6.(ED2)
nは狂ったように嗤い続けた。彼の狂気を感じ取ったのは、事情を知る私やシキ、それにアルビトロから話を聞かされたというアキラばかりではない。何も知らないはずのリンもまた、異様な空気に呑まれて身を強ばらせている。 皆が凍り付いたように見守る中、ひとしきり嗤った後で、nは顔を上げてシキへ目を向けた。 「俺に――お前の最も嫌うまやかしの力に敗けた後、お前は俺に勝つために、ゲームを始めた。ラインを作り、この街でヴィスキオに捌かせた。そして、ラインに適合する者が現れるのを待ち、そいつを斬り捨てることで、自分の力がまやかしの力よりも上だと信じてきた……違うか?」 「……」 nが問いかけても、シキは答えない。ただじっとnを睨みつけている。もっとも、nの方も答えが返るのを期待してはいなかったようで、そのまま言葉を続ける。 「そうやって哀れなライン適合者を殺し続けても、お前は所詮俺には敵わない。なぜならお前は弱さを知らないからだ。――俺に敗けて屈辱を受けた? そんな程度は屈辱とは言わない。俺が強いのは、地べたを這うような苦しみを味わい続けているからだ……お前が味わったこともないような苦しみを」 ――違う、と思った。 シキにはシキの、nにはnの、それぞれの強さがある。苦しみもある。もちろん、アキラやリンや他の皆も、強さも苦しみも弱さもそれぞれに持っている。たとえば、シキがnの苦しみを代わりに味わったとしても、nと同じ受け止め方をするとは限らない。 強い者ばかりが集まるこのトシマの街で、きっと誰よりも弱いからこそ、私にはそれが分かる。けれど、反論しようにも声が出てこなかった。nはシキしか相手にしていなかったし――有り体に言えば、気迫で負けた。nの言葉には彼の半生の中での思いが込められていて、重い。私は、その言葉の重さに呑まれてしまっていた。 と、そのとき。 「何なんだよ!? 一体どういうことだよ? さっきから好き勝手言って……お前、一体何なんだよ!?」 リンが叫ぶ。それは、すっかりnに呑まれてしまった空気を押し退けようとするような勢いが込められていたが、nは嗤って受け流した。そして、一瞬だけリンへ目を向ける。 「教えてやろう。俺もアキラも第三次大戦当時の軍の人体実験により、新種のウィルスを体内に植え付けられた」 nはちらりとアキラを目で示してから、私たちに顔を向ける。それから、衣服の袖を引き上げて白い腕を晒し、腕を持ち上げてその内側にゆっくりと顔を寄せた。まるで、見せつけるかのように、腕の内側の皮膚に歯を当てて滑らせる。 「ラインの原液とは、そこにいつ男に託した俺の血液。俺の血は、ラインの数百倍の効果を持つ」 そこで、nは唐突に、シキに向かって手を差し伸べた。試してみるか? と凶々しい笑みを浮かべながら尋ねる。 「試す、だと?」しばらくの間の後に、シキが掠れた声で言った。 「あぁ、そうだ。お前の嫌悪するまやかしの力、それを受けてみるかと言っている。この血に……ラインの原液に適応できる可能性は、ほとんどないに等しい。それこそ、砂漠で砂粒一つを見つけだすような可能性だ。大抵は不適合で死に至る。それに、まずこの血を口にするということ自体が、お前にとっての試練となるだろう」 「ハッ……誰が貴様の血など」 「試練を乗り越えるか……“俺が”そうしたように。どうする?」 nが口を閉ざすと、辺りはしんと静かになった。 不意に、その静寂の中、ガシャンと甲高い音が響く。シキが刀を取り落としたのだ。自身の生命を預ける武器をぞんざいに扱うなど、シキに限ってあり得ない。私は急に不安が込み上げるのを感じた。 「シキ、だめっ……!」 「っ……兄貴……!」 