7.(ED2)
「うっ……く、ぅ……」 リンが発した呻き声で、私は我に返った。ともかく、早くリンの足に乗っているコンクリートの塊を、取り除かなければならない。「リン、待って。すぐコンクリートをどかすから」私は声を掛けて、リンの足の側へ回った。 コンクリートは、思いの外大きく、重い。渾身の力でそれをどかそうとしたが、どうしても持ち上がらない。そればかりか、塊が少しぐらついただけで、リンはますます苦しげな呻き声を上げた。 塊を私の手で持ち上げるのは、無理だ。かといって、周囲には助けを求められるような人間もいない。私は途方に暮れてしまった。 しかし、そうのんびりできる間もなかった。一階の廊下の奥から、鈍色の煙が漂ってきたのだ。さっきの爆発で、建物のどこかで火災が起きたらしい。まだ火の近づいている気配はないが、このままでは煙に巻かれてしまう――。 「……」リンが呻くように言った。「一人で、逃げろ……」 「いいえ」 「逃げろってば……!」 「いやよ! アキラは私に、リンと逃げろって言ったんだから。私はリンと一緒に行く」 ケイジに去られて、キリヲやグンジが逝って。シキを見捨てて、アキラを置き去りにして。一つ、また一つとこの手から零れ落ちていく。これ以上失うことを考えたら、おかしくなりそうだった。 私は一度塊から離れ、ポケットの中からハンカチを出してリンに押しつけた。「それで鼻と口、塞いで」そう言って、再び元の場所に戻る。そして懸命に塊を動かそうとしたが、どれだけ頑張ってもびくともしなかった。 また思い出したように、建物がぎぎっと軋む。廊下から流れてくる煙は、次第に量を増している。私は煙にむせて、激しく咳き込んだ。 そのときだった。 どこかから、微かに人の声が聞こえてきた。それは、階上にいるはずのシキやアキラの声ではない。他の誰かが、リンを呼んでいる。しかし、呼ばれたリンは痛みで答えるどころではなく、代わりに私が声を上げて呼びかけに応じた。 やがて、やって来たのはトモユキとユズルだった。二人は私とリンの有様を見てぎょっとした表情になったが、その驚きを口に出すことはなかった。二人はすぐさまリンの足の上のコンクリートに取りかかり、簡単にどかしてしまった。 コンクリートの下敷きになっていたリンの左足は、ひどい有様だった。とっさに直視することはできなかったが、すぐにでも手当が必要なのだということは私にも見て取れた。 しかし、ユズルがリンを助け起こそうとすると、リンは突然暴れだした。 「嫌だ! 俺は行かない……アキラが――アキラがまだ上にいるんだ。アキラを見捨ててはいけない。今度こそ……カズイを救えなかったんだから、今度こそアキラは助けなきゃ……!」 リンの言葉に、トモユキとユズルははっと息を飲む。立ちすくむ二人を押し退けて、私はリンの側に跪いた。 「いい加減にしなさいっ!」叫んで一度、平手でリンの頬を打った。「状況を見て。ここに残ったら、死んでしまう。アキラはリンを助けようとしたのに、あなたはその生命を捨てる気? そんなの、アキラに失礼だと思わないの!?」 「お前に何が分かる? 俺やアキラの何を知ってるっていうんだよ!?」 「確かに、私はほとんど知らない。だけど――リンが残るなら、私もトモユキたちもここを離れられない。リンを置いていけないもの。あなたは、皆を道連れにしようとしてる。それを分かってる!?」 言いながら、私は自己嫌悪に陥った。 ここを離れたくないというリンの思いは、よく分かっている。私だって同じ気持ちだ。けれど、アキラが私たちを逃がしてくれて、私たちが生きている以上、この生命を無駄にすることはできない。だから、敢えてリンを穏便に説得するのではなく、現状を突きつけた。 すると、さすがにリンも迷うように黙り込んでしまった。トモユキとユズルも私とリンの口論の剣幕に呑まれたようで、ただ黙って成り行きを見守っている。そこで、私はリンの反応を待たず、トモユキとユズルにここを出ようと言った。 二人は、素直にそれに従った。 トモユキが先頭に立ち、大柄なユズルがリンを背負って後に続く。私は最後だった。煙の充満する廊下を進んで、私たちは城の本館を後にした。中庭を横断して、地下通路の入り口のある闘技場の入り口へ辿り着く。 そこでは源泉が私たちを待っていて、早く早くと手招きをした。 私は闘技場の入り口で立ち止まり、城の本館を振り返った。本館はすでに半分ほど火に包まれ、鈍色の煙がもうもうと立ち上っている。風に煽られて、こちらまで火の粉が飛んできた。 ――アキラは、シキは、どうしただろうか。火に包まれる本館を見てそう思うそばから、胸の中に絶望が広がっていく。あの状況で二人が生きている可能性は、とても低いに決まっている。 絶望で涙がこみ上げてきたが、私は泣くまいときつく奥歯を噛みしめた。シキを見捨てたのに、泣くことなど許されない。城の本館を視界から切り捨てるように、私は前を向いた。 前を向くと、源泉が何か言いたげな面持ちをしてこちらを見ていた。けれども結局言わず、「さぁ、早く」と私の手を引いて闘技場へ入ろうとする。 途端、背後でどんっと激しい音が響いた。一発、二発とそれは断続的に続いている。同時にどこかで爆発音が上がるのも、聞こえてきた。肩越しに振り返ると、ちょうど遠くに廃墟が崩れ落ちるのが見えた。 「っ……何……?」 「砲撃だ。くそっ、CFCも日興連も焦れて予定を早めやがったか。――早いとこここを離れよう。でないと巻き込まれる」 源泉は私を庇うようにして、闘技場へ入った。廊下を進んで地下通路へ降りる階段に差し掛かると、通路の入り口でケイスケやキョウイチたちが顔を見せ、早く早くと私たちを急かす。急いで地下通路に駆け込むと、源泉は入り口の扉を閉めるように言った。 「アキラは?」ケイスケが尋ねる。 「これで全員だ。後にはもういない。閉めてくれ!」源泉が叫ぶ。 「そんな……アキラがまだ戻らないのに……! アキラ……アキラ……!」 ケイスケは叫んで、地下通路から出ていこうとする。それをトモユキがとっさに捕まえた。 そこへ、どんっと大きな音と衝撃が走る。どこか近くに砲撃の弾が着弾したらしい。ぐらりと地面が揺れるのに耐えて、トモユキのチームの仲間が入り口の扉を閉めた。そして、通路は闇に沈んだ。 地上の砲撃の音は、まだ鳴りやまない。それに混じって、ケイスケのすすり泣くようにアキラを呼ぶ声と怪我をしたリンの荒い息遣いが聞こえている。まるで息が詰まりそうな闇だった。 カチリと音がして、闇の一部が明るくなった。源泉が持っていた懐中電灯を点けたのだ。懐中電灯の明かりの元で見る限り、ユズルに背負われたリンは怪我の痛みで気を失っていたが、他は皆無事だった。 「ほら、しゃんとしろ」トモユキが、ケイスケを叱咤している。 「……皆、生きて地上に出るぞ」 源泉が低く、いつになく真面目な声で言い、皆それを合図に通路を歩きだした。 *** 地下通路を通って、私たちは無事に旧祖を脱出した。通路の出口はニホンを東西に分断する西側の陣営・日興連の領土の目と鼻の先だった。 内戦に際して、旧祖と日興連の境目であるディバイドラインには、検問所が設けられていた。日興連に入るためには、検問所を通らなければならない。検問所には、先に地下通路を通っていったイグラ参加者や旧祖からの避難者など、多くの人間が詰めかけていた。 これでは、なかなか日興連に入ることはできなさそうに思われた。 けれど、周囲を巡回していた軍人にリンを見せたところ、重傷者として先に日興連へ入れてもらえることになった。そこで、病院に運ばれるリンに私と源泉が付き添い、一足先に日興連へと入った。 リンは病院ですぐに手術室へ入れられ、長い処置の後にやっと出てきた。 医師の説明によると、リンの左足の損傷はかなりひどいものらしい。できる限りの処置はしたが、もし状態が悪化するようなら、切断しなければならないということだった。それでも、ひとまず足を切断しなくて済んだということで、私と源泉はほっと胸を撫でおろした。 リンが病室に落ち着くと、源泉はケイスケたちの様子を見てくると言って病室を出ていった。私はその場に残って、リンの付き添いだ。そうして、どのくらい経っただろうか。疲れから少しうとうとしていたとき、私はガタンという物音ではっと気づいた。 見れば、いつの間にか目を覚ましたリンがベッドの柵を掴んで、起き上がろうとしている。 「リン、まだ起きちゃ駄目よ」 私は椅子から立ち上がって、リンを止めようと手を伸ばした。その手をリンが振り払う。 「煩い! 行かなきゃいけないんだ……アキラのところへ戻らないと。俺は、簡単にシキを――自分を愛してくれる相手を捨てられるあんたとは、違う」 その言葉に、ぎくりと心臓が跳ねた。けれど、何も言い返せる言葉はない。私は、首を横に振った。 「リン、もう遅いよ。ここはトシマじゃなくて、日興連。私たちはトシマを脱出した。今はもう内戦が始まって、ディバイドラインも封鎖されてる。戻れないの」 そう告げると、リンの顔の上に絶望が広がっていく。リンは泣きそうに顔を歪めて、「出て行け」と言った。