千耳7





 それから2ヶ月ほど、何事もなく穏やかな日々が過ぎていった。
 相変わらずシキは心ここにあらずといった様子で、始終ぼんやりと宙を眺めている。それでも、話しかければ聞いているような素振りをみせることもあるし、ごく稀には言葉も返ってくる。そういう意味では、病院を移って最初の1週間よりはましだと言えるだろう。
 食事に関しても同じことで、シキは出される皿に自ら手をつけることはない。ただ、それは意識して食べものを摂ることを拒んでいるわけでは、ないようだった。意識が自身の内面に沈み込んでしまうため、食事どきになっていることにも、目の前に皿があることにも――下手をすれば身体がエネルギーを要求していることさえ――気付けないという方がより正確なのだと思う。
 だから、このところ、食事時に彼を見舞って無理にでも食事を摂らせるのが、俺の日課になっている。
 一番いいのは、俺が付き添って三食きちんと食べさせることだろう。けれど、仕事があって、それもままならない。俺が病室を見舞えるのは夕方頃だったから、その時間に訪ねて、ほとんど一方的な他愛もない会話をしながらシキに夕食を食べさせてから仕事に行くようにした。もちろん日に一食で大人の男の身体を維持することは難しく、シキは時々栄養点滴を受けなければならなかった。それでも、主治医が言うには、全く食べないよりは余程いい状態なのだそうだ。
 そうやってシキに食べさせつつ、俺も横からつまみ食いをした。言い訳するのではないが、別にそれで自分の夕食を浮かせようとしたわけではない。最初に食べさせたときのやり方がやり方だったためか、こちらが食べてみせないとシキも口にしたがらないようなところがあり、だからつまみ食いには立派な理由があると言える。
 そんなわけで、お相伴に預かる俺は、揚げだし豆腐かほうれんそうの白和えの出る日を楽しみにしていた。それから、ときどき付くフルーツやゼリーなんかのデザートも心待ちにしていた。シキは甘いものを好まないらしく、デザートは確実に俺がもらえることになる。クリスマスに出されたケーキすら、彼は少しも口にしなかった。これは、子ども時代を大戦中に菓子類をぜいたく品として過ごした俺からすれば、ちょっと信じられないことだった。


 しばらく病院に通ううちに、看護師の女性の何人かと、挨拶を交わす程度の顔見知りになった。その中に、まだ若い、清楚で大人しい感じの女の子がいる。俺は彼女のようなタイプが好きで、ふといつもの一方的な世間話のついでにそれらしいことをシキに言ったことがある。
 そのとき、彼は珍しく表情を動かして、眉をひそめてみせた。
 「――貴様は、アキラのものだったのだろう?」
 「ものじゃない。まぁ、言いたいことは分かるけど。――言っておくけど、俺はアキラだから好きなんであって、男が好きなんじゃない。女の子を見て可愛いなと思うし、いつかは家庭を持ちたいと思うこともある。それって、自然なことじゃないか」
 「――アキラは、気が気ではなかったろうな…」シキはふっとため息を吐いた。
 「なっ…俺は別に、具体的に女の子と付き合おうとしたわけじゃ、」
 「だとしても、自分の所有物が所有物でなくなることを考えているなど、気分のいいものではない」
 「だから、ものじゃないって言ってるのに」
  先程と同じ反論をしてから、俺はふと口を噤んだ。ものとか所有物とかいう表現を恋人と置き換えれば、シキの言うことは正論には違いない。それは分かるのだが、このまま口を開けていれば、「こちらの気も知らないで正論を唱えて」と思わずいじけた言葉が跳びだしそうだったのだ。

 妻と子どもがいて、暖かな家庭があって。
 それが日常だと、本来の幸福の形だと自分に言い聞かせていなければ、忘れそうだった。
 忘れて、いつまでもアキラを傍に引き止めてしまいそうだった。