私とリンが叫ぶのと、シキがnに跳びかかるのがほぼ同時。止めようにも止める間のない、一瞬の出来事だった。シキは素早くnに組み付き、その首筋にかじりつく。 nは、あくまでも無抵抗だった。 無抵抗のまま、シキに血を啜られながら――嗤っていた。 やがて、ひとしきり血を啜り終えると、シキはnを突き放した。nの身体は糸の切れた操り人形のように簡単に、廊下に崩れ落ちる。そして、身動き一つしなくなった。 シキはぼんやりとその場に立っていたが、やがてゆっくりとこちらを振り返った。紅い双眸はらんらんと輝き、口元が血に赤く染まっている。 不意に、シキが一歩こちらへ踏み出した。私は逆に彼に近づくことができず、庇おうとしたのか縋ろうとしたのか分からないまま、リンの腕を掴んで一歩後退する。怖かったのだ。相手はシキだと分かっているのに、どうしても怖くて近づけなかった。これまでは、どれほど言い合いをしようと、シキの傍にいればどこか心安らいだというのに。 「」シキが掠れた声で呼ぶ。 どうしても、それに応える声が出てこない。私は唇を引き結んだまま、首を横に振った。途端、シキの目の中にありありと絶望の色が浮かび上がる。立ちすくんだまま、私はその様子をはっきりと目の当たりにした。 ガラスの割れるイメージが、脳裏を掠め去っていく。 何か、取り返しのつかないものが壊れてしまった。本能的にそう感じた。 次の瞬間、シキはぐらりと崩れ落ちた。身体を丸め、呻き声を上げる。劇毒と言われるほどの効果を持つニコルウィルスが、体内を侵し始めたのだ。純度100%のnの血が、他の人間に適合する可能性は、ほぼゼロ――nがそう言っていたのを思い出す。 このままでは、シキが死んでしまう。 そう思った瞬間、シキの狂気への恐怖を超えて、シキを失うことへの恐怖がこみ上げてくる。気づけば、私は先ほどとは逆に、とっさにシキへと駆け寄っていた。彼の傍に膝をつき、肩を抱く。苦しむシキを宥めるように背を撫でながら、何度も名を呼んだ。どうして先ほどはシキを拒んでしまったのか、と自分を責める気持ちで頭が一杯になった。 と、そのときだった。 銃声が辺りに鳴り響く。立て続けに3発。私は庇うようにシキに覆い被さった。視界の端で、アキラやリンも身を伏せるのが見える。銃弾は、どれも近くの床を撃ち抜いたようだった。 激しい音が止んで顔を上げると、廊下の角から銃を手に、女が出てくるのが見えた。私はその顔に覚えがあった。以前、トシマの外れで出遭った女だ。彼女の後ろには、あのとき一緒にいた青いコートの男がつき従っている。 「動くな。頭を下げていろ」女は、ひどく高圧的な調子で言った。 「お前ら……エマにグエン……どうしてここに……」 二人の顔を知っているのは、私だけではないようだった。床に伏せた格好のまま、アキラが敵意もあらわに二人を睨みつけている。そんなアキラに、女――エマは場に不似合いなほどに艶然と微笑んでみせた。 「探すのに苦労をしたぞ、アキラ。お前に渡したトレース・システム仕込みの通信機が、どうやら破壊されてしまったようでな」 「……アキラ、何なの、こいつら」リンが低い声で尋ねる。 「軍の奴らだ。俺に掛けられてる殺人罪を見逃す代わりに、イグラに参加するって取引をした」 「そう、お前のその冤罪だがな――仕組んだのは、この私だ。全ては非ニコルであるお前を泳がせて、ニコルウィルスの保菌者であるニコル・プルミエ……nをおびき出すため。それが、まさかこのようなことになるとはな」 エマは、まず倒れ伏しているnへ目を向けた。その視線を、次いで私とシキへ移す。「その男がプルミエの血を取り込んだか。――女、そこをどけ」エマはそう言って、私に銃口を向ける。