私はそれに従った。私がいては、リンは安静にはなれないだろうと思ったのだ。 病室を出ても、私は余所へは行けない。リンに異変があっては困るからだ。私はドアの側の壁にもたれ、ぼんやりと廊下の天井の明かりを見つめた。 壁越しに、室内のリンの嗚咽が聞こえてくる。不意に目頭が熱くなってきて、私は目蓋を閉じた。シキやアキラやその他の、様々な面影が目蓋の裏でちらついている。目蓋は熱かったが、とうとう涙は出てこなかった。 *** 日興連の検問所では、犯罪歴や戸籍が調べられた。幸いにも、ケイスケやトモユキたちは誰も引っかかることはなく、無事検問を通り抜けた。 また、リンに付き添った私は、後から検問を受けることになった。私にはこの時代の戸籍がないのだが、源泉が上手く言い繕ってくれた。「先の大戦で誤って死亡扱いになった」というのが、軍への言い訳だった。 避難所に収容された仲間たちは、リンを見舞いに行った。ただし、私はリンに憎まれてしまったので、面会に行くことはできない。それで、リンの眠っている間にこっそりと、様子を見に行った。寝顔を見た印象では、皆が教えてくれた通り、リンの加減は悪くなさそうだった。 日興連へ入ってから、二日後のこと。 リンの様子を見に行くと、病室の前でケイスケと出会った。ケイスケは、リンを見舞って出てきたところらしかった。 「あ、……」ケイスケは、ぎこちなく言った。 トシマ脱出の際、アキラを連れ帰れなかったことから、私とケイスケの間柄も気まずいものとなっている。ケイスケは、リンのように私を責めることはないが、それでもわだかまる気持ちは堪えようがないのだろう。そんなケイスケと私の気まずさがトラブルにならなかったのは、互いに顔を合わせる時間が少なかったからだ。避難所に来た日から、女手が足りないということで、私は炊き出しなどを手伝いに出ている時間が多かった。 「ケイスケは、リンのお見舞いだったの?」 「あ、うん……源泉さんと一緒に。源泉さんはまだリンと話をしてる」 「そう……なら出直そうかな」 諦めて踵を返したところで、ケイスケに呼び止められた。緊張の色の濃いその声に、私は緊張せずにはいられなかった。きっとケイスケは、城でアキラと別れたときのことを聞きたいのだろう。 少し話そうと誘われて、私はケイスケと一緒に病院の中庭に出た。空は相変わらず曇りがちで、遠く砲声の聞こえる中庭に、人気はない。私たちは並んでベンチに腰を下ろした。 「、お願いがあるんだ。城でアキラに何があったか、教えてほしい。俺、ずっと知りたくて……けど、今まで聞く暇もなくて。ずっと聞こう聞こうって、思ってた。けど、リンはあんな状況だし、あまり負担を掛けられない。に聞くしかないんだ」 「そんな風に気を遣わないで。私も、もっと早くケイスケに話さなくちゃいけなかった……だって、あなたはアキラの親友だもの」 覚悟を決めて、私はケイスケにありのままを話した。アキラが私を庇ったこと、私とリンを逃がすためにシキのもとへ残ったこと……。ケイスケは、沈痛な面持ちでそれを聞いていた。 私が話し終えると、ケイスケは俯き、顔を両手で覆った。 「――アキラは、」ケイスケは呻くように言った。 「えぇ」 「アキラは優しいんだ。ぶっきらぼうで、ちょっと近寄りにくい感じだけど……本当はすごく優しいんだ。弱いものいじめとか、理不尽なこととか、大嫌いで。昔から、よくいじめられた俺を助けてくれた……」 「えぇ」 「リンやを守ろうとしたこと、すごくアキラらしいと思う。そういうアキラだから、俺は好きなんだ。でも……自分でも我がままだって分かるけど……どうしても、思ってしまうんだ」 どうしてアキラは、自分の身を犠牲に他人を庇ったんだ。 やリンじゃなくて、アキラが戻ってくればよかったのに。 呻くように言って、ケイスケは肩を震わせて泣いた。そして泣きながら、「ごめん、ごめん」と何度も謝る。私は首を横に振った。 「ケイスケは、アキラが好きなんでしょう? そう思うのは自然だわ。ただ、リンのことは許してあげて。リンは最後までアキラを助けようとしてた。悪いのは……見捨てたのは、私。――ごめんなさい、アキラを守れなくて」 「っ…………ごめっ……こんなこと、言うの、……これが最後、だから……明日からは普通にする、から……」 ケイスケが一人になりたいと言ったので、私は先に病院の棟内へ戻ろうとした。すると、入り口で源泉が待っていた。源泉はちらりとベンチのケイスケを一瞥してから、私に言った。 