 裏の世界でアキラがシキの真似をして生きていくことは、決してアキラにとっていいことではないと思っていた。彼の心は、時々軋んで折れそうになっていたのだから。いつか機会があれば日の当たる場所へ戻るのがいいと、俺はそう信じていた。もしそのときが来れば、背中を押してやろうと決めていた。
 そうして、アキラが表に戻ることがあっても、俺は裏の世界に留まらなければならない。だって、俺は<千耳>と呼ばれた男の跡目で、裏の世界で自分がする仕事を誇りに思っている。裏の世界に留まり続けるなら、表の人間との接触は(相手のために)いいことではない。それに、男同士の関係というのは裏の世界でこそ黙認されているが、表の秩序だった中ではそうもいかないだろう。
 たとえ不仲にならなくても、そういう形でいつか別れは来るもので。
 そのときが来たら、笑って手放さなければならない。
 アキラとの関係をはっきりさせなかったのは、自分への言い訳であると共に、その辺の理由もあった。別れが来たときに、はっきりと恋人であると関係を決めていなければ、まだやりやすいから、と思っていたのだ。

 もっとも、そういう形のアキラとの別れはもう来ないけれど――。

 黙っていると、不意にシキがベッドから身体を起こして、手を伸ばした。どうするのか、と思っていると、食事が終わって脇のテーブルの上に片付けたトレーの上から、手付かずのゼリーを取り上げる。いつもなら俺が食べているところなのだが、今日はトレーを一旦テーブルに置いたところで先程の話が始まって、珍しくシキも口を挟んだためにまだ食べていなかったのだ。
 シキは取り上げたゼリーを、椅子に座った俺の膝へ落とした。
 「え…?」
 「貴様の取り分だろう。それをやるからさっさと帰れ。貴様の腑抜けた面など、見たくもない」
 などと、彼は慰めているのか突き放しているのか、よく分からない言い方をする。果たしてどう返せばいいのか、と戸惑ってしまった。が、もうそろそろ去らなければならない時間になりつつあったので、いつまでもそうしているわけにもいかない。俺は結局素直にゼリーの礼を言うと、食べている間がないのでコートのポケットに入れて、腰を上げた。


***


 あわただしく病室を出ると、ちょうど廊下でシキとの話に出た例の看護師の女性と行き会った。すると、彼女の方から穏やかな笑みを浮かべて、「こんばんは」と言う。
 「あの方、今日もちゃんと食事をされました?」
 「ちゃんとしてました…量はやっぱり多くないけど」
 「よかった。私たちがあなたのようにあの方に食べさせようとしても、受け入れてもらえなくて。患者さんを預かる方としては不甲斐ないことですけど」
 こんな綺麗な人が、食べさせようとしたのか。
 そう思うと、食べさせてもらえるシキが羨ましく、少しばかり腹が立ってくる。食べないならシキが自分と代わってくれればいいのに、とまで思ったとき彼女のとんでもない発言が耳に跳び込んで来た。
 「あの方、やっぱりあなたでないと駄目なんです。お2人は、本当に仲がいいですよね。食べさせてあけてるところなんて、新婚さんみたいで微笑ましくて」
 「し…新婚…!?」
 俺は思わずその場に膝を突きそうになった。一体何の因果で、シキと新婚みたいだなどと言われなければならないのか。それも、俺の好みのタイプの女の子から。
 顔を上げて看護師を見ると、彼女は他意も含みもない面持ちでにこにこと微笑んでいる。ここで妙に反応するのも不審かと思い、俺も少し引きつっているであろう笑顔を返した。


***


 けれど、穏やかな日々は終わろうとしている。
 手元に入ってくる情報のうちの幾つかから、俺はそのことを感じるようになっていた。その情報によれば、軍はアキラが失踪したために彼と接点のあった人間を捜しているのだという。俺はアキラとの繋がりを特に隠し立てたことはなかったから、いずれ軍は俺に辿り着くだろう。
 本来なら、ここは逃げて身を隠すべきだ。
 けれど、結局そうしなかった。というのも、俺が遠くへいけばシキに食事を摂らせる者がいなくなってしまう。あんな状態のシキを、放ってはおけない。
 あと少しだけ。もう少しだけ。
 そうやって隠れることを先延ばしにするうちに、穏やかな日々の終わりが訪れた。


 1月の半ばのある日のこと、俺はいつものバーの片隅の席にいた。仕事で依頼人に情報を渡して別れた後のことで、ひとりきりだった。店内にはそこそこ客が入っていて、賑わいをみせている。そういえば友人である情報屋も来ているかもしれないと思い、店内を見渡したところで、俺はふと違和感を覚えた。