私は苦痛に震えるシキの肩を抱きながら、首を横に振った。 退く気は、全くなかった。先ほど目の当たりにしたシキの絶望を、こうしてシキを守ることで償えるかもしれないと、心のどこかに浅はかな希望を抱いていたのだ。 どけ、とエマが再び言う。それでも私が動かずにいると、今度は銃口を別の方向へ向けた。銃口は、私よりもやや後方――倒れて動かないnへと向けられている。 銃声が、二度三度と響いた。弾は私を掠めるようにして、無防備なnの身体を撃ち抜く。その衝撃で、nの身体が生きていたかのように跳ねた。 それから、エマは再び私に銃口を向けた。 「ああはなりたくないだろう? そこをどけ」 「待て、エマ!」それまで黙っていた男――グエンが慌てて声を上げる。「あの男を殺す気か?」 「当然だろう。どうせあの男はじきに不適合で死ぬ。今生かしたところで、被検体にはなり得ない」 「だとしても、プルミエが死んだ今、あの男には価値がある。可能な限り、生かして回収すべきだ。それは我々の任務のうちではないのか」 「煩い」 無造作な仕草で、エマはグエンに銃を向けて撃った。銃弾は正確にグエンの腹部を貫通する。グエンは、信じられないといった表情で、自分の血がコートの腹部を染めるのを見下ろしていたが、やがてがくりと床に膝を突いた。 跪きながらも、グエンは辛うじて自分の銃を握り締めている。彼は震える手で銃を構えようとしたが、できなかった。そうする体力が残っていなかった、というのではない。心にためらいがあって、エマに銃口を向けられないようだった。 「エ、マ……君は……軍を、裏切る、のか……」 「軍も任務もどうでもいい。私の目的はただ一つ……忌まわしいニコルウィルスと、それに連なるものをこの世から消し去ることだ」 言うが速いか、エマはグエンの眉間を撃ち抜く。束の間、彼女は動かなくなったグエンをじっと見下ろしていたが、リンやアキラが彼女に跳びかかる隙を狙っているのに気づくと、再び銃口を私へ向けた。「動くな。おかしな真似をすれば、この女を射殺する」そう二人を牽制して、私に声を掛ける。 「――女、これが最後の忠告だ。その男から離れろ」 私はエマを見据え、首を横に振った。 「そうか……ならば、愛した男と共に逝け」 エマがそう言った瞬間、私はぐっと腕を引かれた。全てが目まぐるしく動き、何が起こっているのか分からないまま、気が付いたときにはシキに抱き寄せられていた。いつの間にか起きあがったシキは、左腕に私を抱き、右手に取り落としたはずの刀を持ち上げている。 長い刀の切っ先は、目の前に立つエマの腹部を貫通していた。 「貴様……まさか……適合者、なのか……?」 エマは呆然とした呟きを最後に、倒れて動かなくなってしまった。彼女の遺した適合者という言葉が、やけにはっきりと耳に残った。 私は、恐る恐る首を巡らし、傍らのシキを見上げた。シキの顔には先ほどまでのような苦痛の色はなく、普段の彼に戻ったようだった。――普段の? いや、ちがう。シキの双眸には、はっきりと狂気が浮かんでいる。その瞳を細めて、彼は嗤ってみせた。 「お前は俺のものだ。逃しはしない」 シキはそう言いながら、顔を寄せてくる。すぐに唇に柔らかな感触があり、口づけられているのだと分かった。私は身体を強ばらせることしかできなかった。口づけられて嬉しいとか、そんな浮ついた感情はない。少なからず好意を抱いている相手と唇を重ねているのに、不安ばかりが胸を占めている。 適合者、とシキに対してエマは言った。 つまり、シキはnと同じく、ニコルウィルスの保菌者になったということなのだろう。だとしたら、シキはこれからどうなるのか。先のことが全く見えて来ない。 