5.(ED2)
ここから連れ出してやる、と言ったグンジは、すぐに準備に取りかかった。呆然とする私やアキラを尻目にいそいそと動く。テレビの電源を落とすとその傍の金庫を開け、中から私のナイフと携帯電話を取り出した。この部屋に来たとき、取り上げられてそこに保管されていたのだ。ぽんと無造作に投げ寄越されたそれらを受け止め損ね、私は屈んで拾わなければならなかった。 「鈍くせぇ奴」グンジがからからと笑う。 そこで私はようやく我に返った。グンジには、聞かなければならないことが山ほどある。 「あの……連れ出してやるってどういうことです? 」 「だから言っただろー。シキティのとこに、オメェらを連れてってやるよ」 「どうして。あなたはヴィスキオの人間でしょう? そんなことしたら、罰を受けることになるんじゃ……」 「そうだ」アキラも言った。「あんたがそういう立場にある以上、連れ出してやるってのも信用できない。俺達が逃げないか試してるんじゃないか? 逃げたら殺す気なんだろ」 「試すぅ?んなことして、何の得があんだよ? どうでもいいしー」けらけら笑いながら言ったグンジは、そこでふと真顔になって私たちを見た。「俺はいい加減飽きたんだよ。ジジもいねぇ今、ヴィスキオにいる理由なんか何もねぇ」 キリヲがいないならば、ヴィスキオに留まる理由もないから、辞める。そう決めたからには、アルビトロの命令に従ってやる義理もないのだと、グンジは言った。 その言葉に、アキラも納得した様子を見せる。 「そういうことなら、俺たちにも分かる。だけど……そもそも、何で俺たちを連れ出してくれるんだ? あんた一人で逃げた方が、よほど楽だろうに」 すると、グンジは視線を伏せ、わずかに口の端を持ち上げる。今まで見たこともないようなひっそりとした微笑を浮かべ、そういうわけにもいかないのだ、と言った。 「“あいつ”は、そういうのには、きっといい顔しねーから」 あいつとは、キリヲのことだろうか。違うような気がしたが、私はあえて尋ねようとはしなかった。そうする間もなく、私たちはグンジに急かされ、応接室を後にしたのだった。 廊下に出ると、グンジは私とアキラの先に立って歩きだした。 城という名に相応わしく、幅の広い廊下は真っ直ぐに伸びている。端から端まで歩けば、それなりに距離があるだろう。それを進んでもうじきつき当たりに行き着くというところで、廊下の角からふらりと現れたシルエットがあった。 茶色のカーディガンを羽織った、背の高い男。その男に、私は見覚えがあった。nだ。 nはゆっくりとこちらを振り向いた。その紫の瞳が、焦点があっているのか分からない、ぼんやりとした視線をこちらへ投げかけてくる。 と、私たちの傍で、グンジがその視線に反応した。わずかに体重を移動させ、いつでも闘える状態に姿勢を変化させたのが分かる。そして、何よりもグンジの瞳が、好戦的な光をたたえていた。 まずい。私ははっとして、グンジのパーカーの裾を引いた。 「やめて下さい。あの人は、」 「オメエは下がってな。アイツには、こっちも借りがあるんだ。俺らを邪魔するってぇんなら、黙ってられねー」 「待って。あの人は、敵じゃない」 何とかグンジを引き留めたい一心で、私は言い募った。 nの過去や今までの行動を考えるに、この場でnが私たちに敵対する理由はないはず。少なくとも、nはアルビトロ側ではない。この場に現れた目的は、何か他にあるはずだ。 理由がないなら、nとは争うべきではない。nはトシマに多くいるイグラ参加者とは違うのだ。闘って危うくなるのはグンジの方に決まっている。そのことは、以前<城>へ侵入したときに闘って、グンジ自身も分かっているはずなのに――。 そのとき、臨戦態勢に入ったグンジの前で、nが口を開いた。 「探していた……俺の対なる者……共に行こう……」 「こいつらに手ぇ出すんじゃねぇ」 「やめて、グンジ!」 対峙する二人の間に、私は割って入ろうとした。けれど、グンジに腕を掴まれ、彼の後ろへと引き戻される。その勢いでよろめいた私を、後ろにいたアキラが抱き止めてくれた。 そうする間にも、グンジとnの間の空気に緊張感が増していく。 「……邪魔するなら、排除する」 「上等だ。