 ――見られている。

 入り口付近のボックス席に座る男2人が、どうもこちらの様子をうかがっているようなのだ。といって、もちろん、あからさまにこちらへ視線を投げてくるわけではない。それでも、背中を向けていても余所を見ていても、2人の意識は常にこちらを向いているような印象を受ける。
 男たちは、どうやら、普通の客ではないようだった。
 一見普通の客と何ら変わりないのだが、それにしては妙に隙がない。かといって、裏の世界に関わる者であるにしては、崩れた雰囲気がない。となると、密偵をしている警官か軍人といったところか。
 俺は静かに息を吐きながら、カウンターに向き直った。
 あの男たちは、おそらく、軍の方だろう。アキラと接触のあった者を辿って、とうとう俺に辿り着いたのだ。

 「

 唐突に、カウンター越しにマスターが俺の名を呼ぶ。
 「あんた、飲みすぎなんじゃないのか?顔色が悪い。ちょっとトイレへでも行って来たらどうだ?」
 俺は仕事の関係で人に会うときには基本的に付き合いで以外酒を口にしない。今日も客と会っていたので、まだ、飲みすぎるほどにも酒は飲んでいない。そのことは注文を取ったマスターも承知のはずだ。それでもマスターが敢えてそういう言い方をしたのは、注意というよりは席を立つための誘い水を向けてくれているということなのだろう。
 視線が合うとマスターは、目だけで頷いてみせる。そこで俺も小さく頷き、席を立った。
 「ほんと、ちょっと飲みすぎみたいだ…行ってくる」
 わざとそう口にして、カウンターを離れ、店の奥へと歩き出した。


 この店のトイレは、奥の従業員控え室の傍にある。狭い廊下をそちらへ進んでいくと、トイレの手前にある従業員控え室のドアが開いて、カウンターから回ってきてくれたらしいマスターが俺を控え室に招き入れた。
 「あの2人、あんたを監視してた…裏の人間じゃないな」
 「多分軍だと思う」
 「あんたのことだ、自分に手が伸びてることくらい分かったはずだ。何で逃げなかった?」
 「――…置いていけないものがあったから」
 「だからって、自分の身を犠牲にするなんて馬鹿なやり方だ。…さっき店の者に覗かせたら、表にも不審な車が停まってたらしい。案内するから、裏口から逃げな」
 「だけど、マスター、そんなことしたら、」
 「“だけど”を言うのはなしだ、坊や。<千耳>に、あんたのことを宜しく頼むって言われてる。遠慮はしなくていい」
 言うが早いか、マスターは先に立って店の奥へ進んでいく。そして、裏口のドアの前まで来ると俺をその場で待たせて、ひとりで先に外へでた。様子を見に行ってくれたのだ。そして、マスターはすぐに深刻な表情で戻って来ると、首を横に振って見せた。
 「駄目だ。裏口にも怪しい車が停まってる。こうなったら、トイレの窓くらいしか…」
 「いいよ。マスター、ありがとう」
 思案するマスターに、俺は明るく言った。
 ここまで本格的に包囲されているということは、軍は本気で俺を捕らえようとしているのだろう。となれば、下手な逃げ方をする方がかえって危険だし、逃亡を助けてくれたマスターにまで害が及ぶかもしれない。そんなことになっては――まだここにいたいという我が儘の末に他人を危険に巻き込んだとあっては――あの世の師匠に怒鳴られてしまう。
 ふと懐かしい師匠の怒鳴り声が思い出されて、俺は苦笑しながら隠し持っていた銃を取り出した。そして、それをマスターへ差し出す。
 「逃げる手伝いはいいから、マスター、ひとつ頼んでもいいかな?明日の朝9時になっても俺がこの店に電話しなかったら、俺の知り合いにこの銃を見せて、伝えてほしいことがあるんだ――」


