして、それほど想いあいながら、殺し合うことしかできなかったのだろう。
 もしかしたら、別の方向に運命が転がっていたなら、2人の執着はもっと別の形を取っていたのかもしれない。より深く結びつき、アキラが俺に心を開くことはなかったかもしれない。

 じりじりと胸の中で感情が燻るのを感じていると、不意にシキがこちらへ視線を向けた。虚ろなくせに、やはりどこか鋭さを感じさせる眼差しだった。
 「同情は要らん」
 「…え?」
 「貴様はいかにも痛ましそうな顔をしているが、同情など不要だ。俺とアキラは望んで闘った。そのことに関して、余人の憐憫など受けたくない」
 痛ましそうな顔?果たして、そんな表情をしていただろうか。俺がしていたのは、むしろ――。
 「嫉妬してたんだよ、同情じゃなくて。だって、アキラにとってお前は、勝つために生命をかけてもいいって思うほどの相手だったんだから。俺は、闘えないからそういうのは想像もできない心情だよ…もし闘えたなら、アキラとお前のこと、少しは理解できたのかもしれないけど」
 胸に燻る感情を素直に言葉にすると、手当てを受けながらシキはじっと俺を見据えていたが、やがて目を伏せた。「それを…」と、俺の首から掛かっているロザリオを視線で示す。ロザリオはアキラから預かったものだ。返すまでどこかに紛れないように身に着けて衣服の内側に入れていたのだが、先程揉み合いになったときに、襟元から零れ出てしまったらしい。
 「貴様はアキラにそれを渡されたのだろう…かって、俺が“追ってこい”と言って与えたそれを。アキラは言っていた。コピーではなく、自分自身として闘うことにした、と。そう決心させた一因は貴様ではないのか」
 だから、何だというのだろう。
 多少なりともアキラが俺の存在を心に置いていたという証だから安心しろ、というのか。俺が2人の関係に割り込んだ邪魔者だ、というのか。少し気になったが、シキは既にこちらに興味を失ったかのように、また前を向いている。そこで、俺もそれ以上何か尋ねる気にはなれず、シキの傷口を手当する先生の手を見ていた。


***


 シキの肩の傷は、本来なら縫わなければならないほどだった。けれど、本人が頑として許さず、結局そのときは応急の手当てだけで、後できちんとした処置をするということになった。
 その後、シキと2人でアキラの葬儀のようなことをした。とはいっても、軍がまだアキラを追っていることから、きちんとした葬儀は出すことができない。どうしても、略式に略式を重ねることになる。結局、俺は師匠の知人であった近所の寺の住職にお経を上げてもらい、遺体を荼毘に付してシキと共に骨を拾った。
 その骨が問題だった。
 非nicolというアキラの体質を考えるに、軍は彼の死を知れば骨だけでも研究材料に欲しがるかもしれない。たとえ骨の一片でも軍の手に渡って蹂躙されるのは、俺はどうしても耐えられない。それに、死んでなお軍の研究に利用されるなど、アキラの意にも添わないだろう。
 そこで、俺はシキと相談してアキラの骨を散骨することに決めた。その日のうちに、裏の世界での伝手を使って船を出してもらい、荼毘に付した骨を砕いて全て海に撒いてしまった。手元に残ったのは、アキラの刀とロザリオだけだった。


 そうやって、葬儀の手配に駆け回りながら、俺はひとつのことを恐れ続けていた。即ち、アキラを送ってしまったら、自分も気が抜けてシキのようになってしまうのではないか、ということだ。