私の不安を余所に、シキは口づけを続けている。初めは触れ合わせるばかりであったのが、やがて唇で唇を啄むような仕草へと変化する。こんなときだというのに、優しいその感触に、痺れのようなものが背筋を駆け抜けていった。そこで我に返って、私はシキの腕から逃れようとする。が、シキは逃してはくれず、私を腕に囲い込んで唇を合わせたまま、そこに歯を立てた。 キリリとシキの歯が、私の唇の端を噛み破る。鋭い痛みと共に、口の中に血の味が広がっていく。 「お前は俺のものだ。逃げると言うなら、その身を喰らって俺の元に留める」 囁いて、シキは私の唇に滲む血を舐め取る。そして、ふと感心したように、お前の血は甘いなと呟いた。そのとき、爆発音と共に、建物がぐらりと揺れた。 *** 源泉は地下通路の入り口に立ち、闘技場内を抜ける通路を見つめていた。通路には、人の姿はほとんどない。イグラ参加者たちも降伏したヴィスキオの黒服たちも、避難すべき人々は皆、旧祖を脱ける地下通路へ入っていった。今はトモユキら数名が、逃げ遅れた者がいないか軽く周辺を見回っているところだ。それも、じき戻るだろう。 残るはリンとアキラ、、そしてシキ。 いくらシキが一緒とはいえ、処刑人の片割れがいる場所へ向かったのだ。リン達四人が無事ここまで戻れるかどうか。源泉は祈るような思いでいる。 そのうち、見回りに出ていたトモユキたちが戻ってきた。 「おぉ、お帰り。どうだった?」源泉が尋ねると、 「大丈夫だ。この辺りに逃げ遅れた奴は、いないようだった」とユズルが答えた。 そのときだった。ドンッと激しい爆発音と共に、衝撃で一瞬ぐらりと地面が揺れる。内戦が始まったのか? いや、そんなはずはない。手に入れた確かな筋の情報では、開戦までまだ僅かに猶予があることになっていたはずだ。 混乱しながら、状況を把握しようとして、とっさに源泉は闘技場の玄関口へ走り出ていた。慎重に外へ足を踏み出すと、闘技場の向かいにある城の本館の一部か崩れ、煙が立ち上っている。 同じように「内戦か!?」と驚いて後から跳び出してきたトモユキたちに、源泉は一部崩れかけた建物を指さした。 「……どういうことだ?」トモユキが言う。 「おそらく、これは内戦が始まったんじゃない」源泉は応じた。「アルビトロがやったのかもしれんが……何のつもりか分からん。あいつは、地下通路を通ってない。俺も見張ってたんだから、間違いない。ということは、あの城の中にいるはずなんだ……」 「あの変態、城ごと自爆しようってのか?」 「分からん。アルビトロは、そんなタマじゃないはずなんだが……」 そう言う間にも、再び爆発音が響く。爆風が吹き付けて、源泉は身を竦めるようにしてそれをやり過ごす。そして目を開けると、更に崩壊の進んだ城の本館が目の前にあった。これはまずい。そう思いながら、源泉は眉をひそめる。 仮にアルビトロが自棄になって城と心中する気ならば、まだ中にいるリン達は――。 「おい、オッサン。俺がリン達の様子を見てくる」 不意にトモユキがそう言い、トモユキとユズルが本館の様子を見に行くことになった。その場にいた他の若者たちも行きたいと申し出たが、最小限の人数の方が動きやすいので、待機ということで話は落ち着いた。 「くれぐれも、無理はせんようにな」 「あぁ、ヤバかったらすぐ戻る」 源泉の忠告に、トモユキはニヤリと笑って頷いてみせる。けれど、トモユキのような若者が、どの程度年長者の忠告など本気にするだろうか。怪しいものだ、と源泉は思ったが、かっての自分もそうだったから他人のことは言えない。どの道、くどくど言い聞かせている時間もなかった。 トモユキとユズルは、中庭を駆け抜けて、本館の玄関の暗がりへと消えていった。 *** 爆破の衝撃でみしみしと建物が揺れる。私ははっとして天井を見上げたが、心配したほどのこともなく、じきに揺れは収まった。「案ずるな、守ってやる」シキが、彼としては気味が悪いほどに、優しい声で囁く。けれど、私は少しも安堵できず、じっと身を固くしていた。 シキは、そんな私の手を引いて立たせた。 そのときだった。鋭い気合いを発しながら、私とシキの間に跳び込んで来たシルエットがあった。アキラだ。アキラは私を突き飛ばしながら、手にしたナイフでシキに切りかかる。シキは、それをあっさりとかわした。 「逃げろ、!」 シキと対峙しながら、アキラが叫ぶ。 私はどうしたらいいのか、分からなかった。今のシキはもう、以前のシキではない。危険だ。傍にいるべきではない。とはいっても、心はそう簡単に割り切れるものではない。 とっさに私が動けないでいると、シキはちらりとこちらを一瞥してから、刀を握る手に僅かに力を込めた。「、お前を逃すつもりはない」そして、今度はアキラへと目を向ける。 「――雑魚め、俺の邪魔をするとは、それほどまでに死にたいか」 シキが刀を振り上げようとした瞬間、リンが私の脇を掠めてシキとアキラの元へ駆けた。その手には、抜き身のスティレット。リンは迷いのない動きで、シキに向けて鋭くスティレットを繰り出す。シキはその攻撃を軽々と刀で受け止めたが、リンは深追いせずにぱっと離れる。 「アキラ、!行くよっ……!!」 言うが早いかリンは身を翻し、私とアキラの手を掴んで走り出した。引きずられるようにして、私もついていく。火事場の馬鹿力というのか、リンの力は外見に不似合いなほど、強かった。 最初は引きずられるままだった私だが、じきに自分の意思で前へ進み出す。決して、シキから離れる決心がついたわけではない。けれど、とにかく前へ進まないわけにはいかなかった。 後ろを見ずに廊下の角を曲がり、階段の手前まで来たときだった。 再び爆発音と共に、ぐらぐらと建物が揺れる。びしりと嫌な音がして、私はぎくりと足を止めた。見れば、壁から天井にかけて、コンクリートに亀裂が走っている。爆破で建物の骨組みがどうにかなったのか、壁や天井はみしみしと軋み続けており、亀裂も見る間に大きくなっていく。 このままでは、天井が崩れ落ちてきそうだ。 「アキラ、、早くっ!」 リンが私たちを促して、先を進んでいく。私、アキラの順でそれに続こうとした、そのときだった。びしっ!と一際大きな音と共に、天井からコンクリートの塊が落ちてくる。 危ない、と叫んでアキラが私を突き飛ばす。私は階段を五段ほど転げ落ちて止まり、何とか起き上がって背後を振り返った。見れば、先ほど私とアキラがいた階段の降り口付近を、大きなコンクリートの塊がふさいでいた。アキラが突き飛ばしてくれなかったら、押しつぶされていただろう。 けれど、アキラは――? 「アキラ……アキラ、大丈夫なの!?」 「か?良かった、無事で……俺も平気だ」 すぐに返事が返ってくる。見れば、瓦礫の向こう側でアキラが手を振っていた。私とリンはほっと息を吐いて、視線を交わす。 こちらへ来るには、アキラは瓦礫を乗り越えなければならない。そこで、リンはアキラに手を貸そうとしてこちら側から瓦礫に上ろうとする。私は手伝いたかったが手を出せば余計に邪魔になりそうで、これ以上瓦礫が崩れ落ちて来ないかと傍で見張っていた。 そこへ、建物が軋む音に混じって、カツカツカツと規則正しい足音が聞こえてくる。これは――シキの足音だ。私が言うまでもなく足音に気づいたリンとアキラも、はっとして身構える。 廊下の角から、シキが姿を現した。