***


 再び店内へ戻ると、俺はいつも通りに会計を済ませて店を出た。
 今は1月。ちょうど1年のうちでも最も寒い時期だけあって、外の空気は衣服に覆われない部分の皮膚を切り裂くのではないかと思えるほどに冷たい。はぁ、と大きく息を吐けば吐息は白く濁り、すぐに冷たい大気の中へ拡散していく。俺は子どものように店の前でしばらく白い吐息を見ていたが、やがて繁華街のビルの合間にのぞく夜空を眺めながら歩き出した。
 夜空には、派手やかなネオンに霞みながらも、星が点々と慎ましげに輝いている。もう少し建物の少ないところまで出たら、星座のひとつも見つけられるかもしれない。
 以前、こうして星を見上げながら、アキラと共に歩いたことがある。アキラが全く星座を知らないというので、小学校のときに習い覚えた簡単な星座を2つ3つ指差して教えたら、ひどく感心されたものだった。あれは、昨年――いや、もう一昨年になるのか――の大晦日のことだ。
 そのアキラが、今はもういない。
 そう思うと、唐突に言いようのない寂しさに襲われる。熱の塊が胸から込み上げて、目蓋の裏がじんと熱くなる。アキラの死を受け入れてこの手で弔ったのに、もう悲しみの波は過ぎ去ったと思ったのに。
 親しい相手を亡くすというのは、その死の直後に悲しんで終わりということではないのだろう。時間が経っても、こんな風にふとした瞬間に寂しさが蘇ることがある。そういうものなのだろうと師匠を亡くしたときに知ったはずだったのに、忘れていた。
 悲しみは、確かに、いつか薄れていくだろう。時間が流れていく限りは。シキのように、自分の時間を止めでもしない限りは。それでも、アキラの存在もそれを失った悲しみも、消えてなくなるわけではない。日常という水面に顔を出さなくなるだけで、確かに自分の中にある。
 だったら、シキの一途さと張り合うのではなく、頑なに悲しみを終わらせようとするのでなく、俺は俺としてアキラを失ったという寂しさを抱いていけばいい。ふと、そんな風に思った。同時に、肩の力が抜けた気がした。


 目蓋の裏の熱を空を見上げることで遣り過ごして、俺は繁華街を突っ切って自宅のある街外れの方へ歩いていく。もしも軍が接触しようとするなら、人目の多い繁華街は避けて、人通りの少ない場所で行うだろう。
 (となると、この先の公園の前あたりか…?)
 見当をつけながら歩いていると、予想通りに小さな児童公園の前に差し掛かったとき、背後から車のエンジン音が聞こえてきた。と、同時に目の前の路地から威圧的な雰囲気の男が2人現れる。
 (…予想通りだな)
 自分の見解が当たったことに軽く満足感を覚えながら、俺はその場で足を止めた。すぅと冷たい空気を肺一杯に吸い込む。先程の繁華街では酒や食べ物や残飯などの雑多なにおい掻き消されていたが、今吸い込んだ空気ははっきりと冬の夜の甘い匂いがした。
 そうするうちにも背後で車の停まる音がして、俺はゆっくりとそちらを振り返る。
 停まった車のドアが開き、中からコートを着た男が降りてくるのが見えた。街灯に照らされたその男は俺とさほど変わらない若さで――思いがけないことに、見覚えがあった。が、用件が予想できるだけに、無防備に驚いて見せるのも癪で、努めて無表情を保つことにする。
 「国民番号11053−HA−6703。君が接触を持った人物について、教えて欲しいことがある。来てもらおうか」
 かって俺を犯した上級生は、高らかにそう告げた。


***


 『――知り合いは、入院してるんだ。病院は診療所の先生が知ってる。病院に行って、そいつにはもう会いに行けなくなったと伝えてくれ。だから、自分で歩けと。…俺が消えたとかそんなことは絶対に言わないで欲しい』

 翌日、午前9時になっても、マスターの元に電話が掛かってくることはなかった。
 マスターは、すぐに知人の闇医者からの“知り合い”がいるという病院を聞き出した。マスターと同じく<千耳>の知人であった闇医者は、マスターからが消息を絶った話を聞くと、遣り切れないといわんばかりのため息を吐いた。
 「<千耳>にあの子のことをくれぐれも頼むといわれていたのに、何もできんなんてなぁ…」
 闇医者がそういう気持ちも、マスターにはよく分かる。
 <千耳>は、裏の世界の界隈ではその名を知らぬ者がいないほどの情報屋だが家族というものに縁が薄く、随分と寂しい思いもしたようだった。それで家族に注ぐ分の愛情を情報屋としての仕事やそれに関わるものに注いだようなところがあるが、という弟子を得て身辺が賑わってからは楽しそうだった。<千耳>は細心を払って彼を後継者として育てており、死期を予感したとき知り合いであるマスターや闇医者に、くれぐれも頼むと頭を下げたものだ。
 <千耳>が頼むと言っていたにも何もしてやれなかったのだ、せめての頼みくらいは聞いてやりたいとマスターは思っていた。