この間の借り、返してやるよ」 もう一度私は二人の間に入ろうとしたが、今度はアキラに引き留められた。「やめろ!巻き込まれたら、あんたまで危ない」そう諭される。アキラの腕は振り払えないほど強く身体を拘束していて、私はただ見ていることしかできなかった。 最初に動いたのは、グンジだった。身を低くして疾走し、あっと言う間にnに迫る。鋭く鈎爪を閃かせ、果敢にnに斬りつけた。 nは繰り出される攻撃を、ふらりふらりと避ける。まるで夢を見ているような覚束無い動きだというのに、グンジの攻撃はかすりもしない。 傍目には、優勢にあるのはグンジのように見える。けれども、いつまでも決定的な一撃が決められないことに、グンジは焦れ始めているようだった。 「いい加減に、しろよ!」 叫んで、高く掲げた鈎爪を右上から左下へ振り下ろそうとした、そのときだった。これまでグンジの動きに合わせて避ける一方だったnが、初めて自分から動いた。 nは、斬りかかるグンジに向かって、危ういほど無造作に跳びかかっていく。そして、二人が交差したかに見えた。直後、nとすれ違ったグンジの身体が、ガクリと大きく傾いた。 一体何が起こったのか。 とっさに理解できず、束の間私は呆然と目の前の光景を見つめていた。 グンジが廊下へ崩れ落ちていく。対して、nは揺るぎなくその場に立っていて、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。nの手には、抜き身のナイフが握られていた。だらりと地に向けられた切っ先から、ぽたりぽたりと赤い雫が滴り落ちる。 赤い雫――グンジの血、だ。 私は引き留めるアキラの腕を振り切り、駆け出していた。脇目も振らずに、nの横をすり抜ける。nの方も、私に構おうとはしなかった。 短い距離を駆け抜け、倒れたグンジの元へ近づく。すると、うつ伏せに倒れた彼の身体の下から、流れ出した血がじわじわと廊下に広がっていくのが見えた。 傷がどこにあるのかは分からないが、出血の勢いが強いことは確かだ。 「グンジ……グンジ……!」 顔を近づけて呼べば、グンジは閉ざしていた目蓋をゆっくりと上げた。――良かった、生きている。けれども、その顔からは血の気が失せ、青ざめている様がはっきりと見て取れた。 死相が出ている、と感じた。 それが分かるほど、私はこの街で人の死を見ていた。それでも信じたくなくて、不吉な直感を打ち消して大声で話しかけた。まるで、そうすればグンジを死から遠ざけられる、とでもいうかのように。 「グンジ……大丈夫だからね!傷はそんなに大したことないから……!」 私は、浅はかで無力だった。 自分の傷がどれほどのものか、私などよりもグンジの方が余程分かっているだろうに。彼はこれまで闘いの中に身を置いてきたし、処刑人としてトシマで多くのイグラ参加者の死に関わってきたのだから。 グンジはぼんやりとこちらを見ていたが、やがて身体の前に投げ出していた右手を持ち上げようとした。けれど、装着した鈎爪の重みで、腕が持ち上がらない。慌てて鈎爪を固定しているベルトを外してやる。 すると、グンジは自由になった腕を持ち上げ、指先で――私の頬に触れた。 「……そんなカオ、すんなって……なぁ……ネズミ」 死に瀕したグンジの目は、私に向けられているのに、私を見ていなかった。どこかぼんやりとした眼差しの焦点は、私を通り越して、何か別のものに合わせられているかのようだ。 グンジは、を求めている。私ではない。そう感じた。として傍にいられないことを、私は申し訳なく思った。申し訳なさで胸が一杯になって、気づけば涙が頬を伝っていた。 「泣くなよ……ネズミ……オメェが泣くと、どうしていいか……分からなくなる……」 「駄目、喋らないで。傷に障る」 たしなめたが、グンジは聞かなかった。 「……なぁ、笑えよ……笑ってるのが、一番なんだ……オメェはさぁ……なぁ、ネズミ…………””……」 グンジは笑みを浮かべながら、ゆっくりと目を閉じる。その身体からがくりと力が抜け、彼の頭は血溜まりの中に落ちる。頬に添えられた指先が滑り落ちていくのを掴まえて、私は名を呼びながら彼の肩を揺さぶった。