抜き身の刀を手にした彼の赤い双眸には、強い怒りと苛立ちの色が見える。このままでは、皆、殺されてしまうかもしれないと感じた。 「シキっ……!」私はとっさに叫んでいた。「私がそっちへ行く!あなたのところへ行く。逃げた罰を与えるって言うなら、何だって受ける。だから、リンとアキラを先に行かせてあげて」 「殊勝な心がけだな。ならば、約束通りにその血肉までも喰らってやろう……ただし、この男とそこにいる生意気な猫を殺してから、な」 シキは狂気に満ちた笑みを浮かべ、刀の切っ先でアキラとリンを順に指した。あぁ、シキは本気だ。私の言葉では説得できない。そのことを思い知らされ、すっと目の前が暗くなる。 そのとき、アキラが「待てよ」とシキに向かって言う。 「あんたの相手は、俺がする」 「アキラっ……!?」リンがはっとして声を上げる。 「、リン、逃げろ!俺が時間を稼ぐから」 「駄目よ、アキラ、私がシキを説得するから……だから……!」 「もう、にだって無理だ。だから俺が時間を稼ぐ。とリンには、生きてほしいんだ。、あんたにはもう何度も助けられた。そのときの借りを返させてくれ」 「弱者が、言うことだけは一人前だな」 私たちのやりとりを聞いていたシキは、そう言って嗤った。そして、「いいだろう、弱者がどこまでやれるか、見せてみろ」とアキラへ向き直る。 アキラも、シキに向き直った。その表情は静かで、圧倒的な力の差のある相手と対峙しているはずなのに、ひどく落ち着いている。 「シキ、あんた、可哀想だな」 静かな声で、アキラはぽつりと言った。 「を喰らうだなんて、よくそんなことが言える。俺は愛だの恋いだのよく分からないけど、あんたとが想い合っていることは、見ていて分かった。あんたはもう、ニコルウィルスに狂わされて忘れてしまったのか……どれだけを想っていたかを」 「――弱者ほど、愛だの何だのと語りたがる。そんなものは俺には不要だ」 「だったら、どうしてに執着する? だから、可哀想だと言ったんだ。――あんたには、にもリンにも手出しさせない。俺がここで食い止める」 鞘に納めていたナイフを抜いて、唐突にアキラは右手で刃を握った。ナイフを一気に引き、自分の掌を傷つける。そして、アキラは血に塗れた刃を構えた。 非ニコルを、使おうとしているのだ。 やがて、アキラがシキへと跳びかかる。繰り出されるナイフを、シキは刀で受け止める。ガキッと金属同士のぶつかる音が響いた、そのときだった。 ギギギギギと、再び建物が揺らぐ。振動で階段の降り口を塞ぐコンクリートの塊が、ぐらぐらと揺れる。このままでは、塊はこちらへ転がって来るかもしれない。 私はアキラの元へ行こうと塊に登りかけているリンの腕を掴み、引きはがそうとした。すると、案の定リンは暴れた。 「離せ、離せよ!」 「駄目、リン、コンクリートから離れて……!」 「離せ!アキラのところへ行かなきゃ……アキラも一緒にここを出るんじゃなきゃ、意味がないんだ!」 「リンっ……!」 もみ合うこと数秒。私は何とかリンをコンクリートから引きはがすことに成功したが、反動で二人一緒に階段を転げ落ちることになった。階段下まで転げ落ち、背中を強かに打って、一瞬息が詰まる。 やがて呼吸ができるようになり、痛む身体で起きあがると、傍に倒れているリンが見えた。その姿に、私は息を呑んだ。 階段の降り口でぐらついていたコンクリートの塊は、結局を階段から落ちたが、踊り場の部分が曲がりきれずにそこで止まっている。しかも、そこに更に天井からの瓦礫が積み重なって、最早上の様子は見えなくなっていた。シキやアキラの気配は、全く感じられない。その上、瓦礫の一部が階段を転落し――倒れたリンの左足の上にのっていた。 目次 |