 けれど、実際にはそんな暇もなかった。

 簡素すぎる葬儀を終えたその日のうちに、俺は改めてシキを先生の診療所へ引っ張っていった。どうしてもシキが拒むので応急の手当てに留めた肩の傷だが、今度こそきちんと縫合させなければならない。それで強引な手段に出たのだが、シキはアキラを送った直後から目に見えて覇気を失っていて、俺にされるがままになっていた。その翌日からは滞っていた仕事を片付けるのに忙殺されて、気が抜けるどころではなかった。
 そうするうちに、診療所から連絡が入った。シキを押し込んでから、3日目のことだ。一体何事かと駆けつけた俺を、先生は深刻な面持ちで診察に通した。
 用件は、シキの――正確には、シキの精神の――ことだった。
 肩の傷の縫合は上手くいったものの、その前後から彼は抜け殻のようになってしまったのだという。食事にはほとんど手をつけず、呼びかけにもほとんど反応しない。正気を失いかけているシキをこの先どうするか、と先生は俺に幾つかの道を示した。
 俺は、その場でそのうちの一つを選び取った。治療――先生から専門の病院を紹介してもらい、そこにシキを移してカウンセリングを行うという方法だ。シキが抜け殻のような状態であるから、費用は当然俺が持つことになる。
 選択の答えを聞くと、先生は少し戸惑った表情になった。
 「あんたの決断にけちをつける気はないが、あんたがそこまでする必要はあるのか?あの男とあんたは、赤の他人なんだろう?」
 「まぁ、他人といえば他人だけど…袖が擦れ合ったというか、因縁があるというか。――あいつに下らない死に方をされたら、俺が、困るんだ。あいつがこのまま死んだら、アキラが生命をかけて挑んだのが、無意味になる。そんなのは嫌だ。だから、俺が尻を蹴飛ばしてでも、こっちに呼び戻す」
 「――あんたには可哀想だが、あそこまでになってはそう簡単に戻っては来られん。それに、あの男はあの“シキ”なんだろう?廃人手前になっていると知れたら、賞金稼ぎ共が押し寄せるぞ。そうなったら、シキと関わりになっていれば、あんたも、」
 「心配ない。賞金稼ぎ共には手出しはさせない」
 先生の言葉を遮って、笑ってみせる。

 「だって、“シキ”はいなくなる……俺が“シキ”を殺すから」

 それはひとつの賭けだった。
 “シキ”が死んだという偽の情報を流す。そうすることで、賞金稼ぎたちの目を欺く。もしも偽りが明らかになったときには、俺はただでは済まないだろう。報復を受ける可能性がある。そうでなくとも、情報屋というのは信用第一の商売であるから、俺が偽の情報を流したと知れれば全てを失うだろう。<千耳>の後継者として受け継いだ顧客も、信用も、何もかも。裏の世界では、生きていけなくなる。
 損失は計り知れないが、それでも、俺はここで掛けたかった。
 シキを呼び戻すことで、彼はアキラが生命をかけるほどの男であったと証明したい。そして、自分でもそう納得したい。そうすることが、支えてやることができず、共に崩れることもできなかったアキラのために、俺ができるせめてものことだと思うのだ。
 先生は、俺の意図を知るとまず、俺を思い止まらせようとした。そして、それが無理だと悟ると、旧知のよしみでシキのことを口外しないと約束して、小さくため息を吐いた。

 「――<千耳>は義に厚い男だったが、あんたは義に厚いというより情けが深すぎる。裏の世界は合わんのかもしれんなぁ…」


***


 ちょうど近くに専門の治療を行える病院があるといって、先生はシキがその病院に移れるように取り計らってくれた。お陰で転院はすぐにできて、シキがそこに移った日に俺は彼の主治医となる医師から、病状の詳しい説明を受けた。やはり、シキの状態はそう容易く癒えるものではない――下手をすれば、癒えないかもしれない――のだという。そのことは予想していたので、驚きこそ大きくなかったが、暗い前途を再確認する形になって、俺は重い気持ちにならずにはいられなかった。
 シキの病状の進行は、急激だった。
 あっという間に彼は、話さなくなり、ものごとに反応しなくなり、動かなくなっていった。顔からは一切の表情が消え、双眸は意思の光を失ってガラス玉となり、まるで人形のようになってしまった。そんな風であったから、転院して一週間ほど後に、俺は再び主治医に呼び出されることになった。主治医の話では、シキは全く食事に手を付けず、このままでは栄養点滴をしなければならなる、という。