けれど、グンジは一向に目を開けようとはしない。 嘘でしょう、と私は呟いた。声は掠れて、吐息のようだった。手を伸ばして彼の首筋に触れても、脈も感じられない。信じられなかった。グンジが、もう目を開けることはないなんて、信じたくなかった。グンジは、処刑人として多くのイグラ参加者の生命を奪った。それ以外にも人を殺していただろう。それでも、私にとっては、どうしても憎めない相手だった。 『オメェはさ、もし俺が危なかったら、庇うか?』 以前アキラを見逃して貰ったとき、グンジと交わした会話が、脳裏によみがえる。あのとき、私はグンジに危ない目に遭うときなどないだろうと思っていたけれど、結局、彼は死んでしまった。 結局、私はグンジを庇えなかった。グンジは、私を守ろうとしてくれたのに――。 私はグンジの大きな手を両手で握り締め、額へと押し当てた。彼に心配させまいと堪えていた涙が、せきを切ったように溢れてくる。同時に、咽喉から悲鳴が迸った。 「グンジ……グンジ……いやああああぁぁっぁ……!」 *** ゆっくりと歩いてくる茶色い髪の男は、真っ直ぐにアキラだけを見つめていた。確か、はnと言ったか。nは脇をすり抜けていくには構わず、遅れて彼女を追おうとしたアキラの前に立ちふさがった。 nを目の前に、アキラは無視することも押し退けることもできなかった。ただ、相手を見据えることしかできない。 この男は、あのグンジさえ一瞬で倒したのだ。その気になればアキラを殺すことなど、わけないだろう。そんな相手と対峙している緊張感に、背中を冷たい汗が滑り落ちていく。 nは、ナイフの血を払うと、刃を鞘に納めた。そして、柄をアキラの方へ向けて、差し出してくる。よく見れば、ナイフはアルビトロに没収されたはずの、アキラ自身のものだった。 受け取れ、ということなのだろう。 迷った末にアキラは、ナイフへ手を伸ばした。そして、柄に指先が触れた瞬間、ある光景が脳裏にフラッシュバックした。 『寂しいの?』 『俺が一緒にいようか?』 ベンチに腰掛けた男が、自分を見上げる。 アキラはその男に見覚えがあった。今よりも若いが、これは――nではないのか。 『約束。俺、嘘つかないから――』 記憶の中で、nがナイフを差し出す。その光景が現実と重なる。不意に手の中に滑り込まされたナイフの重さに、アキラは我に返った。驚いて、手の中にあるナイフを見つめる。 このナイフは、軍事教育の教練で支給されたとばかり思っていたが――。 「あんた……昔、会ったことがあるのか……?」 「――お前は、友達になると言っていた……俺はお前を迎えに来た」 ナイフを手渡して空になったnの手は、まだ差し出されたままだ。まるで、その手を取れというかのように。 『俺が一緒にいようか?』 脳裏で子どもの声が響く。これは、子どもの頃の自分の声だ。幼い頃の記憶などほどんどないのに、なぜか自分が言ったのだという実感がある。 アキラは男の手を見つめたまま、動けないでいた。目の前の男のことは、何も覚えていない。よく知らない相手に、しかもを残したままついて行くことはできない。 けれど、男の手を拒むことにはためらいを感じた。ずっと昔に会った子どもの約束を、今まで覚えているほどなのだ。きっと、孤独だったのだろう。自分にはケイスケやディーやエースたちがいた。けれど、この男には、少なくとも心許せる相手は現れなかったのかもしれない――。 そんなアキラの迷いを断ち切ったのは、の声だった。彼女は負傷したグンジの傍らに膝を突き、必死に名を呼んでいる。けれども、グンジは身動ぎ一つしない。自らの血でできた血溜まりの中に、伏したままだ。 急にアキラは自分の手の中にあるナイフが、重くなった気がした。 以前クラブでグンジが自分を見逃してくれたときのことや、先ほどの応接室でのことが脳裏に蘇ってくる。恐ろしいはずの処刑人――けれど、そのグンジが死んだことに、強い喪失感を覚えた。 ナイフを持つ手に力を込めながら、アキラは真っ直ぐにnを見つめた。 「俺は――俺は、行かない」 きっぱりと自分の選択を口にする。嘘をついたことになるが、自分の気持ちを偽ることは、互いのためにならないと思った。