「すまんな」 「――聞いていたんですか?」 「あぁ、向かいの棟からお前さん達の後ろ姿が見えたんでな、近くへ行ったら聞こえた」 そして、源泉は私をロビーへと誘った。 この病院は軍のもので、避難民は重傷者以外はここで治療を受けることはできない。ロビーは比較的賑わっているが、軍の関係者しかいないため、混雑しているというほどではなかった。私たちは、ロビーの隅の椅子に腰を下ろした。 「さぁ、おいちゃんの奢りだ」 源泉が買ってきたホットコーヒーを渡してくれる。ありがとうと言って、それに口をつけた。砂糖とミルクの入っていて、甘い。 「お前さん、それで良かったか? マスターのところでは、砂糖とミルクを入れたのを飲んでいたと思ったんだが」 「はい。砂糖もミルクがないと駄目というわけではないですけど、疲れてたりすると、甘い方が元気がでます」 「なら良かった」ほっとしたように笑って、源泉は自分もカップに口をつけた。「それで、さっきのことだが。ケイスケのことにしろ、リンのことにしろ、お前さんには損な役回りをさせてる。すまんな、二人ともお前さんの優しさに甘えてしまって」 「いいえ。本当のことだから。アキラが戻れなかったのは、私のせいです……だから、ケイスケやリンの言うことは正しい」 「お前さん一人のせいじゃない。誰のせいでもないさ。それに、お前さんはか弱い女の身だ。それでシキと残ったアキラを助けることを求めるのが、土台無理な話だ」 「私が男で、もっと強かったら良かったんです」思わず私はそう言った。「庇われるのは、もうたくさん。無力なのも。もし私が強かったら、あのときアキラではなく私が残ってシキを止められたのに。それが一番良かったのに。だって、」 だって、あのときシキに殺されるのもいいかもしれないと、少し思ったんだもの。 それを聞いた源泉は、頭を振った。 「そんなこと、言うもんじゃない。はだからこそ、意味がある。お前さんがいなかったら、皆でトシマを脱出しようと言わなかったら、今頃イグラ参加者の大半は死んでいただろう。それに……俺の見たところ、シキだって、お前さんがお前さんだからこそ惚れたんだろう」 「ありがとうございます、慰めてくれて。ごめんなさい、少し取り乱しました。私は平気です」 私は微笑して見せた。 胸にはいまだに痛みがあったが、それを口に出すことはできなかった。こんなとき、マスターがいたら、もっと素直に相談できる気がする。けれど、母親のようにさえ思えるマスターは裏ルートから日興連入りをして潜伏していて、今は会うことができないのだった。 *** 日興連入りして一週間後、源泉がリンのことで病院に呼び出された。これは、入院の際に源泉がリンの身元保証人になったからだ。担当の医師は源泉に、リンの左足を切断しなければならないと言った。恐れていた通り、傷口から壊死が始まっているのだという。 源泉は戻ってきて、ロビーで待つ私たちにそのことを告げた。ロビーには、私とケイスケ、それにリンとは昔の仲間であるトモユキやユズルが集まっていた。皆、話を聞いた途端、騒然となった。 「足を切る、だって……?」ユズルが目を見張る。 「そんな、リンが可哀想だ」ケイスケはうなだれた。 「切らなくて済む方法はないのかよ? ここはちゃんとした病院なんだぜ!?」トモユキは、報せをもたらした源泉が敵であるかのとうに、睨み付ける。 そんな皆の言葉に、源泉は頭を振った。 「無理だ。手の施しようがないそうだ。このままでは、足の壊死が進行するばかりだし、迷っている時間もない。ただ……」 「ただ、何なんです?」 源泉は何だかひどく言いにくそうな表情をしている。私は、その言葉の先を促す。すると、源泉は困り果てた表情で私たちを見て、やっと口を開いた。 「それに、足を切断して義足をつけ、リハビリをするのに費用がかかる。リンは軍属じゃないから、政府の保障は下りない。……金を、工面せにゃならん」 治療費として源泉が言った金額は、かなりの高額だった。私の元の時代の基準で言えば、給料の半年分くらいだろうか。この時代でも、金銭感覚はあまり変わっていないらしい。 皆、深刻な面持ちで黙り込んでしまった。 どうしたらいいのだろう。私は考え込みながら、何気なくコートのポケットに手を入れた。そこで、ふとあることを思いついた。この時代は、第三次大戦のためにかっての工業水準を保てなくなっている。私の元の時代では一般的であったものも、この時代では稀少品になっていたりする。 だったら。 ――もしかしたら、治療費を工面できるかもしれない。 目次 |