 これが、裏の世界で名を馳せた男の姿なのか。
 こんな男のために、アキラは身の丈に合わぬ背伸びを続けたのか。

 真っ先に感じたのは悔しさと情けなさで、俺は主治医の部屋を出たその足で、シキの病室へ向かった。「“シキ”は死んだ」と情報を流したとはいえ、賞金稼ぎが病院を探し当てないという保障はないので、せめて他人を巻き込まないためにシキの病室は個室になっている。シキひとりベッドにいるそこへ踏み込んで、俺は彼に詰め寄った。
 その日は、いい加減に戻って来いと怒った。
 次の日は、それでもあの“シキ”なのかと挑発した。
 けれど、自分の意思というものをほとんど失ったシキは、ただぼんやりと前を見ていた。かって、傷の手当をさせないと駄々を捏ねられたときもあったが、あのときの方が余程ましだった。反応があったから、まだ説得の仕様もあるというものだ。
 どれだけ罵倒しても挑発しても反応を見せないシキに、俺は途方に暮れてしまった。その次の日は、もう怒る気力もない。だからといって、彼を放っておこうという気にはなれず、俺はまた彼を見舞った。
 そのとき口を衝いたのは、怒りとも哀願ともつかない言葉だった。
 「――なぁ…せめて食べものだけでも食べてくれよ。でないと、お前が死んでしまう。それでいいのか?生命をかけてお前に挑んだアキラに、恥ずかしくないのか?――…俺は…お前みたいな腑抜けにアキラを奪われたなんて…俺は、悔しくて仕方がない…!」
 一向に反応を見せないシキに言い募るうちに、感情が昂ぶってくる。これまで、俺は意思を失ったシキを説得しようとするとき、アキラの話を持ち出したことはなかった。そうすることは、何となく卑怯に思えたのだ。けれど、このときばかりは口を衝く言葉を止めることができなかった。
 昂ぶりきった感情は、とうとう涙となって溢れ出した。最後の一言を吐き出した瞬間、つと頬に伝う感触で、そのことに気付く。一旦零れた涙は留まるところを知らず、次から次へと頬に筋を作って伝い落ちていく。あぁ、どうして止まらないんだ、こんなときに。俺は舌打ちして乱暴に眼鏡を外し、袖口で目元や頬を擦った。
 「――っ…最悪だ…泣くつもりじゃ、なかったのに…アキラのための涙は、墓まで持っていくつもりだったのに……っ…」
 泣いてしまった恥ずかしさと悔しさを紛らわそうと、俺は目元を拭いながら呟いた。ほとんど独り言のつもりだった。だって、シキは話しかけても応えることはないし、もちろん、こちらを見もしない。そのはずが。

 「………アキラ、は…泣いてほしい、と…言った…」

 人形同然のシキと2人きりの病室で、自分以外の人間の声がする。そのことに驚いて顔を上げると、ぼんやりと前方に視線を投げていたシキが、緩慢な動きで顔をこちらへ向けようとしていた。
 「――己の、死を…嘆いてほしい…と…言っていた……だから…泣いてやれば、いい…」
 久しく使われることのなかった声帯から発される声は、ひどく掠れて頼りなげに聞こえる。それでも、言葉そのものははっきりと届いた。
 泣いてやればいい――その言葉が聞こえた途端、また、どっと涙が溢れる。
 「…泣けばいいなんて、簡単に言うんじゃないっ。お前は純粋だからアキラを失って狂うことができるけど、俺にはそこまではできない…アキラを失った悲しみも、泣けば薄れてしまうかもしれない――…だから、泣きたくなかったんだよ!!」
 我ながら、八つ当たりの上にとんでもない屁理屈だと思う。
 それでも自分が止められず、俺は叩きつけるように叫んで、その日は病室から走り去ったのだった。


***


 八つ当たりじみた真似をしたものだから、翌日はひどく憂鬱だった。俺がシキを見舞うのは大抵夕方頃なのだが、この日ばかりは行くのをやめようかと思ったほどだ。けれど、シキの状態は日増しに悪くなっている。ほんの一日会って声を掛けずにいるだけでも、その分だけ彼の意識がより深くへ沈み込んでしまうような気がする。それで、結局その日もシキを見舞うことに決めた。
 その日も、病室を訪れるのは夕方頃になった。俺が病室へ入って行っても、シキは相変わらず反応一つしない。ベッドの上で座って、虚ろな視線を中に投げかけている。
 「…昨日は、すまなかった」
 真っ先に前日のことを謝っても、やはり反応はない。気が抜けたような寂しいような気分になりながら、俺はベッドの傍らの丸椅子に腰を下ろした。