目の前の男の孤独に気づきながらも、共に行くことを拒んだのは、彼がグンジを殺したからではない。を置いていけないからでもない。 「俺はあんたを気の毒に思う。だけど、気の毒に思う気持ちだけじゃ、あんたの友達にはなれない。俺といても、あんたは結局一人だ。――だから、やっぱり行けない」 すると、nは差し出していた手をすっと下ろした。分かってくれたのだろう。 そこで、にわかにアキラは泣いているのことが心配になった。彼女の元へ行こうと駆けだした、そのときだった。 「グンジ……いやああああぁぁぁぁ……!」 の絶叫。同時に、ぐんと身体に圧力のようなものがかかる。アキラは思わず足を止めた。急に腹の底から、熱い塊がこみ上げてくる。それはすぐに目元まで達して、涙となって溢れ頬を伝った。 どういうことだ。なぜ自分は泣いている。 混乱する脳裏に、次々と断片的な映像がフラッシュバックする。別人のような憎しみの目で自分を見たケイスケ。リンを看病しているとき、買い出しに出た路上で見た猛の死に顔。冤罪で警察に連行されて受けた、不当な扱い。折り合いが悪い義理の親と口論し、家を飛び出したときのこと――。まるで悲しみを強制的に引き出されているかのように、苦い記憶ばかりが現れる。 「っ……何だ……これは……」 「――感情の共感能力」nが呟くように答えた。「他人の感情を自分に取り込んだり、自らの感情を他人に流し込むことができる……そういう能力の持ち主がいる……前の大戦では、俺同様に人間兵器として使われていた」 今何が起こっているか説明できるということは、恐らくn自身もアキラと同じ影響を受けているのだろう。けれど、その表情は静かで、全く変化は見られなかった。 アキラは、後から後から頬を伝う涙もそのままに、首を横に振った。 「まさか、はそんなはずない……」 は、この時代の人間ではないと言っていた。そのことは、アキラも彼女の態度から納得できる節があった。タイムスリップなどというのが、そもそも常識では考えられないことだ。けれど、少なくとも彼女は闘いを知らない。戦争を知らない。 ましてや、人間兵器などであるはずがない――。 ともかくの傍へ行こうと、アキラは歩きだした。途端、身体にかかる見えない圧力のようなものが、強まった気がした。 「やめておけ」nが言う。 「だけど、の目を覚まさせないと」 「今近づけば、お前は発狂する。……感情の共感能力者が人間兵器とされたのは、他人に過剰な感情を送り込み、発狂させるという能力の使い方ができるからだ。同時に、彼ら自身も短命だ。彼らの精神にも、操る感情の負荷が掛かる。力を使い続ければ、やがて発狂する」 「発狂だって……!?」 再び駆け出そうとしたが、nに腕を掴まれ引き留められてしまう。「離せよ!」アキラは暴れたが、nは掴まえた手を離そうとはしなかった。 「行かせはしない……お前は、俺にとっては対なる存在。俺の唯一の希望。何があろうと、その思いに変わりはない。……生き残ってほしい、お前には血の運命をも乗り越えて」 男の言葉に気になる単語があったが、今は構っていられなかった。「頼む、離してくれ……」アキラは男に頼んだが、それも聞き入れられる様子はない。せめてもの思いで、の意識を戻せないかと、腕を拘束されたまま身を乗り出し、彼女の名を呼んだ。 けれど、勝手に溢れる涙に霞む視界の中で、はぼんやりしたままだ。焦点の合わない視線を中へ向けるばかりで、アキラの声に反応しない。 と、そのときだった。カツカツカツと刻むように規則正しい足音が、かすかに響いてくる。それに聞き覚えがあるような気がして、アキラは口をつぐんだ。微かな足音を少しでも聞き取ろうと、耳を澄ます。 いつしか、ぼんやりしていたも、足音のする廊下の角へ顔を向けていた。 足音は次第に近づいてくる。やがて廊下の角から長いコートの裾を翻し、男が現れた。シキだ。驚いたことに、その後ろにはシキと敵対していたはずのリンもいる。 「……シキ……リン……!」 「アキラ!」目が合った瞬間、リンが叫んだ。 二人はこちらへ近づこうとしたが、一歩踏み出したところで足を止めた。まるで、見えない圧力を受けたかのように。 立ちすくんだような格好で、リンは頭を抱え込んでいる。