 しかし、闇医者から教えられた病院へ行き、件の人物の病室へ入ったとき、マスターは言葉を失わずにはいられなかった。そこにいる患者に、見覚えがあったからだ。漆黒の髪、紅い瞳、整った顔立ち。まるで人形のような虚ろな目だが、それでもかっての面影がある。
 「あんただったのか…――シキ」
 かって<千耳>の元にいたことのある青年。<千耳>に拾われ、闇の世界の作法を教えられ、けれども義理や情に重きを置く<千耳>を理解できないと去っていった。その後、いつからか青年は裏の世界で名を挙げ、一部の者には鬼のように恐れられるようになった。
 マスターも折に触れてはその噂を聞いていたが、このことろは目撃したという者もなく、死んだという話も出ていたはずだ。
 「あんた、生きていたのか…。――…そうか、あの子が…」
 “シキ”の死の情報を流したのは、きっとなのだ。そうすることで、怨恨や賞金目的で“シキ”を狙おうとする者たちを遠ざけ、廃人になってしまったこの男を守ろうとしたのだろう。なるほど、は若いながらも<千耳>の後継者ということで信用があるから、誰もさほど疑いはしなかったのだ。

 あぁ、これは何の因果だ。
 <千耳>の元を去っていった男を、<千耳>の弟子であるが守るなんて。

 思わず心の中で呟きながら、マスターは預かった銃を取り出してから言われた通りの内容を告げる。が、シキは全く反応を見せない。ベッドに座って、ただ前方に虚ろな視線を投げかけている。
 大き目の声で呼びかけても、肩を揺すっても、反応はない。
 とうとうマスターは諦めて、病室を後にした。廊下に出たところで、ちょうど若い看護師と行き違いかける。すると、彼女はシキの病室から出てきたマスターを見て、目を丸くした。
 「あら、珍しい。ご家族の方ですか?」
 「いえ…知り合いから、友人の様子を見てきて欲しいと頼まれたんです」
 「知り合いって…もしかして、毎日来てくださる若い男の方ですか?あの、眼鏡をかけている…」
 「多分それが知り合いです。しかし…彼は毎日来ていたんですか?」
 マスターは驚き、思わず尋ねた。
 どうしてがシキを庇おうと偽の情報を流したのかも分からないが、毎日見舞っていたというのも信じられなかった。マスターの知る限り、これまでにがシキと何らかの接触を持っていたことはない。
 一体何がどうして2人が知り合い、がそこまでの献身を示したというのだろう。
 そんなマスターの驚きも知らずに、看護師は答えた。

 「えぇ…毎日いらしてましたよ。そこの病室の方は、彼にしか心を開かなくて。食事も、彼の手からでなければ受け付けないような状態でしたから」

 それを聞いた途端、マスターは居ても立ってもおれなくなって、身を翻した。驚いている看護師を尻目に、真っ直ぐにシキの病室へ駆け戻る。
 先程の看護師の言ったことが真実なら、は軍の手が迫るのを知りながら逃げなかったのは――。
 病室に駆け込むと、マスターはシキの肩を掴んで揺さぶった。
 「いい加減に目を覚まさないか!あの子は…は軍に捕まったんだぞ。軍の手が迫ってることを知りながら、は、あんたを捨ててはおけずにわざとここに留まったんだ。――なぁ、目を覚ましてくれ…あんた、あの“シキ”なんだろう?起きて、あの子を救ってやってくれよ…!!」
 思わず哀願の言葉が零れるが、それでもシキは反応しない。しばらく反応しないシキの肩を揺さぶり続けたマスターだが、やがて諦めて背を向けた。そのとき。

 「――…か…せろ…」

 掠れた声が耳に届き、マスターははっと振り返る。
 すると、前方に虚ろな視線を投げていたはずのシキが、緩慢な動作でこちらを振り向くところだった。どこかぼんやりとした紅い瞳はガラス玉のようで、けれども、時折その奥底に僅かに意思の光がのぞく瞬間がある。
 シキはマスターを見据え、言葉を発した。


 「――話を…聞かせろ……」








前項/次項
目次