 やはり、どうしたってシキを呼び戻すことはできないのか。

 殆ど諦めに似た感情でそう思いながら、ふと視線をさまよわせる。と、そこで、俺はシキの前にある手を付けられていない夕食のトレーに気付いた。やはり、ひとつも手をつけた形跡がない。
 「――やっぱり、今日も食べてないか…」
 ため息を吐きながら、何とはなしにトレーの上の器を一つ手に取ってみる。もうすっかり冷めてしまっているが、湯豆腐の器だった。
 それを見ているうちに、ふとある思い付きが浮かんでくる。もしかして、シキが食べないのは警戒しているからで、先にこちらが毒見してみれば、安心して食べものを受け付けるのではないか…。自分でも冗談みたいな思い付きだとおもったが、駄目もとで俺はそれを実行に移そうとした。
 シキを呼び戻すことに関しては、未だ何一つ成功していない。どうせ失敗したところで現状維持なのだから、思いつく限りのことを試めしてみても損はないだろう。そう思うと、いつの間にか焦っていた気持ちが、少しだけ軽くなった気がする。
 俺は肩の力を抜いて、反応のないシキに向かって話しかけた。
 「豆腐といえばさぁ、うちの師匠、あんまり好きじゃなかったんだ。俺はすっごい好きなんだけど、あんまり夕飯に出すと嫌がられて…だから、弟子をやってるときは夕飯の支度に苦労したよ。いかに気付かれずに豆腐を入れるかって。ただの具ですって顔でしれっと味噌汁に入れてみたり、麻婆豆腐にしてみたり、白和えにしてみたり。おかげで豆腐料理のレパートリーは増えたけど、俺はやっぱり冷奴か湯豆腐が一番だと思う。だって、豆腐のそのままの味が分かるだろ?」
 もしもシキが正気のときであったなら、下らない話をするなと斬られていたかもしれない。けれど、やはり彼は反応しなかったので、俺は好き勝手に話してから、トレーに載っていたスプーンを取り上げて少しばかり豆腐の端を崩し、口へ運んだ。
 「うん、ここの病院はいい豆腐を使ってる。どこで買ってるんだろ。――なぁ、ちょっと食べてみないか…?ほら」
 一人で頷きながら、スプーンでまた豆腐の一端を掬ってシキへと差し出す。しばらく待ってみたものの、それでもシキは動く気配を見せない。けれど、駄目だったかと落胆しながらスプーンを下ろしかけたとき、僅かに反応があった。シキの頭が少しだけ前に傾き、唇が開いたのだ。
 まさか、シキが食べようとしている?
 俺は驚きに震える手で、シキの口元へスプーンを運ぶ。すると、彼はそれを口の中へ受け入れ、咽喉を動かして嚥下する。そして、緩慢な動作で俺に視線を向けた。

 「――もう…泣き止んだ…か…」

 泣いていた、というのは昨日のことだろう。このところ正常な意識が戻ることが少なくなった彼の中では、時間はほとんど止まっているようなものかもしれない。
 「泣いたのは昨日だよ。一日経てば、さすがに泣き止むさ。――昨日は、八つ当たりしてごめん」
 「――何のことだ……?手が、留守になっているぞ……食べさせる、つもりなら…もっと、寄越せ…」
 シキはこちらの謝罪を綺麗に流して、視線でスプーンを示す。俺の醜態をなかったことにしてくれようとする、彼なりの優しさだったのかもしれない。が、自分で食べられない病人にしては尊大すぎる態度が可笑しく、また食べものを受け付けてくれたことが嬉しくもあって、俺は思わず笑ってしまった。
 笑いながら、シキの口元へスプーンを運んだ。


 もういいと言われるまで食べさせてから、俺はトレーを傍の小さなテーブルの上に置いた。そろそろ仕事に行かなければ、と椅子を立ちかけたとき、うっかり手が当たってテーブルが揺れる。その拍子に、トレーの端に置いていたスプーンが跳ねて転がり落ちた。
 「あっ…」
 拾おうとして屈むと、襟元から銀色が零れ落ちる。シキが与えたという、アキラのロザリオだった。俺はスプーンを拾ってトレーに戻してから、首の後ろに手を回してロザリオの留め具を外した。「そういえば、これ、お前のものだったんだろう?」鎖の部分を持ってシキの目の前に示すと、彼は虚ろな目で、それでも揺れるロザリオの動きを追う。
 「返すよ、これ」
 掛け布団の上に力なく投げ出されたシキの手を取って、その上にそっとロザリオを置く。すると、シキは眉をひそめてこちらを見た。
 「…アキラは、貴様に…これを…託しただろう…」
 「それでも、もとはシキのものだから、シキが持っているべきだ」
 そうすることで、少しでも昔のお前が戻ってくるかもしれない。と、そこまでは言えなかったが、俺は内心そう思っていた。これも成功するあてのない試みではあるけれど、何もしないよりはましではないだろうか。そんな願いを込めて、ロザリオを載せたシキの右手を外側から手で包み込むようにして、そっと指を閉じさせる。
 シキの手は、冷たかった。それでも、死者の冷たさではなかった。
 当たり前のそんなことに安堵しながら、シキから離れて病室のドアへと向かう。ドアを開けながら振り返って、俺はシキに笑いかけた。


 「それじゃ、また明日な」








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