「何これ……涙が、勝手に……」呟くリンの瞳から、大粒の涙が落ちていく。の能力の影響は、まだ続いているのだ。 しかし、n同様にシキの表情には、何の変化も表れていない。無表情のまま、再びに向かって歩き出す。の能力も、効果のある者とない者があるのだろうか。そう思ったアキラだが、じきにそれは間違いだということが分かった。 グンジの遺体の傍に座り込んだ。その手前まで歩いてきたところで、不意にシキは苦しげに顔を歪めたのだ。 耐えているのだ、とアキラは気づいた。シキは、強制的に流し込まれる感情に押しつぶされそうになるのを、堪えている。あのシキが顔を歪めるほどなのだ、に近づくほどに流入する感情の圧力は強くなるのだろう。それでも、シキはの元へ行こうとしているのだ――。 シキは苦しげな表情を一瞬のうちに押し隠し、の傍に膝をついた。 「」 静かな声が一度だけ、名を呼ぶ。けれども、は反応しない。シキは、いきなり彼女の頬を平手で打った。おそらく、かなり力加減はされているだろう。それでも、パァンと小気味のいい音が響く。 頬を打たれた勢いで、は俯いた。そして、ゆっくりと顔を上げた。 「シキ……?」 不思議そうにが呟く。同時に、アキラは頭に流れ込んできていた悲しみが、すっと引いていくのを感じる。 驚きつつ視線を戻すと、シキがの頬に触れているのが見えた。 「気がついたか」シキは諭すように言った。「もう、正気を失うな」 その言葉に、が黙って頷く。 シキは彼女の頬から手を引いて、膝を伸ばして立ち上がった。そこでアキラははっと息を呑んだ。振り返った彼は、に対して見せたのとは真逆の、苛烈な光を双眸に宿している。 その視線は、ただnだけに向けられていた。 *** 頬に残る痺れを感じながら、私は袖口で目元を拭った。グンジを失ったからといって、いつまでも泣いているわけにはいかない。私は生きてるのだから、泣いても、いつかは前に進まなければならないときが来る。そのことは前にシキと言い争ったときに、よく分かったはずだ。 だから、私は握りしめていたグンジの手を最後に一撫でしてから離し、立ち上がった。見れば、シキは佇んだまま、nを見つめている。その双眸に、狂気が宿っていた。 「――やっと、貴様に辿り着いたぞ……n……」 その声に、はっきりと歓喜の色が滲む。 シキ、やめて。 私は叫ぼうとしたが、できなかった。束の間振り返ったシキの、苛烈な眼差しに射すくめられてしまったのだ。それに、ここで無理にシキを止めれば、また口論になる。せっかく会えたのに、また喧嘩別れになってしまうかもしれない。ちらりと頭を横切ったそんな下らない考えもためらいとなって、とっさに声が出なかった。 シキは刀を抜いて、nへと斬りかかる。nは隣にいたアキラを突き飛ばしながら、シキの剣撃をかわした。速いというより、流れるように滑らかな動きだ。素手だというのに、シキと対峙してなお余裕がある。シキは強いが、少なくとも今の闘いにおいてはnが優勢だ――素人の私の目にもそれが分かった。 「……何なんだ、あいつは……」 間近で呆気に取られた声がする。見れば、リンが傍まで来ていた。私を助け起こそうとしたところで、nの動きに目を奪われたのだろう。呆然と、闘うシキとnの様子を見つめている。 「前に屈辱を受けた相手だって、シキは言ってた」 リンの呟きに答えながら、私もシキとnの方へ目を向ける。果敢に斬りかかるシキと、あっさりそれをかわしてしまうn。その構図に、否が応でも先ほどのグンジとnの闘いの光景が蘇ってくる。記憶の中の倒れたグンジの姿に、一瞬シキが重なって見える。 このままでは、シキが――シキが殺されてしまう。 息ができなくなるほどの不安と恐怖が、込み上げてくる。同時に、頭のどこかで何かのタガが外れそうになるのを感じた。私はとっさにそれを押し止めた。もしタガが外れると、またあのケイジと同じ能力が現れるかもしれない。 もう正気を失うな、と言ったシキの声音を思い出した。 ともかく、やはりnとシキを止めなければならない。私は腹を決めて立ち上がり、対峙する二人に向かって駆け出そうとした。そのときだった。 「この程度か……」 nの呟き。その直後、狂ったような嗤笑が辺りに響きわたる。 目次 |